第8話
竜は蟲を捕食する。そして、その食欲には際限が無い。
果たして飢えを満たすことがあるのかどうか、知る者はいない。
蟲をいつまでも食べ続けることが出来るのは、竜の胃の腑の中に、何ものをも溶かす酸があるためだ、という言い伝えがある。その酸は、いつの日か竜がその命を終えるときには、竜自らをも溶かすのだという。
そして、竜の強大な力の一つである竜焔は、その酸を霧状にして口から吐き出したものだ、と云われている。
言い伝えの何処までが本当のことなのか、ユズナには分からない。
一つだけ確かなのは、初めて目にする竜焔の威力が、これまで耳にしたどんな逸話によるものよりも、はるかに凄まじいということだ。
竜の上で、ユズナはその光景を眺めていた。彼女はギバの後ろに座り、その腰に手を回していた。
座っているだけでは、逆さまに飛んだ時に落ちてしまう恐れがあるため、二人の乗り手は飛行帯という革の帯を身体に巻き、鞍から引き剥がされないようにしていた。
ギバの手には手綱が握られているが、それは馬の轡のように口ではなく、竜の長い首の中程に巻かれた帯に繋がっていた。
ギバが手綱を左右上下に引くと、カムイはそれを感じて飛ぶ向きを変えた。
そしてギントウロウやイシワリクワガタなどの飛行する蟲が竜の行く手を遮ると、竜は真っ白な分厚い夏の雲に似た息を吐き出した。
焼けた鉄塊に水を注いだ時のような勢いで放たれる、その白い蒸気に包み込まれると、次の瞬間には生き物としての形を失った蟲の骸が、地上へと落とされるのだ。まるで鳥についばまれて、腐り落ちる果実のように……。
竜に劣らず巨大な、蟲のその骸は落ちる勢いで家々を砕いた。そして骸から滴り落ちる酸のために、屋根の木材は黒く焦げて崩れ落ち、壁の石は温められた飴のようになった。
空から見下ろす街に、人々の姿は見えなかったが、もしも蟲が落ちた先に人がいたらと思うと、ユズナは怖くなった。ギバの腰に回した腕に、思わず力が入る。
数日前。
船でこの港に着いた時、空を飛ぶ竜を見て、その背に乗れたら良いのにとユズナは願った。しかしまさかその願いが、このような時、このような場所で叶うとは、思ってもみなかった。
人の願いを叶えるのが神様だとしたら。
叶えると見せかけて人の運命を弄ぶのが神様だとしたら。
人の手に、抗う術は残されているのだろうか……。
自らの血に宿った不吉な運命から逃れるために。
誰も傷つけたくなくて。
誰も不幸にしたくなくて。
国を捨て、名も捨てた。
それなのに、またこの地で大切な人達が傷つくのを、こうして目の当たりにしている。
これがお前の運命なのだと、告げられているかのように。
(ヨナ……)
捕らわれた少女のことを思うと、ユズナは胸が張り裂けそうになった。自分が魔導具の話などを聞かせてしまったばかりに、恐ろしい目に遭わせてしまった。
こんなつもりじゃなかった。
もっと自分に力があれば、こんなことにはならなかった。
もっともっと強ければ。
もっともっと賢ければ。
誰も傷つかずに済んだのかも知れないのに……。
「下に公邸が見えます」
ギバの声で、ユズナは我に返った。
カムイは翼を拡げ、旋回する。その翼の先で切られる風の音が、ユズナの胸から憂悶を吹き払った。
灰にまみれた前髪をなびかせて、斜めに傾いた竜の背から地上を見下ろすと、大きな敷地に建てられた屋敷が見える。
公邸だ。
蟲が、群がっているのが見える。あの美しい庭が、ヤスデやカミキリによって無惨な姿に変えられてる。
壮麗な屋根瓦の上を、ナナフシが闊歩している。その影は長く、屋根から壁を伝って地面まで伸びている。
ギントウロウが銀色の背中で跳ね返した陽の光が、何度かユズナの眼に入った。
「確かに、蟲達はここに集まって来ているようですね」
ギバの声は落ち着いていた。まるで砂糖菓子に群がる小さな蟻の観察でもしているかのようだった。
「さて、魔導具とやらは一体何処に……」
「公子の部屋のはずです」
ユズナにそう言われたところで、ギバにも公子の部屋の場所までは分からなかった。
公邸の上で旋回を繰り返し、注意深く蟲達の動きを見つめる。
「あれだわ!」
ユズナが屋敷の一角を指さした。
そこには絡み合って玉のようになり、何匹いるのか数えようもなくなった巨大なヤスデの一群があった。
明らかに、今まで眼にしてきた蟲の様子とは異なる。
ヤスデ達に埋もれた下に、公子の部屋があるに違いない。
そしてもちろん、蟲を引き寄せる魔導具も……。
「公邸には、もはや人はいないようです。竜焔で一気に片付けますか?」
ギバが言った。竜焔の威力は、先程から充分眼にして来た。ヤスデの塊だろうと、公子の部屋だろうと、魔導具だろうと、すべて溶かしてしまうだろう。
しかしその時、ユズナの心には、ヨナのことが浮かんだ。
「待って……もしかしたら、私の友達がいるかも知れません……」
「あの中にですか?」
「ええ……」
レゴリス達が、ヨナを捕らえた後どうしたのか、はっきりとは分からない。しかし、公子の部屋の中で捕まったのであれば、身動きできぬようにされて、そのままそこに閉じこめられているのかもしれない。もっと恐ろしいことも考えられたが、今はただ、生きていることを願うばかりだ。
「分かりました。では部屋の中までは溶かさぬようにしましょう」
「出来ますか?」
「そう祈るしかありません。これは戦なのです」
ギバの言葉の裏には、やってみなければ分からない、という意味が込められていた。
ヨナの命を危険に晒すような、そんな賭はして欲しくない、ユズナはそう思った。
しかし竜焔を使う以外に、ヤスデの群を片付ける方法があるとは、ユズナにも考えられなかった。ギバが言うように、戦の中にあっては、選ぶことの出来る道は限られている。
(ヨナ……)
いつの世も、戦だからという一言で、大切な命が木の葉のように吹き飛ばされて行く。ユズナは胸に穴が開いたような喪失感と、行き場の無い憤りを感じた。
「あきらめろ、とは言っていませんよ」
ユズナの気持ちを察したかのように、ギバが言った。そして手綱を操る。
カムイは首を巡らせると、ゆっくりと旋回しながら高度を落とした。
そしてその翼で地表の近くに吹く風を捕らえると、風上からヤスデの一群へと迫った。
ゴッ、という鈍い響きとともに、竜焔が吐き出される。しかしそれは、ヤスデ達からは少し離れたところに狙いが定まっていた。雲状の濃い竜焔は風に流されて、霧のように薄くなってから、ヤスデの群れを包み込む。
薄くなっても、竜焔は竜焔である。霧の中で、苦しさのあまりヤスデ達は身悶えた。その様は、まるで巨大な炎の揺らめきが、影となって映し出されているかのようでもあった。
やがて一匹、また一匹と群れから剥がれ落ちて、地面をのたうち始める。
「もう一度」
ギバはカムイの手綱を操って、再び風上から竜焔で攻撃を加える。
そのようにして、少しずつヤスデの数を減らそうという算段だった。そして目論見通り、ヤスデの塊は次第に小さくなる。部屋の角が見えた。
三度目の攻撃に入ろうとした時、ユズナはギバの身体が急に強張るのを感じた。
「ぐっ」
苦しげな声が漏れ聞こえる。
「ギバさん?」
ユズナが少し身体を後ろに反らせると、ギバの右肩に、矢が刺さっているのが見えた。
矢筈が風に煽られて、しなっている。
「いけない!」
ユズナは矢を掴むと、根元から折った。矢尻は刺さったままだが、無理に引き抜くと返って傷が深くなってしまう。
カムイは騎手の異変を察知し、竜焔を吐かずに急上昇した。
「どうやら……どこかに腕の良い弓手が潜んでいるようですな」
ギバは痛みを堪えながら言った。
