第4話

 ユズナとシオンは、昼食のもてなしを受けた後、再びコハクの私室へと呼ばれた。

 部屋にはコハクの他に、口髭を生やしている壮年の男がいた。海の上で陽を浴びた肌をしており、肩と腕の肉はがっちりと盛り上がっている。丸太一本を薪に割るのに、さほど苦労を要しないといった風である。

 それはルガイという名の将軍であった。コハクが町はずれにある砦から呼び寄せたのだという。

 コハクはユズナとシオンに言った。

「この屋敷の者には、コルネリアの親書のことは黙っていた方が良いでしょう。あなた方は、あくまでもテパンギの使節ということにしておきます」

 オビトが襲われたいきさつを考えれば、この屋敷の使用人の中に刺客と通じている者がいるという疑いは充分にあった。

「こちらのルガイは信頼できます。この件については、彼が大きな力となるでしょう。お二人からオビト殿の人相など、お聞かせいただきたくてお呼びしました」

 ルガイは改めて、ユズナ達に礼をした。謹厳実直な武人らしい印象を与える礼であった。

 ユズナはさっそく、オビトや刺客達について知っていることを語った。

 聞き終わると、ルガイは言った。

「魔導具とは、どのようなものなのでしょう?大きさだけでも分からないでしょうか?」

 ユズナは首を横に振った。

「私達は、何も知らないの」

 ルガイは仕方がない、という風に黙って一度肯くと、コハクの方を見た。

「刺客の背後で糸を引いている人間が公国内にいるとすれば、一大事ですな」

「ああ、これまでの話からすると、公国内の誰かががクリミア帝国から魔導具を手に入れたと考えられる。公王に忠誠を尽くす気があるのならば、喜んで献上するはずだが、その様子はない。コルネリアの言うように、危険なものだとしたら、何か良からぬことを企んでいるということだろう」

「その者に、心当たりはありますか?」

 ユズナが訊ねる。

「ない……とは言い切れませんな……」

 眉をしかめつつルガイは言ったが、それ以上は言葉を続けなかった。ルガイに代わって、コハクが公国の内情を打ち明けた。

「恥ずかしながら、この公国はかつてのような一枚岩ではないのです。長い年月の間に公族の威光は薄れ、力をつけた貴族達が虎視眈々とその座を狙っているのです」

 公子の言葉に、ルガイはさも悔しそうに口を曲げる。

 ロド大陸の南東に位置するクナ皇国は、五つの公国から成り立っている。

 北のロンペイ、南のロンナン、西のロンセイ、東のロントン、そして四つの公国の中央に位置するロンオウである。

 数百年前にクナの地を統一した初代皇帝ロン=ユウは、その五人の子どもにそれぞれの国を分け与え、公王とした。そして晩年、ロンオウの公王となった長子に皇帝の位を譲った。ロン=ユウ亡き後、五公国はロンオウの皇帝を盟主として戴く〈クナ皇国〉として今日まで続いている。

 ロン=ユウの血を受け継ぐ者は皇族、又は公族と呼ばれ、皇国の権力の中枢を担ってきた。しかし長い年月の間には、タッタールとの戦で名を上げ領地を拡大した貴族や、交易で富を得た貴族が次第に力をつけ、公族に優るとも劣らない権勢を振るうようになってきたのであった。

