第5話

 公邸へ戻ったユズナ達は、テパンギから来た姫のための宴が今日の夜に開かれると、家宰に聞かされた。

 ユズナは疲れていて、とても宴を楽しむ気分にはなれなかったが、なるべく愛想の良い笑顔を作ってお礼を述べた。公邸内の者には、テパンギの使節ということで通している。刺客と死闘を演じてきたから疲れている、とは言えなかった。

 家宰はユズナの牛飼いの服装と、腕に巻かれた包帯を見て少し驚いたらしく、目を丸くしたが、使節への礼儀を重んじたのか、何も言わずに引き下がった。

 シオンはユズナよりも疲れ果てていて、刀を杖にしてようやく歩いているありさまだった。従者はどのみち宴に招かれはしない。与えられた寝所で横になって休むように、とユズナは彼を労った。

 カダという名の案内役の兵士は、ユズナ達がただの使節ではないことに気が付いている様子であったが、余計なことは訊かなかった。必要なことは、上官であるルガイから聞けば良いと考えている風だった。彼は、港の兵士達に刺客のことを説明する際も、単に後をつけてきた不審な人物だったと話していた。その様子を見て、この兵士は頼りになる人物だと、ユズナは感じたのだった。

(それにしても……あの刺客が逃げずに戦ったなら、兵士達は何人死んだのかしら……)

 そう考えると、ユズナは恐ろしくなった。今朝襲ってきた四人の刺客を束にして相手にした方が、ずっと楽だ。まるで格が違う。

(オビトさんは、どうしただろう……やはりもう……)

 あの男が相手では、無事では済まないだろう、とユズナは思った。コハクやルガイと話をしたいと思ったが、身体の汗を拭い、包帯を取り替え、着替えている内に日が暮れてしまった。刺客に斬られた左腕の傷は、思ったよりも浅かった。跡は残るかも知れないが、縫う必要までは無さそうだった。

 宴の間では、楽士が静かな音楽を奏でていた。タオルンにいる公族と貴族が十人ほど招かれているとのことであった。コハクは既に接待役として席に着いている。ユズナに窮屈な思いをさせないためか、彼女の隣席には若い公女がいた。ユズナは彼女の衣裳を見て、古着屋で買った服が、もう既に流行から取り残されたものであることを知り、少し恥ずかしくなった。

 案内された席に座ると、やがて公王のロン=ジェが姿を見せた。顎に生やした髭は黒くてつやつやしている。もう若くはないはずであるが、頭髪にも白いものはほとんど見えない。

「テパンギの姫には、ご挨拶が遅れたことを、お詫び申し上げる」

 公王はゆったりとした口調で言った。

 ユズナはテパンギの王位継承者であるトコユノハナヒメではなく、王の縁戚にあたる貴族の娘、ユズナ姫として皆に紹介された。トコユノハナヒメの顔と名を知っているのは、コハクだけである。本名を明かしてしまえば、生きていることが、海の向こうの故国まで伝わらないとも限らない。それに王女という身分は、もはやユズナにとって窮屈なだけであった。

「今宵は皆、衿を緩めて楽しまれよ」

 宴の席の空気が公王のその一言で、柔らかく、そして和やかになった。公王の顔立ちはあまりコハクとは似ていないようだったが、心遣いには通じるものがあるとユズナは感じた。

 流れる音楽もまた、静かなものから、明るい調子のものへと変わった。

 ユズナの向かいの席にコハクがいて、その隣には座で一人だけ僧衣をまとった男がいた。

 近従が列席者の名を呼び上げると、その痩せた僧侶はシンレンという名で、公王の実弟であることが分かった。つまりコハクの叔父ということになる。

 クナでは公族が僧になるのは、珍しいことではなかった。竜騎兵を擁する僧院との絆は、皇国の平和を維持する上で重要だからだ。皇帝といえども、竜騎兵を自由に動かせるわけではない。竜騎兵の力が必要であれば、僧院に対し、然るべき理を説かなければならない。その際、僧院の内部に皇族や公族がいれば、竜騎兵の力も借りやすくなる。

 もしかしたらシンレンは、昨日出会った竜騎兵のギバとも親しい仲なのかも知れない、とユズナは思った。

 ユズナの隣の女性は、公王の妹の娘、すなわちコハクの従妹とのことだった。年はユズナとそう違わないように見えた。着ている服は雅やかで、髪は蝶の形に結ってあったが、どこをどうしたら彼女の髪のようになるのかユズナには見当も付かなかった。

「テパンギって、何処にありますの?」

 彼女はユズナにそう尋ねたが、あまり興味は無い様子だった。

「海の向こう。船で二十日はかかります」

「そう……遠いのね。その服はテパンギのものですの?」

「いいえ、この街の古着屋で求めました」

「そう……どうりでね」

 どうやらユズナに対する興味はそれで尽きたようだった。ユズナは年頃の娘が気を配るべき服装や髪型に無頓着であったし、王の縁戚の貴族とはいえテパンギは辺境の島国だ。むしろ、このような席に呼ばれてしまった公女の方が気の毒というものである。

 ユズナの興味もまた、別なところにあった。

 コハクとルガイは、公国内の貴族の中に帝国と通じている者がいてもおかしくない、と言っていた。この宴には公族の他にも、タオルンにいる貴族が幾人か呼ばれている。だとすれば、魔導具の一件の裏で糸を操っている人物が、もしかしたらこの宴の座の中にいるかも知れない。

 そう思うと、疲れていることを抜きにしても、やはり宴を心から楽しめる気分にはなれなかった。

 やがて、料理や酒が皆を満たすと、座の話題はコハクの妃取りのことに及んだ。二十才を過ぎているのに、妃を持たないのはロントン公国の将来のために良くない、と座にいる者が口々に述べた。

 公王はユズナに言った。

「姫のような美しい女人を、わが一族に迎えることが出来れば嬉しいのだがな」

 本心とは受け取らずに、ユズナはやんわりとはぐらかした。

「私のようなふつつかな田舎者では、とても公子には釣り合いません」

 その時、それまで口を開かなかった僧侶のシンレンが言った。

「王は、コハク殿には想い人があられるのを、ご存じないですかな」

「叔父上、何を言われる……」

 コハクは不意打ちを食らって慌てた。

「あら、私もちっとも知らなかったわ、何処の誰ですの?」

 ユズナの隣の娘が、目を輝かせて訊いた。コハクの代わりにシンレンが答えた。

「噂好きのそなたが知らぬのも無理はない、なにしろ相手は異国の姫君ですからな」

 それを聞いた公王は小首を傾げた。

「さて、それでは何故、シンレンが知っておるのだ……」

 そして少しの間考えてから、膝を打った。

「分かったぞ。おぬしはコハクと共に、確か三年前にクリミアへ行ったことがあったな。」

 シンレンは黙って微笑んでいる。

「そうか……帝国の姫君というわけか」

「叔父上、根も葉も無い噂を立てられては困ります」

 コハクの顔はいつの間にか赤くなっていた。

「ほら、その顔……根も葉もあるのではないかな?もっと己の気持ちに正直になることだ。それに考えてみなさい。帝国がタッタールを破った今、帝国との絆を深めることは我が国にとっても大切なことではないか?」

「僧院に身を置く方が、そのような打算に満ちた結婚のことなど考えて良いのですか?」

「理を説き、争いを退けるのが我らの役目。それにお互いの気持ちが通い合っておれば、偽りの結婚ではなかろう。キャスブルグから、恋文の一つでも届いたのでは無いですかな?」

 シンレンの何気ない一言に、今度はユズナが動揺した。盃から酒をこぼしてしまう。

「どうかなさいました?」

「いいえ……」

 隣の公女の言葉に、ユズナは首を振った。コルネリアの親書を自分が持ってきたとは、言えるはずもない。

「叔父上、もうこれ以上からかうのはおやめくだい」

 ユズナに向けられた注意をそらすために、コハクはわざと大きな声を出し、困った素振りをして見せた。

「しかし……シンレンの言うことには確かに理があるな……」

 公王はこれまでにない、真剣な表情を浮かべていた。

 その時、一人の貴族が口を挟んだ

「王よ。そのような重大なことは、ロンオウにも伺いを立てなければなりませんぞ」

 アンユイという名のその貴族は、テパンギあたりではお目にかかることの出来ない太鼓腹の持ち主で、話すとその大きな腹が揺れた。

 公王は言った。

「うむ……アンユイよ、そのとおりであるな。ところで、おぬし自身はどう考えておる。反対であるのかな?」

「反対するなどと、とんでもない。私の考えなど、取るに足らぬものでございます。しかしながら申し上げますに、私にも帝国とは古い付き合いがございます。両国の和平のためにお役に立てるかと存じます……」