「毒は?」
「塗られていないようです」
ギバとユズナは眼をこらして弓手を探した。放たれた矢が一本なのかどうか、すなわち弓手が一人なのかどうなのか、それも定かではなかった。
(一人だけだとしたら、その方が怖い……)
ユズナもギバも同じように思っていた。複数の弓手がいて、たまたまその一本が当たったというのならば、それほど恐れることは無い。しかし、たった一人の弓手が必中の一矢を放ったのだとすれば、その弓手が見つからない限り、ヤスデの群れに同じ攻撃を加えるのは危険なことだった。
カムイの後ろ足に掴まっているはずの、シオンとオビトの姿は、ユズナからは見えない。しかし、もし落ちてしまうようなことがあれば、カムイが気づくはずだとギバは言っていたから、おそらく無事なのだろうと思う。
弓手は身を潜めたままで、まだ次の矢を放つつもりはないようだ。
迂闊に矢を放てば、居所をユズナ達に見つけられてしまう。カムイが低く飛んで、騎手を狙う機が得られるのをじっと待っているのだろう。
(やはり、弓手は一人ということかしら……)
手強い相手だ、ユズナは眼を細め小鼻にしわを寄せた。魔導具を目前にして、今はわずかな時間すら惜しいというのに……。
その時、地表から鬨の声が聞こえた。竜の翼が切る風の音でも無い、蟲の鳴き声でも無い、どこか懐かしさすら感じさせる、人間の声だった。
見ると、公邸のすぐ外に、公国の兵士達が迫ってきていた。
「砦の兵だわ」
カダとコウの二人が、砦にたどり着き、首尾良く兵達を導いたのだろう。百から二百はいるようだ。これで形勢が一気にこちらへ傾いた、とユズナは感じた。
「まだ早い」
ギバが言った。
ヤスデの群れは、依然としてその多くが公子の部屋に取り付いている。このまま兵達が公邸に侵入して魔導具を止めようとしても、ヤスデによって多くの命が失われるに違いなかった。
だが弓手はまだ見つからない。先ほどのやり方でヤスデを追い払おうとすれば、ギバは矢によって命を落とすかも知れなかった。
しかし。
「もう一度行きます」
意を決したようにギバは言った。
「どうやって?」
「舌を噛まないようにしてください」
ユズナの問いに答える代わりにそう言うと、ギバは手綱を勢いよく引いた。
カムイは上昇する速さを上げると、そのまま仰け反るようにして、下降に転じた。
そして今までよりも急な角度で降下すると、翼を半ば折りたたみ、錐を揉むように回転した。その勢いで、革の飛行帯が千切れそうになる。ユズナは放り出されないように、ギバの身体にしがみついた。
カムイは回り続けながら、地表に迫る。竜といえども、少しでも誤れば、そのまま地面に激突してしまう、危険な飛び方だった。
あわや地表にぶつかろうかという寸前で、ギバが手綱を引いて合図を送る。カムイは竜焔を吐くと反転し、一気に翼を拡げ上空へ舞い上がった。
騎手と竜が一体となり、絶妙な呼吸で繰り出した神技だった。先ほどギバに矢を当てた弓手も、今度は舌を巻いたことだろう。
そしてその最後の竜焔によって、ヤスデの群れのほとんどが部屋から引き剥がされた。
「やったわ!」
ユズナは思わず声を上げた。
充分な成果だった。これ以上竜焔を使えば、砦から来た兵達まで傷つけてしまう。
兵達は公邸の門を破って、庭を抜け、公子の部屋を目指している。
ユズナは竜の背からカダとコウの姿を探したが、すぐには見つけられなかった。
「我々は、周りの蟲を追い払いましょう」
ギバが言った。
「待って、オビトさんを魔導具のところへ連れて行かないと」
魔導具を見つけ出したところで、止めることが出来なければ意味がない。それが出来るのは、オビトだけだ。
「分かりました」
ギバは、兵士達が集まっている庭の一角に、カムイを降ろした。
撒き散らした竜焔の匂いが、ユズナの鼻の奥に染みた。肺が少し、灼けるようにヒリヒリした。兵士達も皆、ユズナと同じように布で口を覆っていた。竜焔の混ざった空気は吸わない方が良いと、知っているのだろう。
巨大なヤスデの骸がいくつも転がっている、そして、無数の蝶の死骸もまた散乱していた。ヤスデと竜焔の双方に命を絶たれたのだろう。この蝶が、ヨナとトクの二人の姉弟を魔導具の在処へと導いたのだ。
竜の後ろ足にしがみついていたシオンとオビトに怪我は無かった。しかし、乗り心地が良くなかったせいか、オビトの顔からは血の気が失せていた。
「大丈夫?オビトさん」
オビトはふらふらと歩くと、ユズナに返事をする代わりに、膝に手をついて嘔吐した。
ユズナの元に、カダとコウが走り寄ってきた。砦の兵と共に、ここまで進軍してきていたのだ。互いの無事を確かめ合い、ひとまず安堵する。
「ヨナは?」
コウの言葉に、ユズナは首を横に振った。
「一緒に探しましょう……まずは公子の部屋を……」
その一方で、竜に乗ったままのギバがルガイ将軍と話をしている。
「公邸の何処かに弓手が潜んでいます……出来れば捕らえていただきたい。おそらく魔導具とやらと関わりがあるはずです」
「分かった。しかし今は魔導具そのものを何とかせねば……」
「どちらも将軍の兵にお願いします。私は残っている蟲を片付けます。もうすぐ他の竜騎兵も駆けつけるでしょう」
「承知した」
話を終えると、ギバとカムイは再び空へと戻って行く。
兵士の一人が、大きな声で叫んだ。
「ありました。公子の部屋の中に、柱のようなものが」
それを聞いたオビトは、顔を上げ、おぼつかない足取りで走って行った。
走る勢いが増すと、蝶の羽の残骸が風に舞った。
それはやはり、命ある蝶の姿とは、違ったもののように見えた。
ギバを射た弓手は、庭の木の陰に潜んでいた。
(どうやら、必要なかったようだな……)
竜騎兵が庭に降り立ったのを見ると、レゴリスは弓を置いた。
レゴリスには、一人で竜騎兵や砦の兵達を相手にするつもりは無かった。魔導具が見つけられ、止められてしまうのも彼の思惑の範疇にある。
(だが、竜焔で魔導石を溶かされては困るからな……)
竜騎兵が街の中で竜焔を使うことはないのだと、レゴリスは聞いていた。しかしそれはどうやら時と場合によるらしい。魔導具とその力の源である魔道石が、公子の部屋ごと竜焔で溶かされてしまうのではないかと思い、彼は矢を放ったのだ。竜騎兵の首を狙ったつもりだったが、矢は外れて肩に当たった。
しかし竜騎兵は、部屋にまとわりついたヤスデを片付けられればそれで良かったようだ。最後の仕上げは、駆けつけてきた砦の兵に譲ることにしたのかも知れない。
(やはり竜騎兵の力は絶大だな……)
今しがた眼にしたように、竜騎兵はたった一騎でも戦局をひっくり返すことが出来る力を備えている。この先、帝国が皇国に攻め入ることになれば、最大の障壁となることは間違いなかった。
(果たしてネフィリムで相手が務まるかな……)
タッタールを打ち砕いた帝国軍の魔導兵器の力が、竜騎兵に通用するかどうかは、レゴリスにも計りかねた。
空を見上げると、新手の竜騎兵の姿が眼に入った。
(魔導具の試しもここまでということだな……)
オビトの手で魔導具が止められた後は、竜達が蟲を片付けることになるだろう。
(すべては計画通りだ……)
タオルンは、重要な交易都市だ。壊滅させてしまっては、帝国にとっての益も無くなる。
このままだと蟲寄せの魔導具は公国の手に渡ることになるが、 蟲寄せの魔導具だけならば、同じものがまだ、帝国には幾つもある。元来、使い道も見つからずに捨て置かれていたものだ。失ってもそれほど痛手では無い。
しかし、魔導具の力の源である魔導石までは、譲り渡すつもりはなかった。契約にもそのように記されている。それに気が付かなかったのは、相手の落ち度だ。
