第7話
海賊の一味は、母船と伴走船の二隻で港へと侵入した。
たった二隻とはいえ、一隻に最大五十人は乗れる大型船だ。
母船の上で、海賊の首領ヨシキは舌なめずりをしていた。カエルのような顔をしていて、頭は禿げ上がり、脂で光っている。
「見ろよ、タオルンは相も変わらず良い港だぜ。尻のでかいべっぴんみてえによ。早くブチ込みたくてウズウズするぜ」
海賊は母船に四十名ほど、伴走船には三十名ほど乗り込んでいる。
副首領がヨシキに耳打ちをする。
「親分、目的を忘れちゃまずいですぜ。まだ手付け金しか受け取っていないんですから……」
「忘れてねえよ。だがな、海賊が暴れちゃいかんなんて法は無いだろう」
「法によると、そもそも海賊になってはいけないんですぜ」
「お前の言うことは難しくて判らん。俺はヨシキだ。文句あるか」
副首領はやれやれ、と言うように首を横に振った。どうやら忠告は素直に聞いてもらえなかったようだ。もっとも、タオルンの港は海賊達にとってこれ以上無い獲物だ。暴れるなというのは無理な注文だろう。
(それにしても、本当に番兵が少ないな)
副首領は小首を傾げた。港の番兵達はさきほどから足の速い小船五艘で応戦して来ている。懸命に弓を射かけているが、たかだか七人乗りの船五艘ではこちらの勢いを止めることはできない。いつもなら、三十艘は出してくるはずだった。
(あのクリミア人の言ったとおりだ)
彼は鷹のような鋭い眼をしたクリミア人のことを思い出していた。公王が死ねば、港の守りは手薄になる、とその男は海賊達に語ったのだ。
公王が死ぬと言うことがどうしてその男に分かったのか、そして公王が死ぬことで、どうしてここまで港の守りが手薄になるのか、海賊達の誰にも見当がつかなかった。
いずれにせよ、男の語ったことが現実になったことだけは確かなことだ。
「燃やせ、燃やせ、全部燃やしてしまえ」
ヨシキが命令を下す。
海賊船から、一斉に火矢が放たれる。
火矢は番兵達の小船だけでなく、港に停泊している船や、港に面した家々の板葺きの屋根に突き刺さった。
「寄せろ、寄せろ、あの船だ」
港には船がひしめき合っている。海賊船にはゆっくりと碇を降ろす時間など無い。既に碇泊している船に横付けして飛び移り、その船から港に降りるのだ。
二隻の海賊船はそれぞれ横付けするのに手頃な船を見つけると、木梯子を橋代わりにして、武器を手にした荒くれ者達を飛び移らせた。
五艘の小型軍船は海賊船に突進し、その先端にある衝角を船腹に食い込ませた。下から鉤のついた縄を放り投げて、海賊船に乗り込もうとしたが、兵の数に差があり、海賊達にことごとく追い落とされてしまった。
上陸した海賊達と、港で待機していた番兵達が刃を交える。
ユズナ達が駆けつけた時には、もう既に戦いが始まっていた。
港の番兵達が劣勢なのは、一目瞭然だった。
凶暴な海賊達が港を制圧しつつある。
海賊達の放った火矢から火の手が広がる。
煙が渦を巻き、火の粉が舞い上がった。
「女だ。女がいるぞ。上玉だ」
四人の海賊がユズナ達に刃を向けた。
「言うことを聞いたら、三日くらいは生かしておいてやる」
海賊は、半年は歯を磨いていないであろうと思われる息を吐きながら言った。
「今すぐ死にたくなかったら、港から出て行きなさい」
ユズナがそう言い返すと、髭を生やした一人の海賊が斬りかかってきた。
しかし力任せの剣では、ユズナの身体にかすりもしない。ユズナはひらひらと舞う蝶のように斬撃をかわすと、隙を突いて海賊の股間を蹴り上げた。
犬のような叫び声を上げて、海賊は悶絶した。
シオン、カダ、オビトも一人ずつ海賊を相手にしている。
シオンは海賊の剣をかわすと同時に、軽い刀さばきで太ももの内側の血管を刺した。
内股には太い血管が皮の直ぐ下を通っている急所がある。「骨を切らずに命を絶つ」がシノビ一族の剣技の真髄であった。雑魚を相手に刀を脂で汚したり、骨を切って刃こぼれを起こすのは避けなければならない。
「血が……血が……止まらねえ」
太ももからドクドクと生温かい血が流れ出ているのに気が付いた海賊は、膝を震わせた。砂時計の砂が落ちるように、命が失われて行くのを悟ったのだ。
「助けてくれ……」
戦意を失い、命乞いをする。
「そう言った人間を、お前らは助けたことがあるのか?」
シオンはそう言い放つと、その首の脈を断った。
カダとオビトも、一対一ならば、下っ端の海賊ごときには引けを取らなかった。カダは長剣で、オビトは短剣で、それぞれ自分の相手を仕留めた。
「まだ番兵さん達は残っているのかしら」
ユズナの疑問に答えるかのように、傷を負った番兵が一人、海賊に追われてこちらへやって来た。ユズナ達は海賊を一ひねりすると、番兵から情勢を聞いた。
「ご覧のとおり、押し込まれてしまっています。北の砦に、応援を呼びに行っていますが、それまで持つかどうか……」
「どこかで子どもを見なかったかしら?女の子と男の子の姉弟なんだけど……」
「さあ……」
番兵は首を横に振ると、痛そうに腕を押さえた。傷を負ったその腕をカダは布きれで止血してやり、北の砦へ退避するように指示した。腕を押さえて走り去る番兵の姿は、煙にまかれてたちまち見えなくなった。
「どうやら統率が取れていないようですね」
カダが言った。
逃げ遅れた人々の悲鳴が聞こえる。
番兵以外にも、煙に巻かれた人々や、背中に矢を射られた人々が折り重なって倒れている。
(ヨナ、トク……どうか無事でいて……)
姉弟の事を思うと、ユズナの胸の鼓動は早鐘のようになった。
「我々はどうします?」
カダがユズナに問いかける。
「とにかく、海賊を片付けなくては……首領を狙いましょう、混戦になってしまった以上、そうするのが一番よ」
熊殺しの姫は、しなやかに、そして颯爽と火の手の向こうへ進んで行った。
タオルンの北砦は、二つの大きな報せによって、天地をひっくり返したような騒ぎになっていた。海賊ヨシキの一味が港に攻め込んできたという報せと、北の古森から蟲が押し寄せて来ているという報せだ。
怒声が飛び交う中、兵士達が鎧を身につけ、武器を手に取っている。
物見台から東を見ると港が燃えており、北を見ると蟲の群れが迫ってきているのが見える。
「海賊だ!ヨシキの一味だ!」
見張りの兵の一人が叫ぶ。
「ヤスデの群れだ!」
もう一人も続けて叫ぶ。
北の砦はタオルンの高台に築かれていた。港を一望することも出来るし、良く晴れた日には古森の影も見ることが出来る。今はそのどちらにも、見たくないと願わずにはいられない光景が広がっていた。
「街の外壁に沿って虫除けの煙を焚け!ただしこの砦の近くは外しておけよ!蟲の進路をこちらへ向けさせるんだ!」
砦の指揮を取っている千人長が、矢継ぎ早に命令を下す。千人長は文字通り千人の部隊を指揮するのだが、今砦にいる兵士は半数の五百名ほどであった。
北砦は長方形に切り出した花崗岩を積んだ、堅牢な城壁を有していた。またその城壁は、タオルンの街をぐるりと囲む外壁と繋がっている。
街の外壁はクナ皇国が成立する以前の、群雄時代の古いものであった。花崗岩ではなく、野原の石を積んで出来たもので、外壁というよりは石垣に近い。大人の背丈の二倍から三倍ほどの高さはあるものの、ところどころ草や苔に覆われているような有様で、砦の城壁ほどの堅牢さは無かった。人間の侵入は防げても、ヤスデのような蟲には登られてしまう恐れがあった。
「海賊の方はどうしますか?港の番兵から応援の要請が来ています」
部下の一人に尋ねられて、千人長は苦い薬を噛んだような顔をした。今は一兵たりとも欠くことが出来ない状況だ。
ちょうどその時、ルガイ将軍が砦に着いたという伝令が届いた。
公邸で蟲の襲来の報せを受け取った将軍は、公邸の者達を残らず街の外へ避難させる手筈を整えると、直ちに砦へと駆けつけたのだった。
千人長は将軍の姿を見ると、背筋を伸ばして直立した。
「話は概ね聞いた。海賊は放っておけ、港は放棄する。港だけではない。街の者を皆、退避させるのだ」
ルガイは千人長へ命じた。
「ですが、すでに北から蟲が迫ってきています」
「西門と南門へ誘導しろ。蟲の目当ては街の中にある魔導具だ。少しくらい蟲がいたとしても、街の外の方が安全だ。誘導には百人の兵を割いてあたらせろ。急ぐのだ、街壁に蟲が取り付き次第、門は閉ざす。一人でも多く逃がすのだ」
書記が筆を走らせた命令書に、将軍の印を捺す。印には紐が通されており、ルガイはそれを首に提げた。
「私の偽者に気をつけろ。本物はこのとおり、首に印を提げている」
やがて街の外壁のあちらこちらから、白い煙が立ち上った。薪の中には乾燥させた苦蓬の葉が混ざっていて、蟲を遠ざける力があった。