「なるほど……帝国との交易は、おぬしの一族の生業であったな。帝国との国交が深まれば、交易を独り占めというわけにも行かなくなる……か」

 公王の言葉にアンユイが頭を垂れると、太鼓腹が波打った。

「私の望みはただ、我が身を公国のために尽くさせていただくことでございます。私が帝国との交易で得る益の内、定められた通りの額は滞りなく公庫に献上させていただいておりますことをどうかお忘れなく……」

 コハクが楽士達に手で合図を送り、言った。

「この話はもうおしまいにいたしましょう。今日の主賓に失礼ですよ……」

 楽士が音楽の調子を変える。

 ユズナは帝国との交易を生業にしているというアンユイの顔を、そっと横目で確かめた。


 シオンは、寝台に横たわっていた。

 行灯の火が照らす白い壁に、蝿が止まっている。

 蝿はじっと止まっていたかと思うと、急に飛んだ。そして少しだけ宙を進むと、またぴたりと壁に留まった。何度かそうしたことが繰り返される内に、シオンは蝿が宙にいる間だけ時が刻まれているような気になった。

 ため息をつき、目を閉じる。

 身体はようやく元に戻りつつあった。

 獣の操技に用いる秘薬がシオンに与える力には、見返りが必要であった。薬の効き目が切れると極度の疲労により、身体の自由が奪われてしまう。

(無様だな……)

 獲物を罠にかけて狩るつもりが、反対に狩られてしまうところであった。自分だけでなく、ユズナの命まで、失いかけてしまった。

 目を閉じていると、刺客の姿が浮かんでくる。

 金色の髪、鋭い眼、鍛え上げられた肉体。

 シノビ一族の秘術、獣の操技も通じない相手。そんな人間がこの世にいるとは、考えてもみなかった。

『おぬしは強い……だが……』

 テパンギで、シノビ一族の長老に投げかけられた言葉が耳の奥で蘇った。たった今まで、一度も思い出したことのない言葉だ。覚えていたことが、不思議なくらいだ。

(あれは、いつのことだったろう……)

 確か、一族の奥義を皆伝した頃だったろうか……シオンは記憶を辿ってみる。

「見せてみるが良い。オニノシコクサよ」

 シノビ一族の稽古場で、白く長い髭を伸ばした長老はシオンに言った。

 板敷きの床の上に、ロウソクがいくつも灯っている。

 高さの違う、たくさんの燭台がシオンを取り囲んでいた。シオンは刀を抜くと、舞うようにして、周りを薙ぎ払った。瞬く間に、ロウソクの火がすべて消える。

 シオンが刀を鞘に収めると、老人は立ち上がった。そして目を細め、手近なところにあるロウソクを見た。

「見事じゃな」

 ロウソクは、火のついた芯のところだけが斬り飛ばされていた。

「まったくたいしたものだ。これなら大路の露店で、金が取れるぞ」

 それを聞いたシオンは不愉快そうに口を曲げた。見せ物にするために磨いた技ではないからだ。

 ほほほ、と老人は声を出して笑った。

「まあ、蝋燭は所詮、蝋燭じゃからの……」

 見せてみろというから、斬ってみせたのだ。シオンは不服だったが、長老に口答えすることは許されないので黙っていた。

「獣の操技は、会得したのか?」

 長老の問いに、シオンは肯いた。

「あの技は、秘薬の数を増やせば増やすだけ、強くなることが出来る。しかし、その代わりに、己の命を削ることになる。一度に使って良いのは一粒だけじゃぞ……わしは、あの技を後世に伝えるのには反対したのだが……まあ、おぬしならそうそう使うことも無いじゃろう……」

 老人は深い呼吸を一つ入れると言葉を続けた。

「おぬしに敵うものは、もはや一族にはいないじゃろうな……もしかしたら、テパンギの何処にもいないかも知れぬ。ギントウロウですら、一匹ならおぬしの敵ではないじゃろう……」

 ギントウロウを狩るには、並みの兵士なら少なくとも十人は要る。

「おぬしは強い……だが……」

 老人は立ったまま、白い髭をゆっくりと撫でた。

「それは、限りの無いものではない……」

 シオンは、黙ったまま老人を見つめている。

「おぬしより弱い者であっても、千人もいれば、おぬしの息の根を止めることが出来る。そしてこの国の将軍ならば、紙切れ一枚で千人の兵に命令することが出来る……そうじゃろう?力とは、そういうものだ。要するに……」

 老人は咳をした。藁で編まれた丸い敷物に座り、竹筒に入った水を一口飲んだ。

「力比べの勝ち負けがどうなるかなど、それほど大切なことではない……大切なのは生き延びること、そして死ぬ時にはその覚悟を決めることだ。それを忘れるでないぞ……」

 シオンが黙ったまま頭を下げると、老人は笑みを浮かべ、目尻の皺を深くした。

「おぬしは、姫のことをどう思っておる。オニノシコクサよ」

 急な問いかけに、シオンは驚いて目を丸くした。姫とは、生まれて間もない頃からずっと一緒に育ったのだ。どう思っているのかと訊かれても、すぐには答えられそうにない。それに、シオンはそういうことを考えるのが苦手だった。

 老人は言った。

「あの娘は哀しい定めを負っている……。王宮で疎まれていることもそうだが、この世を生きるには優しすぎる。どのような境遇で生きるにせよ、苦しみを背負うことだろう……」

 テパンギ人とマトヤ人の永い戦乱の果てに、この島に訪れた平和。その平和を夜明けの光とするならば、姫は黄昏の光の中にいた。彼女の身体に流れるテパンギ王朝の古い血には、この島の人々を再び闇の中へと誘う力があった。

 王宮の人々は彼女を敬い、恐れた。自らの権益のために媚びへつらう者、平和という大義の名の下に冷ややかな眼を向ける者、そのどちらもが等しく彼女を傷つけていた。

 父王とマトヤ人の新妃の間に、皇子が生まれることを一番望んでいたのは、彼女だったかも知れない。皇子が生まれれば、彼女は王位を継ぐという定めから解き放たれるはずであった。だが新妃が授かったのは、三人の姫だった……。

 一匹の猫が、稽古場に上がってきた。いつか姫が拾ってきた子猫だ。シオンに飼われて、今はもう大きな黒猫になっていた。餌をねだるように、シオンに体をすり寄せてくる。姫が拾って来なければ、何処かの軒下で死んでいたことだろう。

