秘密のサロン・ダンフェール 2

 その広すぎるほど広い額は、忘れようもない。年を重ねた白い癖毛を肩まで垂らし、知性の光あふれるまなざしを惜しみなく注いでくる姿も、学生時代からまったく変わっていない。ホストの方は、満面の笑みで彼を迎えた。


「これはこれは、『コンフェッティの名折れ』ではないか!」

「ヴォルテール先生、よしてくださいよ、その呼び名」


 ヴォルテールは落石のような豪快な音を立てて笑った。背中をバンバン叩くのは、友好の証らしいが、そのたびにコンフェッティはつんのめりそうになるのをようやく踏みとどまる。


「じつに懐かしい。どうしたのだ、仕事でしくじってとうとう放逐されたか?」

「ご期待に反しますが、おかげさまで順調にやってますよ」

「期待外れ大いに結構。あれほど難儀な学生はあとにもさきにもおらんかったから心配しとったのだ。近代人間界史の過去最低点はいまだに更新されとらんぞ。文化史だけは、ピカ一だったがのう」

「文化については嫌というほど研究室で先生の話を聞かされてましたからね。俺はいつも教科書まで出させられて」

コンフェッティは、懐かしい母校の一室と、そこで出された数々の茶菓子を思い出す。あんなに菓子が豊富にあったのは、ヴォルテール先生の研究室だけだった。

「して、『コンフェッティの栄光』はまだ見つからんのか」

「ええ、姉はまだ戻りません」

「『栄光』が去って『名折れ』が残るとは、コンフェッティ家も災難じゃな。ささ、大いなる期待外れに、乾杯しようではないか」


 ヴォルテールは呵々大笑する。手渡された銀のゴブレットには、緑色の発泡する液体がごぼごぼと不吉な音をたてて揺れている。においが鼻先をよぎっただけで、唾液がこみあげた。


「なんですこれ」

「密造酒だ。前にアブサンという酒を教わってな。それと同じニガヨモギから作ってみたのだ。聞くところによると、アブサンは強すぎて人間界ではとうに製造禁止になりおったそうだが。少々癖はあるが、そこがまたいいのだぞ。遠慮せずぐっとやりたまえ」

 一口をおそるおそる飲んだコンフェッティは、その後ぐっと杯をあけた。なるほど、独特の苦みと酸味には癖があるが、身体の中を風が吹き抜けるような爽快感もある。シュワシュワと弾けるのど越しに、いくらでも飲めそうにも思える。飲んだそばから、新しい酒が湧き出でてゴブレットを満たした。


「忙しかろう、仕事の方は。最近は旅行者もこの通り多くなったしの」

「そりゃもう、相変わらずですよ、新しい扉は勝手に開くし、古い扉は壊れるし。こき使われてます」

「ふむ。人間界も、最果ても、つつがなく平穏ということだな。ひとびとの想像力もいまだ衰えておらんのは、元・人間としては誇らしい」

 コンフェッティは頷く。

「同感です。最果てにはもうそんな強い力を持つ者は生まれないのに、俺たちよりずっと寿命の短い彼らは変わらず扉を開きますからね。実際、赴任してみて圧倒されました、とくに料理には」

「オルレアンの乙女よ」

 ヴォルテールはコンフェッティの言葉を遮るようにして、ジャンヌに向き直った。


 オルレアンの乙女、ジャンヌという名には聞き覚えがあった。コンフェッティはうずもれた記憶を必死にたどる。たしかフランスを救った英雄ジャンヌ・ダルクのことだ。なるほど武器への思い入れがあるわけだと、妙に納得した。

「この男、私の教え子で、コンフェッティと申す者。ことのほか出来が悪かったが、情に厚い男なのだ。これ、こうしてわざわざ私に会いに」


「いえ、あの、違うんです」

 コンフェッティが即座に否定すると、ヴォルテールは、一瞬眉根にしわを寄せたが、再び落石のような豪快な笑い声を立てた。だが語尾が段々と小さくしぼんでいく。

「なんとなんと。年を取るとどうも思い込みが激しくていかんな。で、用向きは?」

「鉱物に詳しい人に至急相談したいことがあるんです」

「武器ではないそうです」

 ジャンヌが横から残念そうに申し添えた。


 ヴォルテールはゴブレットをぐいっとあおると、袖で口元の泡を拭った。

「残念だが、今はおらんな。そういう類の話ならサンジェルマンが適任だろうが、今、南でバカンス中だ」

「もうバカンスですか? まだ5月ですよ?」

 ジャンヌが目を丸くする。

「だからなのだ。あれほどひねくれた男もそうおるまい。世間がバカンスに入るころには、もうクリスマスキャロルでも歌っておるだろう」

「ヴォルテール先生、なんとか、連絡をつけたいんです」


 コンフェッティは、ポケットから取り出した水晶柱を、掌にのせた。

「相棒なんです。生真面目で鼻持ちならないやつなんですが……専門家ならば策もあるかと」


「魔獣入りの水晶ですか? バラバラにして矢じりにしたら、素晴らしい矢が作れそうですね? いや、それとも薄く削り出してダガーにした方がいいかしら?」

 目を輝かせて口を差し挟むジャンヌを、ヴォルテールがやんわりたしなめる。


「ならば、速達を出すのがよかろう。ノートルダムへ行くと」

「もしかして、ガーゴイル便ですか?」

「なんじゃ、知っておるのか。全く、年寄りの役目はどんどん減っていくのう」

 ヴォルテールは手にした酒をぐいっと一気に飲み干した。

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