第6話

 昼過ぎになると、空は灰色の雲に覆われた。

 大粒の雨が、点々と石畳に黒い染みをつくる。

 雨は次第に激しくなり、稲妻が走った。

 アンユイの屋敷は、昨日シオンがレゴリスを見失った路地の近くにあった。

 先代まではロントン随一の富豪だったというだけあって、大きな屋敷だった。

 屋敷に忍び込むための仕度を調えたユズナ達は、屋敷を取り囲む高い壁を廻って、侵入するのに適した場所へ向かっていた。雨よけの衣を纏っているおかげで、異邦人であるオビトも、人目を避けることが出来た。

 やがて一行は、人通りの少ない路地に入った。

「それじゃあ、行くわよ」

 早速ユズナはシオンに肩車をしてもらい、壁をよじのぼる。

 姫が泥棒の真似をしているのを知ったら、テパンギの者は皆呆れるだろうな、とシオンは思った。それとも、いかにもトコユノハナヒメらしいと思うだろうか。

「えいやっ」

 ユズナは壁の向こうに飛び降りた。そこは大きな庭だった。ユズナは綱を庭の木に結ぶと、その片端を外に投げ返した。

 シオン、オビト、カダの順に壁を登る。全員が忍び込んだ後で、綱を忘れずに回収する。

 アンユイの屋敷は、広さそのものについて言えば公邸ほど大きくはなかった。しかしその代わり、庭には風変わりな石像や建造物がたくさんあった。

 蛇に巻き付かれた裸の女の像や、融けた飴のようにぐねぐねとした形の石橋などが目についた。

「おかしな屋敷ね、ここは」

「アンユイ候の祖父の趣味で、このような庭になったと聞きました」

「そう……」

 今の当主はあまり庭の手入れに熱心では無いのか、かつては磨き上げられていたであろう石像には蔦が巻きついている。そしてそれが一層、この庭の不気味さを深めていた。

 倉は庭と母屋の間に建っていた。倉とはいえ、港の宿屋の二倍ほどの大きさはある。

 扉には、頑丈な錠がついていた。

 シオンが言った。

「少し、時間がかかる。隠れていた方がいい」

 シノビ一族は鍵を開ける技を持っている。カダが街で買い集めて来た道具を、シオンは足下に並べた。残りの者は、それぞれ木や石像の影に身を潜める。

 厚い雨雲と雷雨が、人の気配を消してくれていた。

 しばらくして、錠を開けたという合図が、シオンから送られると、皆は急いで倉の中に入った。

 薄闇の中、カダが火打ち石を鳴らす。

 ろうそくの灯りに、倉の中の荷が、ぼんやりと浮かび上がった。たくさんの木箱と、無造作に布をかけられた荷が置かれていた。

 布をめくると、剥製にされた獣の作り物の眼が光って、ユズナを驚かせた。

「まったく、悪趣味ね」

 ユズナはしかめっ面をした。

「それにしても、これを全て調べるのは時間がかかりそうね」

 オビトが言葉を返す。

「魔導の力を試すために、一度は箱から出して組み立てたはずですから、箱の中に戻してあるとしても、そう奥には無いと思います」

「そうね。とにかく探してみましょう」

 四人はそれぞれ手分けして、倉の荷を調べた。

 しかし、荷の中身は酒瓶や毛皮、ガラス製品といった目録に記されていたのと同じ物ばかりで、目に付く所に置いてある木箱の中からは、魔導具と思われる物は見つからなかった。

 あとはもう、木箱を動かして、奥にある荷を調べるしかない。

「どうしましょう……見込み違いだったのかしらね」

 その時、一体の剥製を調べていたシオンが言った。

「あった……これだ」

 それは熊の剥製だった。蟲と同じ森に棲み、魚や小動物を食べて生きている動物だ。テパンギにいる熊よりも小柄だったが、それはたまたまこの熊が若かったせいかもしれない。背はユズナと同じくらいで、二本足で立ち、両手を挙げて威嚇している姿をしていた。

「これがどうかしたの?」

 ユズナの眼には、ただの剥製にしか見えない。彼女はふと、テパンギの山賊達に「熊殺しの姫」と呼ばれていたことを思い出した。彼らは、熊にばったり出遭った時は「熊が出た」と叫び、トコユノハナヒメに出遭った時はその三倍の声で「熊殺しが出た」と叫ばなければならないという掟を持っていた。花も恥じらう乙女にとっては、失礼極まりない話だ。

 シオンは言った。

「床に擦り跡がたくさんある。おそらく、こうやって付いたんだ」

 そしてシオンは剥製に手をあて、ゆっくりと体重をかけた。

 床と台座が擦れ合う音が、倉に響いた。

 剥製の下の石床を確かめると、四角い切れ込みが入っていた。切れ込みの一端に、小さな凹みが彫ってある。

「その辺に、鉤棒のようなものが無いか?」

 皆で探すと、シオンの言うとおり鉄で出来た鉤棒があった。シオンはそれを石床の凹みに引っかけると、持ち上げた。石床が剥がれて、ぽっかりと四角い穴が現れた。

「秘密の抜け穴ね……隠し倉かしら?」

「多分……」

 ユズナは穴をのぞき込んだ。人の手で地面を掘り抜いて出来た穴のようだった。固い地盤のようで、石や煉瓦で舗装はされていない。木箱を通すことが出来るほど大きく、真っ直ぐ下に降りていた。

 どのくらいの深さなのかは分からない。カビの匂いが、冷たく湿った風に乗って、ユズナの頬を撫でた。穴には綱の梯子が下がっていた。

 シオンが布きれにろうそくの火を点け、穴の中に投げ入れた。火はゆっくりと落ち、やがて止まった。

「かなり深い。六ヒロ(約十二メートル)はありそうだ……火が消えないということは、息は出来そうだな。広さまでは分からないが……」

「行きましょう」

 ユズナが言った。

「カダさん。あなたはここに残ってください。誰かがこの綱梯子を引き上げるだけで、簡単に閉じこめられてしまうから。それともし、私達が戻らなければ、将軍にその旨を伝えてください」