「人はなぜこの世に産まれ、生き、死ぬのか……おぬしは考えたことがあるか?」

 シオンは首を横に振った。老人は笑った。

「そうか……おぬしらしいな……まあ、良い」

 最後に、老人は言った。

「おぬしの力で、あの娘を護ってやるがいい……例え、誰が行く手を阻もうとも……」

 老人の目が細くなる。

『あの娘の生きる道を切り開いてやれ……』

 シオンは眼を開いた。

 壁にはまだ、蝿が止まっていた。

 ひどく喉が渇いていた。寝台から起きあがると、机の上の水差しを手に取り、杯は使わずにそのまま喉を潤した。溢れる水が首を濡らした。

 窓の外はもう陽が落ちていた。行灯のロウソクには香が練り込まれているようだ。心地良い香りがする。

 蛙の鳴き声が、庭から聞こえてくる。ユズナが主賓だという宴はまだ続いているのだろうか、と口を拭いながらシオンは思った。

 水差しと並んで、新しい包帯が置いてあった。手に巻いた包帯は血で赤黒くなっている。刺客から刀を取り戻そうとして、刃を素手で掴んだ時の傷だ。

 シオンは寝台に座って、新しい包帯に取り替えた。傷に貼り付いた部分を剥がすと、痛みで眉間に皺が寄った。

 血はもう止まっていた。何度か拳を固く握ってみる。刀を使うのには障りが無いようだ。

 包帯を替え終わると、首に提げている小さな袋を肌着の中から取り出した。中には獣の操技に用いる秘薬が入っている。

 シオンは秘薬を二粒、奥歯に空けた穴に隠した。


 宴が終わると、ユズナは一人の侍女に付き添われ、客室へ向かった。

 庭に面した幅の広い回廊が、客室の連なる一角へと続いている。

 月影の浮かんだ池には、蛙がいるようだった。暮春の夜の空気は甘く、ユズナの疲れた身体に染みこんだ。昨日にもまして、今日は長い一日だった……。

「ひっ!」

 突然、侍女が驚きの声を上げる。

「どうしました?」

「今、人影が……」

 侍女が手に持った行灯で指し示した方へ、ユズナは眼を凝らしたが、何も見えなかった。

 耳にも、蛙の鳴き声しか聞こえてこない。

「人影は……幾つ見えました?」

「分かりません……多分……一人……だったような」

「そう……」

「驚かせて申し訳ありません、私の気のせいかも知れません」

「謝らないで……」

 ユズナは静かに首を振ると、言った。

「行灯をこちらに……ここまでで良いわ、部屋には一人で戻れます。あなたは見回りの兵士に人影を見たことを伝えてください」

「ですが……お一人では……」

「平気よ。一人の方が、逃げるのも簡単ですし……」

 賊が襲ってくるとすれば、侍女が居ない方が、ユズナにとっては動きやすいのだった。侍女は一礼すると、足早に去った。

 とりあえず、侍女に危害が及ばなければ良いだろう、と考えながら、ユズナは欠伸をした。出来れば今夜はもう、床に入ってゆっくりと休みたかった。服を脱ぎ捨て、床に入れば三秒で眠れる自信がユズナにはあった。だから侍女が見た人影が本当に賊だったとしても、半ばどうでも良いような気分であった。

 行灯を手に、一人で回廊を歩く。

 こつん、と目の前で何かの音がした。小石が飛んできて廊下に落ちたようだった。

 ユズナは再び闇の中を見つめた。

 確かに誰かがいる。

「何者か?」

 問いかけに応じて、庭の木の後ろから人影が出てきた。

「ユズナさん……」

 聞き覚えのある声。

「オビトさん?」

 行灯の光が、その顔を照らした。亜麻色の髪、白い肌、丸くて大きな目……オビトだった。

「ユズナさん……無事で良かった」

 オビトはクナの服を着ていた。何処で手に入れたのだろう、寸足らずで、手足が大きくはみ出ている。

「あなたの方こそ……心配していたわ」

「会えて良かった。宿にいなかったので、もしかしたらここにいるかも知れないと思ったのですが、まさか本当に会えるとは……」

「どうやって、ここに?」

「忍び込みました……塀を乗り越えて……お願いです、公子に会わせていただきたいのですが……」

「そう……」

 ユズナは今来た廊下の方を眺めた。

「もうすぐ見張りの兵士が来ます。私の部屋へ……」

 オビトは廊下へは上がらずに、闇に身を隠しながらユズナの後を追った。

 与えられた客室に、ユズナはオビトを招き入れる。

「会えて本当に良かった」

 もう一度オビトは言った。

「そうね……私もよ」

 ユズナは優しく微笑んでいた。オビトはそんな彼女を見て、やはり幸運の女神かも知れない、と思った。

「オビトさん」

 ユズナがゆっくりと近づいてくる。オビトもまた、微笑みを浮かべた。

 そして次の瞬間、オビトは顎に強烈な一撃を食らい、目の前が真っ暗になった。


 オビトは気が付くと、椅子に座ったままの姿勢で縛り上げられていた。そこは見覚えのない、小さな部屋だった。机の上にロウソクがあり、目の前にはユズナがいる。

 なんだかつい最近、同じような状況に置かれたような気がした。その時は、ユズナではなくレゴリスが居たのだが……。

「手荒なことして、ごめんなさいね」

 ユズナは言った。彼女の他に、三人の男の姿があった。シオンの他の二人は、オビトにとって初めて見る顔だった。一人は武人、もう一人は貴族のようだった。もしかしたら、この貴族のような顔立ちをした人物が、公子なのかも知れないとオビトは思った。

「私をどうするつもりですか?」

 オビトが訊くと、答える代わりにユズナはじっと彼の目を見つめた。

「あなた、本物のオビトさん?何かに取り憑かれたりしていない?」

 オビトはようやく自分がブラウの化けた偽者ではないかと疑われていることを悟った。

「ああ……そういうことですか」

「昨日のこと、覚えてる?シオンがどんなご挨拶を差し上げたか?」

「いきなり剣を抜いて斬りかかって来ました」

「それじゃ……茶瓶の精霊が叶えてくれる願い事は幾つ?」

「三つです。ただし、死者を生き返られることと、願い事の数を増やすことは出来ない……」

 ようやく本人であると納得してもらえたらしく、シオンが縄を外してくれた。

「私の勝ちね、シオン」

 ユズナは言った。

「あなた、オビトさんが生きている望みは、これくらいわずかなものだって言ったわ」

 ユズナは親指と人差し指で、米粒くらいの大きさを示した。

「わずかというのは、普通はこれくらいのものです」

 シオンは何食わぬ顔をして、指で鶏の卵くらいの大きさを示した。

 ユズナは少し不満そうな顔をしたが、すぐに微笑んで言った。

「ともかく無事で良かったわ、オビトさん」

 今度はユズナの微笑みを見ても、オビトの心中は複雑だった。

 女の微笑みには棘があるのだと、オビトは心に刻んだ。

 そこは、公子コハクの私室であった。ユズナとシオンの他の二人は、もちろんコハクとルガイである。縄を解かれたオビトは、改めてコハクに使者として名を告げた。

 コハクはオビトに優しい言葉をかけた。

「遠路はるばる、ご苦労でした。また、刺客に命を狙われたというのに、再びここへ来た勇気を讃えます。なかなか出来ることではありません」

「刺客の正体とその目的が分かりましたので、公子にお会いするのにもはや迷いはありませんでした。ですが、刺客の仲間が、この邸内のいずこかに潜んでいる様子です。直接お目通りを願うために、無礼を承知で忍び込んで参りました」

「そうですか……貴殿には訊きたいことがたくさんあります。しかし、まずは、貴殿の身の上に起きたことを、順を追って話してください」

 オビトは、彼の主であるコルネリア姫から託された使命のこと、タオルンに着いてからユズナ達に会うまでのこと、刺客に捕らわれ、その後逃げ出してここへ来るまでのことを話した。

 話を聞き終えると、コハクは言った。

「こちらのユズナさん達を襲った刺客もクリミア人だったそうです。貴殿の話と一致しますが……貴殿と刺客達が敵対している、というのは確かなことでしょうか?」

 クナ人であるコハクから見れば、オビトも刺客もクリミア人であることには変わりがない。刺客の所から逃げてきたというオビトの話も疑ってみる必要があった。

「私はレーヴ家に忠誠を誓っている身です。刺客とは仕える主人が異なるのです……私を信じていただけないのはやむを得ないことですが、コルネリア様の親書は信じていただきたいと存じます。親書はお読みいただけましたか?」

 オビトはそう言って、ユズナの方を見た。ユズナは、渡したわよ、と言う代わりに軽く頷いてみせた。

 コハクは言った。

「ええ……確かにあれはコルネリアの手によるものでした……」

 そう言うと、しばらくの間、コハクはオビトをじっと見つめていた。

 ユズナは口をはさまなかった。しかしオビトが刺客の化けている偽者では無く、本人であることが分かったので、彼女自身はもうその言動を疑うつもりは無かった。それはユズナの方がコハクよりもオビトのことを知っているせいでもあるし、彼女自身の若さや性格のせいでもあった。

 言い方を変えれば、コハク程の慎重さはユズナには無かった。

 しかし、コハクもまた、ついには納得したようだった。 

「あなたを、信じることにします」

 オビトは跪いて頭を垂れた。

「ありがとうございます」

「こちらこそ、改めて礼を申し上げると共に、助力を願いたい。コルネリアの手紙には、貴殿が力になってくれると書かれてありました……早速訊ねますが、この国に持ち込まれた魔導具とは、一体どのようなものなのです?さっきは、そこまではお話になりませんでしたが……」

