第9話
公邸の中は、静まり返っていた。
砦から来た兵士達は去ったようだった。きっと、街の外へ逃れていた人々を迎え入れるのに必要な仕事をしに行ったのだろう。
公邸から避難した公族や使用人も、まだ帰って来ていない。
ただ一人、家宰だけが公王の寝室で弔いの支度を進めている。
優雅な身のこなしで、燭台を灯している家宰に、ユズナは息を切らせながら書庫の場所を訊ねた。
家宰はそんなユズナの様子にも、特に驚きを示さなかった。この姫君の奇異な行いには慣れつつあったし、そうした行いも自分には計り知れない何か大切な意味があってのことなのだと解していた。
「よろしければ案内いたしましょうか?」
彼は余計なことは聞かずにそう言った。
書庫は公子の部屋のすぐそばにあった。
「この中に、地下室があるのを、ご存じですか?」
ユズナは手に握りしめている鍵を家宰に見せた。
「その鍵は、公子から?」
家宰の問いに、ユズナは黙って頷いた。
「公子のお許しがあるのなら、お教えしましょう」
公子からは、はっきりとした許しを得ているわけでは無かった。ユズナがそう告げると、家宰は僅かに微笑んだ。
「それならば、後でお確かめになればよろしいでしょう」
そう言って、書庫の中へとユズナとシオン、そしてオビトを導いた。
かび臭い空気が肺を満たす。整然と揃った棚に、書物が並べられている。紙の書物だけで無く、羊皮紙や古い時代の竹簡の巻物もあった。
「ここです」
家宰は棚の一つに体を預け、力一杯押した。
棚がゆっくりと横に動く。
見ると棚の下の石床の一部が、木の板になっていた。鉄の鋲が打たれた、丈夫な扉のようだった。
「鍵をどうぞ……」
ユズナが鍵を回すと、鈍い音を立てて錠が回った。跳ね上げ式の扉を上げると、下には石の階段が続いている。
家宰は言った。
「私がご案内できるのはここまでです。この中には私が目にしてはならないものが、幾多もありますので……皆様もどうか、他言はなさらぬように……私は戻りますのでこれをどうぞ」
家宰から灯の点いた燭台を受け取ると、三人は階段を降りた。
彼らを見送ると、家宰は扉を開けたままにして、公王の弔いの仕度をしに戻って行った。
ユズナ達が石段を一段降りる毎に、喉を通り抜ける空気が、そして暗闇が濃くなっていく。
二十一段目に、闇の底へとたどり着いた。
「ヨナ」
……返事は無い。ユズナの呼びかけは壁に跳ね返りながら、底なしの沼に放り込まれた石のように消えていった。
蝋燭の火が、石造りの地下室を照らす。天井はそれほど高くない。アンユイ邸の地下のように、自然に出来た洞窟ではなく、人の手で掘り抜かれたのだろう。しかし部屋の広さは相当なもののようだ。まだ奥の方は闇に包まれている。
三人は部屋の中に足を踏み入れた。
上の書庫のように、部屋には棚は並んでいない。その代わり、入り口以外の三方の石壁が掘り抜かれ、書棚に設えられている。紙の書物は少なく、羊皮紙もほとんど目につかない。竹簡の巻物と、石版が蔵書の中心となっている。それだけ古い時代のものなのだろう。
部屋の中央には、三つの石櫃が据えられていた。石櫃はちょうど棺ほどの大きさだった。もしかしたら、古の時代の公族の誰かが、ここに葬られているのかも知れない。
部屋の入り口に一番近い石櫃の回りには、公国の宝物と思われる品々が散らばっている。鞘に宝石を埋め込まれた剣や、鏡であろうと思われる円形の金属盤や、金色の竜の彫像などが、まるで年端のいかぬ子どもの手にかかったかのように乱雑に置かれていた。
盗賊であれば、眼の色を変えるに違いない光景にも、ユズナは心を動かされなかった。
続けて部屋の奥を探ろうとするユズナを、シオンが制した。
誰かが、いる。
暗闇の中から……近づいてくる。
やがて、燭台の灯の中に人影がおぼろげに浮かび上がった。
「ごきげんよう。テパンギの姫。闇を恐れぬ勇敢な姫よ」
聞き覚えのある声だった。
「あなたは……レゴリス……どうやってここに……」
自分達が来るまで、階段の上の扉には、鍵がかかっていたはずだ。だとすると、ずっとここに潜んでいたというのだろうか?それとも、自分達の知らない出入り口があるのだろうか?