 コハクが話を続ける。

「クリミア帝国がタッタールを破ったことはご存じでしょう?」

 ユズナは肯いた。タオルンに着いてから、何度か耳にした話だ。

 北のクリミア、中部のタッタール、南のクナ、今までは三国のうちのいずれかが突出して力をつけることは無かった。言い換えれば、均衡が保たれていたのである。

 しかしタッタールを破ったクリミア帝国が、今後南に勢力を伸ばし続ければ、いずれクナ皇国との戦は避けられないものとなる。

「貴族の中にはこれを機に、帝国と共謀して皇国を滅ぼし、その後に自らの領土を広げようという輩もいるのです。しかも、一人や二人ではありません……」

 コハクはため息をついた。

「そうした者が、今度の一件に関わっている、ということですね」

「そう、そしてクリミア帝国が、その誰かに魔導具を渡した。コルネリアが何処まで知っていてあの親書を記したのかは分からないが……おそらくはそういうことでしょう」

 ユズナはため息をついた。

「クリミア帝国内の何者かと、ロントン公国内の誰かが通じ合っていて、何かを企んでいる……分かったところで、これでは手の打ちようが無いですね」

「いえ……そうとも限りません」

 ルガイが言った。

「このタオルンの港では、我々の方に地の利があります。そうそう勝手なことはさせません。クリミア人の刺客も一日中顔を隠して過ごしているわけでもないでしょう。その内の一人は今朝、片腕を失ったということですし……探してみせますよ」

 コハクも肯いた。

「おそらく、魔導具は船で運ばれたのでしょう。最近クリミアから入港した船と、その持ち主を調べれば、尻尾を掴むことが出来るかも知れません」

「私達もお手伝いします」

 ユズナの言葉に、コハクは首を横に振った。

「いえ、それには及びません。あなた方はこの街のことを良く知らないでしょうし、刺客達に顔も知られています」

「そう……でもオビトさんとは今日の夕方、港で会う約束をしていました。無駄だとは思うけど、一応そこへは行ってみます」

「分かりました、それでは道案内の出来る護衛をつけます。ルガイ、頼んだぞ」

 御意、とルガイは肯いた。


 レゴリスは、小さな部屋で、一人の男と会った。

 男は憤っていた。

「親書を奪うのに失敗したとはな……大体、何故そんな好き勝手なことをさせておくのだ。レーヴ家だかなんだか知らないが、帝国内の貴族の口くらい、封じておけないのか……」

 レゴリスは、いつもと変わらぬ声で応じた。

「魔導具は帝国の命綱、その使い道が何であれ、他国に渡すことは禁じられております。無くなったことが発覚した以上、盗まれたことにしなければなりません。誰が盗んだのか、ということはそれを考える者の勝手です……」

「魔導具が無くなったことが発覚したのは、偶然だと言ったな?」

「はい」

「本当にそうなのか?」

「どういうことでしょう……」

「どうしてタオルンにあるということまで、こんなに早く突き止められてしまったのだ」

「なかなか、勘の鋭い者がおったようでして」

 実際、オビトの登場はレゴリスも予想していなかったことだった。クリミアの使いが公子を訪ねて来たという報せを、目の前の男から受けた後、すぐさま手下四人に襲撃させたが、オビトには逃げられてしまった。その後どうにか捕らえたものの、彼はさらにレゴリスの思惑を上回り、親書を公子に渡すことに成功した。もっともそれはオビト一人の力ではない。テパンギから来たという二人の助力があってのことだが……。

