サウナエッセイを綴る ――サウナーとこれからサウナが好きになる人のために
井戸川胎盤
サウナの兵法
――――己を知り、サウナを知れば、百戦危うからず
孫子
みなさんは風呂場のベンチに座ってぼうっとしているおっさんを見たことはないだろうか。
スーパー銭湯に行ったとき、温泉に行ったとき、浴室内に置かれたベンチでただ一人ぼんやりと虚空を見つめているおっさんを。
きっと一度くらいは見たことがあるだろう。
そのおっさんは浴室内の風景のようにじっとして、その場に溶け込んでいることだろう。
――彼はいったい何をしているのだろうか。
そんな疑問を抱いたことはないだろうか。そもそもなぜ風呂場にベンチが必要なのかと考えたことは?
疑問とまではいかなくとも、なんかおっさんが佇んでいるなとか、変なおっさんだなとか、そう思ったことぐらいはあるだろう。
あるいはそのおっさんをどこか見下す気持ちで見たことが誰しもあるはずだ。
しかし、そのおっさんこそが現代の孫子、優れた軍略家であると、どれだけの人が知っているだろうか。
彼らこそが己を知り、サウナを知る、現代を生きる兵法家なのである。
鍵はあのベンチにある。
浴室内に置かれた、あのベンチ。
そもそもなぜ置いてあるのだろう。風呂に入りに来たのだから、ベンチになど座らずに風呂に入れば良いのに。少なくとも、かつての私はそう思っていた。
あまつさえ混み合っている時など、ベンチが空いておらずに舌打ちをするおっさんすら存在する。一体、彼は何にいらだっていたのか。そんなにもベンチはおっさんにとって重要な存在なのか。
はたしておっさんたちは何のためにベンチに座るのか。
かつては、私もあのベンチの存在意義を知らない無知蒙昧な人間であった。
しかし、サウナというものをよく知るにつれて、あのベンチこそが戦略上、最も重要なものの一つであると知ったのだ。
あのベンチをいかに使いこなすか、それこそが現代の孫子であるおっさんたちの兵法、その肝なのである。
そもそも、サウナというものはあまり人気がない。
あの熱さがダメだと言う人もいるし、水風呂が苦手だと言う人もいる。おじさんくさいというイメージもある。
確かに近年はサウナブームと言われている。週刊誌は毎週のようにサウナの特集を組むし、ネットでもサウナに関するブログやサイトが増えた。
しかし、それはあくまでも一部の熱狂であって、世間全体を見たときに、サウナのイメージは決して手放しで良いとは言えない。
少なくとも、私の周りはそうだ。
大抵、サウナをすすめてみても、誰もが「えぇー」とまず口にする。
そして、私もかつてそうした人間の一人だった。
熱いのは苦手だ。
なぜ、わざわざ熱いサウナ室などというものに入らなければならないのか意味が分からない。風呂は好きだが、サウナはあまりに熱すぎる。
水風呂に至っては意味不明。
風呂に暖まりに来たのに、なぜ体を冷やさねばならないのか。入ろうとしてみたこともあるが、体がこわばって、本能的な拒否感すら感じる。
その意味が私には全く以て理解出来なかった。
私がサウナに入り浸るようになったきっかけは、友人K氏のすすめだった。
K氏は私の二十年来の友人だった。
当時の私はと言えば、ひどく落ち込んで、自分の人生に失望していた。何もかにも疲れ切っていた私には癒やしが必要だった。自分でも、それに気が付いていたが、しかし、その傷を癒やす術すら知らなかった。
それを見かねたK氏は私にサウナをすすめたのだ。
曰く、サウナこそ極上のエンターテイメントであり、至上の安寧である。今こそ君にはサウナが必要だ、と。
K氏の言葉を聞いたとき、私は半信半疑、いや疑念しか抱かなかった。
――いや、そんなわけないだろ。
当時の私はひどく傷ついていたのだ。
自分が何もかにも疲れ切っていることぐらいは分かっていたし、癒やしが必要名のも理解していたが、たかだかサウナに行ったぐらいで、それが癒やされるはずがない。
ましてや私は熱いのが苦手だし、水風呂だって苦手だ。
好きでもない場所にいって、一体何を癒やすというのだ。
仮にサウナで深い心の傷を癒やすことができた人間がいたとしても、私には無理だ。きっと肌に合わない。
そう思った。
実際にK氏にはそう返したが、しかし彼は、いいから行ってみろの一点張りだった。