シオンが刀を青眼に構える。
蝋燭の光が、抜き身の刃の上で踊る。
(笑っているな……)
その表情まではまだ見えない。しかし、シオンには彼が笑みを浮かべているのが分かった。
「ここで何をしている!」
オビトが詰問する。
「折角会えたのだ。そう事を急がせることも無いだろう……」
レゴリスは、静かに応えた。
「シンレンを殺したのはお前か?」
シオンが訊ねる。
「……この世では、いつも誰かが誰かを裁くことを望んでいる」
それが答えだ、とでもいうかのようにレゴリスは言った。
「人はなぜ、他人を裁きたがるのだと思う?」
その不可解な言葉に、ユズナは眉根を寄せた。
「何を言っているの?」
この男が一体何を考えているのか、ユズナには推し量ることが出来なかった。何を企んでいるのか、読み解くことが出来ない。それなのに、この男の方はユズナのことを見透かしているように思える。
それが怖い、とユズナは思う。
「罪があるから、裁きが生まれると、人は言う」
レゴリスは一歩、前へと足を踏み出した。
「それでは罪とは何だ?」
燭台の灯が、ようやくその姿を捉えた。
金色の髪、鷹のような眼。刺客は二日前に出会った時と同じように、ゆったりとした布を身体に巻いている。
「神に対する裏切りが、罪の始まりだと、我々の教典には記されている」
刺客の眼は、ユズナに向けられている。
それはこの地の底で、この暗闇の中で、どの生き物と対峙するよりも恐ろしい眼差しだった。アンユイの屋敷の地下で遭遇したギントウロウですら、遠く及ばない迫力があった。
「一つ、教えて欲しい。どの国の民も、我々の教典と同じような、この世の始まりの物語を持っている……お前達の物語で、最初に犯された罪とは何だ?」
「そんなことを聞いて、どうするというの?」
「ただ知りたい、それだけだ。いけないかね?」
「悪いけど、あなたの話につきあっている暇は無いわ」
「そうか……ではこれならば、お前達にも興味を示してもらえるのかな?」
レゴリスは、布衣の下から手を出した。
そして小さな、棒のような何かをかざして見せる。
「その石櫃の鍵だ」
「石櫃の?」
「ヨナ、という名前だったかな……あの娘は」
「どうしてヨナの名を……」
ユズナは戸惑いの表情を浮かべたが、やがてその瞳は怒りで鋭く光った。そして、周りに宝物が散らばっている石櫃を、ユズナは指さした。
「この中に、閉じ込めたのね、あなたが!」
「重要なのは、誰が閉じ込めたのか、では無い。誰が閉じ込められているか、だろう……違うか?」
「その鍵は本物か?」
シオンが油断無く訊ねる。
「では、開けてみせるとしよう」
そう言うとレゴリスは、石櫃へと歩み寄る。ユズナ達は戦いの構えを解かずに、その間合いを保つため、後ろへと下がった。
レゴリスはゆっくりとかがんで、石櫃に手をかける。
石の蓋が開いた。
中には少女の姿があった。
「ヨナ!」
ユズナは声を上げた。
少女の口には、猿ぐつわが噛まされている。暗闇に浸されたその眼は、蝋燭の光さえ眩しい様子で、ユズナを見ることもままならなかった。汗に濡れた髪が額にべったりと貼り付いている。身体を起こそうともがいたが、縄で手足の自由を奪われていた。
レゴリスは再び蓋を降ろし、鍵を回した。
「まだ焦る必要は無い。朝まで持つかどうかは分からないが……」
ユズナはレゴリスを睨みつけた。
「鍵を渡しなさい!一体何が望みなの?さっきのばかげた質問に答えれば良いとでもいうの?」
レゴリスは、口元に笑みを浮かべた。
「さあ、早く鍵を渡しなさい!さもなくば……」
ユズナは戦うつもりで拳を固め、脇を締めた。
「オビト」
レゴリスはユズナの戦意を受け流して言った。
「魔導石は何処にある?渡してもらおうか。この鍵と引き替えに」
「それが狙いか……今ここには無い。違う場所に隠してある」
「なるほど、さすが用心深いな……それでは、取ってきてもらおうか」
オビトは黙ったまま応えなかった。魔導石を渡すべきかどうか、迷っている様子だった。
「オビトさん……お願い」
ユズナがそうささやくと、オビトはようやく頷いた。
一旦部屋から引き下がろうとするオビトの背中に、レゴリスが声をかける。
「兵士は呼んでこない方が良いぞ。街に残されているのは二百人くらいだろう。無駄な死体が増えるだけだ」
オビトは振り返ってレゴリスを一瞥すると、何も言わないまま階段を登っていった。
レゴリスは石櫃の上に腰を降ろした。
「さて、まだしばらく時間はある。先ほどの話の続きをしようか?」
「あなたに話すことなど何も無いわ」
「では代わりに、この娘の悲鳴でも聞くとしようか……」
レゴリスは踵で石櫃を叩いて見せる。怒りが頂点に達したユズナは、レゴリスに飛びかかろうとした。シオンが彼女の腰に手を回して、それを制する。
「焦れば勝機が無くなるぞ」
シオンはそう耳元でささやいて、ユズナを落ち着かせようとした。
「ゆっくりと息を吸うんだ……奴は強い」
レゴリスが自分達よりも強いのは紛れもない事実である。ユズナはどうにか怒りを抑えた。
