第3話
オビトが刺客に捕らわれたのは、ユズナ達との話を終えて、宿に戻った時であった。
人通りの少ない路地にある、目立たぬ宿を選んだのが、裏目に出たのだ。
宿のすぐ近くで、後ろから殴られ、そのまま気を失ってしまった。
気が付くと、椅子に座ったままの姿勢で縛り上げられていた。そこは見覚えのない、小さな部屋だった。机の上にロウソクがあり、目の前には、刺客の一味がいた。
刺客の正体を知って、オビトは少なからず驚いた。
それはクリミア人であり、しかもその首領はオビトが知っている人物であった。
その名をレゴリス、という。クリミア帝国の宰相ラディウスの親衛隊の一員であり、まだ若いのだが、どのような仕事でも冷徹にこなすと評判の男である。鷹を思わせる鋭い目をしているが、整った顔立ちと金糸のような髪は、女性を酔わせる美しさを秘めていた。
「このような形で会うことになるとはな、オビト」
レゴリスは、椅子を反対向きにして座り、椅子の背に両腕を載せた。
「何故ここにいる……レゴリス」
「そうだ、そもそもの問題はそこにある。我々はもっと、互いのことを知るべきだとは思わないか?」
「何だと……」
「お前も、レーヴ家のお姫様も、勘違いをしている。お前達はあの魔導具が、ロントン公国の者に盗まれたと思っているのだろう?」
「勘違い……どういうことだ」
「もっとも、盗まれたという報せを流したのも、我々だがな……しかしロントン公国にあるということは、まだ秘密にしてあったはず。嗅ぎつけたのはお前か?オビト」
オビトには、ロントン公国にあるという確信があったわけではない。無くなった魔導具は、組み立てるとかなりの大きさになる。運ぶのも簡単ではないため、オビトはまず船荷を疑った。倉庫から魔導具が無くなった日付、川から港までの道のり、キャスブルグから一番近い港の出航日の記録、それらを照らし合わせた結果、タオルン行きの船に載せられた疑いが一番強かったのである。
ただ、他の場所へ運ばれたおそれもあったために、タオルンへは供を一人しか連れて来ることが出来なかった。他の仲間達は、それぞれ違う土地で探索にあたっている。
オビトが黙っていると、レゴリスは言葉を続けた。
「偶然にせよ、正しい答えに辿り着いたのは、賞賛に値する。しかしロントンの公子と話し合いをしようというのは、行き過ぎだったな。魔導具を返して欲しいとかどうとか……そのための使いなのだろう、お前は。まだ今は、魔導具が公国内にあることは誰にも知られたくないのだよ」
オビトはレゴリスを睨んだ。
「つまりあれを盗んだのは、貴様達というわけか……」
「正しくは、盗んだということにして、運び出しただけさ。物事には幾つもの見方がある。それにお前も知ってのとおり、あの倉に入っている魔導具はどれもこれも、そのままでは戦に使える物ではない。一つくらい無くなったからといって、大騒ぎする必要のないものだ。違うか?」
「何のためにそんなことを……」
「愚問だな。お前は、あれが何なのか知っているのだろう」
「ああ……知っている」
「あの魔導具は、戦では役に立たない、だがこの町の中で使えばどういう結果になるか、想像できるだろう」
「まさか……貴様……」
「まあ待て。使うのは我々じゃあない、この国の者だ。我々が直に使ったとなると、後々厄介なことになるからな。これはあくまでも帝国には関わりの無いことなのだ。盗まれた物がどう使われようと、元の持ち主のせいにはならない……そうだろう?」
「この国の、誰があれを使うというのだ……」
「それをお前が知る必要はない。ともかく、レーヴ家のお人好しの姫様に邪魔されたくはないし、その必要も無いということが分かっただろう……親書はどこにやった?」
つまりこの一件は、帝国側が関係している計略だということなのだ。帝国に忠誠を誓うならば、計略の妨害をすべきでは無い、レゴリスは暗にそう言っているのだろう。
しかしオビトが忠誠を誓っている相手はレーヴ家であるし、宰相ラディウスの家来であるレゴリスの言いなりになるかどうか、ということはまた別な話であるとオビトは考えた。
「ラディウス卿だけか?裏で糸を操っているのは」
「それも、お前ごときが知る必要はない」
「フェリス商会も関わっているのだろう?」
タオルンに魔導具を運んだ船は、フェリス商会という帝国でも有数の豪商が所有している船だった。こうしてレゴリスと会うまでは、帝国の財産である魔導具をフェリス商会が勝手に、ロントンの公子に売ってしまったのではないか、という疑いがオビトの頭にはあった。
レゴリスはその問いにも答えなかった。しかし、オビトの疑いは確信に近づいていた。
ため息を一つ吐くと、レゴリスは言った。
「もう一度聞く、親書はどこだ?」
宰相ラディウスとフェリス商会は、現在の帝国の権力と富の象徴であると言って良い。その両方が相手では勝ち目は薄い、とオビトは思う。しかし勝ち目が薄くとも、やはりオビトはレゴリスの言いなりにはなれなかった。
「親書はもう、公子に渡した」
「見え透いた嘘をつくな。お前が今まで何処にいたのかも知っている。あの宿にいる者を、皆殺しにしてもいいんだぞ」
「馬鹿な……」
レゴリスは、右手の人差し指を軽く動かしていた。まるでお気に入りの音楽でも聴いているかのように。しかしその瞳からは、いかなる感情を読み取ることも出来なかった。
「どうする?オビト。夜明けまでは短いぞ……」
朝、まだ陽が昇りきらない内に、ユズナとシオンは宿を出た。