(あれはネフィリムの魔道石だ……易々と渡すことは出来ない)
魔導具の心臓とも言える魔導石を取り返すために、レゴリスは一人、ここに残っているのだった。
(ひとまず魔導石を手にするのは誰だ……オビトか、ルガイか……)
ふっと風が吹き抜けると、もうそこにはレゴリスの姿は無かった。
ユズナが初めて目にするその魔導具は、古い樹の幹のような姿をしていた。
何も知らずに見れば、それは太古からの風雪によって樹皮が節くれ立って波打ち、いくつもの瘤をこしらえた、年寄りの樹だと錯覚してしまうことだろう。
しかしよく見るとそれは樹皮ではなく、鉱物で出来た管のようなものが幾重にも折り重なっているのだと分かる。そこには大地と大気の息吹の代わりに、意志ある者のその叡智が吹き込まれた蹟があった。
それがこの街にもたらした災いのことを思えば、叡智だけでなく、邪悪な意志もまた刻み込まれていると考えるべきかも知れないが、ユズナにはその魔導具から禍々しさというものを感じ取ることは出来なかった。
むしろ悪意とか、善意とか、そうした想念はとうの昔に彼岸に置いてきてしまった、とでもいうような虚ろさを感じた。
その魔導具の中に、まるで鳥の卵を採るために樹の洞に潜り込んでいるかのように、オビトは上半身を隠している。
「どう?オビトさん、上手く行きそう?」
ユズナが声をかける。
「蟲を寄せる力はもう止まっています」
くぐもったオビトの声が返ってくる。
「あとは魔道石を外せば心配ありません」
どうやら魔導具のことは、オビトに任せておいて良さそうだ、とユズナは安心した。
他にも朗報があった。街には、竜騎兵が続々と駆けつけて来ているということだ。
魔導具を止めたことによって、もうこれから新たに蟲が押し寄せてくることは無いし、残った蟲は竜騎兵が片付けてくれるに違いない。
街を襲った脅威は去ったと言って良いだろう。
しかしユズナには、まだやらなければならないことがあった。
(ヨナは、何処にいるのかしら?)
公子の部屋を隅々まで捜したが、ヨナの姿は無かった。この部屋で、一連の企ての首謀者に捕まってしまったことは間違いないだろう。無事に逃げ出していれば、弟のトクと同じように家に帰り着いているはずだ。
ここにいないということは、捕まえた者が、何処かへ連れ出したということになる。
膝をついて床を眺めていたシオンが言った。
「何処にも血が流れた跡はないな」
「そう……」
血の跡が無いというのは、良い報せに違いなかった。まだ生きている、という希望をつなぐことが出来る。
「弟の方を、取り逃がしているからな……」
シオンが言った。
「少し知恵が回る者ならば、そう簡単には手に掛けないだろう」
易々とは殺してしまえない、ということだが、父親のコウの手前、シオンは言葉を選んで言った。
しかし、無事である公算が高いと聞かされても、コウの表情は少しも晴れなかった。
「大丈夫、きっと無事に見つかるわ」
ユズナは半ば自分に言い聞かせるようにして言った。
もうどんな小さなことも、見過ごすことは出来ない。髪の毛一筋、糸くず一つの手がかりも、見落としてはならない。梟のように闇を見通し、猟犬のように鼻を研ぎ澄まさなければならない。
絶対に助け出す、そう強く心に決めるのだ。
たとえ神様が、その切なる望みを弄ぼうとも、決して屈してはならない……。
ユズナは忙しそうなルガイを捕まえて、事情を話し助力を請うた。
将軍は快諾した。
「その娘が、あの魔導具を見つけ出してくれたというのなら、あらゆる手を尽くして捜し出しましょう」
将軍の命令で、十人以上の兵士が手を貸してくれることになった。
まずは公邸の中を隈無く探して欲しいと、兵士達にユズナは頼んだ。
兵士達が散開すると、ユズナは公子の部屋へ戻った。オビトはもう作業を終えたようだ。魔導具から離れて、汗を拭っている。
「やっと外れました……」
その手には、丸く青い石が握られていた。
透き通った青色のその石は、一見するとまるで宝石の蒼玉(サファイア)のようであった。鶏卵ほどの大きさがあり、形も卵に似ていた。しかし卵のように、形に上下の違いは無く、均整のとれた丸味を帯びていた。
「それが魔導石なの?」
「ええ、そうです」
この街を襲った惨劇の元凶と呼ぶには、美しすぎるようにユズナには思えた。
「これはもしかしたら、ネフィリムの魔導石かも知れません。レゴリスならやりかねない」
「ネフィリムの魔導石?」
「いえ……まあ、特別な魔導石ということです」
オビトは言葉を濁した。うっかり口を滑らせてしまった、といった様子が窺えた。
「そう……」
ユズナも今は、ネフィリムの魔導石がどのように特別なのか、ということには触れずにおくことにした。他にも考えなければならないことが山ほどある。
「どうするの?その石は?」
ユズナがそう尋ねると、オビトは表情を曇らせた。
「もちろん、帝国へ持ち帰るつもりですが、こうなってしまっては、素直にそうさせてもらえるかどうか……」
災いを未然に防ぐことが出来たならば、オビトの思うように、魔導石を持ち帰ることも許されたかも知れない。しかし、これほどの事態が起きてしまっては、もはや公国としても黙って見過ごすことは出来ないだろう。
実際、クリミア人であるオビトに対しては、複数の兵士が眼を光らせている。まかり間違えば、オビト自身の命すら危うい状況なのだ。魔導具を止めた功はあるものの、魔導のことを知っているということが、返って不利に働く恐れもある。刺客の仲間だと邪推する者もいるだろう。
「公子が無事だと良いのだけれど……」
公子なら、オビトの味方をしてくれるだろうとユズナは思う。
するとオビトはユズナに近づき、そっと耳打ちした。
「それなんですが、どうもあまり風向きは良くないようです」
「どういうこと?」
ユズナも小声で返す。
「ここは公子の部屋ですよね。どうしてここに魔導具があるのか、兵達は皆、不審に思っています」
タオルンの民は皆、それぞれの街長から、偽者の公子による凶行を聞かされている。だから兵士達も当然、公子が公王を殺したのだという噂は耳にしている。様々な噂が流布した挙げ句、兵士達の公子に対する想いは複雑になっている。いくらルガイがクリミアの刺客の仕業だと言ったところで、心の何処かには疑いが残る。
そうしたところで今度は、公子の部屋から恐ろしい魔導具が見つかったのだ。
公子への疑惑が強くなるのを止めるのは難しい。オビトが魔導石を外す作業をしている間にも、兵士達の怨嗟の声が聞こえて来たのだという。
「ルガイ将軍の前では、皆黙っていますが……」
将軍に対する兵士達の信望は厚い。命を捨てろと命令されれば、それに従うことも決して厭わない。しかし、兵士達のそれはあくまでルガイに対するものであって、公子に向けられたものではない。
公子と、ルガイと、兵士、そしてタオルンの民。彼らは何処かに穴が開いて、浸水している船に乗り合わせているようなものなのだ。
(ブラウを捕らえることが出来ていれば……)
ユズナは悔しさのあまり唇を噛みしめた。
公子の無実を証すには、真犯人を捕らえるのが最善の手段である。変身する魔導の話など、言葉を尽くして説明したところで、実際に眼にした者で無ければ信じることは出来ないだろう。ブラウが変身した偽者の公子は、十数人いる街長達の面前で凶行に及んだのだ。そのこと自体はもう、嘘や脅しで誤魔化すことは出来ない。
「ユズナ殿」
ルガイが険しい表情を浮かべて部屋に入って来た。傍らにはカダがいる。
「刺客は船で逃げたとか……」