そして、オビトが戻ってくるまでは、自分がヨナのことを護らなければいけないと思い至り、レゴリスの問いに答えることにした。
「私たちの国に伝わる話では、最初に罪を犯したのは人間じゃないわ。神が罪を犯したのよ……」
テパンギの島を造った男神と女神、二人の間に交わされた約束を、男神が破ったのだ。それがユズナの知る、この世で最初の罪の話だった。
レゴリスは笑った。
それは、楽しくて心地よい笑いのようにも、何かを嘲っている笑いのようにも聞こえた。
やがて、オビトが戻ってきた。
オビトは魔導石を右手で掴み、前に差し出して言った。
「先に鍵を渡せ」
レゴリスは石櫃から立ち上がった。
「良いだろう……」
鍵を放り投げるのと同時に、後ろへと下がる。
その姿を闇が包み込む。
ユズナは宙を舞う鍵に手を伸ばした。
彼女の手から滑り落ちた燭台を、シオンが受け止める。
次の瞬間。
木の枝を折るような鈍い音が闇に響いた。
「ぐぁっ」
魔導石を持つオビトの右手が、雑巾のように捻られていた。
カラン、と硬質な音を立てて、オビトの手から青い石が転がり落ちた。
レゴリスの仕業に違いなかった。しかし何処にもその姿はない。
どうやってオビトに近づき、その腕を壊したのか、ユズナには分からなかった。
闇の中に、白刃の光が閃いた。
「えっ?」
ユズナは、それだけ口にするのが精一杯だった。
次の瞬間には、オビトが腰に提げていたはずの短剣が、自分の胸に刺さっていた。
(どうして……)
あまりにも唐突だったため、痛みは感じなかった。まるで他人の身に起きた出来事のようにすら思えた。そしてだからこそ、その短剣によって命が失われてしまうのだということが、彼女自身にもはっきりと分かった。
「うあぉあ゛あああぁぁぁぁァァァァ」
オビトが痛みと恐怖のあまり、叫び声を上げる。捻れた腕の指は、蟲の触手のようにヒクヒクと痙攣している。悲鳴が石壁に幾度も跳ね返った。
その反響の中、ユズナの身体はゆっくりと崩れ落ちた。まだ灰で汚れたままの黒髪が、宙にたなびく。細くしなやかな脚が、叩き損ねた釘のように曲がる。鍵を握りしめた手が、だらりと下がる。シオンが咄嗟に抱きかかえると、黒曜石のようなその瞳は見開かれたまま、虚空を見つめていた。
燭台がシオンの手から滑り落ちて石の床を打ち、不吉な音を立てる。火が点いたままの蝋燭が床に転がった。
シオンの胸の内で、激しい感情の波がうねりを起こす。
何があっても護ると誓ったその命が、目の前で奪われてしまった。
驚き、怒り、哀しみ、絶望……。
しかし、そのすべての感情をねじ伏せるように、彼の本能は、戦うことを彼に命じた。
シオンは歯を食いしばり、獣の操技の秘薬を噛み潰した。
左手でユズナを支えながら、右手で刀を横に薙ぎ払う。
何かを斬ろうとしたわけではない。彼の本能がそうさせたのだ。
当然の如く、刀は空を舞った。しかしその瞬間、シオンは刀の切っ先であるものを感じることが出来た。それは、手応え、と言えるほどのものではない。強いていうならば、違和感、とでも呼ぶべき何かがそこにはあった。
(そういうことか……)
シオンの直感が、レゴリスの魔導の正体を見抜いた。
(我々には、姿が見えないようにしている……空気のように)
シオンの胸の内で絡まっていた糸が解けた。
(なぜもっと早く気がつかなかったのか……)
路地に追い込んだ時も、シンレンが死んだ時も、ただ姿が見えなかっただけで、レゴリスは眼の前にいたのだ。そして、この部屋に入るときも、自分達のすぐ後ろにいたのだ。
シオンはもう一度刀を横に薙ぎ払うと、素早くユズナを床に横たえた。
オビトの手から落ちた魔導石はまだ床に転がっていた。
(次の狙いは俺だ)
シオンはそう悟った。ユズナは死に、オビトは戦意を喪失している。三人とも片付けてから、レゴリスはゆっくりと魔導石を手にするつもりだろう。なぜなら先に石を拾ってしまえば、姿は見えずとも居場所が分かってしまうからだ。
(ユズナが刺される寸前、オビトの短剣の刃の光が見えた。つまり奴自身は姿を消していても、手にしたものまで、見えなくすることは出来ないということだ)
シンレンを、祭壇の花瓶の破片で殺したのも、短剣のような武器を持ち歩くことが出来ないために違いない。
(この前戦った時と同じように、奴は徒手だ)
徒手で相手を攻撃するには、間合いを詰めなければならない。
シオンは刀で続けざまに宙を薙ぎ払い、見えない敵を牽制する。
しかし、徒手であるということは、レゴリスにとって少しも不利なことでは無い。それが本来の彼の流儀であるし、数日前戦った時は、獣の操技を使ったにもかかわらず、シオンが負けている。
シオンは、獣の操技に用いる秘薬の数を増やしていたが、それでも姿を消しているレゴリスを相手に勝機を見いだせるかどうか、定かでは無い。
グルルルルルル
秘薬のせいで、気が高ぶり、喉が狼のような唸りを上げる。
野生の獣のような五感を研ぎ澄ませ、暗闇の中に刺客の気配を探る。
しかし感じるのはオビトの苦しそうな呼吸と、床に落ちた蝋燭の灯の揺らめきだけだ。
レゴリスは、気配まで完璧に消し去っている。