「それも偶然だというのか?」

「我々を、お疑いなのですかな……」

「腹の読めない相手ではあるよ。おぬしも、それから、フェリス商会のあの女もな……私に手を差し伸べておきながら、もう一方の手には刃を握っている気もするな……」

「それを承知で、お取引なされたのでは?」

 レゴリスの言葉に、男はフンと鼻を鳴らした。

「まあいい……ともかく私の目的を忘れてもらっては困る。蟲を街に呼び込むのも、単なる手段に過ぎない。大切なのは、その先のことだ」

「計画はまだ、予定通りに進んでおります。筋書きを少し、書き換えることは必要ですが……」

「どう書き換えるのか、聞かせてもらおうか」

 レゴリスは、男に近づきそっと耳打ちをした。

「……なるほど」

 話を聞き終わると、男は満足したようにうなずいた。

「明日……か」

「それではこれで……」

 レゴリスは軽く頭を下げ、立ち去ろうとした。

 男は思い出したように言った。

「親書を届けたという二人はどうするつもりだ。テパンギ人だと聞いたが……」

「さあ……ひとまず、これから会いに行こうかと……」

 まるで近所に越してきた者を訪ねに行くかのような口ぶりだった。

「早めに始末してしまうことだな」

 レゴリスはそれには応じず、黙ったまま、踵を返した。

 男はさらに言葉をかける。

「ここに来たことを、誰かに見られていないだろうな」

「私が……誰かに見られる?」

 男を振り返ると、レゴリスは冷笑を浮かべた。

「ご心配なく……」

 そして部屋には男が一人、残された。

 男はレゴリスが去った後も、動かずにそのまま座っていた。

「明日……この国の歴史が変わる……」

 しばらくの間、何かに思いを廻らせている様子であったが、口元に笑みを浮かべると、やがて声を出して笑い始めた。

 笑い声は次第に大きく、狂気を帯びて拡がっていった。


 ユズナは牛飼いの服に着替えてから、シオンと案内の兵士一人を連れて港へ向かった。

 シオンは商家の服のままで、刀も布袋に入れたまま手に携えていた。動きにくい服では無かったし、なるべく目立たないようにした方が良いと思ったのだった。

 案内の兵士は、コハクよりも幾らか年上に見える、熟練の兵士だった。落ち着いた物腰をしていたが、時折、興味を帯びた視線を二人に向けた。

「私の格好、変かしら?」

 ユズナの言葉に、兵士は首を横に振った。

「昨日、ウミワラジと渡り合った二人のテパンギ人の話を耳にしました。もしかして、あなた方のことではありませんか?」

「港での話だったら、そうかも知れないわね」

 兵士は目を見開いた。

「すごいですね。ウミワラジにたった二人で挑むなど、聞いたことがありません」

「そう?ありがとう……この辺りは、蟲が良く出るの?」

「いいえ、この港は皇国が建国されるずっと以前からありました。それだけ安全だったのですよ。北東に古い森がありますが、蟲はほとんどやっては来ません」

「そう……」

「ですがここ数日は、昨日のウミワラジの他にも、何匹か、街の境界で退治されています。マダラコガネにハガネカミキリ、ホオジロバッタにイシワリクワガタ」

「そんなに?」

「ええ、群れではないので、街には被害がありませんでしたが……公子もご心配なされて、昨日、砦まで足を運ばれたそうです」

「砦?何処にあるの?」

「街の北の丘の上にあります。もともとは古森を見張り、蟲の襲撃に備えるために造られたのですが、ここの兵は蟲よりも海賊退治に長けておりましてね。控えの水兵の詰め所のようにも使われています」

 昨日の番兵達が、ウミワラジ相手に苦戦していたことをユズナは思い出した。彼らはもともと、蟲との戦いには慣れていなかったということなのだろう。

「急に蟲が現れるなんて……どうしてかしらね……」

「さあ、蟲の考えることなど、我々には計りかねますから……」

 潮の香りが強くなる。

 オビトと待ち合わせの約束をしたのは、昨日、ウミワラジが出た場所であった。

 蟲の骸はもう跡形もない。ただ、竜が降り立った時に割れた石畳は、まだそのままだった。

「やはり、来ていないわね」

 辺りを見渡してから、ユズナはつぶやいた。陽は傾き、影も長くなりつつある。もしも無事でいるのなら、オビトは必ずここに来ているはずだ。

 シオンは黙っていた。ユズナと違い、オビトのことはほとんど気に掛けてはいなかった。ただ、ユズナの気の済むようにすれば良い、とだけ思っていた。

 それよりシオンが気にしていたのは、ずっと後をつけてきている者のことだった。公邸を出てしばらく経った時から、シオンはその気配を感じ取っていた。

(おそらくは、刺客の一味だろう……)

 朝は霧のせいもあり、不意を突かれてしまったが、今度はそうならずに済みそうであった。ただシオンに分からないのは、何故自分たちをつけ狙うのか、ということである。親書はもう既に公子に渡してしまっている。それも分からないような相手とも思えなかった。手紙の内容を確かめたいのなら、オビトを尋問すれば良いことだ。

(見張っているだけなのか……それとも、何処かで仕掛けてくるのか)