「分かりました……援護の兵を連れてくれば良いですか?」

「それは将軍が決めることです」

 カダはユズナの言葉に黙って頷いた。

 シオンは懐から細長い糸を取り出した。それを二つに折ると、ちょうど真ん中の所で切った。同じ長さの糸が二本出来る。

 蝋が練り込まれているその糸に、シオンは火を点けた。そして、その一つをカダに渡す。

「この糸が燃え尽きても、俺たちが戻らなければ、将軍の所へ行ってくれ」

 もう一つの糸を、シオンは紐のついた小さな筒に入れ、首から提げる。

 ユズナは腕を上げて背伸びをした。

「では、行くとしましょう」

 シオン、ユズナ、オビトの順で綱梯子を降りる。

 穴には充分な広さがあるので、息苦しくはなかった。しかし、下に行くにつれて、カビと埃で濁った空気が肺を満たし始めた。

 底に着くと、シオンは先ほどの糸を火種にしてろうそくを灯した。

 穴の底は、三人が並んで立つことが出来るくらいの広さの小部屋になっていた。床は板敷きで、先ほどシオンが投げ入れた布の燃えかすが落ちていた。

 ユズナが見上げると、心配そうにしているカダの顔が見えた。

「隠れていてください」

 ユズナは小さな声でそう言いながら、手で合図を送った。カダは頷くと姿を消した。

「荷を隠すだけにしては、深い穴ですね」

 オビトが言った。

「そうね」

 上の倉とは、縦穴で繋がっているはずなのに、まるで違う世界に足を踏み入れてしまったかのような気がする。

 小部屋には横穴が一つあって、奥へと続いている。縦穴と同じように、人の手で掘られた穴のようだった。下には板が敷き詰められているが、壁や天井部分は岩盤が剥き出しになっている。

 シオンが覗くと、吹き出てくる風でろうそくが消えそうになる。

 灯りが届くところよりもさらに先へと、穴は続いていた。直ぐに行き止まりになるかも知れないし、黄泉の国まで続いているかも知れない。ユズナは身震いした。

「どうやら母屋の方へ向かっているようです」

 シオンは言った。

「母屋の方?……隠し倉では無くて、抜け道なのかしら?」

「そうかも知れないな……」

 横穴には荷を通すだけの幅はあったが、人が立って歩けるほどの高さは無い。

 三人は身をかがめて穴の奥へと進んだ。シオンが先頭に立ち、ユズナとオビトが後に続く。穴の奥から風が吹いてくる。

(風が来るということは、この先の何処かが、地上へと通じているということよね)

 少なくとも、空気を取り入れるための穴が、入ってきた穴とは別に、もう一つあるに違いなかった。

 八ヒロ(約十五メートル)ほど進んだところで、横穴は終わった。

 横穴を抜け出ると、そこには地下とは思えないほどの空間が広がっていた。

 灯りが届かなくとも、空気の流れによってその広がりを感じることが出来た。

 板の通路は横穴から出て、ろうそくが照らす光の領域のさらに先へと続いている。

 横穴の出口は、岩壁をくり抜かれて出来ていた。横穴の周辺の岩盤は、磨かれたように滑らかになっている。しかし滑らかになっているのはその横穴の部分だけで、板の通路の下の地面はごつごつとした岩肌が広がっている。

「まるで洞穴みたい……」

 シオンは石ころを一つ拾うと、上に放り投げた。わずかな間の後に、かつんという石と石のぶつかる音が響いた。

「洞窟に人の手を加えた、というところかな」

「つまり、この洞窟への通り道を造るために、縦穴と横穴を掘ったということかしら?」

「おそらくは……」

 荷運びをしているわけでは無いので、もう板の上を歩く必要は無かったが、三人はろうそくの灯りを頼りに板の通路をそのまま進んだ。もしも魔導具がここへ運び込まれたとするならば、通路を辿った方が見つけやすいはずだった。

 二十歩ほど進むと、通路が二つに分かれているのが見えた。

 真っ直ぐに続いている路と、直角に右へと曲がっている路がある。

 板にはところどころ新しく張り替えた跡があった。損耗が激しい証しだ。

「荷を運ぶだけで、そうそう板が割れるはずないけどな……」

 シオンは分岐点で立ち止まると言った。

 それから三人は真っ直ぐ続いている路を選んで進んだ。二十歩ほど歩くと、岩の天井が低くなり、壁に突き当たった。

 壁には扉が付いている。鉄で出来た扉だ。押しても引いても開かなかった。

 シオンが言った。

「向こうから閂がかかっているようです。」

「内側から?」

「外側から、と言った方が良いかな。屋敷へ通じている抜け道だと思う……」

 シオンは言った。もしもこれが隠し倉の扉ならば、倉の中から閉じられているはずはない。

「それじゃあ、さっきの路を曲がれば、倉があるのかしら」

「おそらくは……」

 三人は板の通路を後戻りせず、今度は通路から外れて壁沿いに歩くことにした。

 洞窟全体は、例えるならば、お椀を伏せたような形をしているようだった。

 三人が壁沿いに一回りしてみると、相当な広さがあることが分かった。

 奥行きは二十ヒロ(約四十メートル)ほどの長さがあり、幅はそれよりも少し短いくらいだった。

 床は平らではなく、不規則に岩が盛り上がっている。人の手で掘られたのでは無い証しだろうと思われた。何処からか、水が浸み出ているのだろうか、ところどころ雨上がりのように濡れていた。

 どれほど昔から使われているのかは分からないが、時間をかけて人の手を加えた跡もあった。

 ユズナ達が通った横穴のある壁の正面に、屋敷への抜け道ではないかとシオンが言った、外側に閂がかかっている一枚扉がある。

 今は塞がっているが、扉には覗き窓のようなものがついている。それと、扉の両脇の壁には、松明を入れるためのものと思われる鉄籠が取り付けられていた。

 扉はあと、二つあった。

 二つ目の扉は、ユズナが予想したとおり、分岐した板の通路の先と繋がっていた。重厚な両開きの扉で、閂と錠が降りていた。

「ここが隠し倉かしらね」

 それについて、異議を唱える者はいなかった。

 三つ目の扉は、隠し倉の向かい側にあった。異様な外観をしていて、はたして扉と呼ぶべきかどうか、それすらも確かではなかった。

 それは人の背丈の倍はある、大きい円形の鉄板だった。岩壁に埋め込まれていて、鍵穴も、蝶番も見えない。大きさを考えれば、両開きの扉であるはずだが、鉄板には切れ込みが入っていない。もしかしたら、扉では無いのかも知れない。

 シオンはその鉄板に耳をあてた。

「音がする。中に……何かがいるようだ」

 その時、ゴロゴロと、何かが転がるような音が轟いた。

 次の瞬間、雷が落ちた時のようなけたたましい音が耳を打った。しかし目の前の円形の鉄板には、何の変化もない。

 どうやら横穴の方で、何かが起きた様子だった。

 戻ってみると、横穴が岩で塞がれていた。

「何処から岩が……」

 突然現れた岩に、ユズナは驚きを隠せなかった。

「上からだな……」

 岩の上には鉄の鎖が付いていた。鎖は真っ直ぐ上に延びている。きっと天井に穴が掘られていて、岩石はその穴を通して地上から落とされたのだろうと思われた。

「だめだ、動きません」

 オビトは岩を懸命に押してみたが、びくともしない。

「人の手で、上げたり下げたりしているのかしら?」

 ユズナはシオンに聞いた。

「滑車を組み合わせれば、二人くらいでも動かせるだろう。屋敷の者が皆、この洞窟のことを知っているはずは無い」

 皆が知ってしまえば、隠し倉の意味が無くなってしまう。

「いずれにしろ、閉じこめられてしまったようね」

「そうだな……巧い仕掛けだ……」

 シオンは横穴からこの洞窟に抜け出る際に、侵入者を閉じこめる仕掛けが無いかどうか確かめていた。隠し扉のようなものがあれば気がついたはずであったが、このような方法で閉じこめられるとは考えていなかった。