(今度こそ、死ぬ)
己は今、死の淵に立っているのだとシオンは思った。
恐怖は無い。彼の精神は、そのように造られていた。
『大切なのは、生き延びること』
彼の頭に浮かんだのは、シノビ一族の長老の言葉だった。
『そして、死ぬ時にはその覚悟を決めること』
シオンは片手で刀の刃先を握りしめ、逆さまに振り上げた。
そのまま柄頭の方から振り下ろし、刃を横に寝かせて石床に打ち付けた。
キイィィン。
甲高い悲鳴に似た音が響き、刀が折れる。
刃先の部分だけを、素手で握りしめる。
(ユズナを一人にはさせない)
生きる時も、死ぬ時も、それだけは変わらない。
赤い血の滴が、拳から滴り落ちた。
…………。
闇の中から、レゴリスはシオンの様子を窺っていた。
オビト、ユズナと続いて一気にシオンを屠らなかったのには、訳があった。
テパンギの姫を仕留めた瞬間、護衛の若者は姫君を抱き留めると同時に、剣を振るった。その切っ先が、レゴリスの腕を捉えていたのだ。
傷は深手では無い。ほんの皮一枚を掠っただけの浅いものだ。しかし、若者は何も見えていないはずなのに剣を振るったのだ。その太刀筋が偶然によるものなのか、それとも、姿の見えない存在を、何らかの方法で感じることが出来たのか、それを見極める必要があった。
この護衛の若者とは一度戦っている。好敵手、という言葉をもし用いるとするならば、この若者にこそふさわしいのだろう、とレゴリスは思う。
(また、薬を使ったのか……)
若者の身体には、この前と同じような力が漲っている様子だった。テパンギのシノビ一族のことは話に聞いただけだが、色々と珍しい技を持っているようだ。
しかしながら、闇雲に剣を振り回しているところを見ると、先ほどの一太刀はやはり偶然なのだろう、とレゴリスは推し量った。
ただ、何故いきなり剣を床に打ち付けてへし折ったのか……そこまでは百戦錬磨の刺客にも分からなかった。
(姫が死んで、絶望したということか……それとも何か、戦うための工夫か……)
いずれにしろ、そろそろ仕掛けなければならなかった。レゴリスとて、いつまでも姿を消し続けることが出来るわけでは無い。その強力な魔導の力が働く時間には限りがあった。
レゴリスが忍び寄ると、蝋燭の炎が、わずかに揺らいだ。
シオンには、それで十分だった。
短くなった刃先を、己の左腕に突き刺した。
皮膚の奥、肉の間に埋もれている太い血の管を断ち切る。
刃を引き抜くと、血流が噴き出した。
「うおぉぉぉぉ!」
肩口から一気に力を込めて、辺り一面を血飛沫で染める。
レゴリスもまた、それを浴びた。
何も無いはずの空間に、真紅の色が浮かび上がる。
シオンは絶叫した。
そして、牙を剥き出しにした狼のように、獲物に飛びかかった。
右肩で体当たりをぶちかます。
間違いなく、そこには人の肉体が存在していた。
そのまま一気に見えない敵を壁まで押し込み、打ち付けた。
肺から息の漏れる音がした。
「おおおおおぉぉぉ」
膝を曲げて力を溜めると、もう一度肩で敵の身体を押し上げた。
肋骨の折れる音がした。
間を置かずに、折れた刀で突き刺そうとすると、見えない手が彼の手首を打った。シオンの手から、白刃がこぼれ落ちる。
見えない手は続けてシオンの髪を掴み、そのまま引き倒しにかかる。そうはさせじとシオンが腕を掴み返す。揉み合うと、シオンの鳩尾にレゴリスの拳がめり込んだ。
「ぐっ」
シオンは身体をくの字に曲げて拳の衝撃を和らげると、掴んだままのレゴリスの片腕に体重を預け、身体を捻って投げ飛ばそうとした。
レゴリスは腕が捻られる力に逆らわずに、宙を飛んで身体を一回転させ、シオンを振り切った。見えない脚が、石床に着く音が響く。
身体が離れては、勝ち目が無くなる。
シオンはすぐさま突進する。
その首に、レゴリスの渾身の回し蹴りが入る。頸骨が折れるか、少なくとも相手の意識を絶つ……はずだった。
しかし、シオンはその蹴りを首で受けきった。そしてすかさず、足首を両手で掴んだ。
獣の操技の秘薬により、シオンの身体は常人離れした強靱さを得ていた。
「ルオオオオォォォ」
そのまま両手で足首を締め上げる。血管の切れた左腕から、再び血が噴き出した。
シオンが全力を振り絞ると、湖の水面に張った氷にヒビが入るような音がした。足首の骨が砕けたのだ。
レゴリスはうめき声一つ立てずに、シオンの肩に脚を乗せたまま、もう片方の脚で跳躍すると、シオンの胸を蹴った。
見えない足に蹴られて、シオンの身体が後ろに飛び、石壁に激突する。
姿を消したままのレゴリスの身体もまた、床に落ちた。
グルルルル
シオンは唸り声を上げながら、レゴリスの気配を探る。
姿は見えなくとも、目印となるには十分な返り血を浴びているはずだった。しかし暗闇のために、はっきりと眼で確かめることが出来ない。床に落ちた蝋燭の光は、今戦っている所までは届いていなかった。
どうやら見失ってしまったようだ。
するとシオンは脱兎のごとく跳躍し、オビトが取り落とした魔導石を拾い上げた。
レゴリスの目的がこの石にあることは確かだった。