どうやらルガイは、カダからこれまでのいきさつをすべて聞いたようだった。
「ええ、すみません。力不足で……」
ユズナの言葉にルガイは首を横に振った。
「海賊を野放しにしたのは私の落ち度です。港の護りを薄くしたのも、私の誤りでした」
「何もかも、刺客達の方が一枚上手でした……」
「まあ、慰め合っても仕方がありませんな。これからのことを考えなければ」
「公子は今何処に?」
「僧院の地下霊廟に隠れておいでのはずです」
ユズナは、今しがたオビトと話していたことを、ルガイにも伝えた。
「ええ……兵士達の思いは私も肌で感じております。公子のお立場はかなり悪くなりました」
「どうやったら、公子の無実を証すことができるのかしら?」
「刺客が去ってしまったのであれば、裏切り者を捕らえるしかありませんな。そしてその者の口から、皇帝が遣わしてくる法官に真実を語ってもらわねばならないでしょう。法官が得心したところで、民達の信を取り戻すことは難しいかも知れませんが……」
「アンユイ卿で無いとしたら、一体誰が裏切り者なのでしょう」
「分かりませんな。ですが、どうにかして見つけ出さなければ……」
ルガイは苦渋に満ちた表情を浮かべたまま、兵士達の指揮をしに戻って行った。まずはこの街に秩序を取り戻し、夜が来る前に、着のみ着のままで逃げざるを得なかった民達を迎え入れなければならないのだ。
(裏切り者を捕まえれば、ヨナも見つかるのだけれど……)
ユズナはそう思った。そしてそれは反対に、ヨナを見つければ裏切り者を捕まえることにも結びつく、ということでもある。
ユズナは再び、ヨナを捜すのに専念することにした。すでに公邸内を父親のコウと兵士達が見回ってはいるが、吉報はまだ無かった。
公邸の中に居ないとすれば、捕らえた者が、街の外へと連れ出したのかも知れない。
シオンと二人で、歩きながら公邸内を探っていると、廊下の向こうで、何やら騒ぎが起こっている様子が聞こえてきた。
ユズナが足を運ぶと、家宰が三人の兵士に取り囲まれているのが眼に入った。
テパンギの姫の姿を認めると、家宰は言った。
「ああ、ユズナ様。助けてください」
「どうしたのですか?」
ユズナは兵士達に訊いた。
「一人で公邸内をうろついていたんですよ。怪しいと思いまして、尋問していたんです」
どうやら家宰の素性を知らない兵士達に、不審者と思われたようだった。
「尋問?蹴ったり突き飛ばしたりするのが尋問ですか?」
家宰は腹立ちをこらえているのか、涙をこらえているのか、声を震わせた。
(まさか、この人が裏切り者なのかしら……)
ユズナは考えた。確かに、家宰ならば、公邸の中で様々な策謀を巡らすことが出来るだろう。刺客を手引きすることも、難しくはない……。そう、一番初めにオビトが公邸を訪れたとき、公子は留守だった。そして家宰と話をして、その帰り道に刺客に襲われたのだ。
「俺が尋問しよう」
シオンが言った。
「蹴ったり、突き飛ばしたりはしない……」
そう言うと、刀を抜いた。
シオンが白刃を突きつけると、家宰は地面にへたり込んだ。
「私は何も悪いことはしていませんよ。本当です。信じてください」
ユズナは家宰の眼をじっとのぞき込んだ。
「どうしますか?」
シオンがユズナに訊いた。
「刀は仕舞って」
シオンが刀を鞘に収めると、家宰は安堵のあまり呆けたような表情を浮かべた。
ユズナは、疑うのを止めた訳では無かった。手荒な手段に出る前に、家宰が裏切り者なのかどうかを確かめる方法が無いかと考えているのだった。
家宰の傍らには、白い布に包まれた大きくて長細い何かがある。ユズナの眼にも最初から留まっていたが、家宰の方に気を取られて、問答が後回しになっていた。
「それは?」
「公王様の御遺骸です」
ユズナの問いに、兵士の一人が答えた。
「この者が何か悪さをしていたようですので、それも尋問していたところです」
「いい加減、口の聞き方を改めたらどうですか」
シオンが刀を仕舞ったので、家宰はいくらか気を大きくしたようだった。
「全く、冗談じゃありませんよ。私が公王様に無礼を働くなどと……皆が御遺骸を放って逃げ出してしまったから、私一人でお守りしていたのですよ」
家宰は腹立ち紛れにそう言うことで、自身の置かれた立場の正しさを示そうとした。しかし、兵士達はまだ、疑っている様子だった。
「お守りしていただと?俺たちは今まで、公邸を隅々まで探っていたんだ。何処にも居なかったじゃないか。そうしてここに戻ってきたところでお前を見つけたのだ。それをどう言い訳するというのだ」
「あなたたちのような若造に、何が見つけられるというのですか。蟲の手の及ばない場所にいたのですよ。そんなに知りたければ後で教えます。この館にはね、私ですら見たことも無い隠し部屋だってあるんです。さあそれよりも、いつまで公王様をこのままにしておく気ですか、御遺骸を戻しますから、手を貸しなさい」
公王の遺骸を床に置いておくことは出来ない、ということについては兵士達も異存は無かった。家宰に促されると、兵士達は公王の遺骸を寝室まで運んだ。葬儀が始まるまでは、生前の寝室にて安置するのがこの地方の習わしだった。
寝室には、大きな壺がいくつも置かれている。中には水が入っていたが、元々は氷だったそうだ。遺骸が痛まないように、氷で冷やしていたのだという。言われてみれば、部屋の中の空気は、外よりも幾分涼しいようだった。
「あーあ。棺の蓋が欠けちゃってるじゃないですか。乱暴にするからですよ」
彫刻の施された大理石の棺の蓋が、外れて床に落ちていた。
「開けたのはお前さんのはずだろう?」
兵士の一人が眉根を寄せて、ぞんざいに言い放った。本当ならば、兵卒よりは家宰の方がずっと位が上なのであるが、場合が場合だけに兵士達も気が立っているのだった。
「そりゃ……そうなりますかね。ですがあの騒ぎでは……私だって……」
蟲が襲ってくると知り、きっと大慌てで公王の遺骸を運び出したのだろう。この家宰は世慣れた小狡さの匂いが身に染みてはいるものの、亡き公王に対する忠誠心は誰よりも強かったのかも知れない。
(この人に公王が殺せるとは思えないわよね……)
端の欠けた大理石の板を切なそうに撫でている家宰の様子に、ユズナは何となく好意を抱き、助け船を出した。
「大理石なら、僧院から分けてもらえるんじゃないかしら?」
しかし家宰は、がっくりと肩を落としたまま応えた。
「僧院にはね。ありませんよ。昨日、私が聞いてきました。祭壇の経典台に新しい大理石の板を一枚都合して貰いたかったんですが……私の弟がね、あちらの副司をしていましてね。葬儀に都合出来るもの、出来ないもの、一通り教えてくれましたよ」
「そうなの……」
ユズナは家宰の話にうなずきかけたが、突然、眼を見開いた。ユズナの心に、ざらりとした何かが引っかかった。
「ちょっと待って。それじゃあ私は、どうして僧院に大理石があるって……」
「どうかしたのですか?」
家宰が首を傾けてユズナの顔をのぞき込んだ。
ユズナは家宰を見つめ返した。その瞳に宿った光を見て、家宰は思わず背筋を伸ばした。胸を矢で射貫かれたような気がしたからだ。しかし、実際にはユズナは家宰のことを見てすらいなかった。その眼は、ここではない何処かを見つめていた。
「そうか……そういうことだったのね……」
ユズナは、ついに記憶の中に埋もれていた欠片を探り当てた。
ヨナの居場所へと導いてくれる手がかりは、自分自身の中にあったのだ。
それから、ぱちりと瞬きをすると、ようやく家宰が目の前にいることを思い出したかのように話しかけた。