その煙を見た街の人々も、ついに蟲の襲来を疑いなく知ることとなった。煙だけではない、砦からの伝令が走り、街の中にいくつか建てられている櫓の半鐘も鳴った。
街は混乱に陥った。人々は西門や南門へと押し寄せた。
タオルンからは西へ大きな街道が延びている。脚の丈夫な者は、蟲から逃れつつ、ロントン公国の内陸部にある幾つかの街へと向かうことになる。
港の外れの宿屋では、まだヨナの母親が子どもの帰りを待っていた。
海賊から、蟲から逃れようと、人々が群れとなって窓の外を通り過ぎて行く。皆、着の身着のままで家を追われ、不安な表情を浮かべたまま早足で歩いていた。
そしてその中の何処にも、ヨナとトクの姿は見えなかった。
「神様……どうか、子ども達をお守りください」
おかみさんは、天に祈った。
公邸では、朝から公王の弔いの仕度が進められていたが、蟲の襲撃の報せによって、すべてが中断された。
ルガイ将軍の命令により、公邸の者は一人残らず街の外へ避難することになった。
まだ公邸の庭で蝶の姿を追いかけていたヨナとトクは、王の弔いで慌ただしかった邸内の様子が一変したことに気が付いた。
「みんな、ここから逃げ出すみたいだよ」
弟のトクは、すっかり怯えて、家に帰りたいと繰り返し言った。
しかしヨナは耳を貸さなかった。庭に集まった蝶は、邸内の奥へと向かうにつれ、次第に数を増している。
「もう少し。もう少しだけ……」
ヨナは、もうすぐ何かが分かりそうな気がしてならなかった。
そしてとうとうその場所にたどり着くと、ヨナの眼と心は釘付けになった。そこは、庭に集まっていた蝶が、最後に目指している場所のようだった。
壁一面に、蝶が留まっている。
飛び回るのは止め、壁に留まったまま、羽根を動かしていた。その羽ばたきは一匹一匹がばらばらに行うのではなく、蝶の群れが一体となってさざ波を起こしているかのように、規則正しい動きをしていた。
(まるで、何かに操られているみたい……)
ヨナは自分の考えの正しさに、自信を持ち始めた。
「きっとこの壁の中に、ユズナお姉ちゃんが探している物があるのよ。蟲を操って呼び寄せる何かが……」
「そんなことより、早く逃げようよ」
トクは泣きそうな声で言った。
誰か大人を呼ばなければ、とヨナは考えた。
しかし、一体誰に話をしたら良いだろう?公邸内に人はほとんど残っていないし、もしかしたらこの壁の中の物と関わりのある人物に出くわしてしまうかも知れない。
(早くユズナお姉ちゃんに知らせるべきかしら……)
だが、ユズナ達がまだ宿にいるとは限らない。もし会えなかったら、どうしたら良いだろう?とるべき道が他にもあるのではないか?
「私達に、どうにか出来ないかしら?」
姉の言葉にトクはがっくりと肩を落とした。もう反対はしなかった。止めても無駄だと悟ったらしかった。
「何処から入ったらいいかしら?」
二人は部屋の入り口を探すことにした。そこは、大きな建物の角に位置していた。部屋の扉から入るには、一度建物の中に入らなければならない。そうするとだいぶ遠回りになるし、建物の中から、もう一度この部屋を探し出さなければならない。
「いい知恵は無いかしら?」
ヨナは部屋の壁を眺めた。白い漆喰で塗り固められたその壁は蝶で埋まっている。しかしよく見ると、所々凹んでいる箇所があった。どうやらそこには窓があるらしかった。
体の小さい自分たちならば、くぐり抜けられるかも知れない、とヨナは考えた。
庭の木の陰に置いてあった、落ち葉を集めて入れる籠を逆さにして、踏み台代わりにする。蝶を押しのけて、窓を探ってみる。
どの窓にも鍵がかかっていたが、一つだけ、手前に引いて開けることが出来た。
部屋の中は暗かった。湿った空気が流れ出て来る。
ヨナは意を決して部屋の中に入った。
続いて弟の手を取り、引っ張り込む。
部屋の中には、窓の明かりを遮るようにして、屏風が立っていた。二人には知る由も無いことだったが、それは風で机の上の文書が飛ばされないように置かれたものだった。そして、屏風の裏側に窓が隠れていたため、留め金もかけ忘れられていたのだ。
ヨナが弟を中に入れ、窓を閉めたちょうどその時、屏風の向こうから音が聞こえた。誰かが部屋の扉を開けて中に入って来たようだ。
姉弟は驚いて息をひそめた。
部屋に入ってきたのは一人では無い様子だった。
大人の男が二人、会話を始める。
どうやら一人は腹を立てている様子だった。
「まさか蝶がこんなに集まってくるなんて、聞いていなかったぞ。たまたま廷内から早々に人がいなくなったからいいようなものの、ルガイ将軍にでも見つかったらどうするつもりだ」
もう一人の男に向かって、憤りを露わにする。それに対し、相手の男は、冷たい声で応えた。
「仕方ありません。我々も知らなかったことです。北方の国にはこんなに沢山の蝶はおりませんので……」
「本当に壊れてはいないのだろうな?よく確かめるんだ」
「ええ、壊れてはいませんよ。すべて正常です。それに、古森から蟲の群れが出てきたと、砦から将軍に伝令があったのでしょう?確かにこの蝶は誤算でしたが、そういう予期せぬことがあることを承知の上で、我々と取引をしたはずです」
腹を立てている男の方が、身分が上である様子だったが、冷たい声の男は丁寧な言葉を使いながらも、どこか相手を突き放しているようなところがあった。
「ふん……最初から、ここタオルンの街を試しの場として使うつもりだったのだろう……まあそれはこちらとて分かっておるわ。しかしこの有様ではな。肝が冷えるぞ」
「魔導具をここに置くと決めたのは、あなたです。もっと見つけられにくい場所もあったはずですが……」
「ここにあることが重要なのだ。この公子の部屋にな……。この部屋からこれが見つかったとなれば、コハクはもう完全にお終いだ」
男はそう言うと、いくらか怒りを静めた様子だった。嘲笑している気配すら感じられる。
「蟲が街を食い荒らした後で、これがここで見つかれば、人々の憎しみは膨れ上がり、コハクに襲いかかるだろう」
蟲が街を食い荒らす、という言葉を聞いてヨナは息を呑んだ。ユズナの話していたことと、割り符を合わせるように一致している。
(きっとこの人達が、お姉ちゃん達が探している敵なんだ……)
姉弟は身を寄せ合い、無言の内にお互いの息遣いが目立っていないかどうかを確かめ合った。
「しかし蟲が来る前に見つかっては、コハクに反撃の機会を与えてしまうことになりかねない。色々と嗅ぎ回っている連中もいるのだからな、詰めを過ってはならん。どうにかならんのか?あの蝶は」
「蝶をすべて殺すか、蝶を見た者を殺すか、どちらかでしょう」
「あれだけいる蝶をすべて殺せるわけがないだろう」
「では……」
「まあ、公邸内に残っている者はわずかだろう。蟲が来る前に騒ぎ出す者がいれば……」
男は途中で言葉を止めたが、その続きが何を指し示すのか、ヨナはもちろんのこと、幼いトクにも理解できた。
この男達に見つかったら自分たちの命は無い、そういうことだ。
ヨナは唾を飲み込んだ。その音が聞こえてしまうのではないかと思うと、身体が硬くなった。
トクは震えていた。ヨナと同じように話の内容が分かったわけでは無かったが、恐ろしげな雰囲気にすっかり飲み込まれていたのだった。
ヨナは弟の背をそっと抱いた。このままここにいては危険だ。逃げなければならない。
(早くユズナお姉ちゃんを呼んでこなくちゃ…)
しかしその時、男の一人がある異変に気がついて言った。
「待て……蝶がずいぶんと入り込んでいるようだぞ……窓が開いているのか?」
ヨナは心臓が凍り付いたように感じた。この部屋に入った後、間違いなく窓は閉めてある。しかしヨナ達と一緒に入り込んだ蝶が、屏風の向こうへと飛んで行ったのかも知れなかった。
とにかく、一刻も早くここから出るしか無い。
ヨナは窓の留め金を外した。
その気配を察したのか、もう一人の男が言った。
「どうやら、入り込んだのは、蝶だけでは無いようです……」
「誰かいるのか!」
ヨナは慌ててトクの手を引き、思い切り窓を開け放つと弟の身体を窓に押し込んだ。
「逃げて!」
大人の男の手で屏風が引き倒される。ヨナは男の顔を見た。
男は弔いの儀式用の面覆いをつけていた。
「小娘が……」
男はヨナに掴みかかった。
ヨナはその手を振り払って、逃げる。
そこは小さな部屋だった。真ん中に、大きな柱のような何かが立っている。二十羽ほどの蝶がその柱に群がっていた。
ヨナは部屋の扉から出ようとしたが、閂が降りていた。震える手で閂を抜こうとしたその瞬間、もう一人の男に後ろから首の付け根を叩かれて、気を失ってしまった。
「お姉ちゃん!」
窓の外からトクが呼びかける。