南からの風が、海に霧を呼んでいた。
牛の乳のような霧は港町にも忍び込み、十ヒロ(約二十メートル)より先を見えなくしている。
異邦人であるユズナとシオンには、霧は厄介な代物であった。
「道案内が欲しいわね」
二人は小型の羅針盤と、町を流れる河の向きを頼りに、町の中心にある公邸を目指していた。
幾つかの橋を渡った時、シオンが足を止めた。少し遅れて、ユズナもその理由に気が付いた。霧の中から、人影が迫ってくる。誰かが追いかけて来ているようだ。
「やっと、追いつきました」
現れたのは、息を切らせたオビトだった。
「オビトさん?」
こんなところで再会するとは、予想外のことであった。
ユズナは眉をひそめた。
「どうしたの?」
「公子の使いが、私に会いに来ました」
オビトは息を整えながら言った。
「公子は私と直にあって話がしたいそうです。親書を返していただけないでしょうか?」
「そう……」
もともとオビトから預かったものである。返さない理由は何もない。ユズナは油紙に包まれた書状を、腰の後ろに巻いてある袋から取り出した。
それを受け取ったオビトは、口の端を緩めた。
「ありがとうございます。すっかりご迷惑をおかけしました」
「私達も、公邸までご一緒しましょう。また刺客が襲ってくるかも知れないわ」
「いいえ、それには及びません。公子が護衛の兵士を寄こしてくださいましたので……」
ユズナは辺りを見回した。
「何処にいるの?」
「私の宿におります」
「それじゃあ、宿まで送りましょう」
「ご心配は無用です。この霧が護ってくれるでしょう。これ以上、お二人にご迷惑は掛けられません」
ユズナはオビトの旅衣を見た。昨夜、シオンが斬りつけた跡が、頭巾に残っている。次に、ユズナはシオンを見た。シオンは瞬きもしないで、オビトを見つめている。
シオンもまた、自分と同じことを感じているのだと、ユズナは悟った。
「オビトさん……それじゃあ、これで約束のお金はもらえるのかしら?」
「ああ……ええ……もちろん差し上げます。こちらで良かったですよね?」
オビトは、金貨の入った革袋を取り出した。それもまた、昨夜見たものと全く同じだった。
ユズナの手に、革袋が乗せられる。
「こんなにいただいて、いいのかしら?」
「構いません」
「そう……ところで、一つ聞いて良いかしら?」
「なんでしょう?」
ユズナは小首を傾げて言った。
「あなたは、誰?」
オビトの表情が、固くなった。ユズナはさらに問いかける。
「本物のオビトさんは何処にいるの?着ているものや、持ち物は本物みたいだけど」
オビトは作り笑いを浮かべる。
「いやだなあ、何を言っているんですか……」
「本当、声までそっくりね。まるで双子みたい。変装で無ければ、本物に何かが取り憑いているのかしら?それが、魔導とやらの力なの?」
魔導、という言葉を聞くと、オビトの顔が歪んだ。
「どうして……分かった……」
「簡単よ。私達、お金を貰う約束はしていないの」
「馬鹿め……」
オビトは、舌を出し、上唇を舐めた。
「気づいたところで、手紙はもういただいた」
「手紙はともかく、オビトさんは返してもらうわ。シオン、捕まえて」
ユズナの呼びかけに、シオンは刀を抜いて応じた。
素早く間合いを詰め、オビトの動きを封じようとする。
「ひひひ……」
オビトは下劣な笑い声を立てながら、迫ってくるシオンから身をかわした。しかしその隙に、ユズナが低い姿勢から、オビトの足元を狙って蹴りを放つ。
見えない角度からの蹴りに足を取られ、オビトは地面に倒れた。
「動くな」
シオンが喉元に刃を突きつける。
「ヒヒヒ……」
再び笑うと、オビトはピィと口笛を吹いた。
霧の中から、新手が三人、姿を現した。灰色の服を着て、顔を布で覆っている。
今まで気配を悟らせなかった相手に、シオンは肌がピリピリするのを感じた。
三人の刺客は短剣で斬りかかってくる。
「ちっ」
舌打ちすると、シオンは刀を薙ぎ払い、二人の刺客を威嚇した。そして下に転がっているオビトが短剣を抜こうとしたところで、その脇腹を強く蹴った。オビトはうめき声を上げて腹を押さえる。
刺客の一人はユズナに襲いかかっている。
ユズナはひらりと短剣をかわすと、相手の鳩尾を拳で突いた。ひるんだ隙に、掌底で顎を打ち、一歩後ろに下がりながら手刀で短剣を払い落とすと、体を一回転させて胸板を蹴飛ばした。肺から漏れる空気の音とともに、刺客は突き飛ばされ、倒れて転がった。
ユズナは後ろ髪を揺らしながら小刻みに跳ね、体勢を整えるとシオンの方に向き直った。
シオンは二人の刺客と渡り合っていた。刺客達はしきりに間合いを詰めようとしているが、シオンの刀に阻まれて、近付くことが出来ないでいた。
「どっち?」
片方の相手を引き受けるつもりで、ユズナは言った。
「オビトを……」
こちらはいいから、偽者のオビトを捕まえた方が良い、という意味だ。ユズナがオビトを見ると、脇腹を押さえながら立ち上がっていた。
「もういい、手紙は手に入った。引き上げだ」
苦しそうに喘ぎながらも、オビトは後ろに跳びはねると、霧の中に身を隠した。
追いかけるユズナに、刺客の一人が短剣を投げつけようとする。即座にシオンが刺客の腕を切り飛ばす。短剣は腕ごとユズナの方に飛んで行き、彼女の足を止めた。
腕を無くした刺客を、もう一人の刺客が庇いながら、霧の中に逃げて行こうとする。シオンが斬りかかろうとすると、刺客は覆面を下げ、息を吸い込んだ。
(吹き矢か?)