「ねえ、少しお話を聞かせてもらってもいいかしら……」
公邸からそれほど離れていない場所に、タオルンの僧院はあった。
街にいくつかある僧院の中でも最も古く、大きい。タオルンだけでなく、ロントン公国全域の僧院を束ねている本院であり、タオルンの代々の公王の墓所ともなっている。
墓所があるその地下の広間には、逃げ遅れた人々が数百人、匿われていた。設えられた霊廟の中には僧属と公族しか入れないが、霊廟の外側の広間の方がずっと大きい造りになっているため、人々はそこで身を寄せ合っていた。
蟲の襲来が止み、竜騎兵が助けに来たという報せが僧院に届くと、皆は薄暗い地下室から這い出てきた。
竜騎兵が僧院の中庭に降り立つ様を見て、大人も子どもも、男も女も歓声を挙げた。
お互いに手を取り、抱き合い、笑いながら額をこづき合ったりしている。
公子コハクもまた、人々に続いて地上へと姿を現した。
天辺へと昇った陽が、惜しげも無くその光を地上へと降り注ぐ。
コハクは眩しさのあまり手をかざした。
歓喜する人々とは反対に、彼の胸は沈痛な思いで満たされていた。結局のところ、蟲の襲来を未然に防ぐことは出来なかったのだ。きっと、多くの民の命が失われてしまったことだろう。父親である公王もクリミアの刺客に殺され、そればかりかその犯人に仕立て上げられてしまっている。
公族として果たすべき責も全う出来ず、子として親に報いるべきことも為せずにいる。
(ルガイはどうしただろうか……ユズナさん達も、無事なのだろうか……)
そこへ若い僧の一人が、来客を告げに来た。
振り向くと、ユズナ、シオン、オビトの姿があった。
三人の無事な様子に、コハクは少しだけ肩の力を抜いた。
照れくさそうに、口の端に笑みを浮かべる。自分だけ安全な場所に身を隠していたのではないだろうかという恥ずかしさと、自分が無実であることを分かってくれている仲間に会えて嬉しいという思いが胸の内で混ざり合っていた。
「公子」
「ユズナ殿、ご無事で何よりです」
「ええ、私達は……でもカダさんが腕に怪我をして……」
「そうでしたか……」
僧院の敷地にも、まだ蟲が残っていた。新手の竜騎兵が二騎、蟲退治にいそしんでいる。おかげで人に害をなす蟲はほとんど片付いた様子だった。
ただ、僧院内には、惨劇の爪痕がくっきりと残されていた。文字通り、蟲のつけた爪痕があちらこちらに残されている。壁から剥がれ落ちた石のかけらはまだ、その断面がざらざらとしており、廊下を歩くと、散らばった砂が足の裏に生々しい破壊の余韻を伝えた。
コハクとユズナ達は、話をするのに手頃な大きさの部屋へと移った。そして、コハクが僧院に身を預けた後に起きた事柄を、ユズナは語った。
話が終わると、コハクはまた表情を曇らせた。
「そうか……私の部屋に魔導具があったというのか……」
そう言って深くため息をついた。
「アンユイ卿でないとしたら、一体誰が刺客達の手引きをしたのでしょう……それとも、すべて刺客達だけで仕組んだことなのでしょうか……何もかも、魔導とやらの力を使って都合良く事を運んだのでしょうか……」
「いいえ、違います」
ユズナが首を横に振った。
「残念ながら、この国を裏切った人物がいます。その人物がいなければ、刺客達もこれ程の大きなことは出来なかったでしょう……」
その言葉を耳にしたコハクは、ユズナに鋭い視線を向けた。
「ユズナさん……まさか……分かったのですか?その者が誰なのか」
「まだ、確かではありませんが……と言っても、いくら探したところで、おそらく確かな証は何も見つからないでしょう。何しろ肝心の蟲寄せの魔導具はもう、その者の手を離れてしまっているのですから……」
今となっては、その者が犯した裏切りの罪と結びつく何かを手に入れるのは至難の業である。公王を手に掛けた刺客も、逃がしてしまった。
「それでも私たちは今日の内に、その者を追い詰め、真実を明るみにしなければなりません。ヨナを助けるために……失敗は許されません」
たとえば、狩りのように……しかも、雪の降り積もった山中での狩りのように、用心深く歩を進めなければならない。追うものと、追われるもの。時にはその立場を入れ替えながら、しんと張り詰めた空気の中、互いに凍える白い息を吐き、足跡とわずかな気配だけを頼りに、知恵比べをしなけれならない。
そして負けた方が、大切な何かを失わなければならない。
「誰なのですか?それは」
コハクが問う。
「その前に……」
ユズナは一瞬だけ哀しそうな眼をした。もうここからは何処へも引き返すことは出来ない。どのような結果になるにせよ、何かが損なわれることに変わりは無いのだ。
しかし、それでも、ユズナの瞳は決意の光を宿した。
「まずは、僧院の副司さんに会わせていただけますか?」
男は、私室で仕事をしていた。
今日中に書き上げなければならない書状など、幾つかの用件を抱えているものの、どれもはかどっていなかった。そのために、男は少なからず苛立っていた。
出来ることならば、早くこの部屋を出て、あの地下室に閉じこめた小娘から、弟の居場所を聞き出したいと思っていた。己のこれまでの行いに大きな過ちがあるとすれば、あの姉弟に話を聞かれてしまったことだ、と男は考えていた。
しかし焦れば焦るほど、目の前の用件は片付かない。
戸を叩く音がする。叩き方の癖で、召使いだと分かった。
「何だ!」
男は声を尖らせた。
「公子がお話をしたいと仰っております」
「公子が?」
どうせ泣き言だろう、と男は思った。
男の企みに翻弄され、身の置き所を無くした、哀れな若者だ。
そうは言うものの、男はこの若者を軽んじている訳では無かった。むしろ反対に、男はこの若者に対して、特別な感情を抱いていた。
なぜならかつて男が愛した女の面影を、若者は強く受け継いでいたからだ。
若者はその女の息子だった。女がこの世を去った後も、男は若者を見るにつけ、心を苛まれた。男は時に彼を憎み、時には愛おしんだ。胸の中で高波が幾度も打ち付けられる内に、ついには憎しみと愛の違いすら分からなくなったほどだ。
「お取り込み中でございますか?」
召使いが言った。
「今、行く」
男は筆を置き、席を立った。召使いを付き従えて、部屋を出る。
外はもう、陽が沈んでいた。
竜騎兵達はまだ蟲を片付けているらしく、時々、竜の吠える声が遠くから聞こえてくる。
その強大な力ゆえに、僧院の開祖であるロン=フウは竜騎兵を為政者の手に引き渡さなかった。時代の下った今もなお、竜騎兵は皇国の軍隊には組していない。彼らが軍と行動を共にするのは、今回のように蟲が関わっている時や、タッタールなどに皇国の国境が侵された時、国内で内乱や政変が起きた時などに限られている。
仮に皇国が他国の領土に対して食指を動かしたとしても、竜騎兵の助力を得ることは出来ないのだ。僧院がそれを許しはしない。例え、ロンオウの皇帝の命令であっても、竜騎兵を従わせることは出来ない。
だからロンオウの皇族やロンオウ以外の四公国の公族は、僧院とのつながりを求めて、血族を出家させる。そうしておいた方が、何かにつけ融通がきくし、内乱や政変が起きた時には、少しでも有利に事を運べると期待するからである。
僧属となる者は、皇帝や公王の血筋から近ければ近いほど良い。
たとえば、王の弟……。
男は公子が待っているという場所に足を踏み入れた。
そこは男が暮らしているこの僧院で、最も大きな場所だった。法話を行うための広間である。板敷きの床の上に、経典台がいくつも並んで置かれている。