「これからどうしましょう?」

 オビトがもっともな疑問を口にした。

 シオンは首から提げた筒に入っている火の点いた糸を確かめた。もう間もなく糸は燃え尽きようとしていた。

「カダさんは、無事かしら」

 ユズナが言った。カダがまだ無事ならば、三人が閉じこめられたことを将軍の所へ報せに行ってくれるだろう。

「援軍をあてにしても仕方ない……それに、ただ閉じこめられたわけでは無さそうだ……」

 シオンが言った。

 オビトは辺りを見回して、叫んだ。

「誰かいるのだろう!出てこい!」

 するとその声に応じるように、洞窟の中が、明るくなった。

 岩にふさがれた横穴の向かい側にある、鉄の扉の両脇で、松明が眩しいほどの炎を宿していた。

 誰かが、鉄の扉の向こうにいる様子だった。

 三人は、洞窟の真ん中まで歩を進めた。鉄の扉の覗き窓が開いている。二つの眼がこちらを見ていた。

「これはこれは、驚いたな……テパンギの姫君ではありませんか」

 アンユイの声だと、ユズナには分かった。

「お供の方は誰ですかな、一人はクリミア人のようですが……」

 オビトは一歩前へ進み出た。

「我が名はオビト、クリミア人だ。帝国の法により、交易を禁じられている品がここに運び込まれたという話を聞き、調べに来た。こちらの二人には、手を貸してもらっているだけだ」

「交易を禁じられている品……なるほど、そう言うことですか」

「身に覚えがあるのなら、我々に引き渡すがいい」

「オビトさんとやら、随分と勇ましいことを言ってますが、あなた方はご自身が今何処にいるのか分かっておられるのですかな?私に命令できるような立場ではありませんよ」

 アンユイは言った。

「この仕掛けは祖父が造ったものですが、今まで生きてそこから出た者はいません……」

 それから彼は、下品な声で笑った。

「ですが、そちらのお姫様だけなら助けてあげますよ。身体を差し出して命乞いをなさるならね」

 ユズナはその小さな鼻にしわを寄せた。

「お断りだわ」

「そうですか……それは残念です」

「我々がここから戻らなければ、兵士がやってくるぞ」

 オビトは得意なはったりを言った。

「なるほど、それでは兵が来る前に、早く掃除をすることにしましょう」

 そう言うと、アンユイは一旦、覗き窓から離れた。

 ゴリゴリという音がして、左の壁にある大きな鉄の円盤がゆっくりと横に転がり始めた。隙間から、腐った銅のような酸っぱい匂いが流れ出てくる。

 松明の明かりが、その部屋の中にある何かを照らす。

 細い丸太のような、銀色の足が何本か見えた。

「まさか……ギントウロウ?」

 ユズナが、驚きの声を上げる。

「そのとおりです」

 アンユイは再び覗き窓からこちらを見ていた。

「祖父はこうして泥棒を蟲に食べさせるのが好きでした」

 侵入者が逃げまどいながら、蟲の餌食となるのを見物するための仕掛け、ということなのだ。

「本当に趣味が悪いわね」

「もう一度だけ訊きましょう。命乞いをする気はありませんか?」

「そんなことするくらいなら、蟲に食べられた方がましだわ」

「随分と嫌われたものですね。それではお望み通りに……」

 円盤はゆっくりと転がり続ける。

 扉が完全に開くと、ギントウロウはその姿を完全に現した。

 細長い胴体は、馬の倍ほどの長さがあった。胴体の真ん中からは四本の長い足と、先が鎌状になっている二本の腕が生えている。胴体に比べると頭は小さく、その大部分は二つの楕円の目に占められている。

 その銀色に輝く全身は、薄暗い地下にあっても森の暴君としての威厳を保っていた。

 ギントウロウは侵入者の姿を認めると、ゆっくりと広間の中に入ってきた。

 すると先ほどまでは大きく感じていた洞窟が、少し窮屈なように思えてきた。人間ならば端から端まで数十歩かかったとしても、ギントウロウなら一跳ねすれば良い。

「部屋の隅に、伏せているんだ」

 シオンは二人に言った。そして刀を抜くと、鞘を放り投げる。首から提げていた筒も、紐を引きちぎって捨てた

 ユズナは言われたとおり、オビトを部屋の隅に連れて行った。

「一人でどうするつもりです」

 オビトは言った。

「もちろん、狩るつもりよ」

「そんな無茶な。ギントウロウですよ」

「いずれにしろ、私達は邪魔なだけだわ。シオンを信じましょう」

 シオンは刀を両手では構えず、片手で握ったままギントウロウの前に立っていた。ギントウロウの鎌は鉄のように硬い、刀で受けてはたちまちの内に刃こぼれしてしまう。なるべく間合いをとって、かわすのが一番だ。

 しかしギントウロウが洞窟の中に出てくると、もうシオンは壁を背にするしかなかった。ギントウロウがその長い腕を伸ばせば、シオンを捕らえることが出来るだろう。

 シオンはゆっくりと、ユズナ達がいるのとは反対の方へ足を運んだ。ギントウロウはその姿を追って身体の向きを変える。

 松明の灯りがギントウロウの影を壁に映す。大きく膨らんだその影に押しつぶされるかのように、シオンは己の膝を曲げた。

「危ない!」

 オビトが叫ぶのと同時に、ギントウロウは必殺の一撃を繰り出した。両方の鎌で挟み込み、獲物を捕らえようとする。

 しかしその瞬間、シオンは跳躍した。

「せいっ!」

 伸びきったギントウロウの腕を踏み台にして、もう一度跳ぶ。そして空中で刀を振り、ギントウロウの右眼を斬った。

 獲物の反撃に、森の暴君は体をのけぞらせた。でたらめに鎌を振り回したが、地面に降り立ったシオンは身体を低くしてかわした。

 ギントウロウは残された眼で再びシオンを捉えると、顎をこすり合わせて歯ぎしりのような音を出した。怒りを表す時に出す音だ。

 シオンは蟲の死角へと回り込むように歩を進める。だがすぐに壁に行き当たってしまった。

 再び獲物を追い込んだギントウロウは、反撃を警戒しながら、左の鎌でシオンを攻撃した。

 シオンは右眼と同じようにして左眼を斬ろうとしたが、ギントウロウの攻撃からは、もはやその隙が無くなっていた。

「両目は無理か……」

 次々に繰り出されるギントウロウの鎌をかわしながら、シオンは何処を狙うべきか鋭い眼で見定めていた。

 オビトとユズナは洞窟の隅で闘いの様子を見守っている。

「すごい……ギントウロウの鎌が空を切っている」

 オビトが言った。ギントウロウの鎌の動きは、普通の人間の眼には映らない。気が付いたときには、頭がつぶされているものだ。

「鎌を見てかわしているのでは無いわ。腕の付け根を見て、鎌の動きを読んでいるのよ」

「そんなことが出来るのですか……」

「私達の生まれ故郷は、森に囲まれているの。蟲がいるのが当たり前の暮らしをしているのよ」

 ユズナは鉄の扉を見た。アンユイはまだそこにいた。彼の思惑通りに事が進んでいないのは明らかであったが、どんな表情をしているのかはユズナには判らなかった。

 ユズナは再びシオンに眼を戻した。

 まだ狩りは続いている。シオンが先手を取って右眼を斬ったものの、それで優位になった訳ではない。それに、蟲というものは疲れを知らない。狩りが長引けば長引くほど、人間の方が不利になるのだ。