「もう一人いるぞ、捕まえろ」
面覆いの男が声を荒げる。それを聞いたトクは、必死に逃げた。
男は自分で捕まえようと、部屋の扉から外に出て庭に回った。しかし既に子どもの姿はなく、ただ無数の蝶が舞って視界を塞いでいた。
「くそっ!逃げられた」
男は悔しがり、部屋に戻った。もう一人の男は部屋の中に留まっていた。その足下にはヨナが横たわっている。それは操り人形と、その遣い手とが対になっているかのようであった。
悠然と立ちつくしているその男は金色の髪に、鷹のような眼をしていた。
レゴリスであった。
「小娘が……」
面覆いの男は懐から短剣を抜くと、ヨナを刺し殺そうとした。
「殺せば、逃げた子どもの素性が分からなくなりますよ……」
レゴリスが警告する。面覆いの男は舌打ちをすると、短剣を鞘に納めた。
「お姉ちゃんと言っていたな……姉弟のようだが……」
男はそう言うと、ヨナの頬を二度、三度と叩いた。しかし、ヨナは眼を開かなかった。
「しばらくは何をやっても目を覚まさないでしょう」
「くそっ!」
面覆いの男は悪態をついた。
「子どもの素性が分かった所で、今は手の打ちようがありません。あなたは顔を隠しているのだから、正体は知られていませんよ」
「だが、話は聞かれたぞ!」
「子どもの話など、誰もすぐには信じないでしょう。今慌てれば、返って失敗します」
「仕方ないな……だがこのままでは済まされないぞ……」
面覆いの男は娘を抱きかかえると、部屋を出た。レゴリスもその後に従う。
(確か、ヨナという名前だったな……)
レゴリスは知っていた、この姉弟がテパンギ人の泊まっていた宿屋の子どもであることを……。それはオビトを捕らえる前に、調べ上げていたことだった。
だが、彼はそれを面覆いの男には言わなかった。それを告げれば、もはやこの小娘は用済みとなる。男は再び短剣を抜いて、その手を血に染めるだろう。
オビトが言ったように、レゴリスは冷血な人殺しである。女であろうと、子どもであろうと、殺すことをためらったことは無い。
しかし今、レゴリスは、この姉弟の影にテパンギの姫の存在を感じているのだった。
(部屋に忍び込んできたのも、偶然であるはずが無い。逃げた弟のいる先は、おそらくあの姫につながっている……)
ならばこの少女は、生かしておいた方が使い道があるだろう、というのがレゴリスの考えだった。しかしそれを面覆いの男に話すつもりは彼には無かった。テパンギの姫は彼自身の大切な獲物であり、邪魔をされては困るからだ。
面覆いの男は、コハクの部屋のすぐ近くにある部屋へと入った。
そこは、書庫だった。古い記録は石版や竹簡、新しいものは紙の巻物になって、棚に並べられている。
男は部屋の奥へ向かうと、一旦ヨナの体を床に置いた。書棚を押して動かすと、その下から現われた石床の一部が、木の板になっている。それは鉄の鋲が打たれた、頑丈な扉だった。男は鍵を使って跳ね上げ式の扉を開けた。下には石の階段が続いている。
「灯りが無いな」
そう言いながらも、男はヨナを再び抱きかかえて地下へと降りていった。
レゴリスが後を追って降りると、男は灯りの無い暗闇の中で何かを探していた。
「確かこのあたりにあったはずだ」
男は手探りで何かを探り当てた。鍵の回る音と、蝶番の軋む音が聞こえる。何か、箱のようなものがある様子だった。
男はその箱の中身を外へ出すと、代わりにヨナの体をその中に横たえた。
蓋を閉め、鍵をかける音が響く。
「後で打つ手を考えることとしよう」
暗闇の中、荒い息遣いで男は言った。
「御意」
とレゴリスは応えた。
(ここまでおいでなさるか、テパンギの姫君……)
深い闇に閉じ込められた少女のために、あの姫君はきっと光を照らしに来ることだろう。
(しかし、今度はその命をもらうぞ)
闇の中に溶け込んだレゴリスの笑みを見ることは、誰にも出来なかった。
ユズナ達は、港で海賊を相手に戦いを続けている。
下っ端の海賊を締め上げて首領の居場所を聞き出すと、ヨシキの船に乗り込んだ。
見張りの海賊も海に放り落とす。
海賊船は、腐った果物の匂いがした。
「何者だ、貴様らは?」
船には虐殺のヨシキと、数名の部下が残っていた。
「早く手下を呼び戻して、ここから出て行きなさい。今ならまだ、命だけは助けてあげる」
ユズナの切り口上に、ヨシキは大きく口を開いて笑った。
「生意気な小娘じゃないか。いい度胸してるぜ。このヨシキ様はな、おまえみたいな人間を切り刻むのが大好きなんだ」
ユズナはため息をついた。
「賊の言うことは、どの国でも同じなのね」
故国で相手にした山賊達のことをユズナは思い出した。
「野郎ども、やっちまいな」
ヨシキが叫ぶと、海賊達が襲いかかる。ユズナは船上での戦いには慣れていなかったが、大陸へ向かう航海の途中、甲板で修練を積んでいたのが役に立った。狭い足場を上手く使って、一度に一人だけを相手に出来るように立ち回った。
今度の相手は、数は少なくとも、さすがに首領の側に控えているだけあって、港で戦った手下達よりも数段格上であった。
ユズナも、最初の内は苦戦を強いられた。
しかしその中でもシオンだけは、一人、また一人と確実に賊を仕留めていく。
やがて形勢が不利な方へと傾き始めると、首領のヨシキは顔を引きつらせた。
「情けねえ手下を持ったもんだぜ」
そう言うと、自ら剣を抜いた。
その時、船上に新たな手勢が姿を見せた。
「おや、どうやら客人がお越しのようだな」
ヨシキが言った。
オビトは、自分が相手にしていた短刀使いの賊をようやく仕留めると、ヨシキが客人と呼んだ者達の方を見た。
四人のクリミア人が、そこにいた。刺客の一味であると、オビトはすぐに気がついた。レゴリスの姿は無かったが、変身の魔導を用いていない素顔のブラウがその中にいた。
そしてブラウとは別の刺客に、彼の目は釘付けになった。それはオビトと同じくらいの年の、若者だった。
その若者の方がオビトよりも先に口を開いた。
「誰かと思えば、オビトじゃないか。こんな所で何をしている」
「エリアス……エリアスなのか?」
オビトの言葉には、驚きが滲んでいた。
「知り合いなの?」
屈強な体躯の賊を相手に手こずりながらも、ユズナは横目でクリミア人の姿を捕らえ、オビトに訊いた。
「かつて一緒に魔導を学んだ仲です……お前こそ、どうしてこんな所にいる?お前もレゴリスの仲間だったのか?」
オビトがこれまでに顔を付き合わせた刺客は、レゴリスと、ブラウだけだった。突然目の前に現れた旧友の姿に、戸惑いを隠せない。
「その通りだ。挨拶が遅れて済まなかったな。生きていてくれて嬉しいぜ……」
エリアスと呼ばれた刺客はそう応えた。
「蟲寄せの魔導具は、何処にある」
刺客の仲間だと言ったエリアスに対し、オビトは戸惑う気持ちを抑え、問いをぶつけた。
「そう訊かれて、素直に答えるバカが何処にいる」
嘲るようなエリアスの答えを聞いて、オビトは眉根を寄せた。
「……ならば、力ずくで知るまでだ」
オビトは短剣を振りかざして、エリアスに斬りかかった。
エリアスも、自らの短剣で、応戦する。
「おっと、昔はこうして良く稽古をしたなあ。懐かしくないか?オビト」
その口の端には笑みが浮かんでいる。
「手を貸そうか、エリアス」
残った刺客の内の一人が声をかける。
「邪魔しないでください」
エリアスは一対一でオビトと戦うことを選んだ。
「あなた達の相手は、こっちよ」
ようやく屈強な賊を打ちのめしたユズナが、残った三人の刺客に言い放った。海賊の方は、今ではヨシキの他に二名の手下が残されているだけだった。
「海賊もろとも、成敗してあげる!」
どうして海賊船に刺客が姿を見せたのか、その理由まではユズナには分からなかった。ただ、探していた敵に会えたのだから、何も不満は無い。
ユズナの拳には、沸き上がる怒りが宿っている。
「この連中は、客人に用があるんですかい?」
ヨシキが刺客達に尋ねると、一人が答えた。
「そのようだな……お前らは早いこと船を出せばいい。約束通りにな。さもなければ、残りの金と一緒に魚の餌にしてしまうぞ」
「まだ港を襲っている最中ですぜ」
ヨシキが反論した。
「もう一度言う、死にたいのか?」
刺客の言葉にヨシキは顔を引きつらせたが、渋々その言葉に従った。クリミア人達が只者でないことはよく分かっていた。
ホラ貝が鳴り響く。
それは港に散った海賊達に撤収を呼びかける合図であった。
「この連中の始末は、客人がつけてくださいよ」
そう言うとヨシキは出港の仕度に取りかかった。
ユズナとシオン、そしてカダの三人は、刺客と対峙した。
