失われた姫の失われた物語
大坪 哉太
第1話
空は蒼く晴れ渡っていた。
海は静かに凪いでいた。
空と海の間に、大陸の影が浮かんでいた。
白いカモメが翼を広げ、水面低く飛んでいる。
一隻の船がその後を追うようにして、波を切っている。
帆柱は三本。船首側の二本に、蛇腹に折りたたむことの出来る帆が吊られている。船尾の帆柱では三角の帆が風を受けていた。
船が向かうその先には、大陸の玄関口、タオルンの港が見える。クナ皇国の東部を占める、ロントン公国の歴史のある港だ。
船はその長い船旅を、ひとまず終えようとしていた。
船上では、船乗り達が入港の支度に追われている。
大声が飛び交い、張り巡らされた綱や船体がキシキシと鳴る。
そんな中、船上の騒がしさには加わらずに、陸を眺めている娘の姿があった。
黒い髪をうなじで束ねている。布の旅衣をまとい、潮風を防いでいた。髪と同じように黒い瞳と、小筆で一息に描いたような、凛として真っ直ぐな眉が印象的だ。
名をユズナという。
「とうとう来たわね、シオン」
彼女はそうつぶやいた。
シオン、と呼ばれた若者が娘の側に立っている。しかし彼は娘の言葉には応えずに、ただ黙っていた。背は高く、ユズナよりも頭二つほど抜き出ている。均整のとれた身体からは、どことなく人を威圧する空気が流れ出ていた。腕力自慢の船乗りとは違う種類の気配だ。腰の剣と、清潔ではあるが質素な服装を見れば、人は傭兵か何かだと思うだろう。
船は港へ進む。波頭が崩れ落ちると、無数の泡が生じた。
波の間に落ちた小さな影に気が付いて、シオンは空を見上げた。
「あれは……」
「どうかしたの?」
「竜……おそらく、竜騎兵だ……」
ユズナもまた、空を見上げた。
ずいぶんと高いところを飛んでいるらしく、ユズナ達の眼には鳥のように小さく映る。それでも鳥とは違う、竜である特徴が見て取れた。長く伸びた首、四つ足を備えた強靱な体躯、首よりも長い尾。巨大な翼が虚空を切り裂いている。
「あれが……竜騎兵……」
竜を見るのは、初めてのことだった。
「何処へ行くのかしら……」
陽の光が眩しくて、ユズナは目を細めた。
遠い異国の兵(つわもの)の話は、幼い頃に良く聞かされていた。クナ皇国の遥か西の山奥にある僧院で修業を積み、選ばれた者だけが竜の背に乗ることが出来るという。
皇国の守護者である彼らの物語はユズナの故郷、テパンギにまで伝わっていた。
「私にも乗れるのかしら?」
竜騎兵は、南の空へ飛び去って行った。
「さあ、どうかな……竜が怯えなければいいけど」
「それ、どういう意味?」
シオンは黙って肩をすくめた。ユズナはシオンとは違って、剣は提げていない。だが旅衣の下の服は、年頃の普通の娘が着るようなものとは異なっていた。その細くしなやかな手足が自在に動かせる、軽業師や武人が好む装いであった。
二十日あまりの航海にあって、夜明け頃、波に揺れる甲板の上で彼女が武術の型を練っているのを見た者は多い。竜が怯えるかどうかは別にして、彼女の名をテパンギの山賊が耳にしたならば、震え上がって逃げ出すことだろう。
幸いにして同船者達は、彼女の正体には気が付かなかったので、壮麗な夜明けの一幕として彼女の演舞を眺めたものだった。
やがて二人を乗せた船は港に入り、帆を畳むと桟橋に停まった。
「行きましょう、シオン」
ユズナは跳ねるような足取りでタオルンの港へと降り立った。
タオルンという名には、クナの古い言葉で〈道の始まり〉または〈旅の終わり〉という意味がある。一つの言葉に矛盾する二つの意味が与えられているのは、古代クナ語にはよくあることだ。それにもしかしたら、港に与えられる名としては、これ以上相応しいものは無いのかも知れない。
タオルンの町は枝分かれした河の州に築かれており、河の流れに沿うようにして、扇状に拡がっている。
ユズナとシオンの二人は、この町で今日の宿を探すことにした。
海沿いの大通りは石畳が敷き詰められている。それだけでも二人の故郷であるテパンギの港とは大きく違っている。行き交う人の数も多く、肌の色や瞳の色の異なる民の姿もあった。
街には、船上にあって長らく遠ざかっていた、人の生活の匂いが満ちている。
波に揺れ動かない大地を踏みしめ、見たことのない街の風景を目にすることで、ユズナの心は躍った。
「宿の前に、何か食べましょうよ」
シオンにそう語りかけながら、ユズナは早くも露店に並んだ食べ物を見比べていた。
「目移りしちゃうわね、何が良い?魚はもう飽きた?」
「お好きなのをどうぞ」
シオンは関心が無さそうに言うと、眼だけを走らせるようにして、辺りの様子を油断無く見張っていた。ユズナの身を守ることが、彼の一番の関心事なのだ。
迷った末にユズナはタコの足の串焼きを買うと、木箱を逆さに置いただけの椅子に腰掛けてかじりついた。
故郷にも同じような料理はあるが、異国で口にするものは、やはり違う味がする。
(でも、美味しいことには変わりがないわね)
とユズナは思った。
騒ぎに気が付いたのは、シオンの方が先だった。
二人がいる露店から三十ヒロ(約六十メートル)ばかり離れたところで、悲鳴が上がった。