 オビトは言った。

「刺客達の運び込んだ魔導具は、蟲を呼び寄せることが出来ます」

 皆の表情が変わった。

「蟲を?」

「どうやって?」

「何のために?」

 皆の口から驚きと戸惑いがこぼれる。ただ、シオンだけは、黙っていた。

「何のために造られたのかは、分かりません。その魔導具がどうやって蟲を呼び寄せているのかも、分かりません。魔導の理は奥が深く、我々クリミアの民もまだ、その入口に立っているだけなのです。しかし、まるでブナの木の樹液に集まるかのように、その魔導具に蟲達が呼び寄せられるということだけは確かです」

「樹液のように?」

 ユズナは首を傾げた

「ええ、ただし樹液を餌としない蟲も呼び寄せます。例えば、ギントウロウも……」

「集まった蟲は、その後どうなるの?」

「私自身、その魔導具を動かしたことはありません。ですが、かつて動かした際の記録によると、ただ集まって来るということしか分からなかったようです。そして集まった蟲の中に埋もれた魔導具を止めるのに、何十人もの兵士が犠牲になったそうです」

「ますます分からないわね。そんな危険なものを……造ったのは人間なのでしょう?蟲を追い払うというのなら分かるけど……」

 ユズナ達がこの蟲を呼び寄せる魔導具の秘密を知るのは、これからまだずっと先、長い長い旅の果てのことである……。

「それで、刺客達はその魔導具をこの街で使うつもりだということね?」

 ユズナは言った。

「はい……我々は手に入れた魔導具の内、使い道の無いものは、倉庫に入れて放ってありました。まさかこのようなことに使われるとは、考えもしなかったのです」

 話を聞いていたルガイは眉間に皺を寄せた。そして武人らしい、厳しい表情でオビトに言った。

「これは……軍と軍の戦いではない、新しい戦のやり方ですな。帝国からの宣戦布告と受けとってよろしいのですかな?」

「いいえ。それは違います。帝国内では、この魔導具は盗まれたということになっております。魔導の秘密を知りたがっている誰かが、倉庫から持ち出したのだと……」

 オビトの言葉を聞いたルガイは、怒りで顔を赤くした。

「その誰かとは、クナ人のことだというのか。しかし、魔導具を持ち込んだのは、クリミアの刺客だと、貴殿はそう申されたではないか!盗まれたなどという言い訳が、通じると思ってか!」

 雷のようなルガイの言葉に、オビトは顔を青くした。それでも拳を堅く握り、何かを言い返そうとしたが、その前にユズナが割って入った。

「待って、オビトさんを責めないで」

「そうだな……ルガイよ、お前が怒るのも無理はないが、少し待つがいい」

 公子コハクの言葉に、ルガイは黙って頭を垂れ、口を塞いだ。

 オビトは言った。

「帝国の誰もが、皇国との戦を望んでいる訳ではありません。この件を理由に、皇国から戦を仕掛ければ、逆に帝国の戦を望む者達の思うようになるだけです」

「帝国の誰が戦を望み、誰が望んでいないのか?」

 コハクは落ち着いた声でオビトに訊いた。

「刺客達を裏で操っているのは、宰相ラディウスです。帝王にもっとも近い人物で、指折りの実力者です。野心家で、主戦派の中心人物でもあります。私が仕えるレーヴ家は、代々帝王に仕える名門であり、皇国との戦には異を唱えております……」

「そうか……」

 コハクは深く息をついた

「まずは、刺客達を捕らえ、魔導具を見つけること……だな。それと、裏切り者を見つけること……貴殿の話では、公国内に刺客達と通じている者がいるとのことだったが、誰か分かりますか?」

 オビトは首を横に振った。

「名前までは刺客達も言いませんでした。ただ、『あの者』とだけ……」

 ユズナが口をはさんだ。

「公子には、お心当たりがあるのでは無かったですか?」

 今日の午後、コハク達はこの部屋で同じような話をしたのだった。「ええ……私とルガイもこれまで、何もしなかったわけではありません。色々と調べてみました……皇国に不満を抱き、野心を持ち、魔導具を運ぶ船を所有していて、帝国とのつながりのある人物……」

 それを聞いたユズナは抱いていた考えを口にした。

「もしかしてそれは、今宵の宴にいた、アンユイという人ではありませんか?」

 コハクは頷いた。

「その通り、良くお分かりですね。彼の曾祖父は海賊退治に功があり、その時の公王より交易特権を与えられたのです。他の商人達に比べて半分の関税で帝国との交易ができるようになった彼の一族は、商才を発揮し、莫大な富を築き上げました」

 関税とは、他国の品物を皇国に運び入れる際に、品物の種類と量に応じて商人が公王に支払わなければならない金のことである。特権を得た彼の一族は、いつしかロントン公国一の富豪の座を占めるようになった。

「しかし、公王より与えられた特権は、三代までと限られていました」

「つまり、アンユイという人の代になって、もう無くなってしまったということ?」

「そうです。おまけにアンユイには曾祖父ほどの商才は無く、帝国との交易の利得は他の商人に奪われつつある……彼が公国に不満を抱く理由はお分かりでしょう」

「そう……それでコハク様のご縁談にも反対されていたというのですか?」

「ええ、帝国との国交が深まり、交易が盛んになれば、商才のあるものが活躍するようになり、彼の取り分はますます少なくなるでしょう。特権を失った上に、これまで培ってきた帝国の商人とのつながりまで失われてしまう……」

 縁談という言葉を聞いて、コルネリア姫の家臣であるオビトは目を丸くした。

「コハク様……そのご縁談というのは、もしや……」

「まあ……酒の席での話だ……今は気にされるな……」

 コハクは咳払いをした。

「そして、公国内での地位を失いつつあるアンユイに、帝国側も目をつけたようなのです……実は、何年か前に、帝国はアンユイ候に爵位を与えているのですよ」

 ユズナは首を傾げた。

「爵位?帝国の貴族として認められたということ?」

「ええ……爵位があれば、帝国の名の下に、領地を得ることが出来ます。今はまだ、名ばかりの貴族ですし、長年の交易によって儀礼的に与えられたものだと主張されれば、公国の法に触れることはありませんが……いずれは公国を裏切るつもりではないかと、以前から疑われているのですよ」

「これからの働き次第では、帝国から領地を与えられることもある、ということね」

「ええ、そうです……例えば、この公国が帝国の領土になったとしたら、当然、アンユイ候にも分け前があるでしょうね……ルガイよ、船の話を……」

 公子に促されて、ルガイが再び口を開いた。先ほどの怒りも、静まった様子であった。

「私は、帝国からの船について調べました。我々の想像とは異なり、ここ最近はアンユイ卿は自分の船を帝国へは出しておりませんでした。しかし、フェリス商会という帝国の商人の船が十日前に入港し、積み荷の一部をアンユイ卿に届けていました。これがその船の荷の目録です」

 ルガイは巻物を机の上に広げた。目録には、品物と届け先が記されている。ユズナは読もうとしたが、字の癖が強く、分かりにくかった。

 読みにくそうにしているユズナを見て、コハクが言った。

「帝国から皇国へ運ばれるのは、金や銀の装飾品、ガラス食器、大理石などが多いですね」

「ああ……読めたわ、これ大理石って書いてあるのでしょう?こちら側が運び先ね……僧院に運ばれたってことかしら」

「寺院の建築資材として、大理石は重宝されているのですよ」

 コハクがユズナに説明する。同じように目録を見ていたオビトがつぶやいた。

「当然ですが、何処にも魔導具などとは書かれていませんね……」

 ルガイが言った。

「目録と荷は、港の官吏が照合することになっておりますが、箱を全部開けているわけではありません。偽装して運び込んだのでしょう」

「アンユイ卿の所へに運ばれたのは?」

 ユズナはルガイに聞いた。

「こちらです……ガラス食器、毛皮と剥製、酒……オビト殿、魔導具とはどのような大きさのものなのですかな」

「蟲寄せの魔導具は大きなものです。倉庫に入れる際に、部品に分けて五つの木箱に収められました。真四角な木箱で一つ一つの箱の大きさはこのくらいです」

 オビトは二シャク(約一メートル)ほどの幅に、両手を広げてみせた。

「船荷としては、良くある大きさですな……酒として運ばれても、官吏を上手くごまかすことも出来るでしょう……他に何か特徴はありますかな?」

「箱には見る者が見ればそれと分かる焼き印が押されているはずですが、他の箱に入れ替えられてしまえばどうにもなりません。肝心の中身も、私はこの目で見たことはないのです。お力になれず、申し訳ありません」