だから、私は仕方なしにサウナに行くことにした。
別にK氏の言葉を無視することもできたが、一度くらいは彼に従ってみようと思った。
それは彼の言葉に可能性を感じたわけではなかった。
K氏が、あまりにもしつこくサウナをすすめてくるものだから、一度行って自分には合わなかったと言えば、納得して引き下がると思ったからだった。
私の住む地方都市には大したサウナはないが、しかしスーパー銭湯が何軒かあった。その内の一つに私は行くことにした。
K氏が私に指示したのは四つだった。
一つは、熱くてもサウナに我慢して入ることだ。
K氏が言うには、サウナの中には十二分時計というものが大抵あって、その名の通り、十二分で一周する。その十二分をどんなに辛くても耐えろということだった。
二つ目は、水風呂に入ること。
何度も言うが、私は水風呂が苦手だ。銭湯などで何回か入ったことはあったが、体が強ばるばかりで何の心地良さもなかった。だが、K氏は水風呂に入らなければ何の意味も無いと頑なだった。私はサウナのあとに水風呂に入ることを渋々約束させられた。
三つ目は、水風呂のあとにベンチに座ってゆっくり休憩することだ。
それに一体何の意味があるのか、私にはさっぱりだった。けれどもK氏はそれこそが肝要であると告げた。
最後は、ここまでの三つの流れを三度繰り返すことだった。
サウナ→水風呂→ベンチ。このサイクルを三度繰り返し、最後の三回目のサイクルのベンチでの休憩を長く取るように言われた。
私はしぶしぶ彼に従うことにした。
休日に近場のスーパー銭湯に来てみると、昼前の時間帯だったからか、人はまばらだった。
ぼんやりと風呂場のおっさんたちを眺めていると、なるほどK氏が言った通り、おっさんたちはサウナ、水風呂、ベンチというサイクルで動いているように見える。
どうやらK氏が私に与えた指示は、サウナに入る者として普遍的なサイクルらしい。
体を洗い流して、どれサウナに入ってみるかと、私は足を進めた。
ふと、ベンチに座るおっさんが、ひどく弛緩した顔をしているのが見えた。正直、その瞬間まで私はサウナに全く気乗りしていなかった。けれど、その顔を見た私は少し興味が湧いた。
緩んだおっさんの顔は醜かったが、ひどく幸せそうに見えたのだ。
それはK氏のいう言葉を裏付けるような気がした。
サウナ室で十二分間過ごすというのは生半可ではなかった。
温度計の針が九十を超えていた。
全身から汗が噴き出して、どろどろになる。体の外の空気が体温を超えて、排熱機構が機能不全を起こして、脳がぼうっとする。五分を過ぎた時点で、その有様なのだ。十分を過ぎる頃には、じっと座っていることすらつらく、あちこち体勢をかえて、せわしなくなった。時計を見る頻度は増えるが、三十秒は経ったと思っても、実際に針は十秒も過ぎてない。
K氏の言葉など無視して、さっさと出よう。何度もそう思ったが、しかし、最初にここで我慢しなければ、その後の水風呂も何もかもが無意味だと告げられていた。
――そんなものは知ったことか。もう出よう。
何度もそう思ったが、しかし、途中で諦めたらK氏にバカにされる気がして、意固地になって、ただ耐えた。
長い長い十二分が過ぎた。
ほうほうの体でサウナ室から飛び出すと、外の空気がひんやりと心地良い。
浴室の気温が低いわけではない。
けれど、サウナ室の九十度もの温度と比べると、何十度もの落差があるのは間違いなく、それはオーバーヒートした私の体には心地の良い涼しさに感じられたのだった。
なるほどサウナの気持ちよさは、こういうことなのかもしれない。
空気に当たるだけでも充分で、水風呂ほどの低温は必要ないように思えた。
しかし、今日はK氏の指示通りに動くと決めたのだ。途中で諦めて小馬鹿にされるのはシャクだ。
私は意を決して水風呂に向かった。
試しに水風呂に手を入れてみると、凍るように冷たい。
水温計は十七.五度を示している。
その温度にビビる私を尻目に、周りのおっさんたちは手桶で水風呂から水をすくって、思い切り良く頭からかけている。年取って感覚がにぶってるんじゃねえかとすら思う。
壁の注意書きに「水風呂の前にかけ湯をすること」と書かれている。
おっさんたちを真似るほどの勇気は私にはなく、かけ湯用の――風呂と同じ温度の湯をかぶることにした。