刺客の中に、レゴリスの姿はない。オビトが相手をしているエリアスという刺客も、残りの三人の刺客も素顔を見るのは初めてだった。一人はどうやら右腕を失っているようだった。シオンが二日前に相手をした刺客だろう。
「ブラウっていうのは、誰?」
ユズナは言った。ユズナ達は、オビトに変身したブラウしか見ていなかった。
「さあ……そんな奴いたかなあ……」
刺客の一人が首を傾げてそう言った。痩せた頬の、狡猾そうな眼をした男だった。
「そいつです。真ん中にいる男です」
船の後部で、エリアスと切り結びながら、オビトが声を上げる。
ユズナはブラウを指差すと、言った。
「公王を殺したのは、あなたね。逃がさないわよ」
ブラウは薄笑いを浮かべている。
その左隣の男が言った。
「この間は手加減をしていたが、今日は違うぜ。覚悟しな!」
男は大きく息を吸った。
シオンはユズナを抱きかかえると、横に飛んだ。二日前と同じように、刺客は口から炎を吐いた。カダも慌てて、飛び退いた。
「すばしっこいじゃないか」
炎を止めると、刺客は不敵な笑みを浮かべる。
「おい、この船を燃やしてもらっちゃ困るぜ」
ヨシキが苦言を呈した。魔導の原理など、彼には全く分かっていなかったが、大事な船を焼かれてはたまらない。
「分かっている。いいから早く船を出すんだ」
刺客はうるさそうに言い返した。
海賊の手下が数名、船に戻って来た。船を操るのに必要な人員以外は、伴走船の方へ乗り込むように、ヨシキは指示をしていた。
「余計な手出しはするんじゃないぞ。早く帆を張るんだ」
ヨシキは手下に命ずる。あとさきを考えるのが苦手な海賊とはいえ、手を出しても勝ち目がある相手かどうかを嗅ぎ分けることは出来る。ユズナ達のことはクリミア人に任せることにしたようだった。
ユズナ達は、充分な間合いを空けて、炎を吐き出した刺客の様子を窺った。
「魔導ってのは本当に厄介ね」
ユズナが小声でシオンに話しかける
「片腕の刺客も、魔導を使うのかしら?」
「おそらくは……」
得体の知れない攻撃をしてくる相手と戦うのは骨が折れる。しかし泣き言など言ってはいられない。三人の敵に対して、こちらも三人いる。ここでひるんでしまっては、何一つ救うことは出来ないと、ユズナは覚悟を決めた。
「私はブラウを捕まえるわ。シオンは火炎の男をお願い。カダさんは、片腕の男を牽制して。魔導に気をつけてね」
ユズナ達と刺客との対峙を余所に、海賊達は出港の準備に取りかかっている。船が港から出てしまえば、ユズナ達は不利になる一方だ。
オビトとエリアスはまだ、一対一の戦いを続けていた。オビトの剣技を前に、エリアスは守勢に立たされていたが、それでもなお、どこかしらに余裕を残していた。
「どうして海賊なんかと……」
オビトは短剣を繰り出すと同時に、怒りに満ちた疑問をぶつける。
「帰りの船が必要だろ。港の船はすべて、番兵に抑えられてしまうだろうからな。それにまさか、帝国の船で帰るわけにも行くまい。こいつらを金で雇って、迎えに来てもらう手筈にしておいたのさ」
海賊とはいえ、いや、海賊だからこそ金の力には弱い。手付け金で半分、残りの半分は刺客達を帝国の領地に無事送り届けてから払うことになっていた。手付け金を持ち逃げされる恐れもあったが、タオルンの港が無防備になると聞けば、それを確かめずにはいられないのが海賊というものだ。
「なぜ街を襲わせた」
「それは知らんよ。こいつらが勝手にやったことだ」
「知らないで、済むことか!」
オビトはついに船尾にエリアスを追いつめると、その短剣を払い飛ばした。
「良い腕してるぜ。お前も仲間になれよ。魔導の力は素晴らしい……」
エリアスは言った。
「エリアス、これが最後だ。蟲寄せの魔導具は何処にある」
オビトはエリアスの喉元に短剣を突き付けた。
「これが船の上で無ければ、詰みだったがな……」
エリアスはそう言うと、自ら身体を後ろに反らし、海の中へ落ちていった。
「エリアス……」
オビトは船尾から海をのぞき込む。
次の瞬間、海面から突き上げるように水柱が立ち上った。人が一人落ちた時に立つであろう水飛沫とは、まるで違う勢いだった。
オビトが見上げると、その水柱の上に、エリアスが立っていた。
「オビト……海で遭ったのが、運の尽きだな」
「エリアス、お前、魔導を……いつの間に……」
海水が蛇のようにうねりながら、エリアスの身体を下から支えている。それはかつて、オビトが共に学んでいた頃のエリアスには無かった力だった。
「言っただろう、魔導の力は素晴らしい……見ろ」
エリアスがそう言うと、その足元の水柱から細い水の管が枝分かれし、粘土で作った縄のようにくねくねと延びる。エリアスが手を差し伸べると、縄の先が丸く膨れあがり、掌の上に水の玉を作った。
「こんなことも出来るぞ」
掌の水の玉が、ゆらゆらと動きながら、三角に形を変える。そして次の瞬間、動きを止めて白くなった。鋭く尖った、つららのような氷になったのだ。
エリアスはその氷の槍を船上に投げつける。オビトが飛び退くと、氷は甲板にあたって砕けた。
氷の破片がオビトの頬に当たる。
「どうだ……これが魔導の力だ。この力があれば、世界を造り替えることだって夢じゃない。お前にだって分かるはずだ、オビト」
「世界を造り替える……そんな野望のために、罪のない人々をどれだけ犠牲にするつもりだ!エリアス!」
「そんな野望だと……オビト、お前は一生貴族の飼い犬のままでいるつもりか?自分の一生を、思い通りに生きたくはないのか?」
「何を言っている……己の境遇が気に入らないからといって、この国の人々を苦しめて良いことにはならない!」
「新しい時代の幕開けに、犠牲はつきものだ。歴史もそう語っている。新しい力を手に入れた人間が、そうで無い者を支配する。それが真理だ」
そう言うと、エリアスは再び、掌の上で氷の塊を造り始めた。
エリアスとオビトが一対一で戦っているように、ユズナは三人の刺客を分散させて、一人ずつ相手にしようとしていたが、それは上手く行っていなかった。
炎を吐き出す刺客が、他の二人を護るようにして、ユズナ達が近づくのを牽制している。
刺客達の方から、仕掛けてくる気配は無かった。ユズナ達が手強いことは、彼らの方も身に染みて分かっていた。船が港から出てしまえば、ユズナ達は行き場が無くなる。それを待てば良いのだ……。
突破口を開いたのは、シオンだった。
ユズナに眼で合図を送ると、懐から爆雷の筒を取り出す。
再び刺客が火炎を吐き出すと、それを利用して爆雷に点火し、刺客達の足下へ投げる。
「離れて!」
同時にユズナはカダの体を引き倒した。
三人の刺客も危険を察し、散開する。
爆雷が炸裂し、船の一部が木片となって飛び散る。
煙が辺りの視界を塞ぐ。
次の瞬間には、シオンが刺客に斬りかかっていた。刺客は闇雲に炎を吐き出して防戦する。シオンは炎をかわしながら刀を振るったが、切っ先は刺客には届かなかった。それでも自分の相手を、他の刺客から引きはがすことには成功した。
刺客は、再び炎を吐こうと深く息を吸う。一度炎を吐き終わると、息を吸い込まなければいけない。そのわずかな間が、弱点であることをシオンは見抜いていた。刺客の顔を目がけて、クナイと呼ばれる棒手裏剣を投げる。刺客は顔を逸らしてさけたが、シオンは立て続けにクナイを放った。
顔に投げられたクナイをかわしている間は、炎を吐くことが出来ない。
(それが二つめの弱点だ……)
刺客は上下左右に頭を振ってクナイを避けながら息を吸う。そしてシオンのクナイが尽きた瞬間に、思い切り炎を吐いた。シオンが側転して逃れると、その背後には、船の帆布があった。
刺客は咄嗟に炎を止めたが、時すでに遅く、船尾にある帆柱の帆布に火が点いてしまった。
シオンの狙い通りだった。
(弱点をかばおうとすれば、周りが見えなくなる……)
帆布は赤い舌のような炎に焼かれて、黒い煙を出した。
「帆布まで燃やすんじゃねえよ!」
海賊のヨシキが荒々しく怒鳴る。
船が焼かれれば、ヨシキが怒ることも、シオンの計算の内に入っていた。ヨシキの怒声をきっかけに、シオンは一気に刺客との間合いを詰める。
吐き出す炎の射程に、獲物が飛び込んで来たにもかかわらず、刺客は攻撃を思いとどまった。帆布を燃やしたという失敗が、二の足を踏ませたのだった。
それもまた、シオンの狙い通りだった。しかしまだ刀の間合いには遠い。
次の瞬間、シオンはその口から、火炎を噴き出した。シノビ一族の技、火遁の術だ。油を口に含み、霧状に吐き出すと同時に、火を点ける。火種となるような木片の燃え残りなどは、先ほどの爆雷のおかげで船上のあちこちに散らばっていた。
刺客はシオンの火遁をまともに受けた。まさか自分が炎に焼かれるなど、思いもよらなかったことだろう。炎は服に燃え移り、その身体を包み込む。