 コハクはオビトに訊いた。

「我々の考えが正しければ、もうこの地に運び込まれてから十日が経っていることになるが、何故何も起きないのだろう?分けられたものを元通り組み立てるのに、そんなに手間がかかるのか?」

「いえ、慣れていれば半日もあれば充分です」

「何も起きていないわけでは無いと思うわ」

 ユズナは言った。

「昨日、港にウミワラジが出たのは、魔導具のせいかも知れません」

「そうか……迂闊でした。言われてみれば、この数日、普段よりも多く蟲が出るというので、私も昨日砦へ様子を見に行ったのでした……つまり、魔導具はもう動いているということでしょうか?」

 コハクの言葉に、ルガイが少し安心したように言った。

「だとすれば、それほど大騒ぎをすることも無さそうですな」

「いいえ、そうとも限りません」

 オビトが言った。

「今はまだ、試しているだけかも知れません」

「試しているだけ?」

 ユズナはオビトの言葉を繰り返した。

「魔導具を少しの間だけ動かして、また止める。そうすれば、呼び寄せられる蟲は、街のすぐ側にいる一匹か二匹だけということになります」

 ルガイがまた、険しい顔になった。

「なるほど……オビト殿、それでは魔導具の蟲を呼び寄せる力とは、一体どの程度のものなのでしょうか?」

「記録によるとかなりの広さから、沢山の蟲を呼び寄せることが出来るようです」

「どのくらいの広さですか?」

「およそ十里……しかし、それは魔導石の力にもよるのですが……」

「魔導石?それは一体何なの?」

 ユズナの問いに、オビトは一瞬ためらう様子を見せた。魔導石のことは、魔導の秘密に関わることで、帝国においても知り得る者は限られているのだった。

 しかしオビトは口を開いた。話す以外に、彼には道は無かった。

「魔導石とは、魔導の力の源です。形や大きさは様々ですが、魔導具には必ず備わっていて、それが欠けていると、どのような魔導具であっても力を発揮することは出来ません。とても大切なものなので、蟲寄せの魔導具を倉庫に入れる際も、魔導石だけは外して別の場所に仕舞われました」

「魔導具の力は、すなわち魔導石から生じる力、ということか?」

 コハクが訊いた。

「ええ、そうです。私は帝国を発つ前に確かめたのですが、蟲寄せの魔導具に元々備わっていた魔導石は持ち出されていませんでした。おそらく刺客達は保管庫に納められている魔導石はあきらめて、違う魔導石を使うことにしたのだと思います。彼らの手に入り易い、別の魔導石を……」

 ルガイは険しい顔をしたままだった。

「魔導石とやらは、異なる魔導具にも転じて使うことが出来るのですかな?」

「ええ、細かく話すと色々と条件はあるのですが、出来ますね」

「魔導石の力によって、魔導具の力も異なるというのなら、刺客達が用意した魔導石の力が弱くて、蟲を寄せる力も十里には及ばない、ということはないのかしら?」

 ユズナは期待を込めて言った。それが正しければ、先ほどルガイが言ったように、大騒ぎをしなくとも良いことになる。一日に一匹か二匹現れる程度ならば、港や砦の番兵達で充分に抑えることが出来るからだ。

「そうですね……ですが……」

「何?オビトさん?」

「私には、彼らがそのような過ちを犯すとは思えないのです……」

「そう……ね」

 ユズナは、今日の午後出会った刺客のことを思い出した。手強い相手だった。あの男がやっていることならば、オビトの言うように、過ちは犯さないだろうと思われた。

 コハクが言った。

「ではやはり、これから本格的に魔導具を動かすつもりだ、ということでしょうか……」

「ええ、蟲が集まれば、もちろん魔導具の在処も見つけることが出来ますが……その頃には、この街も半ば滅びてしまっていることでしょう……そうさせないために、一刻も早く魔導具を奪い返す必要があります」

「うむ……しかしいくらアンユイが怪しいと言っても、いきなり屋敷に押し入る訳にはいかない……」

「公子は動かない方がいいでしょう……証拠は私達が見つけます」

 ユズナは言った。

「私達は異邦人だし、見つかっても盗賊のフリをしておけば、公子に迷惑はかからないわ」

「テパンギの姫君を、盗賊にすることなど出来ませんよ」

 コハクは言った。

「平気よ、見つかっても上手く逃げてみせるわ。捕まるような下手はしないから」

 まるで本当の盗賊のような口ぶりである。

「そうですか……それでは申し訳ありませんが、ユズナさん達にお頼みします。しかし、くれぐれも無理をしないようにしてください」

「今日、お供した兵士をまた、案内につけましょう。口の堅い男です。足手まといになるようなことは無いでしょう」

「カダさんね。ありがとう将軍。とても助かるわ」

「魔導具の正体が分かっただけでも、こちらの分は良くなったはずだ」

 コハクの言葉に、ルガイは頷いた。

「左様ですな、蟲の襲来に備えをすることも出来ます」

「明日にでも、町の顔役を集めて、事態に備えるよう伝えることとしよう。それと蟲が相手なら、何と言っても竜騎兵の力が必要になる。叔父上に頼んで、僧院から竜騎兵を遣わしてもらおう」

 竜は蟲を好んで食べる。兵士十人がかりとなる蟲も竜騎兵にかかれば、一騎で圧倒することが出来るのだ。

 コハクは椅子から立ち上がり、皆に言った。

「今日はもう遅くなりました。ゆっくり休んで、明日に備えてください」

 ルガイを除く三人は、部屋へ戻ることにした。オビトには、邸内の者に分からぬよう、客室ではなくコハクの私室の一つが与えられた。裏切り者の手下や刺客が、魔導具の扱いに通じているオビトの命を狙うかも知れないからだ。

 忙しい一日だった。オビトによりもたらされた様々な事実。蟲を呼び寄せるという魔導具の正体は、ユズナ達を驚かせた。彼らが一つ、大切なことを見落としてしまったからといって、誰が彼らを責められるだろう?


 レゴリスは、窓の外の暗い河を見つめていた。

 水面には二つの月が、ゆらゆらと揺れている。

 この窓から手を縛られたまま河へと飛び込んで、果たして助かるものなのだろうか、と彼は思う。命拾い出来るのは、おそらく二十人に一人くらいなものだろう。

 しかしそれでも、オビトは生きているに違いない、とレゴリスは考えていた。

 既に部下達には、この隠れ家を引き払うように命じてあった。

 今、彼らはその支度に追われている。

 だからオビトをさっさと殺すべきだったのだ、とブラウは不満を露わにしていたが、レゴリスは取り合わなかった。そして、留守を預けていた部下を責めることもしなかった。見張りは言われたとおりのことをしていた。オビトの方が一枚上手だったのだ。

 何をしたところで、過去を変えることは出来ない。レゴリスはただ黙々と、次に打つ手のことを考えていた。

「本国からの連絡は?」

 部屋の中を振り返ったレゴリスは、質素な寝台に身体を横たえている若者に尋ねた。若者は、肘から先が無くなった腕に包帯を巻いていた。今日の朝、テパンギ人に切り落とされたのだ。若者は身体を起こそうとしたが、レゴリスはそれを制した。

 若者は言った。

「変わりがありません。計画通り続行するように、とのことです」

「そうか……傷は痛むか?」

 レゴリスは、若者に言った。彼の名は、シニスと言う。

「痛みますが、魔導には影響はありません」

 シニスには、双子の兄がいる。彼らは魔導の力により、どんなに遠く離れていても、頭の中で会話をすることが出来た。兄のデクスは帝国の首都キャスブルグにいて、宰相ラディウスの指令をレゴリス達に伝えているのだ。

「これで私とデクスの見分けがつくようになりましたね」

 シニスはそう言って、短くなった左手を上げた。弱々しく笑ってみせる。

「戦えなくなって、申し訳ありません」

「謝る必要は無い。お前達の魔導は貴重なものだ。襲撃に加えるべきでは無かったな……」

 レゴリスは言った。

「計画をどのように実行されるおつもりですか?公子はもう、オビトを通じて魔導具の正体を知ってしまったのではないでしょうか?」

「そうだな……」

 オビトを逃がしてしまったのは、レゴリスにとって確かに痛手だった。オビトが公邸に行き、公子と会ったという知らせはまだ入っていない。しかし、オビトには他に逃げ込む場所も、頼れる人もいない。例のテパンギ人の二人も公邸にいるのだ。