 シオンの眼に、ユズナの哀しそうな横顔が映った。きっと、オビトのことを考えているのだろう、と彼は思った。それほど親しい仲でもないのに、何かと世話を焼きたがるのだ。

 まだユズナが幼かった頃、雨に濡れた子猫を拾ってきたことがあった。王宮で飼うのだと駄々をこねて、皆を困らせていた。

 そういうところは昔から変わっていない。

(オビトが生きているのかどうか、確かめてみるとするか……)

 シオンはそっと案内の兵士に耳打ちをした。

「兵士を、集められるか?」

刺客はこちらが仕掛けるとは思っていないだろう。ならばその油断を突くことが出来るかも知れない。刺客を生かしたまま捕らえれば、オビトの消息を掴むことが出来る。

 あの時の子猫も結局シオンが預かって、長屋で飼うことにしたのだった。


 レゴリスは例の二人だと思われる男女とその護衛らしい兵士を見つけた時、すぐに始末しようとは考えなかった。それよりもどういう人間なのか、という興味が先にあった。

 四人の刺客を相手に互角以上に立ち回り、一人に手傷を負わせるほどの腕前。

 見た目はオビトそのもののブラウを、偽の手紙で欺く機知。

 金が目的ではなく、クナとクリミアの平和が望みだという気高さ。

 どれか一つを持っている人間なら、これまでレゴリスも見たことがある。ただ、そのすべてを備えている人間は珍しかった。

(一体何者なのだろう?何処で生まれ、どのように育ったのだろう?)

 刺客となるような者には似つかわしくないのだが、レゴリスには好奇心というものがあった。それは時として余計な危険を招くこともあったが、また別の時には深い思索へと繋がり、戦局の遠い先を見通す力を彼に与えていた。

 レゴリスが三人を遠くから眺めていると、護衛と思われた兵士が、何処かへと立ち去った。それから残った二人もその場を去り、来た道とは違う路地へと入っていった。

 彼は静かに二人を追った。


 逃げ場の少ない路地に誘い込み、剣で足止めをして、増援の兵士が来るのを待つ。

 それがシオンの計略だった。

 彼の思惑どおり、刺客は後をつけて来ていた。

 かび臭い路地には、雨除けの布を吊っただけの露店が並んでいる。犬の小便で塀に染みが出来ている裏路地を抜けると、古い屋敷の石塀にぶつかった。

 大きな屋敷だった。石塀に沿って歩き、角を曲がる。

 人の気配は無く、両側を石塀で挟まれている。

 シオンは刀の入った布袋から柄だけ出した。相手が立ち合わずに逃げた場合に備えて、抜かずにおいておく。

「下がって……」

 ユズナにそう言うと、刺客が現れるのを待った。

 姿を見せたのは、背の高い男だった。

 ゆったりとした布を身体に巻いている。クナの装束ではない。というよりも、刺客の装束では無かった。刺客というよりは、寺院の僧侶のようである。彫像のように整った顔立ちが、さらに俗世間から隔たった印象を見る者に与える。

 しかし、男が歩み寄るにつれて、シオンは身体が自然と緊張するのを感じた。男は異様な気配を放っていた。静かな、それでいて絶対的な何かを予感させる気配だった。

「良く気が付いたな……聞いていたとおり、大したものだ」

 男は言った。その言葉から、やはり今朝の刺客の仲間なのだとシオンは思った。しかし、今朝の刺客とは何やら雰囲気が違う。刀の柄を握る手に、力が入った。

 男が放つ気配……それは、死の気配だった。武人が備えている闘気でも、普通の刺客が放つ殺気でもない。雪の降る日に、墓守が墓地で鳥の死骸を見つけた際に口から漏らすため息のような、冷たい気配だった。