普通の人間ならば、たちまちの内に絶命したに違いない。
しかし、炎の魔導を使う刺客は、その能力にふさわしい矜恃を示した。
「この程度の火で、俺がくたばると思ってるのか!」
炎に包まれたまま、刺客は叫んだ。おとぎ話の悪鬼のごときその姿に、出港に向けて働きつつ戦いの成り行きを見守っていた海賊達は皆、息を呑んだ。
「思っていないさ」
シオンの応えが、刺客の耳に入ったかどうかは、定かではない。
刺客の背後に回ったシオンが刀を一閃させると、首が宙を舞った。
シオンにとって、火遁はただのめくらましに過ぎなかった。
そして火の玉となった首が下へ落ちる前に、あたかも鞠を扱うかのように、シオンは船外へと蹴飛ばした。強敵であれば、たとえ首だけになっても油断をしないのが、シノビ一族の掟であった。おとぎ話の悪鬼ならば、刎ねた首が食らいついてくるものだ。
首を失った胴体が、赤黒い血を噴き出しながら、甲板に転がった。燃えさかる炎と流れ出る血がせめぎ合い、死臭を振りまいた。
刺客の胴体が動かないことを確かめると、シオンは戦局を把握するため周囲を見回した。まずユズナの安否を確かめる。彼女も、そして残りの二人の仲間も、まだそれぞれの相手と一対一で戦っている。
(あと三人か……)
シオンが火炎の刺客と戦い始めるのと同時に、ユズナはブラウを、カダは片腕の刺客シニスを相手にしていた。
カダは剣の技でシニスよりも優位に立っていたが、魔導を警戒して、深く踏み込むことはなかった。ユズナに言われたとおり、ただ牽制することに徹していた。戦いには不向きな己の魔導の正体を、ユズナ達に知られていないことが、シニスには幸いしていたと言える。
それとは対照的に、ブラウに対しては、ユズナは容赦なく攻め込んでいた。
ユズナの蹴りと突きに、ブラウは短剣一つで応じていたが、手数の差に圧倒されていた。
それでも、ブラウの顔から、不敵な笑みが消えることは無かった。
短剣でユズナにかすり傷を負わせると、刃についた血を舌で舐めた。
「覚えたぞ、お前の乳も、尻も、血の味もな……」
ユズナは攻撃の手を止めると、不快な表情を露わにした。
「魔導具は何処にあるの?」
ユズナの詰問に、刺客の笑みが奇怪に曲がる。粘土をこねるように、顔つきが歪んだ。
そして次の瞬間には、ユズナそっくりの顔になっていた。身体もまた、変身前よりも一回り小さい、女のものになっている。
「魔導具は何処?」
ブラウは、ユズナと同じ声でそう言った。ただ、ユズナ本人には、自分自身の声と同じようには聞こえていなかった。誰であれ、自分が聞く自身の声と、他人が聞く声とは違っているものだ。
「私はそんな声じゃないわ」
ユズナは偽者の自分の膝に横蹴りを入れて体勢を崩すと、さらに短剣を持った右手の手首を蹴る。短剣が刺客の手から弾け飛んだ。
「痛い、誰か助けて!」
その声に、オビトもカダもシオンも一瞬、心を奪われた。服装が違うため、見ればブラウと本物のユズナの区別はつくはずだが、声だけならば充分にユズナの仲間を惑わす効き目があった。
シオンはちょうど、火炎の刺客を倒して、仲間の安否を確かめているところだった。
オビトはエリアスと対峙していた。エリアスは水を操る魔導の力で、帆布の火を消しにかかっていた。反撃に転ずる機会ではあったが、水柱の上にいるエリアスに対し、オビトには為す術が無かった。
カダはシニスと剣を交えていたが、ユズナの声に気を取られた隙を突かれて、腕を斬りつけられてしまった。
「私じゃないわ!」
ユズナは叫んだ。
「騙されないで!私の偽者よ!殺される!助けて!」
ブラウは攪乱の言葉を次から次へと繰り出した。
カダの腕の傷は、思いの外深手だった。シニスと同じように、片腕で剣を振るわざるを得なくなってしまった。それ以上ブラウの言葉に耳を貸すことはしなかったが、シニスに対してそれまで保っていた優位は失われてしまった。
海賊船は接舷していた船から離れると、ゆるやかに海面を滑り始めていた。それと同時に、衝角で船腹に刺さっていた小型の軍船も、力なく引き剥がされていく。
シオンはユズナの援護へと向かった。偽者のユズナの声は、シオンにとって耳障りなことこの上なかった。
偽物と本物、二人のユズナは、徒手で戦いを続けていたが、どちらに勢いがあるのかは誰の眼にも明らかだった。姿や声を似せることは出来ても、長い修行によって体得した武術の腕前までは真似ることが出来ないようだった。
それでも偽者のユズナは、ユズナの肉体が持つ天性の素早さだけは己のものとしていた。そして守りに徹することで、本物のユズナが放つ急所への一撃を巧みにかわしていた。声で仲間を攪乱させることだけが、ユズナに変身した理由では無かった。
しかしその二人の戦いに、シオンが割って入る。服装と身のこなしの違いから、即座にユズナと刺客とを見分け、偽者の方へその刃を向けた。
「おっと……私を殺しても良いのかしら?」
ユズナとシオンに挟まれたブラウは言った。
「私が死んだら、公子様はどうなるの?」
変身する刺客の正体を世に示さなければ、公子にかけられている公王殺しの罪の疑いを晴らすことは困難を極めるだろう。ブラウはそのことを良く分かっていた。
「大人しく降伏すれば、殺しはしないわ。だから仲間にも降伏するように言いなさい」
ユズナは言った。全く同じ声だったので、船を操っている海賊達には、若い女が一人芝居をしているかのように聞こえていた。
「殺さないのではなくて、殺せないのよね?」
その言葉を打ち消すかのように、シオンはブラウの喉元に刀を突き付ける。しかし、二日前の朝にそうされた時と同じように、ブラウは「ヒヒヒ」と笑った。
「降伏しないと言ったらどうする気?そもそも、あなたに私が殺せるの?」
ブラウはそう言ってシオンを挑発した。シオンにとってユズナが特別な存在であると、見抜いているかのようだった。
シオンは眼を細めた。
(この刺客は危険すぎる……)
生かしておいては、必ずもっと大きな禍を引き起こすに違いない、とシオンは感じた。
白い首に突き付けた刃の先から鮮血が一筋、流れ落ちる。
「シオン、殺しては駄目よ」
本物のユズナがシオンを制する。しかしシオンは刀を退かなかった。首の脈に触れるか触れないか、ぎりぎりの所まで刃を突き、ブラウを睨み付ける。例え公子が公王殺しの罪で処刑されたとしても、この刺客は生かしておくべきではない、とシオンは考えた。
偽者のユズナの眼に、恐怖の色がわずかに宿る。
ちょうどその時、カダの長剣がシニスの短剣を払い落とした。最初は魔導を警戒し、その次には利き腕に傷を負ったために、勝敗を決する決め手に欠いたカダであったが、シニスには炎を吐いたりするような危険な魔導の力は無いと見抜き、自慢の長剣を振るい、力でねじ伏せたのだった。
「青二才にはまだ負けられんよ」
カダが剣先を胸元に向けると、シニスは膝を屈した。
「エリアァァス」
形勢の不利を悟ったブラウは、うわずった声で残った仲間の名を呼んだ。
魔導で水を操り、帆布に点いた火を消し終えたエリアスは、再びオビトと向き合っていた。
「降服しろ、エリアス。仲間がどうなってもいいのか?」
エリアスの魔導に対しては、手も足も出ないオビトであったが、他の刺客の動きが封じられたのを見て、強気な態度を示した。
「船を戻せ!お前らの負けだ!」
海賊達にも怒鳴りつける。
エリアスは水柱に立って、オビトを見下ろしている。水柱は船が進むのに合わせて、動いているようだった。
「相変わらず空威張りが得意だな、オビト……お前のそういうところ、昔は嫌いだったけどな、今はむしろ笑えるぜ……」
かつての学友は、余裕の笑みを浮かべている。
「客人、手出しは無用ってことでいいんですかい?」
海賊のヨシキが、エリアスに問いかける。しかし彼には、助太刀をする気など毛頭なかった。どうも客人達よりも、闖入者達の方が強そうだと、ヨシキは値踏みをした。闖入者達の目的は、不可思議な力で娘の姿に化けたクリミア人の一人にあるようだった。もしもクリミア人達の手に負えない相手だというのなら、その一人を闖入者に引き渡すのと引き替えにして、自分達は逃げればいい。残りの金は惜しいが、命には代えられない……。
「余計なことは考えずに、早く港から出た方が良いぞ、命が惜しかったらな」
エリアスの言葉を耳にして、ヨシキは訝しげに眉をひそめた。公国に軍船を出す兵力が残っているとは思えない。客人達が相手にしている連中の他に、彼らの命運を危うくするものがあるとは考えられなかった。
しかし次の瞬間、海賊の一人が悲鳴を上げた。
「あれを見ろ!」
彼が指し示す先には、伴走船の姿があった。