 おそらくオビトは公邸内にいるのだろうと、レゴリスは考えていた。

(いずれにしろ、重要なのは、公子の動きを封じることだ)

 現在の局面で、鍵を握っているのはオビトではなく公子なのだとレゴリスは考えていた。レゴリス達の計画を邪魔するには、異邦人であるオビトや例のテパンギ人の二人では、その力に限りがある。また、密使であるオビトの言葉を信じるのは、親書の差出人であるコルネリア姫と繋がりの深い公子だけだろう。

 つまり、公子の動きを封じる一手を打てば良いのだ。

「予定通りで問題はない……蟲寄せの魔導具に気を取られてくれるのなら、今はむしろその方が好都合だ」

 レゴリスはシニスに言った。

(魔導具の正体を知れば、彼らは自分達が幾分有利になったと思うに違いない……)

 そして、自分達がやるべきことが何かを考え、今度は自分達が攻める番だと思うだろう。しかし、それは錯覚なのだ。自分達が攻める番なのだという錯覚が、隙を生む。

(ならばその隙を突けば良い……)

 レゴリスは、水面に浮かぶ月を眺めた。


 朝、公邸の中庭でシオンは汗を流していた。

 その手には、昨日の朝、刺客が落としていった短剣が握られている。見慣れない武器は、機会があれば必ず振るうことにしていた。次にまた、同じ武器を持つ相手と戦う時のためだった。

 シオンは武器の扱い方を確かめると同時に、身体の回復の具合を確かめていた。手の平の傷はわずかに痛みが残っているだけだ。それよりも獣の操技の秘薬のせいで、全身が思いどおりには動かない方が問題だった。

(まだ、七分くらいか……)

 しかし、戦場では万全の状態で戦えることの方が少ない。万全で無いからと言って、敵が手加減をしてくれるわけではない。七分なら七分、五分なら五分の力をその場の状況に応じて上手く使える者だけが生き残れるのだ。

 庭にユズナがやって来た。昨日古着屋で買った筒袴の服を今日も着ている。刺客に斬られて破けた左袖も縫ってあった。遠目には分からないが、縫い目は残念な仕上がりになっているに違いないとシオンは思った。王宮育ちだからというわけではなく、生まれつきそういうことが不得手な人間なのだ。

「良く休めた?手の平の傷の具合はどう?シオン」

 ユズナは心地よい朝の空気ににふさわしい笑みを浮かべた。

「たいしたことはない。そっちの左腕は?」

「平気よ」

 ユズナは左腕を軽く振ってみせた。

「それにしても、あなたより強い人間がいるなんて、驚いたわ」

 昨日、港で出会った刺客のことだ。オビトに話すと、それはレゴリスという名の刺客の首領に違いないと彼は言った。

「世界は広い」

 シオンは短剣を上下逆さに持ち、庭の木に目がけて放り投げた。短剣は薄い弧を描くと、狙いを違わず幹に刺さった。

 シオンは、上着を脱ぎ、汗を拭いた。均整の取れた美しい背中が、ユズナの眼に映った。よく見ればきっとそこには、たくさんの傷跡が見つかるに違いなかった。

 どんなに強い人間でも、傷つかないことなどない。

 シオンの傷のほとんどは、ユズナを護るために負ったものだ。

 ユズナはそのことをよく分かっていた。時として、自分のわがままのせいで、彼が傷ついているのだということも……。

 今もまた、そうだ。

 親書を届けるという約束は果たしたし、捕らわれていたオビトも無事に帰ってきた。もうこれ以上、自分達が関わらなければならない理由など無かった。

 もしもまた、レゴリスと闘うことになれば、今度こそ命を落とすかも知れない。自分だけでなく、シオンの命も……。

 もう止めましょう……そう言うことも出来るはずだった。

 そうしてシオンと二人でこの街を去り、旅を続けることも……。

 きっと、コハクは責めたりはしないだろう。自分はこの国の公族ではないのだ。

 ヨナとその家族だけは、無理にでも避難させれば良い。

 逃げるための、まとまった金なら用意できる……。

「迷っているのか?」

 シオンはユズナの胸の内を見透かして言った。

「ええ……そうね」

 ユズナは小さくため息をついた。

「姫だった頃は、少なくともこんな風に迷ったりはしなかったわ。姫じゃなくなったら、もっと楽に生きられると思ったけど、そうでもないみたい……」

「そうか……」

「人の生きる道って、思うようにはならないものね」

「……きっと、どの道を選んでも悔いは残る」

 朝陽が庭に光を注ぎ、樹木や石灯籠は細く長い影を落としていた。何も知らない小鳥たちは、朝が来た喜びをさえずっている。

 ユズナは言った。

「私、この街のみんなを護りたいと思うの……」

「そうか……分かった」

「ねえシオン。一つ、約束して」

「何だ」

「死なないって、約束して。絶対に、死なないって……」

 無茶な願いだと、ユズナは自分でも分かっていた。

 しかしシオンは軽く頷くと、言った。

「ああ、死なない。約束する」

 それを聞くと、ユズナは笑って見せた。けれどそれは、何処か寂しげで、儚い笑みだった。

 シオンもまた、口の端に笑みを浮かべた。

「それじゃあ、行きましょう。アンユイの屋敷とやらに」

「そうだな」


 ユズナとシオンは、オビトと案内役のカダを連れて公邸を発った。それと同時に、公子の使者が数名、町へ散って行った。蟲が襲来した時には、タオルンの民を速やかに避難させることが出来るよう、町の顔役たちを集めて話をするためだ。

 公邸のすぐ近くの橋の下に、一艘の小舟が留まっていた。三人の男が乗っている。港の漁師がよく使う三角の笠を被っていて、顔は見えない。服装も漁師そのものだ。

 橋の上にも一人、男がいた。ユズナ達が公邸を出て行くのを見ると、石橋の欄干を石ころで何度も打ち、小舟に合図を送る。

「オビトを見つけたようですね」

 小舟に乗った三人の内の一人が言った。クリミア人の刺客だ。後の二人は、レゴリスとブラウだった。

 石橋を打つ音が続く。

「テパンギ人も一緒……連中とは別に四人の使い……」

 それを聞いたブラウが、レゴリスに言う。

「今度こそ、オビトを始末しましょう。追わせてください」

 しかし、レゴリスは頷かなかった。

「あのテパンギ人はお前達の手には余る。追ったところで、捕まってしまうだけだ。追うなら、使いの方だ」

 そう言うとレゴリスは四人の使いの内の一人を、橋の上にいた手下とブラウに追わせた。

「もう、ここにいる必要はない。怪しまれる前に舟を出せ」

 レゴリスは小舟に残った手下に命じた。

 蜘蛛の巣に獲物がかかったのだ。

 舟はゆっくりと河を下る。

「人を呼び集めるための使いだとしたら、こちらにも好都合だ」

 レゴリスは言った。

「見物客は、多い方が良い……」


 ユズナ達は、アンユイの館に向かっていた。

 案内役のカダは目立たない服装で、誰が見ても兵士には見えなかった。そうした立ち振る舞いが自然に出来るところは、さすがに将軍配下の精鋭だけのことはある。

 道中、オビトは刺客達のことを皆に話した。

「レゴリスは、剣を持っていません。剣だけでなく、武器といえるものは何も携えてはいないそうです。」

 昨日、シオンと戦った時も、レゴリスは徒手であった。

「彼にとっては、身の回りにあるすべてが武器なのです」

「身の回りのものすべて?」

「人を暗殺するときも、彼はそこにあるものを使うそうです。庭の木の枝に胸を突き刺されていたり、食堂の陶器の破片で喉を切られていたり、腰ひもで首を絞められていたりする死体が見つかると、彼の仕業では無いかと囁かれるのです。ですが証拠は何も残らないので、捕まえたところでどうすることも出来ないのです」