 シオンは鎌をかわしながら、ギントウロウの動きの癖を探っていた。

 今、ギントウロウを突き動かしているのは、食欲では無かった。右眼を見えなくした相手に対する怒りであり、恐れであった。引き裂いてやりたいという衝動と、ここから逃げ出したいという正反対の本能が、鎌の動きをわずかに狂わせていた。

 鎌を横になぎ払うと、その勢いで身体の均衡が少しだけ崩れる。そのため、振った鎌を戻す時の動作が緩やかになった。

 シオンはその隙を突いて、鎌のついた腕の繋ぎ目、人間で云うところの肘を狙った。

「ハッ!」

 腕の下に飛び込んで、跳ね上げるように刀を振るう。狙い通り関節に刃が入ったが、腕を切り落とすまでには行かなかった。刃は腕に食い込み、動かせなくなる。

 ギントウロウは右腕の痛みに耐え、左の鎌で獲物を引き裂こうとした。

 それは、シオンにとって絶体絶命の瞬間だった。もしもギントウロウの右眼が少しでも見えていれば、シオンの身体は脇腹から引き裂かれていいただろう。死角があったために、鎌はわずかに狙いを外し、シオンの背中をかすめただけだった。

「ちっ!」

 危ういところでシオンは刀を引き抜き、床に転がった。

 腕を切り落とすことは出来なかったが、充分に手応えはあった。ギントウロウの右の鎌はだらりと下がり、再び持ち上がることはなかった。

 ギントウロウは残った左の鎌をでたらめに振り回し始めた。

「まだまだ!」

 シオンはギントウロウの右側に回り込むと、足の付け根の柔らかい部位から胴に刀を刺した。

 胴を突き刺されたギントウロウは身体をよじって暴れたが、シオンは突き刺した刀を支点にして、蟲の背に登った。そして両足で背に跨ると、刀を胴から引き抜いた。

 森の暴君は、身体全体をよじった。痛みにもだえているようでもあり、凶暴な力を全身から絞り出そうとしてるかのようでもあった。

 人間同様、多くの蟲は背中を取られると無力になるが、人間とは異なり背中には羽根がある。ギントウロウは羽根を広げ、邪魔者を振り払おうとした。

「くっ!」

 シオンはしなやかに足を広げて、股が裂かれるのを防ぐと、落とされないように片手で羽根の付け根を掴んだ。

 今にも落ちそうになっているシオンに、関節が斬られてぶらぶらになった右の鎌が無軌道に襲いかかる。

 それを見て、ユズナは身を凍らせた。

(死なないで、シオン。約束したでしょう……)

 ユズナは祈った。

 ギントウロウは羽根を広げたり閉じたりしながら、ひたすらに暴れ続ける。

 果てしなく続くかのように思えた人間と蟲との攻防は、唐突に終わりを迎えた。

 厚い金属がぶつかり合うような鈍い音がしたかと思うと、シオンはギントウロウの頭の付け根を刀で貫いていた。

「うおおおぉ!」

 ギントウロウは痛さのあまりに再び羽を広げた。最後の力でもがいたが、その動きは次第に緩慢になっていく。蟲が暴れる勢いで、首の根に刺さった刀はますます深い傷を負わせた。

「これで終わりだ……」

 ギントウロウの頭が斜めに曲がる。まるで自分がどうしてここにいるのか、疑問に思って首を傾げているかのようだった。そして太い綱が断ち切られるような音がして、表皮一枚を残した蟲の頭がだらりと首にぶら下がった。

 蟲は首を落とされても、すぐには死なない。

 薄羽をはみ出させたまま羽を閉じると、よたよたと歩を進めた。そのまま横倒しになると、鎌や足をばたばたと動かした。

 シオンはギントウロウが倒れるのと同時に背から降りた。

「ふぅ……」

 蟲から離れ、放り投げた刀の鞘を拾う。

 無理に止めを刺そうとすれば、でたらめに動き回る手や足の攻撃にさらされる危険があるだけだ。

(獣の操技は使わずに済んだな……)

 額から流れ出る汗を袖で拭う。蟲の体液と混ざり合って、鼻を突く匂いがする。

「本当にギントウロウを倒した……」

 オビトはつぶやいた。目の前で起きたことが現実なのかどうか、まだ分かりかねている様子で、シオンと倒れた蟲とを見比べていた。ユズナもまた、やっと安心したかのように肩の力を落とした。シオンならばきっと狩れると信じていたが、何度か息が止まるような瞬間があった。

「ありがとう、シオン」

「どういたしまして……」

 シオンは鉄の扉を見た。しかしもうそこには、アンユイの姿は無かった。ぽっかりと虚ろに空いた覗き窓の周りで、松明の明かりが踊っている。

「まだ他にも罠があるのかしら?」

「さあ……何か仕掛けてきたら、その時考えよう」

「どうやってここから出ましょう?」

 オビトはシオンに尋ねた。

「閉じこめられたように見えても、道はあるものだ。ひとまず隠し倉を調べよう」 

 そもそも彼らは、魔導具を探しに来たのだ。シオンは錠を開けるための道具を再び床に並べた。アンユイが点けた松明はまだ燃えていて、洞窟の中はまだ充分に明るかった。

 残された扉の向こうは、三人が考えたとおり、倉になっていた。

 そこは蟲との格闘場に比べるとずっと小さい部屋だった。所狭しと木箱が積み重なっているが、量自体はそれほど多くは無さそうだ。

 三人は、木箱の一つをこじ開けた。

 箱の中には小分けにされた何かが、ぎっしりと詰め込まれていた。一つ一つ、貴重な油紙で丁寧に包まれている。

「これは、魔導具では無さそうですね」

 そう言ってオビトは包みを一つ手に取った。油紙を外すと、小さな布袋が出てきた。袋の上から触った感触から察すると、中身は何かの粉のようだった。

「他の荷を調べましょう」

 手分けをして、片端から木箱を開けてみる。

 しかし、中身はどれも最初の一つと同じだった。

「これは、一体なんなのかしら」

 ユズナの問いかけに、シオンは黙って袋の端を裂くと、中身を少しだけ手の平に出した。黒い粘土のようなものだった。指先で砕くと、灰色味を帯びた白い粉になった。匂いを嗅ぎ、少し口に含む。