その船影は、波の静かな港の中にあって、不自然に傾いていた。
「ウミワラジだ!でかいぞ!」
伴走船に、巨大なウミワラジがとりついている。しかも一匹だけでは無い。左舷に三匹とりついているようだった。その重みで、船は大きく傾いている。
「港の中にどうしてあんなでかいのがいるんだ?」
ウミワラジはどちらかというと臆病な蟲である。船の行き交う港で姿を見せることはほとんど無い。一匹だけならまだしも、二匹、三匹となれば尚更である。
船上の海賊達はどうにかしてウミワラジを引き剥がそうとしているが、船は傾く一方だった。しかし別にウミワラジ達は、船を襲撃しようとしているわけではなかった。海の漂流物にはウミワラジの餌となる小さな蟲が巣くっていることが多く、彼らは海上に漂流物の影を認めると、それに取り付く習性があるのだ。
巨大な水飛沫を上げて、ついに伴走船は転覆する。乗っていた海賊達は皆、海に放り出された。ウミワラジは吃水が低くなって登りやすくなった船腹の上で、餌を物色し始める。そして海に落ちた海賊達には、ウミワラジとは別の、肉食の蟲が襲いかかった。
「うわあ」
母船の海賊が再び叫んだ。
いつの間にか母船の船の縁にも、巨大なウミワラジがとりついていた。濡れた触手がカリカリと舷側を引っ掻いている。
このままでは伴走船の二の舞になることは明らかだった。
「追っ払え!」
ヨシキは怒声を上げた。手下共が銛や竿で、船の縁から追い落とそうとしたが、ウミワラジの触手はがっしりと板に食い込んでいる。
「遊びの時間は終わりだ!オビト!」
水柱の上で、エリアスは高らかに叫んだ。
それと同時に、エリアスの背後の海面がうねり、持ち上がった。
魔導に操られた海は三角形の大波となり、船を包むようにして崩れ落ちた。
波の直撃を受けたウミワラジが船から引き剥がされる。蟲だけではない、波は甲板の上のあらゆるものに襲いかかった。
波に呑まれる寸前に、シオンは庇うようにしてユズナの身体を抱きかかえた。
波は濁流となって二人を押し流す。
オビトやカダ、海賊達、ブラウやシニスまでもが船の外に放り出された。
濁流は船から溢れ、海へと流れ落ち、船から落ちた人々をさらに海の中へ沈めようとする。
シオンとユズナは必死にもがいて海面に顔を出した。
同じように浮き上がった人々の中に、カダやオビトの姿を探す。
「オビトさーん!カダさーん!」
ユズナの呼びかけに、か細い声で、二人から返事があった。
カダは片腕を負傷しているので、立ち泳ぎを続けるのも厳しそうだが、どうにか命はとりとめていた。
「ブラウは?ブラウは何処?」
ユズナは刺客の姿を探した。公子を救うためには、生きたままブラウを捕らえなければならない。
その時、シュッ、と水が噴き上がる音がユズナの耳に入る。
蟲が襲ってきたのかと思い、身を強張らせる。
しかしそれは違っていた。波間に漂っていたはずの人影が、白い水柱と共に宙に舞い上がる。
それが自分に化けたままのブラウであると、ユズナは気が付いた。その姿は宙に弧を描くと、船の上へと消えて行った。
ブラウに続き、次から次へと海面に水柱が立ち、人が跳ね上がる。
エリアスが水を操って、船から落ちた仲間と海賊達を拾い上げているのだ。
当然だが、ユズナ達四人は置き去りにされる。
「どうやら海は、あいつの縄張りのようだな」
シオンはユズナに言った。それは、このまま戦っても勝ち目は薄い、という意味だった。
もっとも戦いを続けるにしても、船に上がれなければ、どうしようもない。
仲間達を船に引き上げ終えると、エリアスもまた、水柱の上から船へと移った。
「残念だが、決着はお預けだ。船をひっくり返される前に、我々は引き上げさせてもらうよ」
エリアスはオビトに向かって言った。
ウミワラジが海賊船を転覆させたのは偶然ではない。港の中に、海棲の蟲達が集まってきているのだ。そしてそれは、魔導具の力によるものだということは、ユズナ達にも容易に想像できた。
「また会おう、オビト。命があればな」
海賊船は、港の外へと舳先を向ける。風の力だけでなく、エリアスが操る波の力も使って進んでいるように見えた。
「クソッ!」
オビトが悔しそうに海面を叩く。
ユズナ達は、泳いで追いかけることも出来なかった。周りには、ウミワラジだけでなく、水中に棲む蟲の影がたくさんあった。このままでは海中に引きずり込まれ、食べられてしまう恐れがある。
今はまだ、転覆した伴走船から落ちた海賊達の方に、凶暴な蟲達は集まっているようだった。哀れな彼らは、母船に置き去りにされたのである。蟲達は思い思いに彼らに食いつき、引き裂き、肉片へと変えていった。
いずれはユズナ達も、彼らと同じ目に遭うに違いない。
四人揃って無事に陸に戻れるかどうか、全く分からなかった。
しかしちょうどそこへ、救いの手が現われた。
一艘の小舟が、蟲の影を巧みに避けながら、ユズナの元へとやって来る。
それはヨナの父親、コウだった。
「コウさん、どうしてここへ?」
漁で鍛えられた腕に引っ張られて、ヨナは小舟に上がった。
「探していたんだ。海賊達が引き上げたと思ったら、ヨシキの船の上にユズナさん達がいるのが見えたから、急いで追いかけてきたんだ」
コウは他の者にも手を貸して、舟の上に引き上げた。小さい船だったが、どうにか全員乗ることが出来た。
「おかげで助かったわ……でもどうしてこんな危ないことを……」
コウは眉間に皺を寄せた。
「トクが戻ってきた。でもヨナが……ヨナを助けて欲しい」
そう言うとコウは舟を漕ぎ出した。蟲の影は常に舟の下に見え隠れしている。
熟練の漁師の腕だけを頼りに、ユズナ達は港へ向かった。
その頃、北の砦では、蟲の群れを相手にした戦いが始まっていた。
街の外壁に押し寄せたヤスデの群れは、街を取り囲むように迂回し、群れの一部は外壁に取り付いてよじ登りつつあった。
砦の兵士達は幅の狭い外壁の上を走り、槍で蟲を追い落とそうと必死になっていた。
街から逃げる人のために開けられていた城門が、ついに閉ざされた。
刺客の探索を行っていた三百の兵士達は、北の砦以外の三方の守りへと百名ずつ回された。彼らは梯子で外壁に登り、北の砦の兵と同じように槍で蟲の侵入を防ごうとしていた。
しかし、圧倒的な数の蟲の群れの前に、壁の守りは徐々に崩される。
一人、また一人と兵士が壁から落ちて行く。外壁に沿って焚かれた虫除けの煙も気休めにしかならず、蟲はついに街へと侵入を始めた。
外壁の防御は断念され、壁の上に展開していた兵士達は北の砦の中に撤退する。
だがそうして砦に兵力を集中させても、砦の壁に寄せてくる蟲の相手をするだけで、たちまち手一杯となってしまった。
「ヤスデは数が多い、ギントウロウに狙いを定めろ」
ルガイが陣頭に立って命令を下す。偽者が現われた時に区別するための印として、首に将軍の印を提げたままだ。
「組の人数が五人より少なくなったなら、他の部隊と合流しろ。少ない数で戦ってはならんぞ」
矢継ぎ早に命令を下しながら、ルガイは砦の一番高い所にある見張り台へ向かった。
どうやら港の海賊は撤退したようだった。蟲の襲来に恐れをなしたのだろう、と砦にいる者達は考えていた。それは間違っていたが、たとえ公王を殺した刺客達が海賊船に乗っていると知ったとしても、手の打ちようは無かったことだろう。
「街の様子はどうか?民の避難は上手く行ったか?」
ルガイは見張りの兵に聞いた。
「残された者も少なくはありませんが、街門が閉まる前に、大半は脱出したようです……」
街の人々の退避が早く進んだ裏には、街長達の活躍があった。蟲が襲ってくるという公子の話を疑いつつも受け止め、万が一のための備えをするよう街の者に伝えていた街長も少なからずいたのだった。
(公子、あなたは正しかった……)
コハクの偽者が公王を殺害するのを目の当たりにした街長達を、ルガイは皆殺しにしようとしたが、コハクはそれを諫めたのだった。
公子はまだ、僧院にいるはずだった。僧院には地下に霊廟があり、蟲が襲ってきても一日か二日はそこに隠れていられると、シンレンは言っていた。
そのため僧達は、逃げ遅れた者を一人でも多く助けようと、僧院に留まって働いている。
「蟲が何処かに集まっている様子は無いか?」
ルガイは再び見張りの兵に聞いた。もしも蟲が一カ所に集まっているとすれば、そこに蟲寄せの魔導具があるはずだった。
「分かりません……何しろ数が数ですから……」
ルガイは舌打ちをした。
街が壁で囲われていることが、かえって蟲の進路を分かりにくくしているのだった。
古森から真っ直ぐやって来たヤスデの群れも、街の外壁にぶつかって散らばり、一匹ずつ異なった場所から街に侵入している。何処かを目指しているにしても、迷路のような街並に邪魔されて、行きつ戻りつしながら向かうことになる。