正面の祭壇にはイム教の象徴であり、人々の崇拝の対象となっている、黄銅で造られた日輪が掲げられている。日輪の描く真円は、イム教の教えの中核である「万物の理」への道しるべを意味している。日輪の下には同じように彫金で造られた黄銅の竜が、守護神として祀られている。開祖のロン=フウや、悟りを開いたと言われる聖僧達の彫像もまた、祭壇に祀られている。
宵闇に浸された僧堂に、雪のように静けさが降り積もっている。
祭壇で揺れる燭台の灯の揺らめきの音まで聞こえそうだ。
「お越しいただきありがとうございます」
公子のその声は僧堂中に響いたが、それはむしろ辺りを満たしている静寂を際立たせているかのようであった。
祭壇に設えられた階段の下に、コハクはいた。そこで待っていたのは、コハクだけではなかった。ルガイ将軍、テパンギの姫とその従者、オビトという名のクリミア人の姿もあった。
コハクは何やら、緊張しているようだった。先ほどの、挨拶の声からもその様子が伝わって来た。
「どうされたのですかな、このような刻限に、皆様お揃いで……」
男は半ばおどけるかのように、務めて明るく振る舞った。
「私がお願いしたのです、シンレンさん」
異国の姫が横から口を挟んだ。
「あなたがですか?ユズナさん……」
シンレンは怪訝そうに、眉をひそめた。
「ええ……お話をするのは、この前の宴の席以来ですね……」
ユズナはゆっくりとコハクとシンレンの間へと歩を進めた。
「今から思えば、あの宴の場で気がつくべきでした……」
「気がつく?何にです?」
「クリミア人の刺客と、手を結んだ人の正体です……」
「刺客?クリミア人の?一体何の話です」
シンレンの声は、平静を保っている。何のことかさっぱり見当がつかない、といった様子だった。
「シンレンさん……あなたがすべてを手引きしたのですね……公王の暗殺も、魔導具を使って街を蟲に襲わせたことも……」
「何を言っているのですか?」
シンレンは、歪んだ笑みを浮かべた。
「あの宴の席で……あなたは公子に言いました。キャスブルグから、恋文の一つでも届いたのではないか、と……あの時、あなたは知りたかったのですね。刺客が奪い損ねた、コルネリア姫の親書が本当に公子の手に渡ったのかどうかを。それを知りたくて、公子に鎌を掛けた……場合によっては、あなたも手を打たなければなりませんからね……違いますか?」
しかし、実際に鎌掛けにひっかかったのはユズナだった。思わず盃から酒をこぼしてしまったのだ。その様子から、シンレンに答えを気取られていたとしても不思議は無い。
コルネリア姫の親書……あの親書は、刺客と手を結んだ裏切り者にとっても、そしてユズナ達にとっても大きな意味を持っていたのだ。
「親書が無ければ、そしてオビトさんがいなければ、公子は魔導具のことなど何も分からずにいたことでしょう。」
あの一通の親書から、すべての謎解きが始まったのだ。
「私たちは、魔導具が船で運ばれたのではないかと考えました。そして、帝国との交易を取り仕切っているアンユイ卿に疑いをかけ、帝国からの船の荷を調べることにしたのです」
ユズナはルガイの方を見た。ルガイは頷くと、一本の巻物をユズナに差し出した。ユズナはそれを受け取り、両手で広げて見せた。それは、例の船荷の目録だった。
帝国のフェリス商会から送られてきた品々。しかしそれらすべてがアンユイ卿の元へ届けられたわけではなかった。
「これには僧院から注文を受けていた大理石のことが書かれています」
一番最初に目録を見た際、ユズナはそれを確かめていた。そして大理石は僧院で重宝されていると、コハクに教えてもらったのだ。家宰と大理石の話をするまで、忘れてしまっていたのだが……。
「しかし、公邸の家宰さんの弟で、僧院の副司を務めていらっしゃる方に確認をしたところ、大理石など届いていないということでした……それでは、大理石は何処へ行ったのでしょう?そもそもそれは、本当に大理石だったのでしょうか?」
シンレンは黙ったまま、ユズナの問いかけを受け流した。その顔に浮かんだ表情からは、いかなる感情も読み解くことが出来なかった。
「大理石では無く、魔導具だったのですね」
代わりに答えたコハクの言葉に、ユズナは頷いた。
「港から何処に運ばれたのかは、まだ分かりません。タオルンには僧院と繋がりのある建物がいくつもあるはずですし、港の貸し倉に仕舞われたのかも知れません。いっそのこと、そのまま隠しておかれていたなら良かったのですが……」
ユズナは巻物を元通りに丸めた。
「次に魔導具が現われたときは、大理石では無く、別のものに姿を変えていました」
ユズナはルガイに巻物を返すと、代わりに長方の紙を束ねて出来た台帳を受け取った。
「これは、公王の葬儀を執り行うにあたって公邸へ運びこまれた品物の目録です。家宰さんから借りてきました。これによると、葬儀屋のジョーシンという人が、二回、氷を届けています。公王が亡くなった日と、その翌日に……二度目の時、ジョーシンさんは、氷を持ってきたのはこれが最初だと言ったそうです……ちなみに、一度目に運ばれた氷は、家宰さんが目録に記した後、シンレンさんが受け取ったそうですね?家宰さんが教えてくれました……」
ユズナは台帳を閉じた。
「私たちは今日、魔導で氷を作り出す刺客と会いました。そして、誰にでも姿を変えることの出来る刺客にも……あなたは、葬儀屋さんに化けた刺客の手によって、氷と一緒に運び込まれた魔導具を、公子の部屋へと入れたのです。そしてこの街を、蟲に襲わせた……」
黙ったままのシンレンを横目で見ながら、ユズナは言葉を続けた。
「家宰さんは、オビトさんが最初に公邸にやって来たときのことも覚えていました。その時、公子は不在だったのですが、あなたは公邸にいて、家宰さんに来客のことを聞いていたそうですね。そしてオビトさんはその帰り道に刺客に襲われた……」
シンレンは首を横に振った。
「何のために、そんなことをするというのです?この私が?」
ユズナは祭壇の前の床をゆっくりと歩いた。
「公王が死に、公子がその犯人として処刑される。そして蟲に襲われた街を竜騎兵の力で、つまりは僧院の手で救う。タオルンの民はあなたを英雄と讃えるでしょう。そうすれば次の公王の座はあなたのものになる……」
王宮で育ったユズナには、分かり易い企みだった。
「でも本当の英雄は、二人の子どもです」
ユズナはシンレンの方に向き直った。
「その子らは、公子の部屋に魔導具があることを突き止めました。一人は捕らえられましたが、もう一人は逃げおおせました……」
一歩、また一歩とユズナはシンレンの方へ近づいた。
「逃げた子どもは、はっきりと見ています。部屋の中にいた、二人の男の顔を。一人はクリミア人の刺客、そしてもう一人は……」
ユズナはシンレンの瞳をのぞき込んだ。どんな感情の揺らぎも見落とさないという、鋭い眼で……。それはまるで、冬の日に狼を狩る者のような眼だった。
その鋭さゆえに、シンレンはユズナの仕掛けた罠を見抜いた。
(これは、鎌掛けに違いない……)
あの時、自分は面覆いをしていたのだから、顔は見られていない。しかしそのことを指摘すれば、鎌掛けに引っかかることになるだろう。顔を見られていないと言い切れるのは、当の本人だけなのだから。
「もしも……それが私だというのなら……その小僧を連れてきたら良いだろう。そうすれば、疑いも晴れるはずだ……」
シンレンは口の端に笑みを浮かべた。上手くやり過ごした、と彼は思った。ユズナの瞳が、わずかに曇る。
「ロンオウの法官が来たら、そうしましょう……」
ユズナのその言葉に、シンレンは食らいついた。今度は自分が相手をやり込める番だ、と彼は思った。