シオンは飛び道具を警戒する。
次の瞬間、刺客は口から炎を噴き出した。
(火遁!)
シオンは横転して躍りかかる炎をかわした。
熱波が過ぎ去ると、もうそこには刺客の姿は無かった。
ユズナが蹴り飛ばした相手も、すでに姿を消していた。
「追えるかしら?」
シオンは首を横に振った。
「この霧では、無理だ」
「そう……それにしても、びっくりしたわ」
オビトと瓜二つの刺客、まるで夢を見ているようである。
「我々の一族にも、あれほどの変装が出来る者はいない。火遁の術も、大したものだ」
「オビトさん本人が何かに取り憑かれて、操られているのかも知れないわね……あれが魔導の力なのかしら?」
「さあ……」
テパンギの昔話には、狐に化けられたり、小鬼に取り憑かれたりする話がたくさんあった。しかしまさかおとぎ話で聞いたことを、この眼で見るとは……驚きとしか言いようがない。
切り落とされた刺客の腕が握っている短剣を、シオンは取り上げた。
溝の入った両刃の短剣で、小さな鍔が付いている。
「連中は、オビトと同じ、クリミア人のようだな。やはり……」
「クリミア人……知っていたの?シオン」
「昨夜、オビトは刺客の得物は自分と同じような短剣だ、と言っていただろう」
「ええ……」
「クナの刺客なら、鍔のない匕首を使うはずだ。柄の形も、オビトが持っていたものと同じ……それに、眼の色や鼻の形も良く見ると、クナ人のものでは無かった」
シオンが切り落とした刺客の手も、肌の色がクナ人とは違っている。
「クリミア人だとすると、やはり公子の仕業とは考えにくいわね」
ロントンの公子がここタオルンで、わざわざ異邦人の刺客を使うとは思えなかった。
「それにしても、思ったより早く仕掛けてきたわね。宿を出ていて良かったわ」
「おそらく昨夜の内に、本物のオビトは捕まったのだろう」
ユズナは金貨の入った革袋を手にして眺めた。
「あの服もこの革袋も、間違いなくオビトさんのだものね……オビトさん、どうなるのかしら?」
「我々から親書を取り戻すまでは、殺さないはずだが……」
「さっきの手紙が、ニセモノだと気が付いたら、殺されないで済むかしら?」
シオンは首を横に振った。
「分からない。しかし本物を渡すよりは、わずかに望みがある。本物が手に入れば、オビトはまず間違いなく用済みになってしまう」
命を狙われるかも知れないのに、何の策も備えておかないほど、二人は愚かではなかった。予め、刺客に渡しても構わない、偽の手紙を用意してあったのだ。
オビトが霧の中から現れた時、ユズナは何かがおかしいと感じていた。誰かに脅かされて、意に沿わぬことをしているおそれもあった。だから一旦偽の手紙を渡すことで、様子を探ろうと思ったのである。
「本物の親書と交換すると言えば、助けることが出来るかしら?」
「難しいな……オビト自身が、親書の一部だとも言えるし。それに、本人がそんな取引を望むかどうか……」
「そうね……」
なぜ刺客達は親書を欲しがるのか、その真意は謎のままである。刺客達の背後にいるのが誰なのかも、ユズナには見当も付かない。公子が何かの形で関わっている、ということも考えられる。
ユズナはぎゅっと唇を結んだ。どうにかしてオビトを助けなければならないと思うが、今すぐはどうにも出来そうに無い。
「公邸へ行きましょう……すべてはそれからね」
まだ朝も早かったために、公邸の門番は、これ以上無いくらい分かり易いしかめっ面をしてみせた。ユズナは、テパンギの王朝から来た使者であると告げたが、門番は旅の武芸者のような二人の姿を見て怪しんだ。
ユズナが公子コハクとは五年前に会ったことがあると言い、その時のことを話すと、少しは信じてもらえたようだった。最後にシオンが幾らか金を握らせると、一刻(約二時間)後に出直してくるように言われた。
その間、二人は近くの飯屋で粥と揚げ餅を食べた。それから、古着屋でクナの服を買うことにした。着ていた服は、航海の間に潮風で傷んでいたし、港と違い町の中心部では、異国の服は目立つのだった。
ユズナは羽振りの良い商家の娘が着るような服を選び、髪飾りの櫛をつけてみた。
「ちょっと動きにくいわね」
不平を漏らすと、牛飼いが着るような短衣と筒袴も試しに着てみた。
シオンもまた商家の若者の服に替えた。刀も腰から外し、剣を入れる布袋を買って包んだ。刀を提げたままでは、公子に会うことは出来ないだろう。
「本当に良いところの若旦那みたいよ。シオン」
シオンは若旦那に相応しい、愛想の良い笑いを浮かべた。
「そう言うユズナも、良いところの牛飼いみたいだな」
「……ちょっと蹴り心地を試してみようかしら」
なかなかの着心地であったので、ユズナは短衣も併せて買うことにした。
商家の装いに揃えた二人は、店を出てから、人通りの増えた街をぶらぶら歩いた。
霧はもう、晴れていた。
港を少し離れると、賑わいは無くなる代わりに、静かに時間が流れている。街路を彩る柳の木の枝が、風に揺れていた。故国を出たときはまだ春になったばかりであったのに、今ではもう、すっかり緑が生い茂っている。