「これは……芥子の実から作った薬だな」

「薬?」

 ユズナは首を傾げる。

「おそらく、アヘンと呼ばれる薬でしょう」

 オビトが言った。シオンはそうだ、という代わりに黙って頷く。

「どうして隠さなければならないの?」

「アヘンをいぶして煙を吸うと、快楽に酔うことが出来ます。しかし薬を絶つことが出来なくなって、やがては人としての心が殺されてしまいます」

 オビトはさらに言葉を続ける。

「帝国では法で禁じられている薬です。クナ皇国でも似たようなものではないでしょうか。売り買いすること自体、禁じられているのではないかと……」

「交易を……禁じられている?」

 ユズナがシオンを見ると、彼は黙って頷いた。さっき、アンユイは、交易を禁じられている品という言葉には確かに応えていた。しかしそれは魔導具のことは限らなかった。オビトもまた、魔導具を探しているとは一言もアンユイには言わなかったのである。

「それでは、ここには魔導具は無いのかしら」

 ユズナは言った。刺客の裏で糸を引いている人物は、アンユイでは無かったのだろうか。危険を冒して忍び込んだというのに、空くじを引かされたのだろうか。

「もう少し調べてみましょう」

 オビトは、そう言って残りの木箱を開けにかかった。

「実は近頃、帝国とタッタールとの国境でアヘンが密造されているという噂を耳にしたことがあります」

「それでは、このアヘンは帝国から運び込まれたということ?」

「まだはっきりとは分かりませんが……。ただ、包みに使われている油紙はどうも帝国のもののような気がします……」

 そう言いながらオビトが次に開けた木箱には、別な品物が入っていた。

 陶製の瓶が並んでいる。割れないように、隙間にはおがくずが詰められていた。

 オビトは一本だけ、箱から取り出した。見た目はただの小振りな素焼きの瓶で、栓は上から布で覆われ、紐で縛ってあった。

「こちらは、帝国の品では無いようですね」

 瓶の造りを見て、オビトは言った。

「クナのものでしょうか……」

 ユズナも一つ、瓶を取り出した。軽く振ってみると、液体の跳ねる音がした。

「お酒……というわけでも無いでしょうね」

 ただの酒ならば、わざわざここへ隠しておく必要はない。

 オビトは瓶の口の紐を解き、木栓を開けた。瓶の中を覗いたが、暗くて何も分からなかった。栓を覆っていた布の上に、一滴二滴、中の液体を垂らして確かめる。

 青黒い染みが、布に広がった。液体には、少し粘り気があった。

「一体何でしょう……」

 首をひねったオビトに、ユズナは言った。

「まるで動物の血みたいね……でもこんな色の血があるはずはないし」

 生き物の血、というユズナの言葉を聞いたオビトは、眼を見開いた。松明の光が、その瞳の中で踊った。

「これは……まさか……竜の血……」

「竜の……血?」

 今度はユズナが首を傾げた。

「高価な薬だと、聞いたことがある」

 シオンが言った。

「クナ皇国の皇族だけが、使うことが出来るとか……」

「とても……貴重なものです……」

 オビトは何か、戸惑いを感じている様子だった。

「オビトさん……何か知っているの?」

 ユズナは訊いた。オビトは少し、おどおどしている様子だった。自分が隠しておいたものに、思わぬ所でばったり出遭ってしまったかのようにも見えた。

「ええ……」

 オビトは首を縦に振った。

「竜の血は、魔導の研究には欠かせないものなのです。私も何度か、扱ったことがあります。何処から手に入れているのかは、知りませんでしたが……よく考えると、この瓶には見覚えがあるような気がします」

「つまり、この竜の血は、ここから帝国へ運ばれているということかしら」

「きっとそうだと思います。反対に、ここにあるアヘンは、その見返りとして帝国から持ち込まれたものでしょう」

「アヘンと竜の血を交易していたということね」

「はい、きっとそう言うことだと思います」

「それがこの屋敷の秘密なのかしら?ギントウロウも、この隠し倉も、全部この交易を秘密にするためのものだというの?」

 そうだとすれば、やはりユズナ達が探している魔導具はここには無いのかも知れない。

「しかし、この秘密の交易も見逃すことは出来ません。帝国側でアヘンを売っているのが誰か、いずれは確かめる必要があります。我が主にも報せなければなりません。証拠として一つずつ預かっておきます」

 オビトは竜の血の入った瓶と、アヘンの入った包みを、持っていた袋に入れ、口を長い紐で縛ると肩に提げた。

 ユズナはため息をついた。

「また初めからやり直しね……どうやってここから出るかを考えましょう……」

 ちょうどその時、洞窟の方から物音が聞こえてきた。

「どうやらその問題は片付いたみたいだな」

 シオンが言う。

 三人が隠し倉から出ると、誰かが横穴を塞いでいる岩を棒か何かで叩いていた。

「ユズナさーん」

 カダの声だ。興奮していたが、ユズナが返事をすると、すぐに安心したようだった。カダの他にも、人がいる様子だった。

 岩を挟んで話をすると、ルガイが救援の兵を寄越してくれたのだとカダは説明した。

 ユズナはここには魔導具は無かったことと、その代わりにアヘンの包みと竜の血の瓶が隠してあったことを告げた。

 カダは言った。

「アンユイは今さっき捕らえました……それより聞いてください、大変なことが起きたのです」

「どうしたの?」

「公王が……殺されました」

「何ですって!」

 ユズナは驚きのあまり、呆然と立ちすくんだ。


 アンユイの館を後にしたユズナ達は、混乱の最中にある公邸へは戻らずに、ヨナの家へと足を運んだ。

 捕らえられたアンユイは、救援の兵が連行していった。

 アンユイに魔導具のことを問いただしたものの、それについては何も知らないと言うばかりであった。公王の暗殺についても、関わっていないと言い張った。嘘かどうかは、これから厳しく調べられることだろう。

 その一方で、帝国からアヘンを仕入れていたことと、代わりに竜の血を渡していたことについては、言い逃れすることも出来ずに、素直に認めた。

 アンユイを手助けした者もすぐに分かった。庭師の老人とその息子だった。アンユイの祖父の代から、地下の洞窟で蟲を飼い、侵入者を餌食にしていたという。年老いた庭師が言うには、あの洞窟はこの屋敷が建つ前からあったものだということだった。

 海賊退治で名を成したアンユイの曾祖父が屋敷を建てる際、井戸を掘らせていたところ、偶然見つけたのだった。その後、祖父の代になって手が加えられ、利用されるようになったのだという。罠はすべて、一人か二人の人間の力で手際よく動かせるようにと工夫されたものだった。