 その恐ろしさはユズナ自身、目の当たりにしている。

「厄介な相手ね……」 

 シオンはオビトに、偽者のオビトの正体を訊ねた。

「あれは、ブラウという名の刺客です」

「あの変装は、魔導の力なのか?」

「はい、変装というよりは、変身と言った方が良いかも知れません。頭からつま先まで、身体がすっかり私と同じになるのですから」

「ブラウという者以外にも、その魔導が使える者がいるのか?」

「私が知る限りでは、ブラウだけです」

「それはつまり、その男だけが変身の力を持つ魔導具を使えるということか?」

「少し違います。確かに、魔導の力を使うには、様々な道具が必要であると私は言いました。何と言ったら良いか……そうですね……簡単に言うと、彼ら自身が魔導具なのです」

「人間自身が……魔導具?」

「はい。昨晩お話ししたように、魔導具は魔導石を力の源にしています。ですから魔導石を人の身体に埋め込むことで、その人間が自ら魔導の力を操れるようになるのです」

 ユズナは驚きの声を上げた。

「身体に石を埋め込む?そんなことが出来るの?」

「はい。しかし、誰もが魔導の力を操れるようになれるわけではありません。まだ我々にも詳しいことは分かっていないのですが、魔導石の性質と、埋め込まれた者の資質によって、発揮できる魔導の力は異なるようです……」

「ブラウという刺客は、たまたま変身の魔導が使えるようになったということか?」

 シオンは目を細めて言った。

「そういうことでしょう。私も初めて見ましたが……」

「レゴリスは、魔導を使うのか?」

「おそらくは……ですが、どのような魔導なのかは私も知りません」

 シオンは考えた。昨日、自分と戦った時、レゴリスは魔導を使ったのだろうか、と。

(多分、使ってはいないだろう……)

 魔導の力を使うまでも無いと考えたのか、あるいは、ブラウの変身の能力のように、戦いには不向きな力なのか……いずれにせよ、手強い相手がさらに未知なる力を秘めているということは、喜ばしいことでは無かった。

「炎を吐く刺客もいたが……」

「それもおそらくは、魔導の力でしょう」

「変身やら、炎やら。どうやら、化け物じみた相手のようですなあ」

 それまで黙っていた案内役のカダが、ぽつりとつぶやいた。

「それはそうと、もうすぐアンユイの屋敷ですが、どうしますか?」

 シオンが応えた。

「忍び込むのなら、仕度がいる。まずは下見をしてからだな……」


 コハクは時間に追われていた。

 朝の内に、魔導具による陰謀の話を公王に伝えると、タオルン中の顔役を集める許しを得た。

 叔父のシンレンも寺院から呼び、蟲の襲来に備え、竜騎兵を呼び集めてくれるよう頼むことにした。

 昨夜の内に、オビトが逃げ出してきたという刺客達の隠れ家にも兵を差し向けていたが、朗報は得られなかった。どうやら隠れ家からは引き上げてしまったようだった。

 しなければならないことは山ほどあった。やがて、顔役達が集まり始めたという報せを受けると、着替えるために私室へ向かった。

 その途中、コハクは人の気配のない廊下を通った。

 いつもと変わらぬ様子のその場所で、コハクは突然、頭の後ろを誰かに殴られた。

 目の前が真っ暗になる。

 ちょうどその直ぐ後にルガイがやって来たが、廊下にはもう誰の姿も無かった。

 もしもあと数秒、ルガイがやってくるのが早かったなら、彼らの運命も異なったものになっていたかも知れない。

 ルガイは公子の私室まで足を運び、そこにコハクがいないと分かると、街の顔役達が集まりつつある接見の間へと向かいながら、その姿を探した。

 しかし、何処にも見つからい。

 コハクが現れたのは、客人達が皆集まった後のことだった。

「何処へ行かれていたのです?」

 接見の間の外の廊下で、ルガイは眉をひそめて訊いた。

「ああ……厠だ」

 コハクは言葉少なく答えた。

「王は何処だ?」

「ただ今お連れいたします。公子、帽子が逆さになっておりますぞ」

「ああ……そうか」

 コハクは素早くあご紐を解き、帽子の向きを入れ替え、被り直した。

 接見の間には、タオルンの顔役が十数名集まっていた。彼らは漁師の網元や、港の人足頭、商人組合の長など、いずれもタオルンの町をよく知る者達であった。

 突然呼び集められた顔役達は、緊張した表情を浮かべていた。

 公王ロン=ジェが姿を現すと、一層場の雰囲気が重くなる。

 王が座に着くのを待って、コハクは話を始めた。

「今日、諸氏に集まっていただいたのは、ロントン公国にとって、そしてこのタオルンにとって、重大なことが起きようとしているからだ」

 そう言うコハクの様子は、いつもと変わらぬように、ルガイの眼には映っていた。

 ただ、衣服の着こなしが、いつもと少し違っている様子だった。先ほどは帽子が逆さまだったが、よく見ると、腰紐の結び方や襟の開き具合などがいつもの公子とはどことなく違っているようにも思えた。

 しかし、今日は朝から忙しかったのだから、公子も慌てていたのだろう、とルガイはそれ以上気にかけなかった。それよりも、今大切なのは、顔役達に蟲を呼び寄せるという魔導具の件を正しく伝えることなのだ。

 コハクは王の隣に立って話を続ける。

「諸氏には良く知っておいてもらいたい」

 そう言うと、コハクは懐から短剣を出した。

 ルガイはその瞬間、己の眼を疑った。

 その場にいる誰もが、息を止めた。

 しかし、時間を止めることは誰にも出来なかった。

 コハクはためらいもなく鞘を抜き払い、隣の王の胸に突き立てた。

 王は眼を見開き、ぽっかりと口を開け、かすれた声を出した。

 コハクは声を張り上げて、言った

「今日からは私がロントンの公王だ。今ここで見聞きしたことを町中に伝えるように。私に逆らう者は首を切り落として豚の尻に突っ込んでやるからそう思え」

「公王!」

 ルガイが駆け寄り、椅子から崩れ落ちる王を支える。

「後は頼んだぞ」

 コハクはそう言い残すと、早足で接見の間を後にした。

「公子!」

 ルガイは、コハクを追いかけようとしたが、出来なかった。彼の腕の中の王には、まだ息があった。一瞬ためらったが、彼は王の側にいることを選んだ。

「王よ!」

 王は眼を大きく開けたまま、口を動かしていた。何かを言おうとしている様子だったが、それはもはや言葉にはならなかった。短剣は胸にささったままだった。それがわずかに急所を外していること、そしてそれを抜いたところで決して助かりはしないことが武人であるルガイには分かった。

「王よ……」

 ルガイは王の手を握った。誇り高く、慈悲深いロン=ジェ。クナ皇国の東の要、ロントン公国の王。

 その生涯が今まさに終わりを告げた。

 公子の恐ろしい行いに、接見の間は騒然となった。

 ほとんどの者は、公子は正気を失ったのだと考え、そう口にした。

 公子に戻って来てもらい、真意を確かめたいという声も上がったが、顔役達の誰にも本当にそうする勇気は無かった。もしかしたら己も殺されてしまうのではないか、と皆は怖れた。

 ルガイと親交のある者が、どういうことなのか話して欲しいと彼に言った。

 王の亡骸をルガイはそっと床に横たえた。落ち着きを取り戻した彼は、たった今起きたことの真相に気がついていた。

 魔導の力で変身をする刺客が、本物の公子と入れ替わっていたのだ。

「皆、聞け。あれは公子ではない。あれはクリミア帝国の刺客なのだ」

 しかし、ルガイの言葉に頷く者はいなかった。ルガイはそれ以上の説明はひとまずあきらめることにした。それよりも今は、本物の公子が無事かどうかを確かめる必要があった。

 王の亡骸を寝室へ運ぶよう衛兵に告げると、ルガイは接見の間を出た。

「賊がいる。一人も公邸から出してはならん。公子を探せ」

 衛兵たちにそう命じながら、自分も公子の姿を探す。

 ルガイは己の不覚を呪った。

 魔導の力で変身する刺客がいるということを、オビトから聞かされていたにもかかわらず、このような事態を招いてしまった自分を責めた。蟲を呼び寄せるという魔導具にばかり心を捕らわれてしまっていたのだ。本当に恐ろしく、用心すべきだったのは誰にでも姿を変えられるという刺客の方だった。