石畳の上に、何か大きい、丸太のようなものが横たわっている。ただ、伸びたり縮んだりして動いていることから、丸太ではなく、生き物であるようだった。
「蟲だ!ウミワラジだ!」
誰かが叫んだ。
長細い体躯は、甲冑のような半月形の殻が幾つも連なって堅く護られている。そのツルツルした背中とは反対に、腹の側には無数の足が蠢き、石畳を引っ掻いている。
「何故こんな所にウミワラジが?」
ユズナの言葉に、シオンは分からない、という風に首を横に振った。ウミワラジは海岸沿いに広く生息している。しかし、見た目の大きさに比べて用心深く、港のような人の多いところには姿を現さない。少なくともテパンギのウミワラジはそうであった。
「誰か番兵を呼んでこい!」
露店の店番が叫んだ。
「下がって」
シオンはユズナに耳打ちした。周りの人々も、足早にその場から立ち去って行く。店のある者も、お金の入った駕籠だけを持って離れて行く。一匹くらいであれば、港の番兵隊が追い払うなり、仕留めるなりしてくれるだろう。
その時また、悲鳴が上がった。
子どもが二人、逃げ遅れていた。小さな男の子と、彼よりは年かさの女の子だ。
いきなり現れた蟲に驚いて、動けなくなってしまったらしい。姉のように見える女の子の方は、どうにかして弟を逃がそうとしているのだが、男の子は地べたに座ったまま身を固くしていた。
ウミワラジは雑食だ。大人であれば襲われることは滅多にないが、子どもだと時々襲われて食べられてしまうこともある。
弟を庇いつつ立ちすくむ姉。
ウミワラジは恰好の標的となった姉弟に狙いをつけ、襲いかかる。
子ども達は思わず眼を閉じた。
その瞬間、ガツン、という堅いものがぶつかる音が響いた。
姉が眼を開くと、長い木の棒を抱えた女の姿が見えた。
屋台の庇を立てる竿を得物にした、異国の服を着た女だった。
「逃げなさい」
その声を聞いても、少女は何が起きたのか、これからどうなるのか飲み込めずに、呆然と弟を抱きすくめていた。
「早く行け」
今度は男の声がした。少女の目に、長い刃物が映った。片刃の剣だった。それはまるで月光を浴びた魚の腹のような銀色をしていた。
蟲よりも、その刃物に対する恐怖が、少女に正気を取り戻させた。弟を引きずるようにして、その場から遠ざかる。
突然、横から木の棒で殴られたウミワラジは怒っていた。
躰の前半分を縦に起こして、相手を威嚇する。伸び上がると、民家の二階に届きそうな高さになる。腹側にひしめく足が威嚇を始める。その胸部には、武器となる二本の長い触手が丸まって収まっているのだ。
そして右の触手を鞭のように敵に向かって打ち出した。
ユズナは竿で上手くそれを受け止めた。触手は勢いでぐるぐると竿に巻き付いた。ウミワラジは巻き付いた触手を引っ張りながら、もう片方の触手を打ち出そうとする。
だが二本目の触手はユズナに届くよりも先に、シオンの剣に切り落とされた。
ウミワラジが、声とも歯軋りとも分からぬ音を出してのけぞった。
ユズナは、触手が巻き付いたままの竿を、薙ぎ払うように振った。
重心を崩したウミワラジが、もんどり打って転がる。
周囲からどよめきの声が上がった。
剥き出しになった蟲の腹に、シオンが剣を突き立てる。
蟲は身体をひねって悶えると、尾でシオンを打とうとする。
「浅い」
そう言うと、シオンは剣を引き抜き、ウミワラジの尻尾を刃の峰で受け止めた。身体が宙に浮き、そのまま跳ね飛ばされる。
身を突かれた痛みに、ウミワラジは悶え、暴れる。シオンの言葉どおり、傷は浅く、ウミワラジの息の根を止めることは出来なかった。
触手の巻き付いた竿が、ユズナの手からもぎ取られる。
「銛を打て!」
いつの間にか遠巻きに蟲を取り囲んでいた番兵達が、兵長の号令にしたがって、柄尻に綱の付いた銛や鋼鉄の鉤を投げる。
しかし、その攻撃は僅かに期を逸していた。ウミワラジは無数の節足で覆われた腹を隠すように、身を起こした。銛は楊枝のように背中の堅い殻に弾かれる。それでも二本の鉤が殻の隙間に食い込んだ。
「綱を張れ」
番兵達は鉤から伸びている綱を、船を留めるための杭に巻こうとする。ウミワラジは石畳に爪を立ててそれに抗った。石板を引っ掻く音が鳴り響く。やがて鉤のかかった殻が少しずつめくれ上がる。それを見たユズナは落ちている銛を手に取った。
「やあ!」
跳躍すると、彼女はウミワラジの殻の隙間に銛を打ち込んだ。
銛は狙いどおりに突き刺さったが、ウミワラジの暴れる勢いは衰えない。ユズナは銛ごと振り回され、宙に放り出された。
シオンは剣を投げ捨て、ユズナを両手で受け止める。
瞬間、彼の瞳が鋭く光った。これ以上、ユズナを危険にさらすことは出来ない、という想いが彼の全身を巡る。シオンは懐から細長い筒を取り出した。掌からわずかにはみ出るほどの長さの筒だ。
「これで終わりだ」
ユズナはその筒の正体を知っていた。爆雷だ。
「駄目よ、シオン。ここでは駄目」
ユズナはシオンの手を掴んだ。爆雷を使って蟲を倒せば、周りにいる人々まで傷つけてしまう。だが、シオンはユズナの手を力ずくで振りほどいた。ユズナ以外の人間がどうなろうと、彼にはどうでも良いことであった。