 アンユイの家がまだ落ちぶれる前、隠し倉には金貨や宝石といった財宝が収められていた。その頃から、ギントウロウを番人代わりにしていたのだという……。

 ヨナの家の食堂で、ユズナはため息をついた。

「もしもアンユイが裏切り者でないとしたら、一体誰が魔導具を隠し持っているのかしら。そしてその誰かが刺客を手引きして、公王も殺したということなのかしら……」

 公王殺害の話は、その場面を目の当たりにした街長達により、タオルンの街中へと広められていた。

 ヨナの父親も、この港で網元を営んでる街長から、次のような話を聞いたという。

 今日の朝、街長達が呼び出しを受けて公邸へ行くと、広間に現れた公王を公子が剣で刺し殺した。公子はすぐに姿を消したが、しばらくすると戻ってきて、公王を殺したのは自分ではなく、自分に化けたクリミアの刺客だと言った。クリミアの刺客は、魔導と呼ばれる力によりそうしたことが出来る。刺客達は、同じように魔導の力を用いて蟲にこの街を襲わせようとしている。街長を呼び集めたのもそのためだと……。

「みんな、公子様は頭がどうかしてしまったんじゃないかって思ったそうだよ。皆の目の前で王を殺しておきながら、自分ではないと言うんだからね。無事に帰してもらえると分かるまでは、皆おびえていたそうだ……」

「それは誤解です。本当に、クリミアの刺客がやったことなんですよ」

 カダが悔しそうに言った。彼はルガイ将軍から直接、話を聞かされていた。

 オビトはつぶやいた。

「ブラウの仕業か……」

 その言葉に、ユズナは頷いた。変身する魔導を使う刺客、ブラウ。オビトに化けてユズナ達を欺こうとしたが、見かけからは決して偽者と見抜くことは出来なかった。ブラウならば、公子に化けて公王に近づき、殺すことも難しいことではないだろうし、街長達が騙されるのも無理からぬことに違いなかった。

「公子は今、どうしているの?」

 ユズナはカダに聞いた。

「公子はご自身の意志で僧院に入られたそうです。公子の偽者がまた現れて、何かをしようとするのを防ぐためとのことです」

 公子ならば、玉爾入りの書状を用いなくても様々な命令を下すことが出来る。僧院に閉じこめられていると知れ渡れば、偽者の動きを封じることが出来るはずだった。

「だからと言って……」

 カダにそう説明されても、ユズナは今一つ納得できなかった。自分ならば決して僧院に閉じこもるようなことはしない、と彼女は思った。表に立つことで偽者がまた動き出すというのなら、それはむしろ刺客を捕らえる絶好の機会ではないか、と思うのであった。

「仕方が無いさ、人はそれぞれだから」

 シオンはそう言ってユズナをなだめた。ユズナが何を考えているか、彼には大体分かっていた。そして実際、ユズナが公子と同じ立場に立ったならその通りにするだろうと思った。

 しかしコハクとユズナ、どちらの考えが正しいのかは、誰にも分からないだろうとシオンは思う。答えは一つではない。答えが一つしか無いことの方が、珍しいのだ。

「いずれにしろ、このままでは良くないわね……」

 公王の死は、ユズナにとっても悲しい報せであった。しかし、それで蟲寄せの魔導具が消えて無くなった訳ではない。このままでは、さらなる悲劇が起こってしまう。

「公王の暗殺と、蟲に街を襲わせること……他にもまだ、刺客達のの企てはあるのかしら。オビトさん、心当たりはない?」

 オビトは首を横に振った。

「私は、蟲寄せの魔導具の行方を追ってきたのです。レゴリス達がここにいることも知りませんでした……」

「そう……」

 これからどうすれば良いか、ユズナは考えを廻らせた。

「一体、何がどうなっているんだい?」

 ユズナ達のやり取りを聞いていたヨナの父親、コウがつぶやいた。

 ユズナはクリミアの刺客と魔導の力のことを改めて語った。

 コウは海で鍛え上げられた太くたくましい腕を組み、その話を聞いた。

「それじゃあ、公王を殺したのは、絶対に公子じゃないっていうのかい?」

「ええ、クリミアの刺客に違いないと思います」

「しかし……だとすると、公王だけが殺されて、公子は無事だってのはおかしくないかい?」

「罪を公子に着せておけば、クリミア帝国は無関係であると言い張れますから……」

 公子は殺さずに生かしたまま、公王殺しの罪を着せる。帝国はあくまで無関係を装いながら、ロントン公国を蝕むつもりなのだ。

「それで、この先、この街が蟲に襲われるかも知れないって言うのかい?それもクリミアの刺客の企みってわけかい?」

「もともとそれを伝えるために、公子は街長達を公邸に呼んだのです」

「そうかい……」

 コウは、腕組みをしたまましばらく考えると、言った。

「逃げる用意だけでも、して置いた方が良さそうだな」

「ギントウロウが来るの?」

 食堂の隅に座って話を聞いていたヨナは、小さな声を震わせた。

 テパンギでもそうであるように、この地にあってもギントウロウは人々に怖れられていた。子ども達の多くは、例え実際に眼にしたことが無くても、悪さをする度に、ギントウロウに食べさせてしまうよ、などと言われて育つのである。

