詩人の地
宿を出て歩き出したコンフェッティは足元の影に気づいた。
視線をあげると、翼を持つシルエットが目に入る。夜にはただのロータリーと思っていたその場所に今朝は、陽が降り注ぎ、その全貌をつまびらかにしている。円柱の上に、翼を持った人物が据えられているようだ。足元には、案内板が立てられている。
〈ヴィクトワール〉と記されたその文字に、ミニュイは目を輝かせ、コンフェッティは目を曇らせた。
両側に渦巻きがデザインされたイオニア式の柱、その上では有翼の女神が、両手に冠を持ち、海に向かって一歩踏み出している。
ミニュイはその足元に駆け寄り、臥せのポーズをとって呼びかけた。
「ニケ様!」
ヴィクトワール、つまり勝利とは、ローマ神話でのニケの名前に他ならない。コンフェッティは、ポーカーフェイスを装って、ミニュイの背後に立った。
「ニケ様。こんなところでお目にかかれるなんて! お会いしとうございました! この姿では美術館に足を踏み入れること叶わず、非礼を重ねました」
「ミニュイ・アルジャン・ド・ノール。精進していますか」
「はい!」
「あなたには、期待していますよ」
「はい!」
精進するように、と言いおいて、ニケは鎮まった。ミニュイは目を潤ませ、南の海岸を目指す。コンフェッティは、女神がわざわざ「あなたに『は』」と言ったことが嫌味だとは気づきもしないだろうミニュイに苦笑して、街路樹の下を進んだ。
「女神様がいらっしゃるなんて、感激です。僕たちは見守っていただいているんですね」
「監視の間違いだろ」
「それは、あなたの行いが悪いせいです。僕はあんなに優しくしていただきましたよ」
あれが、という言葉をコンフェッティは飲み込んだ。こんなに天気の良い日だ。上機嫌にしているものにわざわざ水を差すのも野暮だ。よほどミニュイの色眼鏡は良くできているのだろうと、コンフェッティは感心した。
街路樹の続く道の向こうに、緑や赤のパラソルが見えた。
その奥には、陽の光に表情を変える、海の色。
なかなかの散歩日和だとコンフェッティは思った。
もちろん、仕事ということを抜きにすれば。そして足元をちょこまか歩く相棒の、やけに力んだ視線を除けば。
ニケとコンタクトを取った以上、ミニュイの仕事への意欲は何倍にもふくれあがっているに違いなかった。
コンフェッティは、パラソルの下でくつろぐ人々に羨望の眼差しを注ぎ、各国の国旗がはためくカジノを見送り、ミニュイに続いた。
ジャン・コクトー美術館へ向かう道は、夜とはまるで印象が違っていた。
太陽のプロムナードと名付けられた遊歩道は、時に道幅を膨らませ、浜辺に沿って伸びていく。
地平線で結ばれる、ふたつの青の色。陽の光を浴びてきらきらと銀色にきらめく海面。波のさざめきに入り混じって、時折カラコロと音がする。海岸に敷き詰められた小石が、波にゆすられて転がる音だ。
あたりに人がいないのを確かめて、ミニュイがうっとりと呟く。
「『私の耳は貝の殻、海の響きを懐かしむ』と、コクトーは詩を書いていますが、彼の聞いていたのは、この音だったのかもしれないですね。あっ、あなた、コクトーについてはちゃんとご存じでしょうね?」
ミニュイが、おそるおそるコンフェッティを見上げた。コンフェッティは口をへの字に曲げる。
「おい、馬鹿にするな。もちろん知っている。アヘン中毒のゲイだろ」
「あんなに素晴らしい芸術家を、そんな言い方ですか? あなた罰が当たりますよ! 彼の詩を、一行でも読んだことはありますか?」
「さっきお前が言ってたろ、貝が耳だとかなんとか」
ミニュイの冷ややかな視線に、コンフェッティは早足になった。ミニュイは負けじと声を張り上げる。波が声を消すようにかぶさる。
「コクトーは、詩人ですが、絵も描き、バレエや演劇の脚本も手掛け、映画監督もつとめたんです。彼自身の芸術の才能は多岐にわたって開花しましたが、そのすべての表現の根源が『詩』にあると、彼は考えていたんです。詩人の王ともいえる、稀有な存在なんですよ!」
コンフェッティは、ぴたりと歩みを止めた。
間に合わなかったミニュイが、そのふくらはぎに鼻面をしたたか打ち付ける。
ジャン・コクトー美術館が、見えて来た。
美術館の白い壁は、列柱として屋根から一続きになっている。まるで地面からたちのぼったいくつもの狼煙が空で交わるようにも見える。透明な美術館を抱きかかえるように連なる列柱。
昨日の亡霊は、この列柱の端から現れ、その途中で消えたのだった。
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