その時、地面に影が落ちた。
ウミワラジを中心に、影はみるみる大きくなり、やがて蟲をすっぽりと包み込んだ。
空から、巨大な何かが蟲の上に落ちてきた。
地面が震える。
ウミワラジの体躯が小枝のように二つに折れ曲がった。
見開いたユズナの目に、ゆっくりと揺れる竜の首が映った。
〈キシャァァ〉
鋭く尖った牙が、顎に並んでいる。
生き物の一部というよりは、凶暴な目的のためにつくられた武器のように見える。
ユズナとシオンは反射的に身構えた。
しかし、竜は二人には目もくれず、踏みつけたウミワラジに噛みついた。
ガリッ ゴリッ
竜は蟲を好んで食べる。ウミワラジの固い殻をまるで、煎り豆か何かのように噛み砕く。
ウミワラジは身悶えたが、もはや誰の目にもそれは無駄なことに見えた。
竜の背には、人の姿があった。
ユズナは見上げたが、人影の向こうから陽の光が射してきて、はっきりと顔を確かめることは出来なかった。
(竜の背に乗っている……竜騎兵……)
一刻ほど前に船から見えた、あの竜騎兵だろうか。
蟲をむさぼり続ける竜の背から、前肢を踏み台にして、騎兵は石畳の上に降り立った。
眼帯の一種だろうか、竜騎兵は卵が二つ並んだような不思議なもので両目を覆っていた。
頭にもまた蟲の殻のような形をした兜を被っている。目の下には布を巻いているため、表情は分からない。
竜騎兵はユズナとシオンの側へと歩み寄ると、両目の覆いを外し、顔に巻いた布を顎の下にずらした。
異様な装いに比べて、その素顔は柔らかな印象を与えた。年の頃は三十ほどに見える。
彼は二人の前で、クナの作法で手を組み合わせると礼をした。
「勇敢な異邦人よ、我が名はギバ。願わくば名を教えていただきたい」
ユズナもまた、クナの作法でギバの礼に応じる。
「ユズナ、と申します」
ギバはユズナを見て微笑みを浮かべた。
「健やかに澄んだ、美しい眼をしていますね」
ギバは続けてシオンの方を見た。彼は投げ捨てた剣を拾って、鞘に収めたところだった。
シオンはまだ気が高ぶっていた。「シオン」とぶっきらぼうに名だけを告げると、礼に応じることなく、油断の無い視線をギバに注いでいた。
「そなたはまるで、狼のような眼をしているな……」
そう言う竜騎兵はシオンとは正反対に、山奥の僧院で修業を積んだ僧にふさわしい、穏やかな光を瞳に宿していた。
「今は、先を急ぐ身ゆえ、このまま失礼させていただきましょう。お二人に出会えて幸いでした。縁があれば、また巡り会えましょう」
竜はもう既に、ウミワラジを食べ尽くしていた。
ギバは竜に騎乗する前に、番兵達にも声をかけた。
「ウミワラジのように臆病な蟲が、陽の高いうちに、海から上がって人を襲うのは奇妙なことだ。くれぐれも、見張りを怠ってはならぬ」
ギバを乗せた竜は、ゆっくりと翼を広げる。
風を巻いて、竜は空へと駆け上がった。
後には蟲の骸だけが残された。殻や足の残骸だ。
興奮が冷めると共に人の輪が崩れて、いつもの港の風景へと移っていく。
番兵隊の長はユズナとシオンに、兵舎で休むように勧めたが、ユズナは首を横に振った。
「折角ですが、私達はまだ港に着いたばかりで、宿も取っておりませんので……」
「そうですか。兵舎でよければお泊めしたいところですが、女人にはお勧め出来ませんな……」
兵長は残念そうに眉を寄せた。
「お姉ちゃん」
ユズナが振り向くと、先程の姉弟が寄り添って並んでいた。
弟は姉の後ろにくっついて、じっとユズナ達を見つめている。先程蟲に襲われた恐ろしさが、まだ残っているのかも知れなかった。姉の方はもう、何かを怖がっている様子は無かった。スモモのようなほっぺたと、編んで垂らした髪の先がくるんと跳ねているのが可愛らしい。
「助けてくれて、ありがとう」
「ケガは無かったようね」
ユズナは目を細め、微笑んだ。
「泊まるところを探しているなら、私達の家へ来て。小さいけど、宿屋もやっているの」
「本当?」
そう言うと、ユズナはシオンを見た。シオンは黙って見つめ返すと、ただそっと肩をすくめた。
「それじゃあ、お世話になろうかしら」
ユズナが応えると、少女はほっぺにえくぼを作った。
「私の名前はヨナ。この子はトク」
「私はユズナ、このお兄さんはシオンよ」
「こっちよ。私の家は」
ヨナはユズナを手招きしながら、歩き出した。
どこかのいたずら小僧が、ウミワラジの骸を蹴飛ばした。丸味を帯びた殻が石畳に弾んで、くるくると転がり、海に落ちた。
人々は皆、それぞれの日常へと戻って行く。
ただ、一人の男が、幼い姉弟に連れられた二人の後を追っていた。
頭巾の付いた旅衣に身を包んでいるため、確かな年齢は誰にも分からなかった。身のこなしは山猫のようで、すれ違う人にその目的を気づかせないほど、しなやかだった。
男もまた、異邦人であった。
クナ人ともテパンギ人とも異なる、白い肌をしていた。
頭巾の内の顔を見る者がいれば、亜麻色の髪や、青味がかった灰色の瞳から、遥か北方の民であることに気が付いただろう。
男はユズナ達を追いながらも、まるで彼自身が追われているかのように絶えず周囲に油断のない目を向けていた……。
