モン・サン・ミッシェル 3

 テーブルがクレープで埋め尽くされ、店主を階下へ見送るなり、コンフェッティは、ニケとの話をミニュイにかいつまんで話した。

 仕事がどうとあれだけ吼えていた割に、ミニュイはアニスの噂話に予想以上の反応を見せた。

「こ、恋人ですって?! しかも、あの、ディオ様の?!」

 今にも飛びかからんばかりの勢いで、前足をテーブルにかける。その勢いに、ティーカップになみなみと注がれたシードルが大きく波打ち、コンフェッティは両手でそれをはっしと押さえた。


 ミニュイが金魚のように口をぱくぱくと開閉するのをちらりと見て、コンフェッティはフォークとナイフを握りしめる。その目は、四隅を折りたたみ、正方形に整えられたガレットを愛おしそうに見つめている。皿の上からは、こんがりと香ばしく焼き上げられた生地からのぞくトマトやマッシュルームたちが、チーズをまといながら、コンフェッティを見つめ返していた。


「そんなに驚くようなことか? たれ目の酔いどれ神だろう?」

 フォークの一刺しに、生地はパリッと小気味よい音を立てた。ナイフで一口大に切ると、中からチーズがとろりとあふれだす。焼き上げられたバターの芳醇な香りが鼻孔をくすぐる。

「どうしてあなたはそう常識がないんです! ディオニュソス様ですよ? 最果てのヒットチャートの大半は彼の名で埋め尽くされていることをご存じないんですか?! 女性や若い世代を中心に崇拝されるアーティストですよ?!」

 コンフェッティにとっては、目の前のガレットの方がよほど魅力的に映る。シードルを一気に飲み干すと、弾ける炭酸がリンゴの甘い香気を伴って鼻に抜け、ガレットの余韻を洗い流した。

「口調がオネエっぽいじゃないか」

「そのギャップがカッコいいんですよ!」

 こいつもか、とコンフェッティは胸の中で溜息をついた。


 コンフェッティは、デザートにとりかかる。扇形にたたまれたもののひとつにはキャラメルソースがかけられ、もうひとつには溶かしバターと砂糖がぱらりと無造作にかけられている。

 ミニュイはなおも一人でうろたえ、鼻息を荒らげている。

「特定の恋人がいらしたなんて……しかも、アニスさんだなんて……!」

「噂だ」

 不特定ならいいのか、という不道徳な問いは胸の奥にしまい込み、コンフェッティは甘い一口を楽しむ。

 シンプルな、バターと砂糖だけのクレープが、どうしてこうも身体のすみずみまで包み込むようなうまさに生まれ変わるのだろうと、コンフェッティは真剣に悩んだ。

 やわらかなクレープの舌触りに、バターのほど良い塩気、そして、じゃりじゃりと口の中ではぜる砂糖の食感とが、たまらない。

「いいえ、わかりませんよ。第一、ディオ様御自ら人間界にいらしたということは、その人探しとやらも、本気の入れようなのでしょう。あの方のやんちゃっぷりなら、何事かがあれば軍勢率いて人間界に攻め入るくらいやりかねません」

「物騒な神だな」

「そこがカッコいいんですよ! ロックなんですよ!」

 意外にも熱く語るミニュイに気圧されながらも、コンフェッティは、いよいよ最後の一品――、塩バター・キャラメルのクレープに手をのばした。

 なまめかしいほどに舌にからみつくキャラメルに、しばし陶然とする。ディオ様のその漢気あふれるやんちゃっぷりが魅力なのだと力説するミニュイの声も、もはや遠くのさえずりのように思える。

 コンフェッティは目を閉じて、ジャム屋ベスの新作だという、塩キャラメルに思いを馳せた。彼女はもうモン・サン・ミッシェルに着いただろうか。


 階段を上ってくる足音に二人は声を潜めた。

 店主が突然に「サービスだから」と、ミニュイにクレープを一皿差し出した。

扇形のクレープの三つの頂点には生クリームがこんもりと盛られている。中央にはスライスされたバナナが並び、ローストされたアーモンドが散らされている。その全体にチョコレートソースがたっぷりとかけられて、縞模様をつやつやと光らせていた。スペシャルメニューと書かれていた品に違いなかった。

 あっけに取られて見上げる二人に、「今日はなんだか気分がいいんだよ」と、店主はウインクを返した。


「……なんだ、これは? 毒入りじゃないだろうな」

「善意の塊だと信じたいですが……あんなことの後ですし……」

 すこぶる美味しそうなクレープを前に、二人は生唾を飲みこんだ。

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