「是非そうしてもらいたいものだ。その巻物も、台帳も、法官に見せれば良い。しかし、魔導具とやらが公子の部屋にあったことも、公子が公王を殺すのを見た者が大勢いることも、法官には知ってもらわなければならないでしょうな?」
異国の姫は目を伏せた。シンレンは、胸の内でほくそ笑んだ。
「ええ……すべてはロンオウの法官の裁きに委ねましょう……でも、私は今ここで、あなたに聞かなければならないことがあります」
ロンオウの法官が来るのを待っていては、手遅れになることが一つあるのだ。
「捕まえた子どもをどうしたのです?」
「しつこいですな……」
シンレンは、あきれたようなため息をついた。先ほどのような鎌掛けをしたということは、もう他に確かな証しなど無いということだ。決着はついた。もう何を問い詰めたところで、無駄なことだ。
「あなたにしてみれば厄介な子どもでも、家族にとっては掛け替えのない宝なんです。そして、私にとっては大切な友達です。小さくて、可愛らしい」
ユズナは切々と訴えた。
「お父さんも、お母さんも、あの子の帰りを待っているんです」
眼に涙を浮かべ、その形の整った小さな鼻の先を赤くして、声を震わせる。
「教えてください。手がかりだけでもいい。あの子の笑顔にもう一度会わせて」
ユズナの眼から一筋の涙がこぼれた。その涙が、ほんの一瞬、シンレンの心に影を落とした。
「何と言われようとも、知らないですよ。そんな小娘のことなどは……」
シンレンのその言葉を聞くと、ユズナは涙を拭った。
「公子、聞きましたか?」
彼女の声はもう震えてはいなかった。獲物が、罠にかかったのだ。
「ええ、確かに」
「ルガイ将軍は?」
「しかと、この耳で、聞きましたぞ」
シンレンは眉間に皺を寄せた。
「何だ……何がどうしたというのだ」
ユズナは言った。
「あなた今、小娘、と言いました。どうして、私の言っているのが、女の子だと分かったのですか?」
シンレンの顔が一瞬、青くなった。
「私は一度も女の子だとは言っていません。それに、逃げた子どもが小僧、つまり男の子だということも、私は言っていません。そうでしょう。公子?」
公子は深く頷いた。
「ええ、その通りです」
二人の子どもが姉と弟であることを知っているのは、ユズナ達と、公邸で捜索にあたった兵士達、それとヨナを捕まえた男達だけである。僧院の者はまだ誰も知るはずが無かった。
僧堂内に、再び静寂が訪れる。燭台の灯の揺らめきが祭壇に祀られている黄銅の竜に映えると、まるで竜が生きて蠢いているかのようにも見えた。今にも翼を羽ばたかせ、飛び立とうとしているかのように……。しかし、やはりそれはただの錯覚に過ぎないのであった。その彫り物の眼もまた、虚空を見つめているだけだ。
シンレンは、深く息を吐いた。
「全く……そんなことで私を罪に陥れようというのか?」
「叔父上……お覚悟を……」
コハクが静かに言った。
「覚悟だと……何の覚悟だ……私にあるのは、公王の座につく覚悟だけだ」
シンレンは僧衣を翻した。
「何も分かっていない愚か者どもが……」
「それでは王座を簒奪するために、父を殺したことを、認めるのですね……」
コハクは怒りを押し殺し、かろうじて平静を保っている様子だった。
「簒奪だと?己に与えられるはずだったものを、手に入れるだけのことだ。それは簒奪とは言わない……」
シンレンの物言いに、コハクはついに声を荒げた。
「王位は父のものだった!その命がある限り、他の誰にも奪うことは出来なかったはずだ!」
ところが、それを聞いたシンレンは笑った。
「何が可笑しい!」
コハクが詰問する。
「良く聞くが言い……ジェと私は、双子だったのだ……」
シンレンの放った言葉に、コハクは驚いて眼を見開いた。
「何を馬鹿な……双子だと……」
「そうだ、双子だったのだ。そして、貴様はまだ知らないかも知れないが、公族に古くから伝わる定めにより、一人は密かに殺されるはずだった」
王家の世子が双子では、後継者がどちらになるかを巡って、血なまぐさい争いが繰り広げられることになる。それを防ぐための掟が、ロントン公国には古くから伝えられていた。
そうした定めがあるのを知るのは、時の公王だけである。代々の公王に受け継がれる文書にのみ記されているのだ。
「しかし私たちの母はそれを拒んだ。そして産まれたばかりの私を連れてタオルンを離れたのだ」
定めを知るのは公王だけでも、実際に双子が産まれれば、母である后にも知らせなければならない。また、定めだからと言って、子の母の心まで従わせられるとは限らない。
「母は別邸のあるホンヨンの地へ逃れると、そこで王の次子を身籠もったと偽ることにしたのだ……」
昔からの公族の避暑地であるホンヨンならば、人の目にはつきにくい。ホンヨンに移ってから十月十日後に産まれた二人目の子が病弱で、母と共に静養していると言えば、タオルンに居る者達から疑われることもほとんど無かった。
それに母后が静養を必要としていたのは確かなことだった。双子を産んだ後、その心労のためか、床から離れられない身体になっていたのだ。タオルンに残されたジェも、ホンヨンに連れて行かれたシンレンも、乳母によって育てられた。
「ホンヨンに移ってから五年後に、私は僧院に預けられた。四歳の子どもとして……」
そしてシンレンが僧院に預けられるのを見届けると同時に、母后はこの世を去った。
その後の長い間、シンレン自身、ロン=ジェとは一つ違いの兄弟であることに疑いを持っていなかった。二人が顔を合わせることは稀であったし、また公邸と僧院という異なった世界での暮らしが、産まれた時は瓜つであった二人の容貌を、少しずつ隔てていった。
僧であるシンレンは髪を剃り、痩せていた。公子であるジェの方は長ずるに従い髭を蓄え、堂々たる恰幅をしていた。
「もしかしたら、ジェは知っていたのかもしれないがな。王位を継ぐ者として、父より定めのことも伝えられていたであろう。しかし定めのとおりに私を殺すにはもう遅すぎた。せめて私や公邸の者達に双子だと悟られぬよう、わざと髭を蓄え、肥えたのかも知れない……」
「たとえあなたの話が本当だとしても、私の父はあなたを害そうなどとは考えていなかったはずです。あなたとは違って」
コハクは言った。
「それはどうかな。少なくとも、ジェは私に双子の兄弟であると打ち明けることはなかった……私のことを、恐れていたのだろう」
「ですから、あなたが双子の弟だとは、知らなかったのでしょう。私と同じように……」
シンレンは笑った。
「お前のそういうところは、レンカに良く似ている……そう、お前はレンカの、自分の母の死について、何と聞かされているのだ?」
コハクの母、レンカ后は彼が幼い頃に亡くなっていた。
「流行り病で……亡くなったと……」
そう言うと、コハクは眉をひそめた。
「そうだ。そうやって真実は隠されるのだ……将軍は知っているのでは無いかな?知ってはいるが、この若者には伝えなかった……違うか?」
シンレンがそう言うと、皆の視線はルガイに集まった。
「ルガイ……どういうことだ?母は、病死したのでは無いのか?」
母が逝去したとき、まだ幼かったコハクは、流行り病で亡くなったのだと聞かされていた。それを疑ったことなど、一度も無かった。
コハクの問いに、ルガイは表情を曇らせた。
「そのようなことは、私が話して良いことではありません」
ルガイはそう応えた。しかしそれはコハクの母が病死で無いことを暗に認めている風でもあった。
シンレンは言った。
「私が真実を教えてやろう。レンカは自ら毒を呷って死んだのだ」
「そんな……なぜ……」