ヨナの家は港町の外れにあった。漁船が並んだ一角で、ヨナの家にも魚の網が干してある。父親はもっぱら漁をしていて、宿の客の世話をしているのは母親なのだ、とヨナは言った。
「お母ちゃん、ただいま」
丸々と太った二の腕で、水汲みをしていた母親は、子どもの声を聞いて振り返った。
「あれまあ、ヨナったら、何処で油を売っていたのさ。おかげでちっとも洗濯がはかどらなかったよ……おや失礼、こちらはお客さんかい?」
ヨナは港で起きたことを、大きな身振りを加えながら、話して聞かせた。
母親は目を丸くして言った。
「まあまあ、それじゃあこちらのお二人はあんた達の命の恩人ってわけかい」
「うん、今日着いたばかりで、宿を探しているんだって」
「そう、それじゃあ、なんとしてもうちに泊まっていってもらわないとねえ。狭いところで申し訳ないけど、掃除だけは行き届いているからね。船でおいでなさったのかい?それなら少しくらい寝台が堅くても、慣れていなさるね。お二人、同じ部屋でもいいのかね?」
母親は、すぐさま世話好きの宿屋のおかみさんとなって、矢継ぎ早に言葉を繰り出した。
「ええ、構いません。従兄妹同士ですので」
「そうかい、従兄妹なのかい。まだ若くて、夫婦って感じにも見えないしね。もっとも、あたしが嫁いだのは、お嬢さんくらいの年だったけどねえ……」
おかみさんは喋りながら、ユズナ達を二階へと案内した。
部屋は確かに、狭いけれど手入れが行き届いていた。
小さな寝台が左右の壁際に置かれていて、部屋の真ん中には小さな茶卓が一つ、椅子が二つ置いてある。
今日は他に客はいないそうだった。
通りに面した窓の向こうには、海が見える。
「ユズナお姉ちゃん、ご飯の前に湯浴みする?」
「お湯もらえるの?嬉しい」
「すぐ沸かしてくるね」
ヨナは下へ降りていった。
「本当に久しぶりだわ、湯浴みなんて……どうしたの、シオン?」
シオンは、窓際の壁に背を預けて、狭い角度から窓の外を覗いていた。
何かに心を囚われている様子で、顎から首筋にかけてわずかに緊張が漂っている。
「後を、つけられていた」
「本当?……テパンギからの追っ手かしら」
「分からない。気が付いたのは、この宿へ向かう途中のことだ」
「追っ手だとしたら、私が生きているのが、知れてしまったということかしら」
「……同じ船に乗っていたのでなければ、こんなに早く追いつくはずがない。もし乗っていたのだとすれば、上陸する前に仕掛けるか、先程の騒動を利用するはず」
シオンは、故国からの追っ手だとは考えていないようだった。ユズナ自身も、大陸にまで追っ手がかかるとは考えたくなかった。しかし、シオンが言うのだから、つけられていたことは間違いないだろう。
「この家の人達に、迷惑がかからないかしら」
「さあ……目的が分からない以上、我々が去っても安全では無いかも知れない」
「そう……」
シオンは窓から離れた。
「ひとまず消えたようだ……日没を待っているのかも知れない」
今のうちに休んでおこう、そう言うと、シオンは寝台へ腰を落ち着かせた。
しばらくして、湯が沸いたと、ヨナが呼びに来た。
下の階では、炊事の煙が立ち、香ばしい異国の料理の匂いが漂っている。
ユズナは潮風の染みついた服を脱ぎ、大きなたらいで湯浴みをした。
湯にひたした布で体を拭うと、旅の疲れが少しずつほぐれ、海の向こうの島国で過ごした日々のことが、ほろほろと心に浮かんだ。
トコユノハナヒメと呼ばれ、王宮で暮らした日々。今はシオンと名を変えたオニノシコクサと共に、武芸を磨いた日々。己の体に流れる王族の血の故に命を狙われ、旅に出たさすらいの日々。
運命に流されるままに生きたくはない、という思いを胸にクナの地へ来た。
これから先、何が起きるとしても、自らの手で道を選びたいとユズナは思う。
ヨナの家は、母親が一人で切り盛りをしているため、どうしても必要のある客にだけ食事を出すことになっていた。もちろん、子ども達の命の恩人であるユズナ達は別で、たとえ外で食べたいと言っても許してはもらえなかったことだろう。
漁から帰ってきたヨナの父親は、母親と同じようにヨナから話を聞くと、市場に出すはずだった値の張る魚を惜しげもなく運んできた。そして母親も、作りかけていた料理に加えて、取れたての魚のために腕をふるった。
そうしたわけで、食卓に並んだ料理には、ちょっとしたお祭りが始まったかのような雰囲気があった。
ユズナとシオンは、ヨナの家族と共に食卓を囲んだ。
「お姉ちゃん達は、どうしてあんなに強いの?」
母親の料理を口にして、気持ちがようやく落ち着いた弟のトクが、異国からの客に子どもらしい興味を示した。
「それはもちろん、鍛えたからよ」
ユズナは力こぶをつくる仕草をしてみせた。
「武術家なの?」
「まあ、そういうところかしらね」
濁り酒をあおりながら、父親が言った。
「お二人は、もしかして、傭われ先を探しているのかい?」
「雇われ先?」
「近頃、この国では兵士を集めているんだ。遥か北のクリミア帝国が、タッタールとの戦に勝ったからな。次はタッタールの南にある、このクナに攻め込んでくるんじゃないかって噂なのさ。なんでもクリミアの軍隊は、竜騎兵よりも強い巨大な化け物を引き連れているって話でな」