グルルルル
シオンは石を口に咥えると、壁を背にして、四つ足の獣のような低い姿勢で、見えない敵を待ち構えた。
それはまるで、聖堂の門に彫られた、魔除けの鬼神のようであった。
どのくらいの時間が流れたのだろう。
掌から滴り落ちる血が、点々と床に落ち、やがて小さな血溜まりになった。
「……だ……てます」
静寂を破ったのは、オビトの声だった。
シオンは、直ぐにはオビトの言葉を解することが出来なかった。薬の力で獣に限りなく近づくことにより、人間であるはずの部分が損なわれてしまっていた。
「まだ、生きています」
オビトは繰り返しそう言った。
シオンの瞳に、人の理性が戻ってくる。
消え入りそうな蝋燭の光の中で、オビトはユズナの首に片手をあてて脈を探っている。もう片方の腕は、ねじ曲がったまま肩からぶら下がっていた。
(ユズナ……)
シオンは魔導石を咥えたまま、灯の輪の中へ飛び込んだ。獣の操技の秘薬の力は切れかけていた。頭の天辺からつま先まで鉛を巻いたように、身体が重い。
もしまだこの部屋の中に姿を消したままのレゴリスがいたとしたら、シオンの命は絶たれたことだろう。しかしこの瞬間、シオンの頭の中からレゴリスのことは消え去っていた。ユズナはまだ生きている、それだけが彼の心のすべてを満たしていた。
幸いにして、死神の化身は既に立ち去っていた。シオンには知る術も無かったが、姿を消す魔導の力が持たなかったのである。また、シオンが折った肋骨と足首の傷も、浅くは無かった。
シオンはオビトの手を払いのけて、ユズナの脈を診た。そこには確かに、生命の鼓動があった。しかしそれは、吹き消された蝋燭の灯心に残った、赤い点のようなものだった。
「このままでは持ちません……」
オビトが言った。
「一か八か……魔導石をください」
シオンはオビトの眼を覗き込んだ。そして、自分が魔導石を咥えたままだったことを、ようやく思い出した。
青い光を宿した石を顎から外して、オビトに渡す。
オビトはまだ動かせる方の手で受け取ると、それを握ったまま自分の腰の後ろを探った。
何か細長いものを取り出す。竜の血の入った瓶だ。
「助けられるとは限りません……が、これしかありません」
瓶の栓を器用に歯で抜くと、石と並べて下に置いた。ユズナの傷口を見るため、服の胸元を広げる。短剣が、胸の真ん中、乳房の膨らみよりもやや上のところへ突き刺さっている。致命傷には違いないが、わずかに心臓を逸れているのがシオンには分かった。
長い年月をかけて鍛え上げた身体が、ユズナの意志が命ずるよりも早く、突き刺さろうとする短剣の、その閃光に反応して動いたのだろう。
心臓は止まっていないものの、そのために返って出血は多くなっている。身体の周りは血の海になっていた。
オビトはそっと短剣の柄を握る。引き抜こうというのだろう。
「私が眼で合図をしたら、竜の血を傷口にゆっくり注いでください。瓶が空になるまで」
「分かった」
シオンはそう答えて瓶を手に取った。好むと好まざるとに関わらず、これからオビトがしようとすることに賭けるしかなかった。
「いきます」
オビトは短剣を一気に引き抜いた。血が溢れ出し、乳房の谷間や脇の下に流れ込んだ。オビトは短剣を後ろに放ると間髪入れず、青い魔導石を拾って傷口に押し当てた。
「イグノラムス・イグノラビムス・ウンデ・ウェニムス・クオ・ウァディムス」
そう唱えながら、シオンに眼で合図を送る。シオンは瓶の中の液体をユズナの胸に注いだ。オビトは異国の言葉を唱え続ける。
「ネモ・フォルトゥーナム・ユレ・アックーサト・ノンミーヒ・ノンティービ・セドノービス」
魔導石の青い光が強くなる。
それは明らかに蝋燭の光を受け止めている輝きでは無かった。
石が自ら、光を放っているのだ。
白い蒸気が上がる。瓶から注いだ竜の血が、ユズナの血と混ざって、まるで煮えたぎった水のように泡を生じている。
やがて瓶が空になり、竜の血がすべて蒸気になると、魔導石の青い光は消えていった。
そして蒸気が無くなると、魔導石が胸の傷口に収まっているのが見えた。まるで、聖者の像に埋め込まれた宝石のように。
傷口の周りはまだ赤黒い血にまみれていたが、新たな出血は止まっていた。
「ゴホッ」
ユズナが咳き込んだ。血の泡が口の端からこぼれる。
「上手くいきました」
オビトは片腕で額の汗を拭った。
それだけ聞くと、秘薬の効き目を失っていたシオンは、膝から崩れ、そのまま深い眠りに落ちた。
……
…………
………………
……………………
潮騒が、遠くに聞こえるみたい。
海が近いのかしら。
身体が、波に揺られているような気もする。
だとすると、海の上にいるのかしら。
光。
青い光が、辺りに満ちている。
それともこれは水。
水の中の光。
そうだ。
私は水の中にいる。
だから潮騒が、少しだけ遠くに感じるの。
息は苦しくない。
どうしてかしら?
そうだ。
私は死んだのだ。
だから苦しくない。
私は今、目を閉じているの?
それとも開いているの?
分からない。
この青い光は夢なのかしら?
死者も夢をみるのかしら?