かけ湯を済ませて水風呂に入ると、全身がぐっと強ばった。冷たさに緊張が走った。心臓が止まるかもしれない。
ゆっくりと時間をかけて水風呂に全身をつけた。おっさんたちは「あぁ」とあえぎながら、ばしゃばしゃと動いているが、私には寒すぎて、じっとしている他なかった。
水風呂に入る時間は特に指示されていなかったが、K氏は“熱の衣”が解けるまでと言った。
サウナの後に水風呂に入り、じっとしていると、“熱の衣”なるものが感じられるという。サウナで体にまとった熱が、水風呂の冷たさから薄い膜のようになって、体を守るらしい。
本当かよと頭の中で文句を言いながら、水風呂で凍えていると、なるほど、確かにその通りになった。
水風呂でじっとして、しばらくすると、体の周りに不可解な膜があるのがわかった。体に残ったサウナの余熱が、冷たい水から私を守って、その余熱がうっすらとした膜のように感じられるのだ。
なるほど、確かに“熱の衣”だ
“熱の衣”に身を任せてみると、刺すように冷たかった水風呂もなんともない。
そうして、言われたとおりに、じっと水風呂につかっていると、だんだんと頭がぼんやりとした。
のぼせたというのとも違う。体がふわふわとするような、頭がぼんやりとして、すっきりするような、不思議な感覚。まるで体が水の揺らめきと一つになったような感覚だった。
頭がぼんやりするに従って、視界は逆にクリアになった。意識が不確実になるに従って、きらきらと水に反射して揺れる光が美しくなった。
そうして、しばらく水の光を楽しんでいると、急に寒くなった。
水風呂に入りすぎたのか、「熱の衣」がいつのまにか消えていたのだ。冷たさが体の内側に入り込んだ。
指先がかじかみはじめ、吐く息に冷気が混じった。
私はあたふたと水風呂から逃げ出した。
ベンチに座ってみると、それは存外に悪くなかった。
浴場のベンチに座ると、プラスチックの椅子独特の冷たさが尻を刺し、不快だと思い込んでいた。
しかし、それはあくまでお風呂から上がってベンチに座ったときの印象に過ぎなかった。サウナから出た後は涼しかったはずの浴場の気温は、水風呂に入ったことで暖かく感じられたのだ。
しばらくベンチに座っていると、だんだんと重力を感じるようになった。サウナと水風呂。急激な寒暖の差で体が疲れたのかもしれない。
クリアだった視界はぐにゃりと歪んだ。
のぼせたのだろうか。寒暖差で体がおかしくなってしまったのだろうか。
しかし、それにしては不可解だった。
何が不可解かと言えば、気持ちいいのだ。
体がおかしくなって気持ちよくなるものだろうか。いや、例えば心筋梗塞のとき、人間は得も言われぬ快感を感じるらしい。その類いかもしれない。
ぐったりと重力に身を任せ、視界はぐるぐると回転するように歪む。どんどん体は重くなり、視界の回転は速くなる。
そうして気が遠くなるとともに、一つの感覚が確かに研ぎ澄まされていた。
気持ちいいと感じる感覚だ。
体に不調を感じたとき、普通はそれは何とかしようとするだろう。しかし、今はそうすべきでないことが不思議とわかった。
この体の異変に身を任せるべきだと、本能が告げていた。
気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい。
重力に、視界の回転に、身を任すほどに気持ちが良くなる。加速する。
正体の知れない、“気持ちいい物質”が脳内を駆け巡り、私を気持ち良くしている。
気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい。
ドーパミン? アドレナリン?
いや、違う!――酸素だ!!
酸素! 酸素が私を気持ちよくしている! サウナの茹だるような熱さで広げられた血管が、水風呂の凍えるような冷たさで急速に収縮を起こして、かつてない血流を体に巻き起こし、かつてないほどの酸素が脳に運ばれている!
気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい。気持ちいい。
気持ちの良さに底がない。どんなに身を任せても、まだまだ気持ち良くなる。底なし沼のように、気持ちよさに溺れて、どこまでも体が沈む。
もっと! もっと気持ち良くなれるはずだ!