「そうなんですか……私達は、海の向こうのテパンギから来たので、こちらの事はほとんど何も知らないんです」
「そうかあ。でもウミワラジを相手に出来るくらいなら、高い値がつくだろうよ」
「父ちゃん、命の恩人に失礼なこと言わないでおくれよ」
「別におれはそんなつもりじゃねえよ」
両親の口喧嘩が始まりそうなのを察して、賢いヨナが話に割って入った。
「それじゃあ、ユズナお姉ちゃんは、どうしてクナへ来たの?」
「そうね……海の向こうの人達と、知り合いになりたかったからかな」
「そうなんだ、じゃあ、私達が最初の知り合いだね」
「そうね、ヨナ。会えて嬉しいわ」
「本当?」
「ええ、とっても」
ヨナは米粒をつけたほっぺたで笑顔を作った。ユズナの心の中のほろ苦い感情も、それを見ると和らぐのだった。
「いつまでこの港にいるの?」
「しばらくは居るつもり。何か商売を始めるのもいいかなって思うの。例えば、この家みたいな宿屋も素敵だなって……」
「その宿屋は、食事は出すのか?」
それまで黙っていたシオンが口を開いた。
「出してもいいわね」
「誰が作るんだ?」
「もちろん私よ」
ウミワラジと向き合っても眉一つ動かさなかったシオンの顔色が、少し青ざめた。
テパンギの王族に生まれたトコユノハナヒメは、料理など作る必要も無く育った。興味本位で料理を作ることはあったが、それはいつもおそろしい結果を生んだ。
宴席に呼ばれたある武将は「戦場にあって敵を挫くに、姫の武術は百人力なれど、その料理は千人力である」と後々まで語ったと、テパンギの正史にも記されている。また姫の料理が振る舞われる日には、王宮の周りから野良犬が尻尾を巻いて逃げ去ったという逸話も伝えられているほどである。
「私、テパンギの料理を食べてみたいな」
「ええ、いいわよ。喜んで作っちゃうから」
「やったあ」
無邪気なヨナの言葉に、シオンは静かに首を横に振った。
その客がやって来たのは、昇った月が雲に隠れた時のことだった。
食事を終えたユズナとシオンが部屋で休んでいると、おかみさんが来客を告げた。見知らぬ男が一人で訪ねてきた、どうやら北から来た異邦人のようだ、と。
シオンは刀を掴んだ。
昼間つけられていたというシオンの言葉をユズナも忘れていなかった。
「物騒な客なのかい?追い返そうか?」
おかみさんは心配そうな表情を浮かべた。
「いいえ、大丈夫」
ユズナはシオンと二人で玄関に出た。
頭巾付きの旅衣を着た若い男が立っていた。白い肌、亜麻色の髪、青味がかった灰色の瞳。年齢は見分けにくいが、シオンと同じくらいのようにも見える。背丈はシオンよりも低く、ユズナより高い。
「話があります。どうか中に入れてください」
男は言った。
「早く」
その強い語気に押されるようにして、ユズナは男を中に入れた。
扉が閉じると、男は頭巾を降ろした。ロウソクの火で、亜麻色の髪が明るくなった。
「私の名は、オビト」
「オビトだかコビトだか知らないが、こんな夜更けに何の用だい?」
後ろから、おかみさんがぶっきらぼうに言った。
「すみません。ご迷惑をおかけしますが、こちらのお二人に話があるのです」
「お嬢ちゃん達に迷惑かけようってことなら、帰ってもらいたいね」
「おかみさん」
男を追い返そうとするおかみさんを、ユズナは押しとどめた。
「大丈夫です……ありがとう」
「いいのかい?」
ユズナは、追いつめられた男の様子が気になっていた。
「ええ、話だけでもお聞きしましょう。オビトさん」
男は、安堵のため息をついた。
「ありがとう、このとおり、感謝します」
クナの礼法で、男はぎこちなく頭を下げた。
「食堂を使うかい?」
「折角ですが……三人だけにしていただきたいのですが……」
男がそう言うと、おかみさんは「好きにすれば良い」と言う風に肩をすくめた。
ユズナとシオンは、オビトを二階の部屋に連れて行った。
部屋に戻ってもシオンは刀を離さず、茶卓の上のロウソクの明かりが届くぎりぎりのところに立った。ユズナは名を名乗ってから、オビトに椅子を勧め、自分も腰を降ろした。
オビトは小声で話し始めた。
「私は、ある目的を果たすために、この港にやって来ました……お二人に、それを手伝って欲しいのです。」
「待って、あなたにはクナ人とテパンギ人の区別はつかないかも知れないけど……私達は今日この港に着いたばかりで、大陸のことは何も知らないのよ。とてもあなたのお役に立てるとは思えないわ」
ユズナがそう言うと、オビトは少し語気を強めた。
「私にはまず、強い仲間が必要なのです」
ロウソクの灯がその息でわずかに揺れる。
「クナ人である必要はありません」
オビトの言葉を聞いて、ユズナはシオンの方を見た。表情は見えないが、小さく肯いたのが分かった。二人の腕前を知っているということは、昼間の騒動を見ていたに違いない。
「昼間、私達をつけたのは、あなたね?」
「気づいておられたのですか……さすがです。すぐにお声を掛けられれば良かったのですが、人目が多かったので、こうして時を待っていたのです」