(むしろ、一気に北門から誘い入れるべきだったかも知れぬ……)
あえて蟲を北門から招き入れ、街の人々は南門から避難させる、とした方が良かったかも知れない。
(しかし、魔導具を止めても蟲が消えるわけでは無い。易々と招き入れては、竜騎兵が来る前に街が滅びてしまう恐れもある……)
ルガイは唸った。
彼の長い戦歴の中でも、こんな苦しい戦いは初めてだった。
副官が言った。
「ここで街が滅びるのを眺めているのですか、将軍。打って出ましょう」
街の中に残された民の中には、兵士達の家族もいることだろう。
「いや……魔導具の在処が分かるまでは出てはならん。それまではこらえるのだ」
ギシギシと耳障りな羽音を立てて、頭上を蟲が飛び去って行く。
「飛んでいる蟲の動きに注意しろ、地を這う蟲よりも早く、魔導具の元へ辿り着くだろう」
それからルガイは東の空を見た。陽はまだ低い位置にある。
(陽が天辺へ昇るまでに竜騎兵が来なければ、街は壊滅するな……)
将軍は口を固く結んだ。
魔導具が公邸で見つかり、ヨナが何者かに囚われたという話を、父親のコウは舟を漕ぎながらユズナ達に語った。
「公邸の中に魔導具が……そんなバカな」
そういうカダの声は驚きと憤りで震えていた。
「公子の部屋にあったというのね?」
ユズナはコウに確かめた。
「ああ、部屋の中にいた男達が、公子の部屋だと確かに言っていたらしい」
「その二人連れがヨナを……」
「自分の身を投げ出して、あの子は弟を逃がしたんだ……」
小窓から逃げ出したトクは、庭を抜け、塀の側にあった木に登り、枝から塀に飛び移って公邸から脱したのだった。その後、部屋に残された姉がどうなったのか、知る術は無かった。そして家に向かう途中、子ども達を捜していた父親と会ったのだった。
「トクが言うには、一人は顔を隠していたが、もう一人はクリミア人のようだったらしい」
「クリミア人……レゴリスかしら」
ユズナの言葉に、オビトが頷いた。
「おそらくは……」
ヨシキの船に乗り込んできた刺客の中に、レゴリスの姿は無かった。理由は分からないが、まだこの街にいるということだろう。
「ヨナを助けに行かなきゃならないが、俺一人じゃ無理だ。ユズナさん達に力を貸して欲しくて、探していたんだ。魔導具が公邸の中にあるなら、きっと一緒に行ってくれると思ってな」
コウはそう言うと、小舟を岸壁に着けた。
「魔導具があろうと無かろうと、必ずヨナを助けに行きます」
ユズナは言った。
「ありがとうよ……」
「お礼を言うのはまだ早いです」
そう言ってユズナは岸壁を登った。
街はもう、人の住む所ではなくなっていた。蟲の匂いが鼻を突く。どこからともなく、蟲の蠢く音がすると思うと、海から大型の蟲が這い上がって来る。
右を見ても、左を見ても、煙が立ち上っている。海賊の放った火や、逃げ遅れた人々が蟲を退けようとして点けた火が燃え広がり、街を灰に還そうとしている。
「ひどい……」
ユズナは声を詰まらせた。
「我々だけで、公邸へ向かいますか?」
カダが言った。
「北の砦にまだ、兵が残っているかも知れません。ルガイ将軍も、おそらくは砦にいるでしょう」
カダの意見に、ユズナは迷った。味方は一人でも多くいた方が良い。しかし、砦が無事かどうかは分からないし、魔導具は一刻も早く止めなければならないのだ。
「二手に分かれましょう……カダさんとコウさんは、北の砦に行ってください」
ユズナはあえて、手勢を分ける道を選んだ。
こういう時は、一番悪い事態を考えて動かなければならない。魔導具が公邸にあるということを知っている人間は、ユズナ達だけである公算が高い。今は戦力を集中させることよりも、報せを流布させることの方が大切だと、ユズナは考えた。
「三人で公邸へ行くのですか?」
カダは不安そうな表情を浮かべた。ユズナもシオンもオビトも異邦人である。公邸の中へ入ることが出来るかどうかすら、定かでは無かった。
「私の顔を覚えている人もいるでしょう。それに、いざとなれば力ずくで押し通せば大丈夫よ。でも砦の兵を動かすには、カダさんの力が必要でしょう」
「俺も公邸へ行きたい。ヨナが心配だ」
コウもまた、異を唱えた。
「ひとまずヨナのことは、私に任せてください」
ユズナはそう言って父親を諭した。腕に手傷を負ったカダを一人で砦に向かわせるわけにはいかなかった。
「砦の兵士やルガイ将軍の力も借りた方が、ヨナを助けやすくなります」
コウは渋々頷いた。
そして滅びつつある街の中を三人は公邸へ、二人は砦へと走り出した。
港の近くでは、ウミワラジが多く見られたが、街の中へ進むにつれて、様々な蟲の姿が目に入ってくる。
子ども達が遊んだであろう路地も、今はヤスデやナナフシが何の遠慮もなく歩いている。
失われてしまったものの大きさを思うと、ユズナは押しつぶされそうになった。
「どうしてこんなことに……」
思わず足を止めたユズナの耳元で、シオンがそっとささやく。
「行こう」
「ええ、そうね」
ユズナは涙をこらえて頷くと、シオンを追いかけた。
その背中を見ていると、ユズナの心は次第に落ち着きを取り戻してきた。どんな言葉をかけられるよりも、シオンの背中を見ている方が、ユズナにとってはずっと効き目があった。
これまでもそうだったし、これからもきっとそうだろう。
公邸のある街の中心へ近づくほど、蟲の数は増えているようであった。やはり魔導具は公邸の中にあるのだろう。
ユズナ達が堀割に架けられた橋を渡ると、一匹のギントウロウが眼に入った。
「大きい……」
ユズナは思わず息を呑んだ。ギントウロウは二階建ての民家の屋根を悠々と見渡しながら、その長い足で塀を一跨ぎしている。
昨日、アンユイ邸の地下で相手をしたギントウロウよりも二回りは大きい。まるで人間の大人と子どもくらいの差があった。
その巨大な蟲はユズナ達にはまだ気が付いていない様子だった。ギントウロウは好戦的な蟲である。自らが定めた縄張りの中に、ひとたび敵と見なした生き物がいると、必ず襲いかかってくる。
「今は相手にしたくないな。やり過ごそう」
シオンは小声で言った。
橋の袂にいると目立つため、三人はギントウロウの後ろへ回り込もうとした。
しかしその時運悪く、堀割の中で一匹のウミワラジが水飛沫を上げた。
森の暴君は鋭い眼を堀割へ向ける。
そして、己の背後へ忍び寄ろうとしている人間の姿を認めると、ギギギと顎を鳴らして敵意を露わにした。
「逃げろ」
シオンが言うと、三人は駆けだした。堀割沿いの開けた道から、路地へと入る。
ギントウロウは羽根を広げ、宙へと舞い上がった。体の向きを変えるにはその方が早いと判断したのだろう。
壁に挟まれた道に潜む獲物に狙いを定め、急降下する。
「まずい!」
羽音を聞き、逃げ切れないと悟ったユズナ達は足を止め、頭上から迫り来る巨大な蟲の動きを見定めた。そして振り下ろされた鎌を、地に身を投げ出すようにしてかわした。
森の暴君は再び威嚇するように顎を鳴らすと、鎌を振り上げる。
ユズナが天を仰ぐと、蟲の影の向こうに、空のかけらが見えた。青い空、綿のような雲の切れ端……その間を、何かが飛翔している。
「あれは……」
ギントウロウの鎌が振り下ろされる。
「危ない!」
シオンがユズナの身体を抱え、もつれるようにして地面を転がった。
空振りした巨大な鎌は、踏み固められた路地の土を深くえぐった。もしもシオンが飛び込んでこなかったら、ユズナの身体もその土塊のようになっていたに違いない。
しかしユズナは今、自分が九死に一生を得たということよりも、その刹那に目にしたものに気をとられていた。
ユズナはもう一度空を見上げた。
すると今度はより鮮やかに、その姿を目にすることが出来た。長く伸びた首、四つ足を備えた強靱な体躯、首よりも長い尾、巨大な翼。
「竜騎兵!」
竜騎兵もまた、先ほどからユズナ達の姿を認めていたようだった。旋回しながら下降してくる。そして大きく翼を羽ばたかせ飛行を止めると、宙に浮揚した。
竜の翼の音を察知して、ギントウロウもまた空を見上げる。
蟲と竜、二つの巨大な生き物の視線が交錯し、火花を散らす。
〈キシャアアァァ!〉
竜は牙をむき出しにして、咆哮を上げる。
〈ギギギッ〉
森の暴君もまた竜を威嚇するように、体を伸ばし、左右の前足の鎌を広げた。
他の蟲だったなら、それは虚勢にしか見えなかっただろう。しかし今ここにいるギントウロウは、身体の大きさも、相手を威圧する迫力も、決して竜に見劣りはしなかった。
ユズナ達は狭い路地を先へ進むと、手に汗を握りつつ、振り返って戦いの成り行きを見守った。