「綺麗な柳ね……」
「そうだな」
こうしてのんびりと歩いている間にも、刺客はまた襲ってくるかも知れなかった。オビトのことも心配である。それでも二人はどこかしら呑気に構えていた。上手く解決できる自信があるわけでもない。しかし、ただ不安に怯えているだけでは、心が折れてしまうことを二人は良く知っていた。
そうなっては、結局の所、戦わずして負けているのと同じことなのだ。
約束した一刻後に再び公邸を訪れると、家宰が迎えてくれた。
控えの間に通されて、しばらく待つように言われた。
丸い窓にはめられた木枠には、小鳥と菖蒲の花の柄が彫られている。
窓の外には、中庭が拡がり、築山の上には東屋が見えた。
一国の公邸にふさわしい景色。植えられている木々も、東屋の石柱も、鳥のさえずりも、テパンギの王宮とは違うものばかりであった。
テパンギの樹々は幹が太くなるまで成長するものが多い。だから、王宮の庭の樹も太くて苔むしているものが多く、建物に使われるのも石ではなくて木材である。
もっとも、ロントン公国にも古い森はあるはずだから、庭の風情が異なるのは、その土地に住む人の好みが異なるということなのだろう。
「世界は広いのね」
ユズナの唇から、そんな言葉がこぼれ落ちた。
クナ皇国といえども大陸の一部に過ぎず、ロントン公国はクナ皇国を形成する五つの公国の一つに過ぎない。公都はタオルン。公王はロン=ジェ。その公子がこれから会おうというコハク公だ。
先程の家宰とは別の近従が取り次ぎに来た。シオンは近従に刀を預ける。
応接の間にて、二人はコハクと面会した。
公子は切れ長の目をした、それでいて優しげな男であった。ユズナよりも長い、腰まで伸びた黒髪が女性的な印象を強めている。まだ若かった。確か自分よりも五つばかり年上であったはず、とユズナは覚えている。
「これはこれは……本当にトコユノハナヒメのようですね」
生まれついての貴族らしい、柔らかな物腰でコハクは手を組み、礼をする。
「忘れないでいただけて、嬉しいですわ」
「忘れるはずがありませんよ。姫ご自身の手で、料理を振る舞っていただいたではありませんか。忘れ得ぬ味とは、まさにあのことです……」
「そんなに気に入っていただいたとは、思ってもおりませんでした」
ユズナは口元に笑みを浮かべた。褒め言葉とは限らない、シオンはそう思ったが、公子の面前なので口を慎んだ。
「もしよろしければ、いつでもご馳走いたします」
コハクは軽く咳払いをした。
「それはともかく、たった一人だけお供を連れて、そのような装いでおいでになるとは……お話をお聞かせ願えませんか?」
「本当のことを申し上げますと、今日はトコユノハナヒメとして来たのではありません。私はもう、テパンギの姫では無いのです。名もユズナと改めました」
「姫ではなくなった……それは一体、どういうことですか?」
「私のことよりも、先にお話したいことがあります」
ユズナは、オビトから預かった親書を取りだそうとしたが、コハクはそれを制した。
「待ってください……仮にも一国の正統なる王位継承者であるはずの方が、そうでは無くなったとしたら、この国にとっても見過ごすことの出来ないことです。それより先に聞くべき話があるとは思えません」
確かに、遠く海を隔てているとはいえ、テパンギでの出来事はクナ皇国にとっても無関心でいられることではないだろう。コハクの言い分はもっともである。ユズナはもどかしさを感じたが、言い争いをしていては、それこそ時間の無駄であると考えた。
「分かりました……まずは私のことからお話ししましょう」
五年前、コハクはテパンギを訪れているため、王宮内に対立があったことについては覚えていた。ユズナは、島を出るきっかけとなった事件のことを中心に話した。
コハクは、ユズナの話を聞き終わると言った。
「それでは、父王君は、姫が生きていることをご存知ないのですか?」
「ええ、知っているのは乳母だけです。彼女が必要と感じたら、父上にも告げてもらうように言ってありますが……」
知らない方が良いのだと、ユズナは思う。
「そうですか……それはお気の毒に……」
「私のことはもう良いのです。それよりも、公子にお話したいことがあります」
「今の話を聞いた後では、もう何を聞いても驚きませんよ」
ユズナは言った。
「コルネリア・フォン・レーヴという方をご存じですか?」
コハクは跳びはねるように、椅子から立ち上がった。
「どうしてあなたがその名を……」
その目にはまぎれもない驚きが宿っていた。
「まずはこれをお読みください」
ユズナはコハクに、オビトから預かったコルネリアの親書を渡した。親書を預かった経緯については、後で話すことにした。
コハクは黙って手紙に目を通した。
“親愛なるコハク様
初めてお会いした時から、もう三年も経ってしまいました。私のことは覚えていてくださいますでしょうか。あの時お話いただいた、仔馬のブンはもう、大きくなったことでしょう。私を乗せてくださると、約束なさいましたよね。そして、港を見渡すことの出来る丘へ、あなたの一番好きな場所へ、連れて行ってくださると。