「それはつまり、あなた自身、誰かに追われているということかしら?」
「その通りです。追われている理由も、後でお話しします」
オビトは少しばかり、背筋を正した。
「私は、クリミア帝国から来た使いです。目的の一つは身分のあるお方からの手紙を、密かに、このロントン公国の公子に届けること。もう一つは、ある物を探し出すことです。それもまた、出来る限り、密かに……」
「密使ということね?」
「その通りです」
「密使だということを、どうやってロントンの公子に信じさせるのだろう?」
シオンが口を挟んだ。
「公子が親書を読めば、間違いなく本物であることが分かる、と我が主は申しておりました」
「それでは我々は、どうやって信じればいいのか?」
シオンは、疑いの眼差しをオビトに向ける。
「それについては、信じていただけなくとも構いません。私を手伝ってもらえるのなら、充分なお礼はいたします」
オビトは懐から革袋を取り出した。中身を一つまみすると、茶卓の上に置いた。
それは金貨だった。
ユズナは手にとって、ロウソクの灯にかざした。女性の横顔が刻まれた金貨だった。ユズナ自身、王宮育ちであるため、金貨を珍しいとは思わない。しかし見慣れているだけに、クリミアの金貨のその意匠の巧みさには驚かされた。故国テパンギよりも高い文明の息吹を、その金貨に刻まれた優美な女性から感じたのだった。
その時、シオンが音も無く刀を抜きはなって、オビトに斬りかかった。
オビトは椅子から転げるようにして白刃を逃れた。そしてそれと同時に、腰の短剣を抜き、起きあがった時にはその切っ先をシオンに向けていた。
「何をする、金貨に目が眩んだか」
ユズナは、オビトに静かにするよう手で制し、シオンに咎めるような目を向けた。
「シオン……こんな夜更けに騒がしくしては駄目よ」
シオンはオビトの眼をじっと見つめていた。そして斬りかかった時と同じように、音を立てずに刀を鞘に収めた。
「その身のこなし……イカサマ師では無さそうだな……」
何食わぬ顔でそう言うと、腕を組んで寝台に腰を降ろした。
「驚かせてごめんなさい。でも試しただけ、本気じゃないわ」
ユズナの言葉に、オビトは呼吸を緩めた。しかし短剣は構えたままだ。頭巾が少し斬れていた。誰か他の者が見いていたとしたら、とても試しただけとは思えないだろう。
オビトが向けていてる短剣のことは気にかけず、ユズナは金貨をそっと卓の上に置いた。
「それと、これだけは言っておくわ。私達は今のところ、誰かにお金で雇われるつもりはないの。だから、あなたを手伝うにしても、きちんとした理由が要るのよ。信じられない相手に協力することは出来ないわ。話をするにしても、そのつもりでお願いできるかしら」
それを聞いたオビトは、眉をひそめながらも短剣を腰に戻した。
「分かりました。ですが私もまだ、あなた達を完全に信頼しているわけではありません。嘘はつきませんが、すべてを語ることも出来ません」
「それでいいわ」
オビトは椅子に座り直すと、語り始めた。
それは遠い北の大国、クリミア帝国の話だった。
クリミア帝国は、長年、大陸の中東部に位置する騎馬民族の国、タッタールの侵攻に頭を悩ませていた。
勇壮なタッタールの騎馬兵は、圧倒的な機動力と破壊力を備えており、帝国は苦しい防戦を強いられるのが常であった。
タッタールに苦しめられているのは、南のクナ皇国も同じであったが、皇国は竜騎兵に護られているため、領土を保つことが出来ていた。
一方、クリミア帝国はタッタールと対等に渡り合える戦力を、常に維持することが出来ずに、時として国土をタッタールに献上することがあった。
タッタールに対する、絶えることのない恐怖に囚われた帝国は、光明を探し続けた。
そしてついに、クリミアの民は一筋の光を見出したのであった。
「それが魔導文明の復興、ル・ラスリルです」
「魔導……」
ユズナは眉を寄せた。食事の際に、ヨナの父親が語った「クリミアの軍隊は、竜騎兵よりも強い巨大な化け物を引き連れている」という言葉を思い出した。
「クリミア聖教に伝わる、古い話をご存知でしょうか?クリミアの民ならば誰でも知っている、テルニタとソラリス、二つの都の話です」
ユズナが首を横に振ると、オビトは説明を始めた。
「かつてこの世界の創造主たる神は、人間を創り、寵愛しました」
だが人は神を裏切り、英知の源を盗んで魔導の力を生み出した。そしてその力を用いて壮麗な都を二つ築きあげた。それはテルニタとソラリスと呼ばれた。しかしやがて、二つの都は互いに争いを始めた。人々の心は乱れ、神の御名を崇めなくなった。それどころか神と同じように、永遠の命を手に入れようとした。ついに神は怒り、二つの都を滅ぼした……
オビトの話は、次第に熱を帯びてきた。
「千年前、ソラリスを追われ、魔導の力も失ったクリミアの民は、遥か東方へ移り住みました。戦乱による幾度かの遷都を経て、新しい都は、今はキャスブルグと呼ばれています」
キャスブルグの名はテパンギ育ちのユズナでも知っている。一度は訪れてみたいと夢見ていた、クリミア帝国の都だ。美しく、壮麗な都だと聞いている。