不思議だわ。
でも可笑しい。
生きてる間も不思議なことばかり。
死んだ後も不思議なことばかり。
母さまは何処にいるのかしら。
このまま漂っていれば、もう一度、会えるのかしら。
もう一度あの柔らかな腕で、抱きしめてくれるかしら。
そうしてそっと、頭を撫でてくれるかしら。
それともずうっとこのまま。
一人でこうしているのかしら。
分からない。
きっと考えても仕方の無いこと。
…………………………
………………
…………
……
光。
白い光。
光が強くなってくる。
嫌。
眩しいのは嫌い。
息が苦しい。
光が私を溺れさせる。
どうして……。
息を深く吸い込むのと同時に、ユズナは目を覚ました。
眼が霞んではっきりと見えない。
白い……壁のようなものが見える。
溺れかけた者のように、短い呼吸を繰り返している。
身体を動かそうとしても、ぴくりとも動かない。
諦めて力を抜くと、次第に呼吸が落ち着いてくる。
何度か瞬きをすると、白く見えるものは漆喰の塗られた天井だと分かった。
部屋の中にいる。
朝の光が、窓の外から差し込んできている。
小鳥のさえずりが聞こえる。
(ここは……)
ゆっくりと首を巡らせてみる。首から下とは異なり、楽に動かすことが出来た。
どうやら自分は、何日か前に公子から与えられた客室の寝台にいるようだった。
(シオン……)
部屋の中には、シオンがいた。
その姿を見た時、自分は現世にいるのだとユズナは悟った。
シオンは床に座って、壁に背を預けていた。片足を伸ばし、もう片足は膝を曲げている。服は血に染まって赤黒くなり、左腕には包帯を巻いている。眠っているのだろうか、俯いて眼を閉じている。死闘の痕が、全身に刻まれている。
だがその姿には、闘いに敗れたという気配は無かった。どのような闘いがあったのかは分からないが、彼は負けなかったのだと、ユズナは感じた。
彼は生き延びたのだ。
だから、それを見ているユズナ自身も、死にはしなかったのだ。
シオンは眠っているわけではなかった。
目を閉じたまま、己の身体がどのくらい回復しているのかを探っていた。
痛みを感じる箇所が何処なのかは容易に把握できた。それより難しいのは、痛みを感じなくなってしまった箇所を突き止めることだった。獣の操技の秘薬を一度に二つ使ったことは、思っていたよりも身体に大きな障りを残していた。
身体には、痛みを感じる箇所、熱さや冷たさを感じる箇所、重みを感じる箇所が別々にある。それらの感覚が失われてしまっている部位が、幾つもあった。それが一時的な麻痺によるものなのか、それとも、永遠に失われてしまったのか、シオンにも分からなかった。
船底を木槌で叩きながら、水漏れが無いことを確かめる船大工のように慎重に、シオンは身体の隅々に意識を廻らし、己の身体がどの程度損なわれているのかを把握しようとしていた。
「シオン……」
ユズナの声に、シオンは眼を開いた。
「ユズナ……」
互いの名を呼び合うと、二人は身体を縛っていた緊張が解けるのを感じた。
「ここは?」
ユズナは自分の考えが正しいのかどうかを確かめたいと思った。
「生きているよ、ユズナも俺も……」
シオンはユズナの考えを見通し、そう答えた。
「そう……」
ユズナは息を深く吐いた。それから、己の記憶の断片を探った。最後に覚えているのは、胸を短剣で刺されたことだった。どうして助かったのだろう、とユズナは改めて思う。
力の限り腕を動かそうと念じると、ようやくユズナの求めに右手が応じた。自分の腕とは思えない。まるで鉛で出来た操り人形の糸を引いているかのようだ。
その右手をゆっくりと胸元へ運び、短剣が刺さった場所を探る。
固くて丸い、石のようなものが胸にあった。
顔を起こし、覗き込んでみる。
「これは……」
「魔導石だ……蟲寄せの魔導具に使われていた……」
「これが、傷を塞いでくれているの?」
細かいことは知らないが、この石のおかげで命拾いをしたのだ、ということはユズナにも分かった。あの短剣の一撃を受け、助かるはずは無かった。
「そうだ……」
シオンの声には、そのことを手放しで喜んでいる様子は無かった。
だからユズナは、次の問いかけを口には出さずに呑み込んだ。訊かなくとも、自分の身体の感触から、何となく答えが分かったせいもある。
(どうやらもう、この石を外すことは、難しそうね……)
ユズナは頭を枕に預けて、目を閉じた。
「私は、一度死んだの?」
「いや……どんな魔導でも、死者を生き返らすことは出来ない。おとぎ話の、願いを叶える茶瓶の精霊と同じように……」
ユズナの瞼の裏には、目覚める前に見た光景が、おぼろげに残っている。
(だとすると、あれは、死者の国では無かったのかしら……)
それは誰にも分からないことだろう。だけど、もしもあれが死者の国だとすれば、死というものは、それほど恐ろしいものでは無いのかも知れない、とユズナは思う。
(でも、一人きりで、少し寂しかった……)
それから、ユズナは、はっとして目を見開いた。
石の中に閉じ込められていた、少女のことを思い出したのだ。
「ヨナは?」
シオンは首を横に振った。それは「知らない」という意味だった。
「鍵は?」
シオンは首を横に振った。あの地下室で、ユズナがその手に握っていたはずの鍵は、ユズナが息を吹き返した時にはもう無くなっていたのだ。レゴリスが持ち去ったとしか考えられなかった。
魔導石を渡さなかったから、鍵は手に入らなかったのだ……
「そんな……」
ユズナは身体を起こした。胸に痛みが走る。だが、もう大したことはなさそうだ。
耳慣れない衣擦れの音がする。
眠っている間に、真新しい夜着に着替えさせられていたようだ。
「私の服は?」
シオンは首を横に振った。それは「もう汚れが酷くて着られたものではない」という意味だった。
「早く行かなきゃ」
着ているものに構っている暇は無い。ユズナは寝台を降りた。
気持ちは逸るものの、身体が言うことを聞かない。
