第2話

 ユズナの故国、テパンギはクナ皇国の南東に拡がるクナ海の向こうにある。

 その世界の最果ての島にテパンギの民の祖先が渡来したのは、クナ皇国が成立するよりも百年ほど前のことだった。クナの地で長いこと続いていた戦乱から逃れるために、祖先達は海を渡り、テパンギ王朝という新たな国を興したのだ。

 しかし、島には先住の民がいた。彼らはいくつもの部族が緩やかに集合して出来た、マトヤという小さな国を築いていた。

 マトヤ人は森に住み、木の実や小動物の狩猟を糧にして暮らしていた。一方、新たにやって来たテパンギ人は川沿いの平野に住み、農耕を営んだ。生活の場が異なっていることが幸いし、初めの内は二つの民の間に大きな争いは起きなかった。

 しかし時が流れると、テパンギ人は農耕により多くの民を養うようになった。そしてマトヤ人の領地を侵すようになった。彼らの森に入り、伐採を繰り返し、焼き畑を作った。その結果マトヤ人の部族の一つを力ずくで追い出すこととなり、ついにマトヤ人の怒りに触れたのである。

 マトヤ人はテパンギ人に比べ民の数では劣っていたものの、森の中で蟲と渡り合いながら生活していたため、いざ戦いとなれば決してひけをとらなかった。

 戦乱の世は二百年あまりも続いた。マトヤ人は常に劣勢であったが、神出鬼没の戦法によってテパンギ人を苦しめた。

 トコユノハナヒメの父王の時代には、テパンギの民の数は著しく減っていた。田畑は荒れ、疫病が流行った。トコユノハナヒメの母である王妃もまた、初めての子である姫を生むと、まもなく流行病で亡くなった。

 愛妃を失った王は、弓を折る覚悟を決めた。

 そして王の決死の説諭により、ようやく両国に和平が結ばれることとなった。

 和平の証しに、マトヤの有力部族から一人の姫が正妃として、テパンギ王朝へと迎え入れられた。

 数年の間に、新しい正妃は三人の子を生んだが、すべて女児であった。そして、そのことがトコユノハナヒメの運命を大きく揺り動したのだった。

 テパンギ王朝には男児の長子が王となり、王子が居ないときは、女児の長子が女王となるしきたりがあった。また、マトヤのしきたりでは、男女を問わず先の族長の長子が部族を統べることになっていた。つまり、いずれの王朝にとってみても、トコユノハナヒメが王座の正統な継承者と認められるのであった。

 王宮は二つに割れた。

 トコユノハナヒメこそが正統な王位継承者であると唱える者達と、新妃の子こそ次代の王位に相応しいと唱える者達の間で、確執が生じたのだ。

 亡妃はテパンギの有力な貴族の出であったため、トコユノハナヒメを擁立し権勢を大きくしようとする親族が多くいた。また、マトヤ人の王妃は自分の娘を次代の女王にするためなら自らの命を投げ出す覚悟が出来ていた。そして新妃に与することで、新たに権力を得ようとする貴族や、マトヤの部族の有力者が彼女の味方をした。

 ロントン公国の公子、コハクが訪れたのもその頃のことである。互いの陣営がクナ皇国の後ろ盾を得ようとして、口の端から泡を出しつつ、互いの正しさを訴えたものだった。ただコハクは、中立な態度を最後まで崩さず、王宮内の問題をあらかた調べ上げると、交易の話だけを片付けて帰って行った。

 少女としての多感な時期を、濁った空気の漂う王宮の中で過ごさなければならなかったのは、トコユノハナヒメにとって不幸せなことであったに違いない。自らの内に溜まる、淀んだ何かを吹き払おうとするかのように、姫は武術にのめり込んだ。

 姫の乳母は武術に優れ、王権を陰で支えるシノビ一族の者であった。陰で支える、というのは、必要があれば暗殺などの務めを果たすということである。

 王宮内で苦しい立場に置かれている姫を、乳母やシノビ一族は愛した。そして姫に求められるままに武術を教えた。もっとも、それは暗殺をするためのものではなく、暗殺から身を護るためのものであった。