「公王では無い男を愛したからだ……」
「母が……父以外の者を……」
コハクは己の耳を疑った。困惑する公子を追い詰めるように、シンレンは言葉を続けた。
「やがてそのことを公王に悟られた。相手の名を告げられるよう、ジェに迫られると、命を絶つことを選んだのだ」
「まさか……その相手というのは……」
シンレンを見るコハクの眼は驚きに満たされ、その声はかすれていた。
「それは誰も知らない。知ってはならないのだ。レンカがその命と引き替えにして守った秘密なのだからな……」
束の間、シンレンは哀しそうな眼をした。
「レンカが死んだ後、私は乳母から、我々の生まれの秘密を聞いた。本当ならば、私が公王になっていたかも知れない、とな……」
そう、レンカが愛したのは、シンレンであった。
シンレンもまた、僧侶でありながら、自らの想いを抑えることが出来なかった。
その時は既に、レンカと公王ジェとの間にはコハクが産まれていたが、公后とシンレンの二人は密かに通じ合っていた。やがて不義の愛を公王に疑われたレンカは、毒を呷って死んだ。
最愛のレンカを失ったシンレンは、哀しみに暮れた。
そしてその様子を見た、昔の乳母がうっかり口をすべらせてしまったのである。彼女は双子の秘密を知っている、唯一の生き証人だった。
愛した相手が、公王であったなら、レンカは死なずに済んだはずだった。
「何が私とジェの運命を決めたか分かるか?」
シンレンは言った。
「この街の祭りだよ」
タオルンでは、毎年、港で船を競わせる祭りがあった。豊漁を願う漁師達が海の神に奉ずる祭りであり、競争に勝った船には、神の加護があると信じられていた。
ジェとシンレンが産まれた次の日が、その祭りの日だった。
船は十艘出ることになっていたが、青い旗か赤い旗の船のどちらかが勝つだろうと街の人々は噂をしていた。
公王にしてみれば、子どもを賭け金にするつもりは無かったに違いない。ただ、古の掟により下さなければならない恐ろしい決断を、神の手に預けたかったのだろう。
青い旗の船にジェの、赤い旗の船にシンレンの運命が託されたのである。
そして青い旗の船が勝ち名乗りを挙げると、母后はシンレンを連れて、ホンヨンへと身を隠した。偽りの懐妊を演じるために……。
「すべての因果が巡ったのだ!」
シンレンは高らかに言い放った。
「報いを受けたのだ、公王も、この街も。罪を犯したのは私では無い。私は裁きを下しただけだ!」
その時、何かが壊れる音が、僧堂の中に響いた。
固いものが砕け散る音だった。
一瞬の空白の後、ユズナはそれが、花瓶が割れた音だと気がついた。
祭壇の横に飾られていた陶製の花瓶が、無数の破片へと姿を変えていた。まるで今まで閉じこめていた何かを吐き出し、その拍子に砕けてしまったかのように……。
「ごぼっ」
誰かが咳き込むような音がした。
皆がシンレンの方を振り向くと、その首から血が噴き出しているのを見た。
「ごぼぼっ」
その音が断末魔の叫び声なのか、吹き出る血が風を切っているのか、誰にも分からなかった。
板敷きの床が鮮血に染まる。
シオンは、片手でユズナを抱きかかえると、祭壇を背にして刀を抜き、構えた。
鈍い音を立てて、シンレンの身体が崩れ落ちる。
自らの血にまみれた右手を、虚空を向かって差し伸べると、その掌を閉じることなく、息絶えた。
ユズナはシオンに寄り添ったまま、その変わり果てた姿を見つめた。
「一体、何が起きたの?」
シオンは油断無く部屋の中を見渡している。
「シンレンが……死んだ」
「自ら命を絶ったというの?」
「違う」
シオンは答えた。
「誰かが殺そうとして、それを成し遂げたんだ」
シオンの眼に、血にまみれた花瓶の破片が落ちているのが映った。シンレンのすぐ足元だ。花瓶が割れた弾みでそこに転がったとは思えなかった。誰かがその破片の鋭利な切り口で、シンレンの首の脈を絶ったのだと彼は推し量った。
「何と言うことだ」
ルガイが悲痛な声を上げた。
「これでは、公子の無実を証すことが出来なくなってしまう」
死人に口無し、である。
あまりに突然な出来事に、皆は呆然となった。
「一体誰が?私たちの他に誰かいたの?」
ユズナはシオンに言った。
「そういうことになるな」
「そんなことって……」
ユズナは言葉を失った。
この場の者達が、シンレンから眼を離したのは、割れた花瓶に気を取られた瞬間だけだ。
そのわずかな間に、花瓶の破片を用いてシンレンを殺し、立ち去ったというのだろうか。
そんなことが出来る人間がいるのだろうか。
(あの時と似ている……)
シオンは、今胸の内に抱いている違和感と同じものを感じた覚えがある。
二日前、路地であの男を追いかけた時のことだ。確かに追いついたと思った次の瞬間には、もう男はそこにはいなかった。
シオンは再び、シンレンの命を奪った花瓶の破片に目を落とした。
『彼にとっては、身の回りにあるすべてが武器なのです』
オビトの言葉が耳の中で蘇る。
『人を暗殺するときも、彼はそこにあるものを使うそうです』
シオンの頭に、一人の男の名前が浮かび上がった。
一方で、ユズナは、シンレンがその左手に何かを握っていることに気がついた。拳の端から、何かがはみ出ている。
シオンの制止を振り切って遺体に近づき、その手の平を恐る恐る開いた。
そこには、一本の鍵があった。
「これは……いつの間に……」
話をしている間、シンレンは何も持っていなかったように思えたが、今この手の中にあるということは、おそらく彼の持ち物だったのだろう。
「何かあったのですか?」
そう言うコハクに、ユズナは鍵を見せた。
鍵には、ロントン公国の象徴である青竜が彫られてあった。
「これは……公邸の書庫の地下室の鍵です……」
見覚えがあるものらしく、コハクはすぐに答えた。
「代々の王だけが持つことを許されているものです。もっとも私は父に借りて、何度か入ったことがありますが……おや、待てよ。確かこの鍵は、地下室の中にある石櫃の鍵と対になっていたはずです。どうして一本だけになってしまったのだろう……」
「シンレンさんは、どうやってこの鍵を?」
「父の部屋から、持ち出したのでしょう。己が公王になるつもりで……」
コハクは苦々しげに言い放った。
きっとそれだけでは無い、とユズナは思った。肌身離さず身につけているということは、何か他にも意味があるはずだ。
「その地下室のことを知っている人は他にいますか?」
「いたとしても数人でしょう。鍵が無くては入れないですし……」
ユズナは考えを巡らせた。地下室ならば、蟲の襲撃からも安全なはずだ。シンレンはそこに避難するつもりだったのだろうか?いや、地下室ならば、僧院にもある。公王にしか入れないはずの部屋にいれば、余計な疑いを掛けられてしまう。そんなことはしないだろう。
(公王にしか入れない部屋……そこに……何かを隠しておきたかった……)
ユズナは息を呑んだ。
「もしかしたら、そこにヨナが閉じ込められているのかも知れません……この鍵、借ります。入り口は書庫の中ですね?」
言うが早いか、コハクから鍵をもぎ取ると、ユズナは駈けだした。
(待っていてヨナ。きっと助け出してあげる……)
シオンとオビトがその後を追う。
三人は足音が立つ暇も無いほどの勢いで、暗がりの中を疾走した。
走りながら、シオンは刀の鞘を放り捨てる。
(もう鞘は要らない……)
奥歯から、獣の操技の秘薬を舌で取り出した。
(ユズナは必ず護ってみせる……何処からでもかかってこい……レゴリス)
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