壁に手を突きながら、部屋を出ようとすると、シオンが後ろから抱き上げた。
「一人で歩けるわ」
強がりを言ったものの、それ以上抗うことはしなかった。実際、一人で歩くのは無理に違いなかった。
ヨナの閉じ込められた石櫃はまだ、開かれていなかった。
コハクの命令により、兵士達の手によって、地下室から引き上げられ、接見の間へと運ばれていた。
シオンとユズナが広間へ来ると、そこには包帯に巻かれた腕を肩から吊しているオビトがいた。それから同じように腕を負傷しているカダと竜騎兵のギバの姿があった。そして、ヨナの父親コウともう一人、石工職人と思われる男が、金槌や鑿(のみ)、鋸などを並べて石櫃を開けようと苦心していた。
「ヨナ」
ユズナの声に、皆が振り向いた。彼らの表情からは、良い報せは何一つ読み取れなかった。
シオンの腕から降りると、ユズナはおぼつかない足取りで石櫃に歩み寄った。
コウと石工職人は額に大粒の汗を浮かべている。必死に努力しているようだが、元来、公国の秘密を封じるために造られた石櫃である。鏨(たがね)も鑿も容易には受け付けない。先のすり減ってしまったものが何本も床に散らばっている。
「ヨナは?」
ユズナの問いに、カダが答えた。
「地下から引き上げてからはもう、返事はありません。まだ息はあると思いますが……水が飲めなければ、いつまで持つかは……」
「そんな……」
ユズナは膝を折って石櫃にしなだれかかった。
「竜の力を持ってすれば、壊すことは出来ますが、中に人がいるとなると……」
ギバが言う。顎で噛み砕くにしろ、竜の息で溶かすにしろ、ヨナの命は無事では済まない。
「そんなこと……」
ユズナは石櫃に手を這わせた。
「ヨナ……ヨナ……」
蓋に手を掛けて、こじ開けようとする。
「人の力では、無理です」
カダが言った。しかし、その言葉はユズナには届かなかった。
「こんなもの……」
ユズナは歯を食いしばり、力を込める。肘が迫り上がり、肩がいびつな角度に曲がる。指先は小刻みに震え、髪が乱れて流れ落ちる。
(ここまで来て……こんな石なんかに……邪魔されて……)
「なるものか……」
コウも石工職人も、ユズナの鬼気迫る様子に、思わず手を止める。
シオンはふと、ユズナの胸元から青い光がこぼれているのを見た。
「ユズナ……」
シオンがユズナに手を差し伸べようとすると、オビトがそれを制した。
睨み返すシオンに対し、オビトは静かに首を横に振った。
シオンが何かを言おうとしたその時、石櫃がミシミシと音を立てた。
その異様な音に、皆は目を見張った。
次の瞬間、ガコン、と鈍い音を立てて石櫃の蓋が割れた。
石の破片が宙を飛び、壁に当たって、漆喰を砕いた。
斜めに割れた石蓋の下に、横たわった少女の姿があった。
汗でずぶ濡れになり、虚ろな視線が宙をさまよっている。
「ヨナ」
ユズナは夢中で手を伸ばして、少女の身体を抱き起こし、縄を解いた。
「お姉……ちゃん……」
少女は弱々しい声で応えると、ユズナの背に手を回した。
シオンは足元に落ちた石蓋の破片を拾った。ずっしりと目の詰まった、鉄のように硬い花崗岩だ。人の力で割れるはずなど無かった。
オビトはシオンに言った。
「魔導の力です……これが……」
シオンは顔を上げてユズナを見た。
その腕に少女を抱きしめている姫の横顔は、自分が何をしたのかを知らぬまま、ただ安らぎに満たされているようだった。
街に残っていた蟲は、ギバを含めた四騎の竜騎兵によって片付けられた。
翌日には、街の外へ逃れていた人々が戻って来た。
ヨナとコウの父娘も、トクやおかみさんと家で無事に会うことが出来た。
蟲を街に呼び寄せたのは、魔導具の力であること、そしてそれを手引きしたのがシンレンであること、公王殺害もシンレンの企てによるものであることが、ルガイから街の人々へ伝えられた。
しかし、それで人々のコハクに対する疑いを晴らすことが出来たわけではなかった。
コハクに化けた刺客が公王を刺し殺すのを目の当たりにした街長の中には、シンレンの死もまた、コハクの手によるものではないのかと考える者もいた。
そのため、ロンオウからの法官が来るまでは、コハクは僧院に身を置き続けることにして、当面の間は、ルガイが一連の騒動の後始末をすることになった。
やがて、公王の葬儀が、しめやかに執り行われた。
海賊や蟲の襲撃によって、家族や大切な人を失った、人々の嘆きとともに……。
その夜、ユズナは公邸の客室で一人、休んでいた。
ヨナ達の宿屋を懐かしく思い、また会いに行きたいと思っていたが、まだしばらくの間はそれも難しそうだった。
オビトに確かめたところ、ユズナの胸の魔導石はやはり容易に取り除けるものでは無かった。取り除いたとして、ユズナの命がどうなるのか、オビトにも計りかねるとのことだった。
したがって、レゴリスがまだ魔導石を取り戻そうと考えているならば、ユズナは狙われ続けることになる。
「姿が見えない敵が相手なら、こちらが隠れても意味は無いわ」
ユズナはそう言ったものの、ヨナ達を危険にさらすつもりも無かった。
石櫃の蓋を砕いたことについては、ユズナ自身、良く分かっていなかった。
バラバラになった花崗岩を見ても、自分がやったことだとは、信じられなかった。
無我夢中だったから、としか言いようがなかった。
試しにもう一度やってみたが、上手くいかなかった。
「魔導を使いこなすには修練が必要です。それにしても、ああいう魔導は、初めて見ました」
オビトはそう語った。この数日の間に、ユズナ達は様々な魔導の力を見てきた。蟲を呼び寄せる魔導、人に化ける魔導、炎を吐く魔導、水を操る魔導、姿を消す魔導……。その力はどれも、魔導石から引き出されるものだという。
「どのような魔導の力が出てくるのかは、魔導石そのものの性質だけでなく、それが宿った人や物の性質にもよるのです」