残念ながら、その約束が果たされるのは、もうしばらく先のことになりそうです。
我が国とクナ皇国は試練の時を迎えようとしております。
もう既にご存知のことでしょうが、我が国は、タッタールを打ち破る程の力を得ました。
そして帝国内には、タッタールの次はクナ皇国だと言う者が少なからずおります。
それについて、私がどれほど心を痛めているか、とても手紙ではお伝えできません。
ただ一つ言えることは、私はどのようなことがあっても、両国の平和のために、力を尽くすつもりでいる、ということです。
コハク様も同じお考えでいてくださると、切に願っております。
両国の間に不幸な歴史が築かれないよう、どうかお力をお貸し下さい。
数日前に、悪い報せが入りました。我が国の所有するある物が、ロントン公国へと持ち去られたというのです。それは、とても危険な物なのです。使い方を誤れば、使った者にも破滅をもたらす恐れがあります。もしもコハク様が何かご存じのことがありましたら、どうぞ、使いのオビトにお伝え下さい。
オビトならば、その物の扱いに慣れております。災いを避ける術も心得ております。
くれぐれもご熟慮いただくよう、重ねてお願いいたします。
いつの日か、お会いできることを、願っております。
コルネリアより 愛を込めて”
「コルネリア……間違いない、コルネリアだ」
コハクの声は、いくらか熱を帯びていた。そして読み終えた後も、コハクはしばらくの間、手紙を見つめていた。そこに異国の姫の面影を見出そうとしているかのようだった。
それから、手紙の内容をかいつまんでユズナに話して聞かせると、最後に訊ねた。
「オビトという者は、何処にいるのです?」
ユズナは、コハクの様子に注意しながら聞き返した。
「コハク様がご存じなのではないですか?」
コハクは眉をひそめた。
「どういうことです?」
やはりコハクはオビトを襲った刺客とは、関わりが無いようにユズナには思えた。
ユズナは、親書を手に入れた経緯と、今朝の襲撃の話をコハクに話して聞かせた。
「それは……奇妙な話ですね。コルネリアの使いを、同胞であるクリミア人の刺客が襲うとは……」
コハクは訝しげな表情をしてみせた。
「クリミア人の使いが来たことは、昨日、家宰より聞いておりました。私は昨日はあいにく、町はずれの砦に出向いておりましたし、家宰もコルネリアの名は良く知らぬものですから、帰してしまったのです。今日にでも迎えをやるつもりでしたが、まさか代わりにあなたが、このような報せを持ってくるとは……」
「オビトさんや私達を襲った刺客には、本当にお心あたりはありませんの?」
コハクは首を横に振った。
「分かりません。ですが、あなたのお話と、コルネリアの手紙の内容からすると、クリミアからこの国に持ち込まれたという何かが、鍵のようですね……」
「オビトさんは、公子が何かを知っているのではないかと、疑っていました」
「いいえ、私は何も知りません。どうして彼はそう思ったのでしょう?手紙を読む限りでは、どうやらコルネリアも、私が知っているのではないかと思っているようなのですが……」
「コハク様は、魔導のことをご存じですか?」
「ええ……タッタールを打ち負かしたと噂される、恐るべき力のことでしょう」
「クナ皇国は、その力を手に入れたがっているのではないですか?」
それを聞くと、コハクは納得したように肯いた。
「つまり持ち込まれた物というのは、魔導の力と繋がりがある、ということですね……なるほど、確かに手に入る機会があれば、私もそれを逃すつもりはないです」
クナ皇国の有力者であれば、コハクでなくても、そう考えるのが当然だと言える。タッタールを打ち負かすほどの力があれば、大陸の覇権を手にすることも夢では無い。
「ですが……今度の話は、私とは関わりがありません」
コハクは首を横に振った。ユズナは、その言葉を信じることにした。嘘だとしても、この先ずっと押し通すことは難しいだろう。
「オビトさんの話では、持ち込まれたのは、魔導具という物だそうです。魔導の力を生み出す元となる物だとか……」
「ふむ……魔導具、か。誰かがこの国へ……おそらくは、ここタオルンへ持ち込んだ……その誰かは、私に知られたくはなかった。だからコルネリアの使いを襲い、この手紙も奪おうとした……そう考えれば筋が通る……」
オビトは、魔導具がどのような物なのか、昨日ユズナには話さなかった。しかし、コルネリアの手紙には、使用した者にさえ破滅をもたらす恐れがある、と書かれている。
ユズナはつぶやいた。
「魔導具が、手紙にあるとおり、危険な物だとしたら……」
その言葉に、コハクは宙の一点をじっと見つめながら応えた。
「ええ、探し出さなければなりません」
その時、シオンがそっとユズナに耳打ちをした。
「親書は届けたし、我々はもう、引き上げては……」