 しかも、狡猾な刺客だった。王を刺す時に、わずかに急所を外したのも、自分が逃げる時間を稼ぐために違いない。おそらくはもう、公邸内にはいないかも知れない。

 姿を変えられるのならば、公邸に出入りするのも簡単なことだ。

(公子……どうかご無事で)

 ルガイはコハクの私室の戸を叩いた。

 引き戸には内側から掛け金が降りていた。中に誰かがいる。

「公子!」

 ルガイは後ろに下がると、肩から突進して戸を破った。

 部屋の中にはコハクが倒れていた。ルガイは駆け寄って、息を確かめる。

「公子……」

 気を失っているものの、コハクは生きていた。

 しかし、果たしてこれは本物の公子なのだろうか、とルガイは疑った。なぜなら、コハクは先ほどと同じ服を着ていたからである。王を刺したときに浴びた返り血もそのままだった。

「公子!」

 ルガイが肩を揺さぶると、コハクはわずかに目を開いた。

 ルガイは何度も呼びかけたが、コハクはなかなか意識を取り戻さず、ぼんやりとした様子で宙を見つめている。どうやら眠り薬を飲まされたようだった。

「ルガイ……」

「公子、お答えください。私の弟の名は何といいますか?」

 コハクは眉を寄せ、必死に意識を取り戻そうとしている。

「ルガイ……何を言っている。お前に弟がいるなどと……聞いたことが無いぞ」

 どうやら本物の公子のようだ。ルガイはようやく安堵の息をついた。

「ルガイ……一体どうしたというのだ……」

「公子、父王君が殺されました」

 ルガイのその一言は、どんな気付け薬よりも効果があった。

 コハクは目を見開き、身体を起こした。

「何だと……一体誰が……」

「恐れながら、私以外の者は皆、公子だと思っております」

「どういうことだ、それは」

 ルガイは、ついさっき接見の間で起こったことを話した。

 コハクは呆然とした表情で、返り血の付いた服を見つめている。

「何ということだ……」

 一人の衛兵がやって来た。

「将軍!」

「どうした」

「客人達が騒いでおります!」

「今しばらく待つように伝えろ」

 ルガイは考えを廻らせた。このまま彼らを帰せば、公子が王を殺害したという話はあっという間に街へ広まってしまう。

(いっそのこと、口封じに、皆を殺してしまうか……)

 ルガイはその考えをコハクに告げた。

「それはならんぞ、ルガイ。民なくして国はない。彼らもまた、護るべきロントンの民なのだ」

 ルガイは唇を噛んだ。

「それでは、どうなされますか?」

「まずはこの汚れた服を着替えよう。王が殺されたからと言って、蟲寄せの魔導具の脅威が無くなったとは思えない。皆にそれを伝えなければ……」

 王を失うことによって、コハク自身、魔導の力というものを思い知らされたのだった。オビトのいう蟲寄せの魔導具というのも、心の何処かではその存在を疑っていたが、今となっては信じる他なかった。

 この街が蟲に襲われるというのであれば、接見の間に集めた顔役達の力はどうしても欠くことが出来ない。ここで、口封じのために彼らを殺してしまえば、街は混乱し、ますますクリミアの刺客の思い通りになってしまうのだ。

 コハクが着替えを終えたところへ、叔父のシンレンがやって来た。蟲の襲来に備え、竜騎兵を集めて欲しいと頼むために、朝の内から僧院より招いていたのだった。

「公子、一体何が起きているというのです。皆、公子が王を殺害したなどと申しておりますぞ。王はどちらにいるのです」

「叔父上……父王は殺されました」

 シンレンは息を詰まらせた。コハクとルガイは、呆然とたたずむシンレンに、公王は公子に化けた刺客によって殺されたのだということを伝えた。

「まさか……王の亡骸は……今何処に?」

 亡骸を自分の眼で確かめなければ信じられない、という様子でシンレンは言った。

「王の寝室へお運びいたしました」

 ルガイは言った。臓物を引き裂かれる思いだった。

「公子に化けるというのも……魔導の力だというのですか?蟲を呼び寄せるというだけでは無かったのですか?」

 シンレンは険しい顔で言った。

「魔導には、様々な力があるということです……」

 コハクもまた、苦渋に満ちた表情を浮かべて言った。

 しかし、シンレンはそんな公子を疑うように見つめた。

「公子は、これからどうされるおつもりですか?」

「街の顔役達に、話をしなければなりません。王を殺したのは私ではなくクリミアの刺客であることと、この街が蟲に襲われるかも知れないということを、伝えるつもりです」

「そして、王位を継ぐおつもりですか?皆は、公子のお話を信じるでしょうか?」

「叔父上……叔父上は信じていただけますか?」

「真実を見極めるのは、難しいことです。拙僧に迷いが無いと言えば、嘘になりましょう」

「信じてはいただけないのですね」

「信じると口にするのは易しいことです。ですが、盲信は人に道を誤らせることがあります。刺客が王を手に掛けたのなら、まずはその者を捕らえるのが肝心ではないでしょうか?そして魔導の力とは何か、明らかにしなければ、私だけでなくタオルンの民の心を落ち着かせることは出来ないでしょう」

「刺客は、草の根を分けても、探し出します」

 ルガイは一言一言、ゆっくりと言った。その言葉にシンレンは静かに頷いた。それは、公子に向けたシンレンの疑いがわずかに晴れたことを示しているようにも見えた。

「いずれにせよ、王が逝去したことはロンオウの皇帝に奏上せねばなりません。王の死に疑わしい点があれば、法官がやって来るでしょう。ロンオウの裁定が下るまでは、公子には慎重に振る舞っていただいた方が良いでしょう」

 シンレンはさらに言葉を続ける。

「宜しければ、僧院に身を置かれてはいかがですか?客人達にもそのように伝えれば、彼らの疑いも少しは和らぐでしょう」

 確かにシンレンの言う通り、僧院に身を預けて大人しくロンオウの裁定を待っていれば、いずれは自分の無実をタオルンの民に信じさせることが出来るかも知れない、とコハクは思う。

 しかし、それでは蟲の襲来に備えつつ、少しでも早く魔導具を見つけ出す、という目の前の重大な任務を果たすことが出来なくなってしまう。

 かといって、王を殺した疑いのある公子が、街の防衛のためとはいえ軍を動かしたりすれば、タオルンの民は混乱に陥るだろう。ロンオウの皇帝も、コハクが皇国を裏切ったと見るかも知れない。

 コハクの心は二つの道の前で揺れ動いた。どちらの道を選ぶにしても苦しい決断をしなければならない。

(刺客達は、私も殺そうと思えば簡単に出来たはずだ……そうしなかったのは、私に疑いの目を向けさせ、公国を混乱させるためだろうか……だとすれば、私に化けて悪事を働くのは、まだ終わりでは無いかも知れない……)

 衛兵が再びやって来た。

「将軍、客人達が騒いでおります。もうこれ以上は剣を抜かずには抑えられません」

「今、大切な話をしているのだ……もう少し待つように、私が言って伝えよう」

「待て、ルガイ。私が行く」

 コハクは、心を決めた。

「どのみち、私一人の力では事を収めることは出来ない。客人達にすべてを話した上で、私は僧院に行く。後のことはルガイ、お前に託す。刺客を捕らえ、蟲からこの街を守ってくれ」

「……御意」

「もしも僧院の外で私の姿を見たなら、ためらわずに捕らえるよう兵士達に命ずるのだ。生きたまま捕らえられなければ、殺しても良い」

「御意」

「私に化けられるというのなら、ルガイ、お前の偽者も現れるかも知れない。軍を動かす際は、必ず命令書を確かめるよう、士官達に徹底するのだ」

「御意」

 それからコハクはシンレンに頭を下げた。

「叔父上にも、お力添えをお願いいたします」

「はい。蟲が襲って来るというのならば、竜騎兵がお役に立つでしょう。早速、招集いたします。王の弔いも、私にお任せください」

 弔いという言葉に、王が逝去したのだということを改めて思い知らされ、コハクは胸を痛めた。

(父上……私が油断したばかりに、父上を死なせてしまいました。私は親不孝者です。ですが、必ず仇は取って見せます。例え、帝国と戦になろうとも……必ず……)

 今この瞬間、公王の死とともに、ロントン公国の歴史が大きく変わったのだった。

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