第2話 まもなく終わる旅

 急に風が強くなった。

 コンクリートとガラスの粉塵とが混ざった風が体に当たって弾ける。尖りが皮膚を刺し、思わず呻き声が唇から溢れた。

 とっさに瞼を閉じたので眼球は風に刺されないで済んだけど、口には少し砂が入ってしまった。私はペッペッと何度も唾を吐いて砂を口から追い出す。ガラスを飲み込まずに済んだのはラッキーだった。

 所々破れて穴が空いているスカートのポケットから、スカーフとゴーグルを取り出し口元と目を覆う。これでガラスを飲み込んだり、目が粉塵に突き刺されたりする心配はないだろう。

 砂風に表面を削り取られたせいでゴーグルの強化プラスチックのレンズは細かくひび割れており、装着すると視界に霧に似た白いモヤがかかった。

 モヤの中に見えるのは人類が築いた文明の遺跡達だ。

 かつて空を串刺しにするように高く聳えていた高層ビル達は一つ残さず崩れ、瓦礫の山と化している。山の下ではアスファルトの道路が蜘蛛の巣状にひび割れて陥没していた。ビルの残骸達は既に風化が始まっていて、まるで思い切り握り潰したビスケットみたいだ。

 それらの遺跡を生え広がった木々の太い根が覆い隠す。木々は高く晴れた空に向かって背伸びするように枝葉を伸ばしていた。もう自分達を切り刻んで薪やパルプ紙やお洒落な北欧風の手作り家具に加工しようとする迷惑な猿がいなくなったのだと歓喜しているようにも見えた。木々は強風を受けて枝葉を揺らし、体をくねらせながら葉を一斉に擦りあわせて甲高い叫び声を上げる。

 風は増々強くなっていた。スカートが翻り、体中を砂粒が刺した。痛い。見えないヤスリで体を削られているようだ。

 私は風を避けられる場所はないかと周囲を見回した。丁度、前方数メートル先に巨大なコンクリートの塊が聳えているのが見えた。崩れたビルの一部分だろう。風化し始めた断面から錆びた鉄骨が覗いている。

 私は風を受けて鳥の翼のように翻るスカートを抑えながら、その残骸の陰まで小走りに移動した。大地にめり込んでいるコンクリートの根元部分に歩み寄る。風は相変わらず強く吹いていたけれど、ここなら風向きが変わらない限り安全だ。

 私はショルダーベルトを肩から外し、大きく膨らんだリュックサックを地面に降ろす。ベルトに圧迫されていた肩の血管が一斉に開き、肩から背骨 へ、背骨から腰骨へと血液が駆け抜けた。ゴーグルとスカーフを顔から外して深呼吸をすると、湿った土と若葉の香りが肺を膨らませた。言い様のない開放感を覚え、自然と笑みが浮かぶ。リュックサックを肩から降ろしたのは久しぶりだ。

 軽くなった体の感覚を堪能していると、今度は急に全身が重くなった。重力がいきなり百倍になったような衝撃を受ける。足は痺れ、腰骨から痛みが染み出し、全身がだるくてとても立っていられない。

 私はその場に座り込んだ。今まで無意識に押さえ込んでいた旅の疲労が一斉に全身を駆け巡ったのだ。とても歩けそうにない。休憩が必要だ。

 私はリュックサックに背中を凭れ、靴を脱いで両足を前に投げ出した。靴の内側は足の裏に出来たマメから滲んだ血で汚れ、茶色く変色している。さっきまでは全然痛くなんかなかったのに、その血の汚れを目にした途端に足の裏まで刺すように痛んできた。

 今日はもう歩くのを止めようか? 目的地には近づけているはずなんだから、ここで先を急いでも仕方が無い。

 私はポケットから小さな方位磁石と地図を取り出す。地図は大昔に作られた物だ。古過ぎてまるで役に立たない。正確なのは南極と北極の位置くらいだろう。信用に足らない地図ではあったけれど、自分の行き先の目安になる物が何もないよりはずっとマシだ。

 私は膝の上に地図を広げ現在位置――確証はないけど――から、目的地への距離と方角を確認する。

 もし私が方角を間違えずに歩いているのなら、目的地のホリィヒル病院にかなり近付いているはずだ。そろそろあの巨大な白い建物の残骸が目に入ってきてもおかしくない。

 私は周囲に聳えている瓦礫の山を軽く見回してみる。周囲には幾つもの瓦礫の山が木々に覆われた状態で鎮座していた。しかしそれらの中にあの病院の残骸らしき物は見当たらなかった。

 ホリィヒル病院は外観の殆どを白華大理石――白地に金色の縞が入ってるツヤツヤした石――で作られていたから、例え崩れていたとしても、コンクリートと鉄骨で出来た他の建物とは明らかに違う瓦礫の山になっているはずだ。白と金で出来た瓦礫の山に。

 私は低く唸りながら地図と睨めっこをした。もしかしたら見当違いな方向に進んで来てしまったのかもしれない。不安で胸がざわついた。

 不意に木の葉が擦れる音が耳を翳める。

 驚いて顔を上げ、音がした茂みに目を向けると、大きく茂みが揺れて丸々と太った2匹の鼠が飛び出してきた。鼠達は4つ足で地面を蹴って走り、私の前を横切って反対側の茂みへと飛び込んだ。しばらくの間茂みの中から鼠達が動き回る音が聞こえてきたけれど、徐々にその音は遠のいてゆき、やがて完全に聞こえな くなる。

 あの鼠達が今ではこの地上に存在している唯一の――あ、でも私がいるんだから唯二なのかな? ――ほ乳類だ。


 あの鼠達が地上に現れ始めた頃、彼らは今よりもずっとコンパクトだった。精々私の拳程度の大きさしかなかっただろう。

 それが一体何がどうなったのか。ここ20年くらいの間に鼠達は一気に巨大化した。今では私の頭くらいの大きさだ。この調子だとその内ライオンや虎や象くらいまで大きくなるかもしれない。勿論脳味噌もその分大きく、皺が増えていく。

 ダーウィンの唱えた進化論が正しいのなら――きっと正しいだろう――いずれ鼠は人類の遠い祖先の『アウストラルなんたらかんたら』って長い名前の猿と同じように、いずれ2本の足で立ち上がって地上を歩き始めるのかもしれない。もしそうなら、その時鼠が歩くのは『アウストラルなんたらかんたら』がいつか歩いた進化の道なのだ。


 私は地図と方位磁石をポケットに仕舞うと、その場に体を丸めて寝転がった。

 少しの間ここで眠るとしよう。目的地を探すのは目覚めてからでも遅くはない。急がなくても、生きている限り必ず彼には会えるのだから。

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