モンパルナスのアトリエ
「なんだってまた、こんなもう使われてないアトリエまで見る必要があるんだい?」
アンジェリーナは文句を繰り返しながらあたりを見渡す。汚い物置部屋にしか見えない空間を前に、ため息だけがこぼれた。コンフェッティはさして気にする様子もない。
「日本人が使ってたことがあるって、さっき聞いたろ」
アンジェリーナは、おろしたての赤いミュールを履いてきたことを後悔しつつあった。
コンフェッティからモンパルナスを見たいと言われた時には、こんなにもあちこちを歩き回るとは思っていなかったのだ。壁に寄りかかり、片足だけ靴から抜き取ると、開放感に溜息がこぼれた。
座りたくても、埃だらけのこの場所では、どこにも腰かけられるスペースなど見当たらない。
何件目だったろうか、エコール・ド・パリの作家を中心に扱うギャラリーで、このアトリエの話を耳にしたコンフェッティは、今は倉庫になっているというこのアトリエの鍵を手に入れることに成功した。
「あんた、東洋の美術品を探してるんじゃなかったかい、いつから宗旨替えしたのさ」
「東洋の画家ってのは、東洋美術に限らないってわかったのさ。フランスの近現代美術を担う中にも、東洋の画家はいるだろ」
だから、エコール・ド・パリの作家だったのか、とアンジェリーナは納得した。
20世紀初頭、世界中から芸術家たちがやってきたパリの街は、この芸術の都そのものが学びの場であるという意味合いからエコール・ド・パリ<パリの学校>と呼ばれ、独特の文化を紡ぎ出した。当初小高い丘にあるモンマルトルを根城にしていた彼らが、セーヌ川を渡り、モンパルナスに拠点を移して活動しはじめたのは1920年代のこと。画家、彫刻家、詩人、小説家、作曲家、さまざまな分野の芸術家たちが集い、多様な芸術を綾なしていた。
その中には、確かに、幾人かの日本人も含まれていた。
散らばった画布、もとはイーゼルだったと思われる、バラバラになった木片。埃の降り積もったシーツは、ひだに添って淡いグレーのグラデーションに染まっている。床板にはカチカチに固まった絵の具がこびりついている。
コンフェッティは、積み上げられたキャンバスを一枚ずつめくりあげ、丁寧に描かれたものを確認しているようだ。
アンジェリーナの見る限り、それらの絵に大きな価値が付くようなものはない。倉庫とは名ばかりで、実際は、元は画家を目指していたというオーナーの、趣味の部屋といったところだろう。それも、これだけ使われていない様子なのだから、高が知れている。
「日本人が使っていたって、ほんのわずかな間のことなんじゃないのかい。悪いが、ここにロクな芸術品があるとは思えない。」
「誰だか知らないが、パリには2回来て、2回目には、故郷に帰ることなく亡くなった画家だと言っていたな。不遇の時代も経験したとか言っていたが、わかるか」
「さあね。調べておくよ」
アンジェリーナは、さきほど買ったばかりの、パン・オ・ショコラにかぶりついた。バターの甘い香りがふわっと漂う。コンフェッティは差し出された袋から、指先でつまみあげた。
クロワッサン生地で包まれサクサクと歯触りのいいパンの間から、とろりと板チョコが口に溶け出す。コンフェッティは目を閉じて甘みを全身で味わった。
コンフェッティは立ち上がると、大きくシーツを翻した。
埃にむせたのか、アンジェリーナは激しく咳き込み、窓を開ける。
光の道のような明るい光線が室内にサッと走ると、空気中の埃が光を受けてきらめき、反対側の壁まで明るく照らし出した。
その時だ。
コンフェッティは、壁に駆け寄った。
指の腹でゆっくりと壁をなぞると、アンジェリーナに尋ねた。
「専門は彫刻だったよな。彫ったり削ったりは得意だろう」
「まあね」
「削ってくれ、この壁。塗り込められた跡がある」
「なんだって」
アンジェリーナはぴくりと跳び跳ねて、壁に近寄った。
「ほんとだ、よく気が付いたね。一部だけだ……、うまく塗られているが、刷毛目が小さい。筆で塗りたくったみたいだ。それに、筆致が跳ねている。あまり丁寧な仕事じゃない、時間がなかったか、急いでいたか、そんな風に見えるね」
アンジェリーナは両手を壁におき、まるでパントマイムみたいな仕草で確かめる。
「削れるか」
「ああ。少なくとも1ヶ月あれば」
「いや」コンフェッティが強い調子で遮った。「明日の夜までに、削ってほしい」
アンジェリーナは額に血管を浮き上がらせる。
「無理言うんじゃないよ、あんた、軽く考えすぎだ。ただ削ればいいってもんじゃないんだよ。万が一にもこの下に何かが隠れているのならなおさら慎重に――」
「明日の夜だ」
コンフェッティは、つかみかからんばかりに憤るアンジェリーナに、冷静に言い渡す。アンジェリーナはその気迫に押され、一瞬、押し黙った。
次の瞬間、アンジェリーナの顔が、大きく歪んだ。
今にも泣きだしそうなアンジェリーナの顔に、コンフェッティは、強く言い過ぎたと直感した。詫びをいれようとしたその時、大地も揺るがさんばかりの怒声が響いた。
「調子に乗るんじゃないよ! だいたいなんのつもりだい、人が優しくしてりゃ調子に乗りやがって。修復甘く見んじゃないよ! どんだけの苦労を重ねて先人たちが美術品を次の世代に受け継いでいるか、その努力も知らずに、手前の都合ばっかり並べ立てるんじゃないよ! あんたみたいなのが大勢いたら、あんたたちが今美術館で見ている作品なんざ、ひとつもこの世に残っていないんだよ! 敬意を払えってんだ!」
アンジェリーナはそのまま、ヒールを床に突き刺すようにして、荒々しく去って行った。コンフェッティはただその場に、立ち尽くした。
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