欲望に貪欲になって、更に更にと気持ち良さを求めると、それはいとも簡単に気持ち良さを突き返す。どこまでも気持ち良くなる。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!
――気持ちいい!
どこまでも、どこまで、気持ちが良い!
私は周りのおっさんと同じように、アホずらを晒して、ベンチで気持ち良さの無限地獄へただひたすらに沈み込んでいた。
重力で沈む体。ぐるぐる回る視界。
地球がなぜ重力を持っていて、なぜ自転するのか。その答えを知った。
それは単純に気持ちいいからだ。
ベンチで感じた気持ち良さ、あのトランス状態はそう長くは続かなかった。
永遠に続くと思われた、際限のない気持ち良さの波は、時間とともに小さくなって、いつのまにかどこかへと去った。
重力に引き寄せられた体は解放されて、ぐるぐると回る視界はクリアになった。
それに一抹の寂しさを感じた。
いや、待て。
解放された? クリアになった?
おかしい。
解放されすぎている。クリアになりすぎている。
体は軽い。軽やかに軽い。さびた機械のように軋んでいたはずの節々も新品のように滑らかだ。
ただの浴室が美しい。浴室の水蒸気に光が反射して美しい。曇って見えていなかった美しさが目に映る。
なんだこれは? なんだこれは!? なんだこれは!!?
体がすっきりと爽やかだ。いや、体だけじゃない。ごりごりに凝り固まった心が、鎖で雁字搦めにされたような精神が、自由に解き放たれている。
――自由だ!
それまで様々な悩みが小さいように思えた。心までもが軽やかだ。
ふと、もう一度目を瞑ってみる。
そうすれば、また何か気持ち良さがあると思ったからだ。
目を閉じていると頭の後ろ、ぼんのくぼの後ろ側に何かがある。
ベンチに座った私の後ろには何もないはずだ。しかし、その虚空に何かがあるのだ。
それを見えない目で引き寄せると、さらなる快感が私を襲った。
その快感は体中を駆け巡り、体、心、私の全てを綺麗にした。今までの自分の有り様が、体が、精神が、間違った状態で、それが正された感覚だった。
――整った! まさしく整った!!
私の中の全てのエラーが正されて、全てが正しく整った。
そう表現する他なかった。
サウナ、水風呂、ベンチ。
このサイクルをK氏に言われるがまま、三回繰り返して、私の全ては正しく整った。
“整った”。
この言葉が、サウナー(=sauner、サウナ好き、サウナに入る人)の間では、ある種の業界用語として定着した言葉だと知ったのは、後からのことだった。
サウナ、水風呂、ベンチ。
このサイクルを繰り返して、びっちりとサウナがキマった状態――心地良くなり、体のあり方が正しくなる状態――、それを“整った”と言うらしい。
なるほど、言い得て妙、まさしくその通りの体験だった。
サウナの熱で血管を広げて、水風呂の冷気で絞める。そうすることで血流が盛んになり、体の状態が良くなる。
血流が良くなるということは、呼吸によって取り入れられた酸素が、よりよく全身に運ばれ、そうして脳にはかつて味わったことがないほどの量の酸素が溢れて、酩酊感と清涼感を感じられる。
別に医者ではないから知らないが、きっとそういうことなのだろう。
この酸素によるトランス状態は、ある種、麻薬的快楽とも言える。
サウナとは血流で酸素を体中に巡らせる遊びなのだ。
そうして、体と心を有るべき姿に“整える”。
K氏の言う通り、サウナこそ、まさに最高のエンターテイメントであり、至上の安寧であった。
私は初めてのサウナで“整った”が、その後、様々なサウナに出向いて見ると、実はまだまだ先があることを知った。
“整う”というものにも程度があるのだ。
良いサウナに行けば最高に“整う”し、それなりのサウナなら、それなりに“整う”。あまり良くないサウナなら、時に“整わない”ことさえある。
サウナでより良く“整う”ためには、様々な条件が必要なのだ。
サウナ、水風呂、ベンチ。
このサイクルはもちろんのことだが、その日の気候や自分の体調、サウナや水風呂の状態、雰囲気、精神状態。
実に様々な要素が絡み合い、それが上手く相互作用を起こしたときにこそ、真に体は“整う”。
最高峰と言われるサウナは、如何なる条件の場合でも、強制的に“整えて”くれる。それ故に最高と言われるのである。
しかし、この世の全てのサウナが最高のサウナであるわけではない。