「その失われた魔導の力が、蘇ったというの?」
「蘇らせたのです。我々の手で」
オビトの瞳に、強い光が宿った。
「もはや、我々はタッタールにも、他の誰にも脅かされることはありません。たとえ、クナ皇国の守護者、竜騎兵であろうと、恐れる必要は無いのです」
「それで、タッタールの次は、クナに攻め入ろうということかしら?」
「帝国内にそうした声があることは確かです。ですが私の主はクナ皇国と戦になることを望んではおりません……いや、これは少し話が過ぎたようです……」
オビトの言葉は、クリミア帝国の内部に、クナ皇国との戦を望む者と、そうでない者がいることを匂わせていた。おそらくは、反対する者の方が少ないのだろう、とユズナは察した。少ないどころか、戦を望む者達に睨まれているのかも知れない。だとすれば、親書を出すのに密使に託さなければならないのも理解できる。
王宮育ちのユズナには、地位の高い者達の争いがどのようなものなのか、良く分かっていた。
「つまりあなたが持っている親書は、両国の平和のためのものなのかしら?」
「そうだと聞いております」
「もう一つ、目的があると言っていたが……」
シオンが再び口をはさんだ。
「ええ、ある物を探し出すことです」
「あるモノ?」
「魔導の力を取り戻した我が国は強大になりました。しかし、その反面、魔導の力そのものを、他国に奪われることを恐れているのです」
力無き者は力を欲し、力を得た者は失うことを恐れる。他者の支配を逃れるために力を得ても、結局は力そのものに束縛されてしまうのかも知れない。
「皮肉なものね……」
ユズナはつぶやいた。
「実は、クナ皇国に魔導の力の一つを奪われたという報せが入ったのです。私のもう一つの使命は、それを調べることです。あなた方に手伝っていただきたいのは、そちらの方なのです」
「その奪われた魔導の力、というのは、目に見えるものなのね?」
「力そのものは、目に見えるものとは限りません。ただ、力を発揮するには、様々な道具立てが必要です」
ユズナは顎に手を当てて、考えた。
「それは、願いを叶える、茶瓶の精の話みたいなものかしら?」
「茶瓶の精?」
「茶瓶を擦ると、精霊が出て来て、なんでも願いを叶えてくれるの。三つだけね。死者を生き返らせることと、願いを三つより多くすることは出来ないけれど」
「おとぎ話と一緒にしてもらっては困ります……ですが、まあ、ごく簡単に言えばそういうことかも知れません。我々は魔導具と呼んでいますが……」
「魔導具?一体、どんな物なの?」
「力をお貸しいただけるのならば、お話しします」
「親書の方は、どうするつもりなの?」
「私もまず、親書の方を届けるつもりでした……公子に会えば、魔導具の略奪についても、何かしら手がかりが掴めるかも知れないと思ったからです……」
そしてオビトが今日の朝、供を連れて公子への目通りを願いに公邸へ行くと、後で迎えの使いを寄こすと言われたのだった。それを信じて一旦宿へ引き返したところ、道の途中で刺客に襲われたのだという。
「私の供は殺され、私だけがどうにか逃げ延びた次第です」
その後、オビトは港でウミワラジの騒ぎに遭遇した。ユズナとシオンの活躍を見た彼は、二人を金で雇うことが出来ないかと考えたのであった。
「刺客は、公子の仕業だと思うの?」
ユズナの問いに、オビトは首を横に振った。
「私は主の名を告げました。それを知りながら、会うことも無しに命を狙うとは思えないのですが……魔導具の略奪について後ろ暗いところがあるとすれば、そうするかも知れません。だからまず先に、魔導具のことを調べようと思うのです。もしかしたら、刺客の正体を掴むことが出来るかも知れない」
「刺客について、何でもいいから、気が付いたことを聞かせて欲しいわ」
「刺客は四人いました。クナの装束を身に纏っていて、顔は布で覆っていました。あとは……何しろ逃げるのが精一杯で……」
「あなたも短剣は使えるようだけど、あなたよりも強かった?得物は何を?」
「一人一人の腕は私と同じくらいかも知れませんが、私の供は武人ではありませんでしたし、四人が相手では……得物は四人とも短剣でした、私と同じような」
「そう……どう思う?シオン」
「さあ……確かなのは、我々には関係の無い話だということかな」
シオンの素っ気ない言葉に、オビトは口を曲げた。それから、ユズナにすがるような視線を向けた。
ユズナは言った。
「そうね、シオンの言うとおりかも知れないわ……」
オビトはため息をつき、首を振った。失望と、後悔とが入り交じった表情をしている。
「せっかく頼りにしていただいたのだけど、魔導具とやらを探すのは、お断りするわ。クリミア帝国と、クナ皇国のどちらにも荷担したくはないの」
「分かりました……」
オビトは席を立った。しかしまだ、ユズナは言葉を続けた。
「でも、親書を届けるのは、力になれるかも知れないわ。もしもあなたの主が、本当に両国の間の平和を望んでいて、その親書を届けることが、戦を避けることに繋がるのならね。そういうことで、どうかしら?」
オビトは立ったまま、少しの間思案して、言った。
