アニス 2

 チャッチャッチャッチャと、調子よく泡立て器が奏でるリズムに、ミニュイは足元でうずうずと身を動かしていた。

 モン・サン・ミッシェル名物のオムレツ店の、道路に面したキッチンでは、誰でも卵を泡立てるのを見ることができる。

 少し傾けた銅のボウルに割りいれられた卵は、リズムに合わせてきめの細かい泡となってふくらみ、淡雪のようにボウルを満たす。

 ふわふわの泡は、柄の長いフライパンに注がれ、昔とかわらない直火の暖炉にかけられて焼き上げられる。

 オムレツは空気を含んでふんわりと膨らみ、皿に盛られる際に半分に折りたたまれ、ふかふかした半月の姿になって、テーブルに運ばれていく。


 次から次へと作られるオムレツを、コンフェッティたちは切ない腹を抱えて見送った。

 訪れたオムレツ店は満席で、コンフェッティたちの席は用意されていなかった。

アニスは確かに予約をいれたと交渉したが、席が用意できるのにしばらく待ちぼうけを食らうことになったのだ。


「あなたたちも修道院にはまだ行っていないのね。私もよ。団体客がずらっと並んでいて。時間をおいても、今度は別の団体。諦めてホテルで休んでいたわ」

 アニスは、満席の店内にそっと目を配る。確かに、それらしき集団がいくつもかたまって、楽し気な声を響かせていた。

 アニスは時計に目をやる。大ぶりな真珠のブレスレットが、細い手首に巻き付いて、ほのかな光を添えている。

「……せっかくだけど、今日はどこか他へ行きましょう。あの様子じゃしばらく席は空かないわ」

 やけについていないわよね、とアニスは笑って見せた。


 夕食にありつけたのは、1時間も経った頃だったろうか。

 郷土料理をうたった家庭的な店に、ようやくコンフェッティたちは腰を落ち着けることができた。そこでもアニスの注文だけが、間違えられて届いたり、文句を言ってもまた別の品が届く、ということを繰り返した。

 アニスの前菜は、いちじくにレバーを添えたサラダ。新鮮なレバーはまったくくさみはないが、フォークを突き刺すと、血がにじむかと思うほど、焼き加減はレアだ。

「あからさまなだもの、誰の仕業かなんて、すぐにわかるじゃない?」

 赤ワインのグラスを傾けながら、アニスはさも可笑しそうに笑い声を立てた。

 コンフェッティは前菜のカマンベールチーズの温サラダをつつきながら、ある確信を持って、大きく頷いた。

「白猫、だろ。サンジェルマンの」

 アニスの目が、こぼれおちんばかりに見開かれる。

「アニスの雇い主ってのは、サンジェルマンなんだろう? 俺、見たんだ。パリでも、マントンでも、絵の中ではアニスによく似た人の膝の上に白猫がいた。名前はマドレーヌだとかなんとか、違っていたが、あれはアニスだ。仲間なんだろう。なのに、どうして白猫は、アニスを――?」


「お利口になったわね、リュドヴィック」

 アニスは、レバーを突き刺して、添えられたバルサミコ酢をからめながら口元に運んだ。

「マドレーヌ・アドレは、私が仕事で使っている名前。本名を使ってしまったら、居所を知らせて歩くようなものじゃない? 私はあくまでも裏方、表に出るわけにはいかないの。絵の猫は、あなたの考えの通り、ミディよ。人間界こちらに来たばかりの時にサンジェルマンのおじさまに頼まれて、私がミディに魔法を教えたの。彼女は太陽の恩恵を受けていて、魔力がなかなか安定しなかったの。割のいいアルバイトみたいなものね。でも、その時だけよ。私の雇用主は、おじさまではないわ」

 ミニュイは、南仏の墓地で向き合ったときのアニスを思い出した。あのとき、ミニュイの毛は逆立ち、透明な圧力に、押しつぶされそうになった。白猫の魔力の餌食になったのに、今はこうして、その師とともに食卓をともに囲んでいる――。

 これは、どういうことなのだろう。コンフェッティとの血のつながりだけで、アニスを全面的に信用して良いのだろうかと、ミニュイは思い悩んだ。


「私にも聞きたいことがあるの。リュドヴィック、あの水色のワゴンの主とあなたは、どういう関係なの?」

「え、どうって、その」

 コンフェッティは頬を上気させて、まごついた。

 恋人では当然まだない、友人というにも日が浅い、自分にとってジャム屋ベスは特別な存在だが、果たして、ベスからしたら、どうなのだろうか――。結局、ジャム屋と客、という関係に終始し、他に言い表しようがないことに気づいて、一人で勝手に落胆する。


 アニスはくるくると目まぐるしいコンフェッティの百面相を、面白がって眺めていた。赤くなったり青くなったり、トマトよりもせわしないその様子を眺めるのは、面白い。あの小さかった弟が、こんな表情を見せるのだという驚きに、ちょっとした遊び心がうずく。

「恋、してるんでしょう」

 コンフェッティは、グラスを手に持ったまま硬直した。

 みるまにその頬が熟れたトマトのようになり、額に汗が滲んだ。

「い、いや、でも、俺はほら、こんなだし、彼女は俺に比べたらずっと若いし、そういうのは」

 しどろもどろになるコンフェッティをからかうのは、思っていた以上に愉快だ。


「正直なところ個人的にはおすすめしないけど、恋はいいものよ。ここフランスは愛の国だというし?」

 フランス人はなにより愛情を大切にする、と囁いたベスの横顔が、唐突にコンフェッティの脳内スクリーンに広がる。

 状況柄コンフェッティに向けられた言葉ではないと理性が囁くけれども、コンフェッティの直感は、を声高に告げていた。

 「魔法入り」と言って、しかも愛を深める魔法が宿るというミイ・ラ・フォレのミントジャムを手渡したベスの思いがなんだったのかと。

 ――つまりそれは、だ。

 コンフェッティは沸騰せんばかりに、顔が熱くなるのを感じた。


 弟の素直な反応がアニスには新鮮でならない。馬鹿な子ほどかわいいというのは本当だと、アニスはつくづく実感した。こういうところが、憎めないのだ、昔から。そして、あまりにも素直なこの反応を見たいがために、遊び心が、働いてしまうのだ。

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