「一緒にいた兵士は、増援を呼びに行ったというわけだな?」

 レゴリスには、己が罠に嵌っているという自覚よりも、相手の力量に対する関心の方がまだ強かった。

 一方で、計略を見抜かれたこと、そして罠と知りつつも平然としている男の態度に、シオンは戦慄を覚えた。死の気配が、少しずつシオンの肌にまとわりついた。

「果たして、援護は間に合うかな……」

 相手が望むのなら、ここで決着をつけよう、とレゴリスは考えた。もう少し観察していたい、という好奇心はあったが、任務の方を優先すべきなのは明かである。

 対するシオンは全身の汗が冷たくなるのを感じていた。目の前の男はその整った顔立ちにもかかわらず、眼だけが鷹のような鋭さを放っている。獲物を見据え、どうやって仕留めるかを計っている眼であった。そしてその眼の奥には、相手に対する弔いの感情が見えた。

(これは……まずい)

 シオンは己の計略が誤りであったことを悟った。戦うべき相手では無かった。

 今朝襲撃してきた四人の刺客を束にしたとしても、これほどの脅威は感じないだろう。

 目の前の男を鷹とするならば、今までの刺客は雀のようなものだ。

 相手に逃げる気など全く無いことを知り、シオンは刀を抜いた。だが、こんな嫌な気持ちで刃が鞘走る音を聞くのは初めてだった。

 レゴリスはシオンの刀を見ると、目を細めた。

「テパンギの者だそうだな……それは刀だろう?」

 レゴリスの頭には、様々な国の武器や武術の知識があった。海の向こうのテパンギの刀も見たことはある。ただ、その遣い手を見るのは初めてだった。

 シオンの耳には、目の前の刺客が発した言葉はほとんど届いていなかった。

 彼の頭にあるのは、どうやってユズナをここから逃がそうか、ということだけだった。

「応援を呼んで来た方がいい……早く」

 そう言ってシオンはユズナに刀の鞘を渡した。本当は、逃げろと告げたかった。声を嗄らしてそう叫びたかった。だがそうすれば、ユズナはここに留まって戦おうとするだろう。それだけは、絶対に避けなければならない。死体となるのは自分だけで良い。それがシオンの望みだった。

「嫌よ……シオン」

 ユズナはかすかに声を震わせている。彼女もまた、目の前の男から常人離れした気配を感じていた。自分はもちろんのこと、シオンでも敵わないのではないかという恐怖に囚われていた。

 シオンはゆっくりと唾を飲み込んだ。

「早く……」

 やがて刺客がシオンの間合いに近付いてくる。

 恐怖の感情が、シオンの中から消える。恐怖は戦いには不要な感情だからだ。彼の精神と肉体は、長い年月をかけた末に、そのように作られていた。

 刺客は身体に巻いた布の中に腕を隠したまま詰めてくる。武器が何かは分からない。相手の間合いを掴むために、シオンの方から仕掛ける必要があった。

 シオンは刀の切っ先を相手に向けたまま脇に構え、突いて出た。

 一撃で仕留めようかという、鋭い突きだった。

 刺客は、上体を反らして白刃をかわした。

 シオンは反撃を受けぬよう、突きだした刀を横に薙ぎ払い、さらに続けざまに斬撃を繰り出した。

 それをことごとく、刺客はかわした。

 シオンは刀を振るいながらも、刺客がどのような武器を隠しているのか見定めようとしていた。刺客は身体に巻いた布の下に、シオンが見たこともない、不可思議な衣服を纏っていた。黒くて薄い布が肌に貼り付いて、たくましい筋肉が浮き出ている。武器と思えるものは何処にも見えない。

「なかなかやるな……」

 刺客は言った。

「テパンギにはシノビと呼ばれる一族がいるそうだが……」

 刺客の声には耳を貸さず、シオンはただ、がむしゃらに刀を振るい続けた。

 後ろにいるユズナの目には、まるでシオンが実体の無い幽鬼と戦っているかのように見えた。刺客は身体に布を巻いており、動きにくいはずだった。しかし、シオンの斬撃は刺客の身体はおろか、布すら傷つけることが出来ないでいる。刺客は反撃こそしないものの、余力を残したまま立ち合っているのだ。

 このままでは、増援が来る前にシオンの方が先に力尽きてしまう、とユズナは感じた。彼女は意を決すると、シオンから受け取った鞘を壁に立てかけ、それを足がかりにして壁の上に登った。