その声は、コハクにも届いたらしく、彼は言った。
「ああ、いけない。お二人には大変なご苦労をお掛けしました。このご恩は忘れません。どうぞこの件は私に任せて、ごゆっくりお休みください。お部屋も用意いたします」
ユズナはコハクに言った。
「確かにオビトさんとは、親書を届けるだけという約束をいたしました。でもオビトさんをこのまま放っておくことは出来ません。どうにかして、助けてあげたいと思います」
ユズナの隣で、シオンは首を横に振った。
「おそらくはもう、生きていないだろう」
シオンにしてみれば、オビトの生死などはどうでも良いことだった。彼にとって最も大切なことは、ユズナの身を護ることである。これ以上、危険なことに関わりをもって欲しく無かった。
しかし、ユズナはそれを聞き入れなかった。
「それはまだ、分からないわ。親書がどうなったのか、まだ刺客達は知らないはず。望みはあると、あなたも言ったわ」
「わずかな望み、と言ったはずです……」
「わずかだったら、これくらいはあるはずよ」
ユズナは親指と人差し指で、鶏の卵くらいの大きさを示した。
「わずかというのは、普通はこれくらいのものです」
シオンは同じように指で、米粒くらいの大きさを示す。
目の前で言い争う二人を、コハクが両手で制した。
「まあ、待ってください。オビト殿を助けるために、もちろん私も手を尽くします。お二人とオビト殿との約束はもう、充分に果たされたと思います。お二人に力を貸していただきたいときには、私から改めてお願い申し上げます。お疲れのことでしょうから、ひとまずはごゆっくりお休みください」
二人はコハクの言葉に従うことにした。
確かに少し、疲れていた。
オビトは生きていた。
しかもただ生きているだけではなく、二人になっていた。
オビトは、鏡を見るような気持ちで、その刺客を眺めていた。目の前の男は頭から爪先まで、自分にそっくりだった。髪の分かれ目など、鏡ならば左右が逆になるはずのところまで、本物と同じである。服を剥ぎ取られ、椅子に縛り付けられている自分の方が、もしかしたら偽者なのかも知れない、と思う。
「何てこった!」
だがその偽者は、取り乱している様子だった。どうやらユズナ達から親書を取り戻すという任務が、失敗に終わったようだった。
偽者は、奪い返したという手紙が本物かどうかを確かめるために、オビトの所へ見せに来たのだ。しかし開けてみると、それはオビトが見るまでもない、落書きの描かれたニセの手紙だった。
「あの女!一杯食わされた!」
困った時は、自分はあんな顔をしているのか、とオビトは思った。
(どうやらユズナさん達の方が、一枚上手だったようだ……)
オビトは心の内で笑うと同時に、感心していた。考えてみれば、昨夜ユズナに親書を預けていなければ、今頃はもう、手紙も自分も始末されていたに違いない。
(好運の女神……ということか)
オビトはユズナのために心の中で祈りを捧げた。
「お前には失望したぞ、ブラウ」
レゴリスはそう言った。声はいつものように静かなままだったが、感情の底を知ることが出来ないために、かえって恐ろしさを増幅させていた。ブラウというのは、オビトに化けた刺客の名のようだ。オビトもその名を耳にするのは初めてだった。
「手紙を奪うのは失敗、おまけに能力まで知られてしまったというのに、始末せずに逃げて来てしまうとはな……」
オビトに化けたままのブラウは言った。
「こいつが嘘をついたんですよ!報酬を与える約束なんて、していなかったんだ。おかげでこのザマだ」
確かにオビトは、親書と引き替えに金を渡すことになっていると、あらかじめ偽の自分に告げておいた。しかしそれは、迷惑を掛けたお詫びにお金を渡しておきたいという思いがあったからだ。ユズナ達に偽者であることを伝えるためではなかった。
「偽者に嘘つき呼ばわりされるのは心外だな」
オビトは言った。即座に平手打ちが飛んでくる。自分の姿をした者に叩かれるというのはあんまり気分のいいものではない、とオビトは思った。
レゴリスはため息をついた。
「金でないとしたら、何を約束したんだ。オビト、聞かせてくれないか?」
オビトは少し考えてから、答えた。
「あの人は、平和を願っていた。クナとクリミアの……」
「何を馬鹿な」
ブラウがもう一発、平手打ちを放った。頬を打つ音が鳴り響くと、レゴリスは片手でそっとブラウを制した。
その口元にはわずかに笑みが浮かんでいる。
「偶然とはいえ、なかなか良い札を手に入れたな、オビト。さて、どうしたものか……」
ブラウは言った。
「あの者に知らせて、親書を奪ってもらってはいかがでしょう?」
「力ずくで奪えぬものを、どうするのだ。おまけに相手は賢い。そんなことをすれば、返って尻尾を掴まれるだけだ。それにもう、今頃は公子の手に渡っている」
あの者、というのは例の魔導具を使おうとしているロントン公国の誰かのことだろう、とオビトは察した。
(その誰かは、あの魔導具の正体を知っているのだろうか?)