竜は宙に浮揚しながら、ギントウロウを睨み付けている。竜の首の付け根に、騎手のための鞍が据えられていて、竜騎兵が手綱を握っている。鞍は馬の背に乗せるものよりも二回りほど大きい。背中ではなく、首の付け根でもその大きさの鞍が必要なのだから、竜はやはり巨大である。
(ギバさんかしら……)
竜はギントウロウの真上に迫ると、翼の羽ばたきを止め、落下する勢いを利用してその強靱な後ろ足で襲いかかった。
ギントウロウもまた、己の最大の武器である前足の鎌を振り、応戦する。
竜といえども、その一撃をまともに喰らっては、ただではすまない。再び翼を動かして、体を浮かせる。
〈ギギッ〉
森の暴君の鎌は虚空を斬った。竜の翼が巻き起こす風が路地を吹き抜け、ユズナ達は息を詰まらせた。
〈キシャアァ〉
竜は後ろ足での攻撃を、何度も試みる。ギントウロウも、退くことなく、鎌を振るう。
膠着したかのようにも思えた、人外の生き物の戦いは、一瞬で決した。
竜の攻撃は単調に見えながらも、少しずつ呼吸を変え、間合いを詰めていた。
その後ろ足は、ユズナ達の眼には、ギントウロウの胴を狙っているかのように映っていた。狙われている当のギントウロウもそう思っていたことだろう。
しかし、それは見せかけに過ぎなかった。
竜の後ろ足が捉えたのは、振り抜いた直後のギントウロウの鎌だった。
「ああっ!」
意表を突かれたユズナは、思わず声を上げた。
次の瞬間、森の暴君の巨大な体躯が宙に舞った。
竜が軽く足をひねっただけで大きく反転し、堀割の上に叩きつけられる。その振動が、ユズナ達の足下まで伝わって来た。
仰向けになったギントウロウは決死の抵抗を試みるが、それが形を成す前に、竜の顎に頭を噛み砕かれた。
暴君の最期らしく、頭を失っても鎌を振り回したが、もはやその攻撃が竜の体を傷つけることは無かった。
竜はギントウロウの前足の付け根に噛みつき、グイと首を上げる。前足の関節が外れて、中の白い筋がぴんと伸びる。
ユズナ達は、竜の元へと駆け寄った。
竜の騎手もまた、ユズナの姿を認める。
竜に乗ったまま飛行用の面覆いを外すと、その下からは、知った顔が現れた。
「ギバさん……やっぱりギバさんね……」
「ユズナ殿、ご無事で」
「助けてくれて、ありがとうございます」
「礼ならば、私の友であるこの竜へ言ってください。あなたの匂いを覚えていたようです」
ギバの言葉が通じるのか、竜はユズナの方へ顔を向けた。口にはギントウロウの前足が咥えられている。
愛想というものから、最も遠い顔立ちをした生き物に、ユズナは微笑みかけた。
「ありがとう」
竜は無表情のまま、鼻で大きく息を吸った。そしてバリバリと獲物の咀嚼を続ける。
ユズナは再び騎手であるギバを見上げた。
「ギバさん……ギバさんだけですか?他の竜騎兵は?」
「僧院からの狼煙が上がっておりますので、もう間もなくやって来るでしょう。私が一番近くを飛んでいたようです」
「そう……お願いを聞いてもらえるかしら?急いで公邸に行きたいの。蟲たちを引き寄せる魔導具というものがあって、それを止めなければならないの」
ユズナはなるべく少ない言葉で、ギバに状況を伝えた。
「なるほど、それでこの有様というわけですか……」
ギバは周囲の惨状を見回した。
「しかし公邸まで飛ぶにしても、全員を竜の背に乗せるのは難しそうですな……殿方のお二人は、足に掴まっていただけますかな?」
ギバが言うには、竜の後ろ足を裏側から抱きかかえるようにして掴まれば、踵のくぼみに腰を降ろすことが出来る、とのことだった。
「その前に皆さん、そこの家で、竈から灰を出して全身に浴びてください」
「灰を?どうして?」
「客人を乗せていては、先ほどのような大立ち回りは出来ませんからな。蟲が寄って来たら竜焔を使います」
「リュウエン?」
ユズナが首を傾げると、シオンが言った。
「聞いたことがあるだろう。何ものをも溶かすと云う、竜の息だ」
「そのとおり……さあ、早く。灰まみれでは見栄えは悪くなりますが、融かされるよりは良いでしょう。灰が竜焔を弱めてくれます……顔も忘れずに」
ギバにうながされて、三人は近くの民家へ走ると、竈から灰を掻き出して全身に振りかけた。汗ばんだ顔もたちまち灰色に染まる。
「ギバさんは平気なの?」
「私の服は灰汁で染めてありますし、顔も隠しますから……さあ、こちらへどうぞ」
ユズナは竜の背に登り、ギバの後ろへ座った。シオンとオビトは、それぞれ竜の後ろ足に掴まる。
ギバは手綱を引いた。
「行くぞ!カムイ!」
高らかに竜の名を呼ぶ。
「戦を始めよう」
竜は天を仰ぎ、雄叫びを上げた。
それは、生きとし生けるものに対する、破壊と暴力の宣言であるかのように思われた。まるで水に投じた石が生む波紋のように、輪となって広がり、街の大気を震わせる。
それからカムイはゆっくりと翼を広げると、宙へと浮揚した。
公邸を中心として、蟲が集まっているという事実。
それには、北の砦の見張り台にいる兵達も気が付いていた。
しかしルガイ将軍は、魔導具が公邸にあるという考えを素直に受け入れることが出来ずにいた。
(いつ……誰が……どうやって……)
疑問が輪になって、にわかには信じがたいという思いを強くする。
公邸へ兵を向けるということに対する畏れもあった。もし魔導具が見つからなければ、公族へ叛旗を翻したと思われても仕方が無い。公族への厚い忠誠心が、ルガイの眼を曇らせているのであった。将軍だけでなく、砦の兵達も、多かれ少なかれ同じような思いを抱いていた。
カダとコウの二人が北の砦にたどり着いたのは、ちょうど砦全体がそうした煩悶の空気に覆われている時だった。
二人の話を聞き終えると、将軍は深く息を吸った。
「よく知らせてくれた」
その顔からは、迷いが消えていた。眼には鋭い光が宿っている。
「あれは公邸にあるのだな」
そして見張り台からは、竜騎兵が現れたという報せが入る。
「何騎だ?」
「一騎だけです」
「今何処に居る?」
「ハンカラ橋の付近で、ギントウロウを一匹、相手にしています」
見張りの兵の言葉に、カダは目を見開いた。
「ハンカラ橋……もしかしたら、ユズナさん達を見つけたのかも知れません」
その橋は公邸の東、港との間にあった。カダと別れた場所から公邸を目指すならば、ユズナ達はその橋を通ることになるだろう。
「そうか……」
「どうしますか、鏑矢と狼煙を使ってこちらへ呼びますか?」
副官が進言した。たった一騎とはいえ、竜騎兵は重要な戦力である。魔導具を止めるため、砦の兵を公邸へ向けて出撃させるのならば、合流した方が良いに違いなかった。
「否」
将軍は言った。
「ユズナ殿も公邸へ向かっているというのならば、砦へ呼んでしまっては時間の無駄だ」
ハンカラ橋は公邸の東、砦は公邸の北に位置している。それぞれの場所から公邸を目指すとすれば、合流する地点は公邸以外には無い。
「ですが、本当に一緒かどうかは分かりません」
副官が反論したちょうどその時、竜の咆哮が砦を揺らした。年若い兵達は皆、初めて耳にするその轟きに怯えた。
ルガイはその叫びの意味を知っていた。それは、竜が戦いに挑む時に上げる雄叫びだった。目の前に立ちふさがる、ありとあらゆる敵を蹂躙すると告げるためのものだ。
見張りの兵が続報をもたらす。
「竜騎兵は竜焔を吐きながら、公邸へ向かっています」
「竜焔だと?街の中で竜焔を使っているというのか?」
副官は驚きの声を上げた。竜騎兵が街の中で竜焔を使ったなどという話は聞いたことがない。
それはつまり、竜騎兵には是が非でも公邸へ向かわなければならない理由があるということだ。
「間違いないな……」
竜騎兵は異国の姫君と一緒にいる、ルガイはそう確信した。
「いずれにしろ、魔導具が公邸にあると分かった以上、我々のやることはただ一つだけだ」
将軍は立ち上がった。
「兵達に出撃の仕度を整えさせろ」
将軍は兜を被り、緒を締めた。
「これより公邸へ向けて突撃する。竜騎兵に後れを取るな。道を塞ぐものは蟲だろうと何だろうと、すべて蹴散らせ。最後の一兵になっても進軍を止めてはならん」
これまでの戦いで、五百余りいた兵は、既に二百にまで減っていた。
しかし、苦戦を強いられながらも、兵達の士気はかつてないほど高まっていた。
彼らが恐れるのはただ、自分達が生まれ育った街が滅びるのを、このまま指をくわえて見ていることだけであった。
太鼓が鳴り響き、砦の門が開く。
将軍は最後の命令を下した。
「死に様に悔いを残すな」
一本の鋭い矢のように、兵達は突撃を開始した。
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