 姫の側にはいつも、乳母の息子であるオニノシコクサの姿があった。一族は彼に対しては、そのすべての技を与えた。愛する姫を、いつでも、どのような時にも護れるように。

 そして今年の春。

 豊作を願う神事として、神饌田に種を蒔くため、トコユノハナヒメは山の上の社へと出かけて行った。乙女を牛車に乗せるのが、この神事のしきたりであった。

 牛車に揺られて山あいの橋を渡っていると、突然、牛が暴れ出した。

 牛は橋の欄干にぶつかり、そのまま突き破ると、車ごと谷底へ落ちて行った。

 従者の一人、オニノシコクサだけが、すぐにその後を追って飛び込んだ。

 橋の上に残された従者達は、とても助からないだろうと思い、悲嘆にくれた。

 いくら体の丈夫な姫といえども、命は無いであろう、と。

 しかし、彼らは姫の真の器量というものを、知ってはいなかったのである。

 姫は濁流に呑まれて砕けた車から抜け出すと、祭礼用に重ね着した服も流れにまかせて脱ぎ捨て、おもむろに抜き手を切って泳ぎだした。

 後を追って飛び込んだオニノシコクサが、川下の岸に泳ぎ着くと、姫は濡れた肌着を岩の上で乾かしているところであった。

「春とはいえ、まだ寒いわね」

 従者の姿を見ると、姫はそう言った。一糸まとわぬ姿を隠すこともなく、谷底に届くわずかな陽の光で体を温めようとしているその姿に、オニノシコクサは女性としての美しさだけでなく、生き物としての気高さを感じた。

 ただ彼は、そうとは言わずに、いつもと同じようにたしなめた。

「今度は、橋から落ちる前に車から出て欲しいな」

 オニノシコクサに裸身を見られても、姫は動じなかった。テパンギの王族はそういうことに慣れているし、二人は兄妹同然に育ったのである。

「服が動きにくくて……だから馬に乗ると言ったのに」

 十七才になる姫の身体は、すっかり女になっていたが、お転婆なところは少しも変わっていなかった。

「さっきのは、偶然ではないのでしょう?」

「おそらく……誰かが毒の吹き矢で牛を射したのだと思う」

 従者の中に裏切り者がいたことに気が付かなかったという思いが、オニノシコクサの胸の内を苦くした。

「皆は、死んだと思っているでしょうね。あの高さですもの」

「ああ、多分」

「このまま私が帰らなかったら、今日のお供は皆、罰せられるのかしら」

「……帰らないつもりなのか?」

「そうね……これは、ある意味、神のお告げかも知れないと思って……」

「お告げ?」

「どのみち、私は王位を継ぐ気は無いの。仮に継いだとしても、すぐに妹の誰かに譲るつもりなのよ。でもそれで良しとしない人もいるでしょうし、このままだと、玉座を継ぐ前にたくさんの血が流れるわ。だからこれは、またとない機会だと思わない?」

「どれだけ血が流れたとしても、王座にふさわしい者が王位を次ぐべきだ」

 そのためならば、たとえ何百人の血であろうと、その身に浴びる覚悟がオニノシコクサにはあった。しかし、トコユノハナヒメは血塗られた玉座に座ろうとは思わないのだった。

「ありがとう……ねえ、このまま姿を消したら、今日のお供は殺されてしまうかしら?」

 オニノシコクサは、ため息をつき、聞かれたことに答えた。

「神事の途中に起きたことだから、血を流すことはないだろう。牛車の手綱取りは間違いなく暇をとらされるだろうけど」

「そう……それくらいは、やむを得ないかしら。内緒でお金を届けることにして、勘弁してもらいましょう」

 オニノシコクサは、姫の覚悟は本物なのだと悟った。

「この国を捨てて、何処へ行くつもりだ?」

「そうね……いっそのこと、大陸へ行ってみようと思うの。あなたはどうする?私は姫でなくなるのだから、刀を捧げる必要もなくなるわ。好きに生きていいのよ」

「好きに生きて良いのなら……」

 シオンは膝を折って、頭を垂れた。

「この命尽きるまで、この世の果てまでも、常柚(とこゆ)の木の影となろう」

 二人は、その名をユズナとシオンと改めた。

 シオンの母にだけ二人のことを告げ、落ちた牛車のために責めを負った者たちに、お金を届けてもらった。

 そして島の北西にあるハクタの港から、商船に乗って旅立ったのである……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る