「そうね、もしかしたら、そうなるかも知れないわ。でも大丈夫、ギントウロウだって何だって、私たちがやっつけてしまうわ。ね、シオン」

 シオンは黙って頷いた。

「竜騎兵も駆けつけてくれるはずだから、怖がらなくてもいいのよ」

 ユズナはそう言って、ヨナの髪をそっと撫でた。


 次の朝、ヨナはいつもどおり、日の出とともに目を覚ました。

 弟のトクを起こして、母親と三人で朝ご飯を食べる。父親もまた、いつも通りに漁へ出ていた。

 ユズナ達は夜遅くまで話し合いを続けていたようだ。今はまだ休んでいるから、起こしてはいけないと母親は言った。

 他に宿の客はいない。もしも蟲が襲ってきたときには、家族だけですぐに逃げられるように、昨夜から客は断っていた。

 やがて、父親のコウが漁から帰ってきた。

「ヨナ、あとで親方の所へ一番上等な魚を持って行ってくれ」

 公王の弔いのための供物を、タオルンの民は納めなければならない。漁師は魚を納める決まりだった。

 母親は、いつ蟲が来るか分からないのだから自分が持って行くと言ったが、ヨナは平気だと答えた。

「親方の家なら、すぐ近くだもの」

 今日の水揚げが入っている木箱から一番大きなケイギョを選ぶと、ヨナは桶に移した。トクも一緒についてくるというので、桶の両端を仲良く二人で持って家を出た。

 ところが親方の家に着くと、魚はもう公邸へと運び出されてしまったと言われた。親方が自分で荷車を牽いて出たと言う。

「ぴかぴかに活きの良い魚を届けたいって言うんでさ」

 ヨナとトクは、顔を見合わせた。

「まだ追いつくんじゃないのかな」

 家の者がそう言うので、二人は親方の後を追いかけることにした。

 しかし、子どもの足ではなかなか荷車には追いつかなかった。やがて公邸が見え、商人が出入りする西門まで辿り着くと、姉弟はようやく親方の姿を見つけることが出来た。

 親方はちょうど門をくぐろうとしている所だった。二人は急いで駆け寄り、親方を呼び止めた。

「わざわざ届けてくれてありがとうよ」

 親方は二人に言った。

 西門の内側は、荷車を運び入れて積み降ろしするための広場になっている。先に来た荷車が何台かあって、魚や野菜を降ろしている。誰も皆、忙しそうだった。

「随分走ったようだね。すっかり息が上がっているじゃないか。水をもらってあげよう」

 親方は通りかかった公邸の使用人を呼び止めて、子ども達に水を飲ませてくれるよう頼んだ。

 その時、親方の名を呼ぶ者があった。

「おい、聞いてくれよ。おかしな話なんだ」

 その男は屋敷の家宰と話をしていた。何やら興奮している様子だった。

「何だ?どうしたんだ、ジョーシン」

 親方は子ども達を使用人に預けると、ジョーシンという葬儀屋と話を始めた。

「そんなふくれっ面をして、何が起きたんだ」

「どうしたもこうしたも無いさ。俺は今日、お弔いに必要な氷を持ってきたんだ。公王様のご遺体を守るためにな。ところがこいつが言うには、昨日の夕刻、俺が同じように氷を運んで来たって言うんだ。いくつもの木箱に入れてさ」

「どういうことだ?お前さんには身に覚えは無いのかい?」

 親方はまず葬儀屋に尋ねた。

「当たり前だ。今は春だぞ。氷なんてそうそう無い。俺は公王様が亡くなったという話を聞いてから、一晩かけて、ようやっと木箱一つ分持ってきたんだ」

「それで、昨日の氷とやらは何処にあるんだ?」

 親方がそう言うと、家宰は急に不機嫌そうな顔をした。どうやら何処にも見あたらないらしい。慣れていない者が扱って融かしてしまっては大変なので、家宰は屋敷に運び入れるのも、葬儀屋とその二人の供に任せてしまったのだという。

「そのお供ってのがさ、喪服の上に、面覆いをしていたって言うんだ。それが葬儀屋の流儀だとか何だとか言ってさ……」

「なんだか怪しいな……」

 葬儀屋と親方の言葉に、家宰は口をとがらせた。

「私だってそう思ったさ。だが木箱の中にはちゃんと氷が入っていたし、それにジョーシンさんとは長いつきあいだからねえ……」

「だから俺じゃないって、それは」

「本当に氷だけなのか?中に入っていたのは?」

 親方は眉をひそめた。

「全部は見ていないさ、もちろん。氷だぞ、出したら融けてしまうだろう」

「運び込まれた木箱が何処にあるのか、探した方がいいんじゃないか?」

「ああ、そうするさ。しかしな、私らだって忙しいのさ、ささいな事に一々構っていられるものか。なにしろ公王様も公子様もいなくなってしまったんだからな。公邸の者は皆、一睡もしないで働いている。シンレン様がいなかったら、どうなっていたことか……ここだけの話、次の公王はシンレン様ではないかという噂もちらほら公邸内に流れているんだ……」

 親方と葬儀屋は、驚きの表情を浮かべた。

「それは無理じゃないのか?シンレン様は僧院におられるのだろう」

「ロンオウの皇帝が望めば、僧院だって考えるさ。このタオルンの民の声だって、少しは聞いてくれるだろう。過去に例が無い訳じゃないしな……ああ、それはそこに置いちゃいかん」

 そう言うと、家宰は新たにやって来た荷車の方へと、忙しそうに駆けていった。

 親方と葬儀屋は顔を見合わせた。どうやら話は終わってしまったようだ。

 おかしな話だったが、葬儀屋の偽者がいたとして、そして、何かを運び込んだとして、それで何が困るというのだろう、と二人は考えた。葬儀屋に化けたのが泥棒で、屋敷の財宝を運び出して行ったというのなら、一大事だが……。

 いずれにしろ、それをどうにかするのは、家宰の務めだ。

 二人はそれぞれの用を済ませることにした。


 ヨナとトクは、賄所で水をご馳走になっていた。

「好きなだけ飲んだら、帰りなさい」

 使用人はそう言うと、二人を残して去って行った。屋敷の者は皆、とにかく忙しそうだった。

 二人は西門へ戻ろうとしたが、廊下を間違えて、屋敷の奥へと入り込んでしまった。子どもの目には、どれも同じような廊下に見える。適当に歩いている内に、立派な庭に面した廊下に出てきてしまった。

 どうやら迷子になってしまったらしい……ヨナは歩を止めた。

「見て、蝶がたくさんいるよ」

 トクが無邪気に言う。

「本当ね」

 ヨナはどうやって西門へ帰ろうかと思案している所だったが、弟の言葉で庭の風景に注意が向いた。

 庭には美しい花が咲き誇っていた。今、季節は春から夏へ移ろうとしている。

 花の上を、沢山の蝶が飛んでいた。それは、公邸の庭である点を除けば、特に珍しい光景では無いはずだった。

 しかし、賢いヨナは、何かが普通とは違うことに気が付いた。

(蝶が……多すぎるわ)

 庭の一角だけで、十匹以上飛んでいる。庭全体を見渡すと、一日かかっても数え切れないくらいの蝶の姿があった。まるで、タオルン中の蝶が、ここに集まっているかのようだった。

(どうしてかしら)

 目の前を飛ぶ蝶に、ヨナは手を伸ばした。ヨナの疑問を嘲笑うかのように、蝶はひらりと指の間をすり抜ける。

「変だと思わない?こんなに蝶がいるなんて」

「うーん。分かんない」

 トクは首をひねった。

「ユズナお姉ちゃんが言っていたことと、関わりがあると思わない?」

「街が蟲に襲われるっていう話?でも、これ蝶だよ」

「蝶だって蟲の仲間よ。蟲が集まってくるなら、蝶が集まってもおかしくないわ」

「そうかなあ……」

「何処かこの近くに、魔導具っていうのがあるんじゃないかしら?」

「ええ~、ここ、王様のお家でしょ。そんなのあるわけ無いよ」

「これだけ広いし、みんな忙しそうだもの。誰かがこっそり置いても分からないでしょ。私達だって、こうしてここまで来ちゃったんだし……」

「そうだけど……どうするの?」

「探しましょう」

「僕たちが?どうやって?」

「ここよりも、もっと蝶がたくさん集まっているところは無いかしら」

 そう言って、ヨナは庭の中へと入って行った。

 トクは誰かに見つかって怒られないかと辺りを見ながら、渋々姉の後について行った。


 タオルンの北東、およそ五里のところに古い森が広がっている。

 古い森には、蟲が棲んでいる。

 見上げると、天を突いているかのようにそびえ立つ、大きなナラの木が栄養の豊富な樹液を生み出し、多くの蟲達を養っている。そしてギントウロウのような肉食の蟲達もまた、森の中に縄張りを持ち、獲物を狩っている。