 そのまま壁を渡り、刺客の後ろに降り立つ。

 挟み撃ちにすれば、勝機が見えるかも知れない、とユズナは考えた。少なくとも時間が稼げれば、その間に増援がやって来るだろう。

 ユズナが戦いに加わろうとしているのを見たシオンは、一瞬、焦りを感じた。彼女を巻き込んではならないという想いが、踏み込みをわずかに深くさせた。

 シオンが斜めに斬り込むのに合わせて、刺客は間合いを詰めて来た。

 シオンの刀が相手の身体をついに捉える。だが次の瞬間、シオンは振り下ろした刀が凍り付いたように動かなくなるのを感じた。

 刺客がその身体を覆う布越しに、手で刃を掴んだのだ。

 シオンが力任せに引き抜こうとした途端に、刺客の裏拳が顔面に炸裂した。

 刀を刺客に掴まれたまま、シオンは後ろに吹き飛んだ。

 ユズナは間髪入れず刺客の背中に蹴りを放った。しかし刺客はシオンを打った裏拳の勢いをそのままに身体を回転させ、ユズナの蹴りをかわした。まるで背中にも眼がついているかのような動きであった。

 刺客はシオンの刀の柄を取ると、片手でユズナに斬りかかる。

 蹴りを放ったばかりのユズナは、とっさに後ろに跳んで白刃をかわしたが、左腕に痛みが走った。

「なかなか良い動きだ」

 刺客はそう言って、刀の切っ先をユズナに向けた。

「この剣も、切れ味が良い」

 ユズナは左腕が焼けるように痛むのを感じたが、傷を見る余裕もなかった。目で見て確かめる代わりに、ぐっと拳を握る。まだ力は入るから大丈夫だ、と己に言い聞かせる。

「オビトさんを返しなさい」

 ユズナは毅然とした声でそう言い放った。

「ほう、随分と威勢が良いな……」

 刺客はユズナを興味深そうに眺めた。

「お前はシノビではないな……シノビが仕えるのは王族だけだと聞いたが……」

 ユズナは胸を突かれた気がした。刺客はそのわずかな動揺も見逃さなかった。

「金は要らぬと言ったそうだな……テパンギの王族が、この国で何をしている?」

 これほどわずかな間に、己の正体を見抜かれてしまうとは……ユズナは汗が冷たくなるのを感じた。現世の行いが書かれているという死人帳を携えた、あの世の使いと対峙しているようであった。

 地面に倒れたシオンは、己の不覚を呪った。しかし、今はその時間すら惜しかった。

 呪いの言葉を吐く代わりに、彼は奥歯に埋め込まれた小さな粒を舌で掻き出した。

 シノビ一族は、マトヤ人との永きに渡る戦いの中で、優れたマトヤの戦士の技を多く盗み、自らのものにした。その一つに、秘薬の術がある。マトヤの戦士は秘薬を用いて肉体の疲労を抑え、精神を高揚させる術を知っていた。シノビ一族はその秘薬に工夫を重ね、肉体をより強靱にし、百歩先の針の落ちる音が聞こえるほど五感を研ぎ澄ませ、なおかつ痛みは感じなくさせるようにした。

 そうした秘薬のおかげで、テパンギでシノビ一族に敵う者はいなくなった。しかし、秘薬を多用した者はやがて、その身を滅ぼすことになった。肉体は老人のようになり、精神は赤子のようになってしまったのだ。

 秘薬はいつしか禁忌の技として、シノビ一族のごく限られた者にのみ受け継がれた。

 シオンもその一人である。

 秘薬を用いたシノビ一族の奥義、その名を「獣の操技」という。

(ユズナ……)

 奥歯から取り出した小さな粒を、シオンは噛み砕いた。

 刺客はシオンの刀を、まるで扱い慣れた剣を操るように振るっていた。

 ユズナは紙一重の差で切っ先を外していたが、次第に自分の動きが刺客に見切られているのを感じた。信じられないほどの早さで疲れが溜まり、身体の動きが重くなる。

(これ以上はもうかわせない……)