「それは、願ってもないことです。しかし、そちらの方がより危険な仕事になりますよ。お二人の腕前を頼って来たとはいえ、わざわざ刺客の手の内に飛び込むようなことをさせるのは気が引けます……」
「私は、刺客を放ったのは公子ではないと思うの。だって、あなたを殺すのなら、屋敷の中に招いてからそうする方が、確実ではないかしら?」
「そうかも知れません」
「私は、あなたを公子に会わせたくない者の仕業だと思うの。だから、私とシオンの二人だけで親書を運べば、刺客も気が付かないのではないかしら?」
「最初は気が付かなくとも、何かのきっかけでクリミアの使いだとその者に知られてしまえば、結局は私と同じ目に会うでしょう」
「刺客は四人……二人で渡り合えないかしら。ねえシオン?」
シオンは言った。
「ユズナがそう言うなら、何とかしよう」
ユズナは微笑んだ。
「ありがとう、シオン」
ユズナの提案に、オビトは考えながら一つ深い息を吐いた。親書を人の手に預けるのは、主の命令に対する自分の責任を放棄することになるような気もする。しかし、ユズナの言うことは筋が通っていたし、何より二人を頼って来たのは自分の方なのだ……。
「どうやら、これ以上の論議は、無益なようですね。あなた方を信じて、親書を預けます。私が持っているよりも、確かなように思われます」
オビトは襟口から胸元に手を入れると、肌身離さず持っていたと思われる、油紙の包みを取り出した。
「我が主の名は、コルネリア・フォン・レーヴ。キャスブルグの薔薇と謳われるお方です」
「変わった名前ね。女性なの?」
「はい。コルネリアは、女性の名です」
「ロントンの公子とは、どのような関わりがあるのかしら?」
「公子がご遊学中、キャスブルグにお寄りになったことがございました。確か三年ほど前の事だったと思いますが……その時にお知り合いになられたと聞いております」
ただのお知り合い、というわけではなさそうね、と思いつつユズナは書状を手に取った。
「確かに預かります」
「どうか、お頼みいたします」
連絡の取り方を決め、翌日の再会を約束すると、オビトは帰って行った。
ユズナと二人きりになると、シオンは言った。
「ロントンの公子……コハク公に会うということか」
「ええ……テパンギの王族だと、分かってしまうかしら」
「どうかな……もう五年も前のことだ」
ロントンの公子コハクは、五年前にテパンギへ使節として来たことがある。その際、トコユノハナヒメとして、ユズナは公子と会っているのである。
「むしろ、公子に会うまではクリミアの使いというよりも、テパンギの使節と名乗った方が、危なくないかも知れないわね……」
「まあ、そうかも知れないな」
「こんなに早く、トコユノハナヒメに戻ることになるとは思わなかったけど」
「引き受けることも、無かったと思うが……親書一つで、戦が防げるわけでもなし」
「ええ、そうね……でも戦が始まれば、きっと終わるまで何年もかかるわ。この港も無事では済まないでしょう。宿屋も出来なくなるわ」
「宿屋は、クナやクリミアでなくても出来るだろう。料理さえ作らなければ」
「どういう意味?」
「……なんでもない」
シオンはそれっきり貝のように口を閉ざした。
ユズナが水を飲もうとして階下に降りると、灯りの消えた食堂の中、おかみさんが椅子に座ったまま眠っていた。おそらく、二人のことを心配して、話が終わるのを待っていたのだろう。オビトが出て行ったことには気が付かなかったのだ。
「おかみさん」
ユズナがそっと腕に触れると、おかみさんは目を覚ました。
「ああ、眠ってしまったのかい」
「風邪を引きますよ」
「何か、厄介事なのかい?お嬢ちゃん」
「そうでもないわ。慣れているから、平気」
「年に似合わず、切ないことを言いなさんな」
おかみさんはロウソクに火種をあてた。
「冷めてしまったけど、お茶を飲むかい?」
「ええ、いただきます」
おかみさんは、二つの碗に茶を注いだ。
「ロントンに来るテパンギ人は、商人がほとんどさ。あとは、罪を犯して逃げてきた者か、国に居られない事情のある者ばかり……お嬢ちゃん達も、訳ありなんだろう。従兄妹だなんて、私の目は誤魔化されないよ」
「おかみさん……」
「何も問いつめようっていうんじゃないんだ。お嬢ちゃん達が誰だって構わないってことが言いたいのさ。このままここに、いたっていいんだよ。遠慮することはない」
ユズナは目頭が熱くなるのを感じた。
「ありがとう……でも明日には出て行かなければ……」
「さっきの男に、追われているのかい?」
おかみさんは、そっとユズナの肩に手を置いた。ユズナは首を横に振った。
「いいえ、違います。用事が済んだら、また戻ってきます。それまで、大きな荷物を預かって置いて欲しいのだけど……」
「分かったよ。その代わり、きっと戻ってくるんだよ」
「ええ、きっと……それじゃ、お休みなさい」
「お休み、上手く行くように祈っているよ」
二階へ上がるユズナの後ろ姿が見えなくなると、おかみさんはロウソクの灯を消した。
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