詩人の地 2
「昼間は出ないんだろ、亡霊」
「見かけた例はないと、マダムは言っていましたね」
亡霊は、消える前には、旧市街の方に向かって、進んでいたようだった。
「あの列柱、昨日は明かりがついていましたね」
コンフェッティは頷いた。奇妙な形の美術館は、海岸に沿って広がり、大きな広場へと続く。広場には、小石で作られたモザイク画の生き物が、エントランスを示していた。
「コクトー作品は、他の地域でも扉になった実績があります。あの美術館の作品の中に扉があるから、亡霊は夜な夜な出歩いているのでは」
「昨日、見失っちまったのはもったいなかったな。あの場ですぐに追えばよかった」
「だってあの時は……」
ミニュイは尻尾を下げる。ミニュイが、扉の気配を感じると言い、急に路地を曲がって走り出したのだ。だがその扉の気配は、すぐに消え、二度と掴むことはできなかった。
「とにかく、扉がこれ以上人間界に関与しないように、なんとかしなくてはいけません」
「亡霊を突き止めるのが先だろ?」
「いいえ、扉です。いいですか、思い出してください。『扉』が管理されるようになったのは――」ミニュイは、咳ばらいをして、とうとうと語り出した。
――扉が管理されるようになったのは、先ごろ人間界で起こった『ルネサンス』と呼ばれる文化運動に端を発する。時代は、芸術分野においても新しい様式を生み出した。その流れは新しい目で芸術をとらえる人々を数多く生み出し、やがて教会中心に生み出されていた芸術は、王宮や市井に開かれていった。その中には、意図せずして、最果てへの扉を開いてしまうものも少なくなかった。
開かれた扉を前に、最果ての人々が人間界に流入しだすと、人間界では不可思議な出来事が起こるようになった。魔女、魔法使いと嫌疑をかけられ、罪のない人間たちが数多く刑に処せられ、時に命を落とした。これを知った雲の峰に住む古き神々は、事態を憂慮し、扉を管理し、一部の例外を除いて、その通行において魂のみに限定することを決定――
「――つまり、人間界の平穏を守ることとした、だろ」
コンフェッティが言葉尻に、舌打ちを添えた。公務員試験前夜、口頭試問対策にと、ヴォルテール先生の研究室でなんども暗唱させられたくだりだ。
「僕は、美術館には、入れませんから」
「……いつも俺は貧乏くじを引いている気がする」
「何を言っているんです。創造力の塊に触れられる、素晴らしい機会じゃありませんか。僕だって代われるものなら代わってあげたいですよ」
およそ一時間後にと約束して、コンフェッティは美術館に足を踏み入れた。
奇抜な外観とはうって変わって、美術館の内部は、白で統一されていた。
床、壁、天井、ただひたすらに白い。
ワンフロアをゆるく区切った展示室には、明るい光が差し込んでいた。ガラス張りの空間からは、柱に切り取られた地中海が見える。美術館と海の間に広がる公園を、ミニュイが歩いていくのが見えた。
テーマ別に区切られた7つのセクションでは、おおむね幼少期からの時系列に作品が並べられている。ドローイングなどの絵画のほか、写真や映像、オブジェ、印刷物などもある。自身の詩の挿し絵から描いたという作品は独創的で、時にコンフェッティの興味を引いた。
よく登場するモチーフに、角をはやした癖毛の男がいる。最初は単なる偶然かと思っていたのだが、それは牧神パンに瓜二つなのだ。コンフェッティは、良く似たその姿を不思議に思った。
地下の展示室に降り立ったコンフェッティは、一枚の絵の前で立ち尽くした。
――見たことが、ある。
そう感じた。
額縁の中には、白い猫を膝に乗せた、赤いドレスの女性。黒い髪に映える、緑色の瞳を、まっすぐコンフェッティに向けている。
レオナール・フジタの壁画の中に描かれていたあの女性が、全く同じ服装、全く同じポーズで、そこに佇んでいた。絵のタイトルは、女性の名前だ。
「マドレーヌ・アドレ……」
コンフェッティは、姉に似たその人の名を、誰にともなく呟いた。
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