 ユズナがそう感じるのと同時に、刺客もまた最後の一太刀を放つかのように、刀を振りかぶった。

「死ぬ前に、名を明かすが良い」

 刺客はそう告げた。

 言いなりにはならない、そう答えたかったが、ユズナはもう声を出せないほど息が切れてしまっていた。

 刺客の眼が冷たく光った。

 しかし、その刀は振り下ろされなかった。いや、そうしようとしたが、出来なかったのだ。刺客が振りかぶった刀の切っ先を、シオンが後ろから素手で掴んでいた。握った手から、一筋の赤い血が流れ落ちる。

「いつの間に……」

 刺客は鋭い視線を背後に送った。

 刺客に気配を悟らせなかったのではない。刺客が気が付くよりも早く、シオンが動いたのだ。動きの機敏さだけではない。腕力もまた、先程刀の取り合いをした時からは比べものにならないほど強くなっていた。

 刺客は刀の取り合いを諦め、シオンの引っ張るままに腕を後ろに反らせると、左足を軸にして身体を回転させる。右足の膝を短く畳んで、シオンの引っ張る力も利用しながら回し蹴りを放った。

 その蹴りはシオンの腹に入り、彼を後ろに跳ね飛ばした。しかしそれと同時に、シオンは刺客の手から刀を奪い返していた。掌は血で朱に染まっている。

 ルルルルル、と狼が唸るような音がシオンの喉から漏れている。

 それを聞いたユズナは、シオンが禁忌を破ったことを知った。それはシオンが秘薬を使った際に出る呼吸の音だった。

 刺客は小首を傾げながら、シオンの様変わりした姿を静かに見つめていた。

「魔導……では無いな。薬か?」

 刀を右手に握りなおしたシオンが刺客に斬りかかる。

 片手のまま水平に刀を振るう。刺客は上半身を反らせてかわしたが、続けざまにシオンの蹴りが胴体を狙う。刺客は腕を脇に構えてその蹴りを受け止めたる。しかしあまりの勢いの強さに苦悶の表情を浮かべた。

 シオンはさらに刀と蹴りで攻撃を続ける。

 刺客が身に付けている布が、次第に切り刻まれていく。徒手の刺客は刀を受ける術がなく、かわすしかない。シオンは斬撃をかわした時に生じる隙を突いて、蹴りを放つ。

 獣の操技は、シオンの肉体を強めるだけでなく、狡猾さをも高めていた。

 シオンが次第に刺客を追いつめる様子を、ユズナは固唾を飲んで見つめていた。このまま行けば、シオンが刺客を切り伏せると思われた。

 しかし、それは間違っていた。

 刺客の身を包む布はあちこち斬られ、破れていたが、その身体にはまだ一つも傷が付いていない。シオンの蹴りも、最初の一撃には体重が乗っていたが、続けざまに放っている分だけ軽くなってしまっていた。

 刺客は追いつめられながらも、その瞳の光をますます鋭くしている。

 そして次の瞬間、シオンが刀を振り切るのと同時に、刺客は身体に巻いていた布を解き、シオンの視野を覆うように広げた。

 布を刀で振り払おうとするシオンの足を狙って、刺客は蹴りを放つ。

 片足を跳ね上げられ、シオンは転倒した。

 刺客は宙を舞っていた布を掴むと、再びシオンに覆い被せようとした。

 シオンは横転して布から逃れようとする。回転するのに邪魔にならないように、刀を真っ直ぐに立てる。刺客はその刀の動きを見切ると、跳び上がり、鷹が獲物を捕らえるように足で刀の横腹を踏みつけた。

 刀を捕られたシオンは、やむを得ず柄から手を離し、横転しながら身体を起こした。

 刺客は片足で刀を踏んだまま、地面から布を拾い上げた。シオンとユズナの両方を視界に捉えたまま、立っている。高い梢に留まった、猛禽のようだ。

 布の下から現れた刺客の黒い服は、水に浸した薄衣のようにぴったりと身体に貼り付いていた。逞しい身体の線が露わになる。まるで鎧のような筋肉だ。黒の薄衣は上腕から太股までを覆っている。継ぎ目は見えない。腰には銀色の紐のようなものが、一本だけ巻かれていた。靴はやや灰色がかった黒だった。