 森の中では、人間は非力な生き物である。

 そのため多くの人間は森から離れて、街を造った。

 蟲は森で生き、人は街で生きる。

 蟲は森の中に閉じこもっているわけではない。ウミワラジのように水辺で生きる蟲もいる。しかし広い視野を持って見れば、蟲が森から出ることは少ない。

 古森とタオルンの街との間には、草原が広がっている。

 今、馬に乗った兵士が二人、森の端までやって来ていた。タオルンの北砦からの斥候が、ルガイ将軍の命令で、森の様子を見に来たのだった。街が蟲に襲われるかも知れないという話は、街の民に比べれば、砦の兵士達の方が真剣に受けとめていた。

「いつもと変わらないように見えますが……」

 年若い兵士が言った。

「そうだな……」

 もう一人の、髭を生やした兵士が頷いた。彼は十人長という役名の上官であった。兵士達からは丁長と呼ばれている。

「しかしここ数日、蟲の姿を多く見かけることは確かだ。三日前にも、ウミワラジが港に出たというしな……」

「異国の武人が、たった二人で挑みかかったらしいですね。しかも一人は女人だったとか……そんなの嫁にもらったら大変だ」

 ちょうどその時、年若い兵士の乗っている馬が身震いをした。

「はは、馬まで怖がってら」

「……待て」

 丁長は手綱を引き、馬を止めた。

 陽の射さない暗い森の中に眼を凝らす。

「何かいるぞ」

 蟲が蠢いている気配が伝わってくる。それも、一匹では無い。波のうねりのようにせり上がりながら、次第にこちらへと迫ってくるようだ。

「ヤスデだ。モリオオヤスデだ」

 丁長がそう言い終わると同時に、森から巨大なヤスデの群れが現れた。

 ヤスデはまるで川の水のように、列になって森から溢れ出てきた。二人はあわてて馬に鞭を打ち、迫り来るヤスデから離れた。

「何だ……これは」

 若い兵士は呆然と蟲の群れを眺めた。ヤスデは、二人の兵士には目もくれず、何処かへと向かっている。

「街の方へ行くぞ」

 丁長は言った。

「早く砦へ知らせましょう」

 若い兵士の戸惑いが伝わったのか、馬が一声いなないた。

「お前は先に行け、俺はもう少し様子を見る」

 森から出て来るのがヤスデだけなのかどうか、見定める必要があると、丁長は考えた。

「幌を忘れるな」

「はい」

 丁長の命令に従い、若い兵士は首の後ろの幌を広げた。幌は赤くて四角い布で出来ている。布の四隅が両肩と、背中に結びつけられていて、馬で走ると風で丸く膨らむ仕掛けになっている。幌を使えば、砦にたどり着く前に、物見台に危険を知らせることが出来るのだ。

 若い兵士は手綱を引き締めると、一気に馬を走らせた。ヤスデの群れを追い抜き、真っ直ぐに砦を目指す。

 一人残った丁長は馬を並足で進ませ、一向に途切れる気配のないヤスデの列からは離れつつ、森の中の様子を窺った。走ってもいないのに、馬の鼻息が荒くなる。人間よりもずっと繊細な感覚で、迫り来る危険を感じているのだ。

 丁長の考え通り、森から出て来るのはヤスデだけではなかった。ハガネカミキリやイシワリクワガタの姿も見える。何匹かが羽を鳴らして、頭上を飛び去っていく。

(森の奥で火事でもあったのか?)

 それならば、蟲達が森から出ようとするのも納得が行く。しかし、火事であることを示す、煙のようなものは何処にも見えない。

(ならばやはり、魔導とかいうものの力なのか?)

 話を聞いただけでは嘘としか思えなかったが、今目の前で起きていることを見れば、信じざるを得なかった。

 やがて丁長は、銀色の光がきらめくのを見た。

「ギントウロウだ。まさか……ギントウロウまで」

 森の奥に棲む野生のギントウロウの姿を、街の人間が目にすることは滅多にない。丁長といえども、若い頃に森の奥でほんの一瞬、見かけたぐらいのものである。

 今、丁長の目の前に現れたギントウロウの成虫は、シオンがアンユイの館で退治したものよりも二回りは大きかった。その堂々たる姿を前にして、恐れを感じない人間はいない。

 森の暴君はその長い足をゆっくりと運び、森の外へ踏み出した。

 丁長は円弧を描くようにしながら、次第に馬の足を速めた。

 そして二匹目のギントウロウが森の中から出てこようとしているのを見ると、馬に鞭を当て走り出した。


 ユズナ達は、港の喧噪によって目を覚ました。

 半鐘がけたたましく鳴り響いている。

(蟲が来たのかしら?)

 ユズナはそう思い、寝台から飛び起きると、急いで部屋を出た。

「大変なことになった……」

 食堂ではヨナの両親が暗い顔をしていた。ユズナよりも一足早く、シオンが起きて待っていた。

「蟲が出たの?」

 ユズナの問いに、父親が答えた。

「いや……海賊だ」

「海賊?」

「よりによってこんな時に街を襲撃しに来るなんて……」

「偶然なのかしら?」

「公王様が亡くなったのを聞きつけたのは間違いないだろうな……」

 まもなく、カダとオビトが部屋から出てきた。

「刺客と魔導具の探索に兵士が割かれていて、今は港の守りも手薄になっています」

 カダは言った。

「そう……私たちも、とにかく行ってみましょう。どんな相手なのか、この眼で確かめるわ。おかみさん達は早く安全な所へ隠れるか逃げるかしてください」

 ユズナの言葉に、おかみさんは顔を青くした。

「実は、子ども達がまだ帰ってきていないんだよ。すぐ近くに使いに出したんだけれど……もう一刻ばかり経つのに戻ってこないんだ」

「何ですって……」

「俺はこれから近所を探しに行く」

 父親のコウが言った。

「私も子ども達が帰ってくるまで、逃げずにここにいるよ。だけどもしもユズナさん達が先に二人を見つけたら、私らのことはいいから、子ども達だけでも逃がしてやっておくれよ」

「分かりました」

「お願いだよ。約束しておくれ」

 深く頷くと、ユズナは言った。

「二人はきっと無事です、きっと……」

 宿を出ると、ユズナ達四人はコウと別れて港の中心へと走った。

(熊殺しの姫の名を、思い知らせてやる)

 ユズナは今、怒っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る