アニス

 強い風が吹いていた。

 風にまじる潮の香りを、コンフェッティは大きく深呼吸して、吸い込んだ。


 円形の見晴らし台は、かつては要塞の見張り台だったのだろう。島をぐるりとめぐる城壁には、いくつかこうした場所があった。

 正面には、引き潮にさらわれたベージュの土が見渡す限り続いている。右に視線を移せば緑の大地がやわらかく横たわり、背面を向けば切り立った山の上に修道院が威風堂々とそびえる。


 強い風に吹かれたミニュイは、体の輪郭をすっかり変形させ、窓に立てかけられたまま忘れ去られたモップのように見える。窓は、かつての銃窓であったろう。要塞の名残に思える。

 修道院の尖塔には、鎧をきらめかせた大天使像が立ち、島を見守っている。大天使ミカエルだ。武装した天使がにらみを利かせる要塞は、攻め入る狼藉者たちの士気を下げるにも役立ちそうだ。

 一瞬、ミカエル像と目が合ったような気がした。

 コートの裾をはためかせながら、コンフェッティは、手で覆うようにして薄荷煙草に火をつけた。


 島で唯一の書店は、目の前にある。その前に、わずかばかりでも魔力を高めておこうという仕事の効率化を思っての行動だが、相棒にだけは理解されないのが残念だ。

 書店には、城壁側と、商店の並ぶ大通り側の二つの出入り口があった。古めかしい外観に漂う風情は、最果ての魔法書専門店と良い勝負だが、ここでは本だけではなく土産物も扱っているのが、いかにも観光地然としている。


 小さな店内には書架が所狭しと立ち並び、コンフェッティとミニュイはその棚のひとつひとつを検分するように、長い時間をかけて調べた。

 この島の知的好奇心を一手に引き受けて来たのだろう。

 ゴマ塩頭に丸眼鏡をかけた書店の主人は、根っからの本好きと見えて、哲学書や小説、詩はもちろん、キノコ愛好家向けの専門誌や高齢者向け恋愛指南書、子豚飼育法まで、ありとあらゆるジャンルの本を、こだわりとともに棚にぎゅっと詰め込んでいた。


 コンフェッティは、背表紙に見つけたコクトーの名に頬をゆるめ、ミント・チョコレートの味を思い返した。

 どれほどの時間を吟味しただろうか。書店におちる影の形が変わっていた。さきほどとは別の窓から、光が差し込んでいる。だが、めぼしい成果は得られなかった。


 コンフェッティは書店の主に「珍しい本はないか」とひと声をかけた。主は丸眼鏡の向こうにいたずらそうな笑みを浮かべて、一冊の本を差し出した。『三重の叡智』という本だった。18世紀に異端尋問所の独房で書き上げられた貴重な本だという主の力説を聞き流し、コンフェッティはその本をぱらぱらとめくり、著者名を見て喉を詰まらせた。そこにはサンジェルマン伯爵の名が記されていた。とっさにミニュイを見ると、ミニュイは首をぷるぷると振る。この本ではないらしい。


 店主はその他にもいくつかの本を持ってきては、一冊ずつ丁寧に解説をつけてくれた。いずれも貴重には違いないだろうが、モン・サン・ミッシェルの歴史に関わる書物で、そのどれもが、扉ではない。

 落胆するコンフェッティに、主はいたずらそうな笑みと共に、この他は修道院か個人の蔵書しかないだろうと告げた。


 コンフェッティは、薄荷煙草の煙を遠く緑の大地に向かって吹きかけた。

「修道院ったって、簡単に見られるもんでもないよな」

「……難しいでしょうね。修道院で保管されているとなれば、かなり貴重な書物に違いありません。下手をすると、修道士だってまともに見たこともないでしょうから」

「怠慢じゃないのか」

「それをあなたが言いますか」ミニュイは半ば呆れて「そういう意味ではなくて、とても貴重だってことです。ここモン・サン・ミッシェルで修道院が開かれ始めた8世紀以降は、カロリング朝の支配下にありました。この王朝ではカロリング・ルネサンスともいわれて、書記法と記録媒体に大きな変革があったそうです。カロリング小文字体という書体での書式に統一されたことで、読みやすさが格段にあがりました。その後、イタリア・ルネサンスの時代に見直され、近代の書体の基本になったんです。その上、それまでの様々な書物が、巻物やパピルスでできたものから、羊皮紙でできたコデックスという写本に盛んに書き写されたんです。こちらも近代の書物の元となって――」


 コンフェッティはミニュイの説明を半ば聞き流して、ざっくりとまとめた。

「おいそれとは、見られない代物ってことだな」

「ええ。ただ、そうした書物があるかどうかは、僕にもわかりません。修道院の中には図書室のように使われるところもあると、さきほど店主が出していた書物には書かれていましたけど。あなたがご覧になっていた書物では、どのように?」

「ああ、まあ、似たようなことだったな」

 同じモン・サン・ミッシェルの歴史でも、コンフェッティは、街の伝統料理であるふわふわのオムレツがどのように生まれたかのみを熟読していた。


 見上げた修道院の尖塔の先に、金色のミカエル像が振りかざした剣が、きらりと反射した。

 日はまだだいぶ明るいが、18時を回っている。

「もうそろそろ修道院も閉まります。修道院を探すとすれば、明日ですね」

 ミニュイは、ミントの息を吐きながら、修道院に背を向け、城壁を下りはじめた。

「考えすぎるのは良くないな。直感が大事だ」

「……あなたは、考えなさすぎですけどね」


 コンフェッティは、ミニュイにミント・キャンディをひとつ差し出した。

「なんです?」

「お前、ちょっとカリカリしすぎだ。きっと糖分が足りない。少し気ィ抜けよ」

 ミニュイは、コンフェッティの気遣いを、大人しく受け取った。

 ――悪いやつではないのだ。不真面目には閉口するが、心根としては。

 ミニュイは、コンフェッティの無精ひげを見上げながら、胸の奥にもやもやとしたものを抱えていた。

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