 ルルルルル……

 シオンは唸りながら、徒手による格闘の構えをとり、刺客の隙を窺った。

 獣の操技はそれほど長く持続出来るものではない。早く決着をつけなければ、薬の効果が切れ、その反動でしばらくは身体の自由が効かなくなってしまう。

 しかし、シオンには打つ手が無かった。力も、技も、知恵も、目の前の男の方が勝っていた。そのような相手と命のやり取りをするのは、シオンにとって初めてのことだった。もっとも、初めてでなければ、とっくの昔に死んでいたに違いないが……。

 その時、救いの手がやって来た。

「いたぞ!」

 増援の兵士の声が響く。先頭の一人が笛を吹いた。

 武具のぶつかり合う音が角の向こうから響いてくる。

 すると刺客は布を掴んだまま、ユズナのいる方へ走り出した。

 眼と眼が合う。

 とっさに身構えるユズナの横を、刺客は風のように駆け抜けていった。

 ユズナは刺客が口元に笑みを浮かべているのを見た。そして、刺客はどうやら自分の命を狙っているのでは無く、この場から逃げようとしているのだということに気がついた。

 逃げようとする刺客を、シオンが追う。その手には刀が取り戻されている。

 一呼吸遅れて、ユズナも後を追いかける。

「シオン、待って」

 ユズナは、シオンが秘薬のせいで我を忘れているのではないかと疑った。追いかけたところで、相手の刺客はこちらの手に余る。むしろ逃げてくれたことを良しとすべきなのだ。

 ユズナの視界から、前を走る二人が次第に離れていく。獣の操技を用いているシオンの足は常人離れしている。しかし、その前を行く刺客の足もまた、異様な速さであり、なかなかシオンに追いつかせようとはしない。ユズナはさらに恐怖を覚えた。

(駄目、シオン。深追いしては危険よ)

 ユズナは息を切らせて走る。

 だが、ユズナの想像に反して、シオンは冷静だった。

 刺客は自分とユズナの顔を知っている、今ここで仕留めなければ危険が増すだけだ、と彼は考えていた。例え勝ち目が薄くとも、場を改めて再び立ち合うよりは、今ここで応援の兵士の数を頼みに戦った方が見込みがあるはずだった。薬の効き目も、まだもう少し続くはずである。

 シオンは少しずつ、刺客との距離を詰めていた。どうやら素早さだけは、わずかにシオンの方が勝っているようだった。

 右へ曲がる路地の入り口へと差し掛かった時、刺客は手に掴んでいた布をシオンに投げつけた。

 すでに切り刻まれ、衣服としては用を為さなくなっていたその布を、シオンは走りながら刀で両断した。

 だが次の瞬間、刺客は姿を消していた。

 シオンは刺客が真っ直ぐ進まずに、角を曲がって路地へ入ったのだと思った。

 しかし、角の向こうには誰もいなかった。それどころか、その道は袋小路であった。

(壁を越えたのか……だが……)

 シオンは足を止めると、眉をしかめた。どんなに素早く壁を越えたとしても、その姿が目に入って良いはずであった。まるで煙のように、刺客は姿を消してしまったのである。

「シオン!」

 ユズナが追いついてきた。その後ろからは、兵士達の足音が聞こえる。

 シオンは急に身体から力が抜けるのを感じた。相手を見失ったことで、秘薬の効き目も急速に失われてしまったようだった。

 刺客が投げ捨てていった布をシオンは拾った。無惨に切り刻まれているのに、血の一滴も付いていなかった。

(獣の操技が、布一枚であしらわれてしまうとは……)

 シオンは膝を地に落とした。秘薬の効き目が切れると、しばらくは身体がいうことをきかなくなる。強い眠気に襲われたが、シオンにはそれがまるで遠くの出来事のように感じられた。

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