あの魔導具を使えば、この街は惨劇の舞台となる恐れがある。そんなことをして、一体何の得があるのか、オビトには見当がつかなかった。
(帝国からの褒美があるというのだろうか?)
しかし、レゴリスの話では、帝国は表立ってこの企てを認めるつもりはないようだ。それが本当だとすれば、褒美と言ってもわずかなものだろう。
(ただ単に、公国に対して恨みがあるということだろうか……)
オビトには分からないことばかりだ。深い井戸を覗き込んでいるような気がする。
「これからどうしますか?」
ブラウはレゴリスに訊ねた。
「魔導具が公国内にあると知れば、公子はどうあっても探し出そうとするだろう。計画を出来る限り早める必要がある」
「こいつはどうします?」
オビトのことを顎で指し示す。
「例の二人連れが金では動かないというのならば、片付くまでは、こいつは手札として生かしておく必要がある。腕の立つ相手ならば、なおさらな」
「……分かりました」
「お前達はもう、その二人には手を出すなよ。私が片を付ける……行っていいぞ」
ブラウは再び、分かりました、と言うと部屋から出て行った。
後にはレゴリスとオビトの二人が残った。
部屋の中にじわじわと満ちてくる沈黙を、オビトが破った。
「あの二人には、親書を届けてもらうように頼んだだけだ。親書が公子の手に渡ったのなら、もう殺す必要はないだろう……」
レゴリスは顔を上に向けて目を閉じていた。
「聞いているのか?」
オビトは苛立った声を上げた。
レゴリスは、目を閉じたまま言った。
「どうせなら、お前のような手下が欲しいな……。利口だし、運も良い」
「見た目は同じのようだが……」
それを聞いたレゴリスは笑った。彼が声を出して笑うのを、オビトは初めて見た。
冷徹なレゴリスの、知らない一面を垣間見たような気がした。
「どうしてこんなことをする?」
レゴリスの本心を探ろうとして、オビトは聞いた。
しかしその問いに、レゴリスは再び沈黙で応じた。
「あの魔導具で、蟲を呼び寄せて、それでどうなる?……沢山の人が蟲の餌食になるぞ。兵士だけじゃない。罪もない、街の人々が犠牲になる……そんなことが許されるのか?」
蟲を呼び寄せる魔導具。それがこの街に運び込まれた魔導具の正体であった。遥か遠い昔に創られたものだ……誰が、何のために創ったのか、今となっては知る術も無い。
魔導文明の復興を目指す帝国によって遺跡から発掘された後、蟲を呼び寄せる以外には使い道が無いことが判ると、解体されて倉庫の片隅に捨て置かれたのだった。
盗まれたという話を初めて聞いた時、オビトは使い道を知らない人間の仕業だろうと思っていた。わざわざ蟲を呼び寄せるために、レゴリス達がこの街へ運び込んだなどということは、想像さえしていなかった。
「レゴリス……俺にはこの辺りにはそれほど多くの蟲がいるとも思えない。魔導具を動かしたところで、無駄な手間がかかるだけだろう……そうは思わないか?」
オビトはでたらめを並べてみた。タオルンの地理に詳しいわけではない。辺りに蟲がいるのかどうかなど、知るはずも無かった。
レゴリスは、どこから取り出したのか、胡桃を一つ掌に乗せていた。それを指で挟むと、指の間から間へと転がしてみせる。そして言った。
「北東に古い森がある。ギントウロウもいる」
ギントウロウは、森の暴君だ。攻撃的で、生きて動いているものは何でも食べる。もちろん、人間も例外ではない。
乾いた音がして胡桃が割れた。レゴリスの指の間から、砕けた胡桃の殻がこぼれ落ちた。
オビトは言う。
「馬鹿な……ギントウロウが街に入れば、どんなことになるか、分からないのか?」
レゴリスは眉一つ動かさなかった。
「オビト……お前は、ソラリスに行ったことはあるか?」
「……無い」
ソラリスとは、神によって滅ぼされたとクリミア教の教典に記されている都市のことである。今は遺跡となっているが、多くの魔導具がそこで発掘され、それが魔導文明の復興〈ル・ラスリル〉の始まりとなった。
「私は何度か足を運んだ。手下を十人も失った。全員、蟲の餌食だ……私の目の前で、生きたまま引きちぎられて、喰われていった」
淡々とそう語るレゴリスをオビトは睨みつけた。
「貴様はそれと同じことを、この街でやろうとしているのだぞ。罪のない人々が犠牲になるというのに、何も思わないのか?……貴様は人でなしだ」