最高に“整える”ためには、“整う”ための様々な条件をどうクリアするか考える必要がある。
故にサウナには戦略が必要なのである。
サウナで“整う”ことができれば、心と体はあるべき姿に戻る。
心と体が充実すれば、それは日々の生活を充実させる。
つまり、孫子の言う「百戦危うからず」とは、まさしくそれである。
“整った”心と体を以てすれば、恐れるべき戦いはこの世にない。
“整える”ために必要なことは、そのサウナをよく知り、その日の自分の体調をよく知ることだ。
ここに孫子が「己を知り、サウナを知る」と述べる理由がある。
つまるところ、己の体調とそのサウナの特性、それを知り尽くせば、どんなサウナであろうと“整える”ことができるのだ。
話を戻そう。
ベンチの話だ。
冒頭で私はベンチこそが戦略の鍵であると述べた。
いつ、いかなるサウナであっても、“整う”瞬間はベンチである。もちろん、ベンチのないサウナもあるし、あるいはそれはベンチではなく、休憩室のリクライニングチェアかもしれない。
しかし、ともかく、サウナ、水風呂、ベンチの三つのサイクルの中でどんな形であろうとも、ベンチという要素の部分で“整う”という現象が起きるのは確かだ。ベンチはいつだって“整う”ための滑走路だ。
つまり、ベンチこそが戦略の鍵であると述べる所以である。
必要なのは、そのベンチに座る瞬間の自分の有り様である。
サウナと水風呂。その二つを終えてベンチに座る瞬間、どのような状態であれば自分は“整う”のか。どうすればもっと“整う”のか。
私はK氏に言われるがまま、十二分間じっくりとサウナに入ったが、必ずしも十二分という時間が必要とは限らない。熱いサウナならそれよりも短いし、温いサウナなら長くなる。或いは自分の体調によっても変わる。
また、水風呂の温度、水質の問題もある。
水風呂の温度がどれくらいなのか。
かなり低い温度の水風呂なら、熱いサウナでも長く入る必要があるし、温い水風呂ではまた異なる。
サウナと水風呂のバランス、そして、その日の己の体調。
これらを踏まえてベンチに至る必要があるのだ。
よほど良いサウナでなければ、これらの要素を見極めないと決して良く“整う”ことはできないだろう。
ベンチに座るおっさんたちは熟練の軍師である。
これらの要素をすべて満たして、あの場に座り込むのだ。それを軍師と言わずして何と言う。
体調、サウナと水風呂のバランス。これらを常に読み切っている。それは熟練の技である。
もちろん、はじめてのサウナでも、私が紹介したK氏の指示通り動けば、それなりには“整う”。
“整う”ことだけなら、そう難しいことではない。
だが、こうしてサウナを読み切って、いつ、如何なるサウナでも最高に“整え”ようとすると、それは熟練の読みが必要になる。
故にそうした技を身につけた若者たちは自らをこう自称したがる。
――プロサウナー、と。
正直、プロサウナーという言葉は、私はあまり好きではないが、しかし、そう言いたくなるもの分かる。
どんな時間、どんな体調、どんなサウナ。いつ如何なるときも、最高に“整える”術をもつには“技”がいるのだ。
おっさんたちは、熟練の“技”をもって、あのベンチでアホ面を晒しているのだ。
サウナはおっさんくさい。
確かにそうかもしれない。
けれど、おっさんたちを甘く見てはいけない。常に社会というストレスに身をさらし、何十年も戦いつづけてきた人々だ。
その彼らが何故にサウナに入るのか。それをよく考えてみて欲しい。
彼らこそ、己を知り、サウナを知る、現代の兵法家なのだ。
ここまで読んでくれたサウナー予備軍の読者諸兄は、サウナ如きで何をそんなに熱く語っているんだと思うかもしれない。
確かにたかがサウナかもしれない。
しかし、サウナには不思議な魅力がある。
少なくとも私にこんなエッセイを書こうと思わせるほどには。
残念なことに、サウナの持つ不思議な魅力は行ってみなければ分からない。
ここまで読んだサウナー諸兄の読者諸兄は、まずは騙されたと思って、サウナに行ってみて欲しい。
サウナにハマるかどうかは人それぞれだろうが、しかし、何かを見いだすことはできるはずだ。
だからこそ最近のサウナブームがあるのだ。
今、サウナが熱い!
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