ユズナの胸の魔導石は蟲を呼び寄せる魔導具に使われていたものだが、どうやら今は違う力を発しているようだった。例えるなら、同じ青い色であっても、黄色を混ぜれば緑色になり、赤色を混ぜれば紫色になる、ということだ。
「つまり私のは、どういう魔導なのかしら?」
ユズナはオビトに訊いた。
「……怪力、ですかね」
それを聞いたシオンが、吹き出しそうな笑いをこらえているのを、ユズナは見た。
「笑ったわね」
「笑ってないさ」
「嘘……笑ったでしょ」
「本当、笑ってないって……」
そう言いながらも眼が笑っていたのを、ユズナは決して忘れないだろう……。
(通り名なら、熊殺しの姫だけで充分なのに……岩砕きの姫とか呼ばれるのかしら)
どうせなら、コルネリア姫のように、キャスブルグの薔薇とか呼ばれてみたいと思う。会ったことは無いが、きっと美しい姫なのだろう。
(それにもう、私は姫ではないのよね……)
そろそろ休もうと、小さな柄杓のような形をした、銅製のロウソク消しを手に取った時、誰かが戸を叩いた。
シオンだった。
「こんな遅くに、何の用?」
ユズナは少し、不機嫌そうに言った。魔導のことで馬鹿にされたのを、まだ根に持っていた。
「外へ出てみないか?見せたいものがあるんだ」
シオンはユズナの言葉に付いていた棘など、まるで気が付かない風だった。そういう態度をされると、ユズナも何となく、済んだことはもうどうでも良いか、という気になるのだった。
「別に……いいけど」
それにシオンが、見せたいものがある、などと言うのは珍しいことだった。
ユズナは気を取り直して、シオンの誘いに乗ることにした。
門番の妨げになっては申し訳ないので、二人はこっそりと壁を乗り越えて公邸を出た。
今宵は小月が満月で、大月が三日月だった。
雲一つ無く、星明かりも冴え渡っている。
「腕の傷はもう良いの?」
「ああ……」
シオンの左腕の傷は、公族の御典医によって、血の管も皮も縫い合わされていた。皮を縫う技はテパンギにもあったが、血の管まで縫う医の技を見るのは初めてだった。聞けば牛の腸を細く裂いて糸にしているという。テパンギには木綿の糸しかない。もっともそんな治療が受けられるのは、公族くらいなものだろう……。
「何もかも、テパンギとは勝手が違うのね……」
ユズナは呟いた。
「一体、何処へ行くの?」
シオンは答えない。投げかけたその言葉だけが、しばらくは宵闇に溶けることなく、二人の間に漂っていた。
やがて二人は僧院へとたどり着いた。
月と星の明かりに照らされて青白くなった広い敷地に、僧院の建物が濃い影を落としている。
「こっちへ」
シオンは、幾つか建っている塔の一つの、その裏手へとユズナを招いた。
そこには、黒々とした、小山のような何かがあった。
それは、のっそりと身体をわだかまらせた竜だった。
「カムイ?」
ユズナは眼を丸くした。
「乗ってみたいと、言っていただろう」
シオンは言った。
「……そうだけど……」
シオンは覚えていたのだ。タオルンの港に入る船の上で、ユズナがそう言っていたことを。
そして、怒濤のような竜焔を吐くカムイに乗って、公邸を目指していたあの時に、ユズナがどんな思いを抱いていたのかも、きっと分かっていたのだろう。
「ギバさんに頼んだの?」
「ああ」
何と言って頼んだのだろう。シオンが人に頭を下げてお願いをしたところなど、見たことが無い。
「手綱は取れるの?」
「ギバに教えてもらった。彼からカムイにも良く言い聞かせてもらったし……馬よりずっと利口だ」
ユズナは眼を細めると、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「私が乗っても大丈夫かしら?」
「カムイが怯えなければ……」
竜は自ら認めた騎兵以外の者を、その背に乗せて飛ぶことは無いのだと、その昔ユズナは聞いたことがあった。しかしどうやらそれも、時と場合によるらしかった。
シオンはカムイの前肢を伝ってその背に跨がると、ユズナに手を差し伸べる。
ユズナは、手綱を握ったシオンの後ろへと腰を落ち着けた。
空から落ちてしまわないように、革で出来た飛行帯を腰に巻く。
仕度が調うと、シオンはゆっくりと手綱を引いた。
カムイは悠然と首を上げ、翼を拡げる。
風を起こし、大地から舞い上がる。
螺旋を描くようにして空へと駆け上がると、たちまち街の外壁が月明かりに浮かび上がった。
シオンは手綱を操り、海へと向かう。
まるで宝石を撒いたような星空が、水平線の彼方まで続いている。
「綺麗……本当に綺麗……」
耳を澄ますと、眠りを誘うような潮騒が聞こえる。
何処かで聞いたような潮騒だ。
ユズナは思い出した。魔導石で命を永らえたときに、彷徨っていたあの場所で聞こえていたのも、こんな潮騒だった。
「ねえ、シオン……私ね……」
カムイの翼の先に広がる海原を見つめながら、ユズナは言った。
「目を覚ました時、自分が生きてるってことに気を取られて、ヨナのこと、忘れていたの……」
波は夜を溶かし込むように、さわさわと揺れている。
「この街のみんなを護りたいなんて言っていたくせに……」
ユズナは、そっとため息をついた。
「人は皆、そういうものなのかしら?」
「……さあ……」
「もしそうだとしたら……哀しいわね」
シオンはしばらくの間黙っていたが、やがてこう言った。
「このまま、この世の果てまで飛んでいこうか?」
ユズナは、顔を上げた。
前を向いて手綱を握っているシオンが、どんな表情を浮かべているのかは分からなかった。
でもその頭上には、無限の星空が見えた。
「この命が尽きるまで、お供をしよう」
ユズナの瞳に映る星の光が、涙で滲んだ。
「ありがとう……シオン……」
ユズナは目を閉じて、シオンの背にそっと頬を寄せる。
竜はゆっくりと飛んでいる。
星空と海原の狭間を。
美しくも未完成な、世界のただ中を。
失われた姫の失われた物語 大坪 哉太 @vitavita5
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