「罪の有る無しが、人の生き死にを左右するわけではない。善人だから長生きをし、悪人だから早死にするわけでもない。この世は、そういう風にして成り立っている」
「偉そうなことを言うな。たとえ世の中がどうであろうと、貴様が人の命を弄んで良いことにはならない。貴様はただの人殺しだ、レゴリス」
「そうだ、私は人殺しだ……しかし私は人を殺すときに、その者に死に値する罪があるかどうかなどは考えない。そんなことをする方が、よほど傲慢のように思える」
「何だと?何を言っている?では一体何のために人を殺すのだ、貴様は。ただ、誰かの命令に従っているだけだとでも言うのか?それだって、単なる言い逃れではないのか?」
レゴリスは肩をすくめた。
「さあな……少なくとも私は殺す人間に、その者が殺される訳を押しつけたりはしない。善人か悪人かを選り分けたりはしない。それだけのことだ……」
「何を言おうと、人殺しは人殺しだ。地獄に堕ちろ。いや、地獄だって貴様にはもったいない。骨まで腐って、塵になってしまえ」
レゴリスはもう一度、肩をすくめた。
「地獄か……オビト、お前は神を信じるか?」
「貴様に信仰を告白するいわれはない」
「そうか、ならば質問を替えよう。神は蟲と人と、どちらを先に創ったか知っているか?」
「神は人を最後にお創りになられた」
「そうだ。教典にはそう記されている……子どもでも知っているだろう」
そう言うと、レゴリスは冷たい笑みを浮かべた。
「何故神は、人を最後に創ったのだと思う?」
「神の御心を計ることなど、我々に出来るはずもない」
「退屈な答えだ……人には魂があるというが、動物や蟲にも魂はあると思うか?」
「そんなこと……教典では、明らかにはされていないことだ」
「そうか……大切なことだと思うがな。まあいい、お喋りが過ぎたようだ」
レゴリスは静かに立ち上がると、部屋を出て行った。
後にはオビト一人が残った。床には胡桃の殻が散らばっている。レゴリスが何を言おうとしていたのか、オビトには分からなかった。それよりも、オビトには考えなければならないことがあった。
(どうにかして、ここから出なければ……)
オビトは改めて部屋の中を見渡した。机、椅子、扉……部屋の外には見張りを兼ねた留守番がいるのだろうが、扉には覗き窓がない。普通の部屋と同じ造りだ。
(牢屋では無いということか……)
耳を澄ますと、波の音が聞こえる。海から遠く離れてはいないようだ。閉ざされた窓の戸の隙間からは光が差し込んできている。
(まずは縄を外さなければ……)
オビトは身体を捩った。昨晩から、何百回と繰り返している動作だ。縄は排便の度に締め直されていたので緩くはない。だが次第に椅子の木材の方が悲鳴を上げ始めた。
(俺は決して運が良いわけじゃない……)
ミシミシという材木の裂ける、今のオビトにとってこの上なく心地よい音が聞こえる。
(だからこうやって幸運を掴み取るのさ)
椅子の背が壊れ、オビトは立って歩けるようになった。しかし、両手は後ろに縛られたままで、容易には解けそうにない。
窓は少し高い位置にある。この部屋はもともと倉庫として使われていたようだ。窓にも閂が掛けられている。
(鉄格子が無いことを祈ろう……)
オビトは手を縛られたままの格好で机を押し、窓の下に運んだ。椅子を踏み台にして机の上に乗る。顎を使って、窓の戸の閂を外した。閂が下に落ちるのを、膝で受け止めたが、跳ね返って机に当たった。大きな音がする。
戸のわずかな出っぱりに噛みついて、こじ開ける。まばゆい光に心が躍る。鉄格子は無かった。しかし喜びもつかの間、オビトは窓の下を見て愕然とした。
この建物は、河に沿って建てられていた。下には深い色をした水面がゆらゆら揺れている。
(さすがはレゴリス……良い趣味をしている)
背後で物音がした。閂が落ちた音に誰かが気が付いたようだ。部屋の扉が開けられようとしている。
(仕方がない、ここからは運試しだな)
レゴリスの言葉どおり、運がよいことを信じるしかない。オビトは口元に皮肉な笑いを浮かべた。
そして次の瞬間、オビトは両手を縛られたまま、河に跳び込んだ。
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