第10話 少女と飢餓
飢えというのはおそろしいものだ。
本来の人の性格を変えてしまう。
少女は旅をしている間、金がなくて飢えた村を通ることもあれば、大きな街で食べ物を買うための小銭を乞う貧乏人に出会ったこともある。偏った栄養ゆえに太っているもの、逆にやせほそっているもの、見た目はばらばらだが、彼らは一様に、落ち窪んだ目をしていた。食欲をみたす事以外考えられない、そんな目だ。
中には、まだ幼い兄妹もいた。
彼らと会ったのは、魔王城より手前の、その辺り一帯のなかでも一際大きな街だった。
彼らはお互いしか縋るものがいない、というふうに身を寄せ合いながら街の大通りで物乞いをしていた。
少女は思ったものだ。
この兄妹に、どんな将来が残されているのだろう、と。教育を受ける機会すら与えられない彼らはいつまでたっても、飢えに苦しむほかない。法や倫理は兄妹に人間であることを強要するくせに、救ってはくれない。
でも、少女は彼らになにもしなかった。
たとえ、ひとかけのパンを分け合っても、食べ終わってしまえば、また飢えることになるだろう。そう、思ったのだ。
少女には、兄妹をひきとって養ってやるだけの、気力も力もなかった。
なにより、そのとき。
一番の原因としては。
少女自身も飢えていたのだ。
あげる為のパンも持っていなかった。
物語士である彼女は、物語士であるくせに、その仕事に必要な道具を紛失していた。見知らぬ街で、頼れる相手のいない彼女は、まさに、文字通り、地面に生えている草を食らってもいい、と思うくらいには腹をすかせていた。
慢性的に空腹状態であれば、人はそれに慣れることができるらしいが、少女はあいにくそうではない。突如栄養をカットしたため、体以上に心で飢えていた。
もう三日ほど、何も食べていなかった。
兄妹が金を集める通りのワンブロック先で、少女もまた道ばたに座り込んで、自身の前に空き缶を置き、小銭を無心していた。しかし、人というのは無情なものだ。ちらりと少女を目に留める人間もいるくせに、何も見なかったかのように通り過ぎていく。中には、あからさまに舌打ちをしていく人もいた。
『くそう…』
羞恥と空腹で死にそうになったときだ。話しかけられたのは。
『お姉ちゃん、これ、食べる?』
それは、乞食の兄妹の兄だった。
卵などの具をはさんだサンドイッチを少女に差し出している。
しおれたレタスがパンからはみでていた。どうやら、あまりにも悲壮な少女をみかねてもってきたものらしい。もともと座っていた所から、妹の方が、心配そうに少女達を見つめている。
飢えた少女の目にはサンドイッチはまるで、宝物のように映った。
ああ、かぶりつきたい。
お腹を満たしたい。
ありがとう、そう少女は言いかけ、手を伸ばしかけた。
しかし、気付いてしまったのだ。少年の方がよっぽど痩せていることに。少女は小枝のようだ、とからかわれるほどに棒のような容姿なのだが、少年のそれは群を抜いている。
『…だいじょうぶよ。ありがとう』
少女には受け取れなかった。
少年は困ったように、サンドイッチと少女を見比べると、やがて妹の所まで戻った。そして、半分こにして、食べ始める。
それを見て少女は、少し残念に思ったものの、安心した。
やがて、日も暮れくれはじめたが、少女の缶には一向に金がたまる気配がない。
いよいよお陀仏か…、昇天しそうな気がした。
幼い兄妹の方は、そこそこにお金がたまったらしく、「仕事」を終わりにするようで、プラカードをリュックにしまい、帰り支度を始めていた。
達者で暮らせよ、少女が心の中でつぶやく。
ところが、少年の方は、今度は妹を連れて再び少女のところにやってきたのだった。
『お姉ちゃん、いい所、つれて行ってあげる』
その言葉に、少女はふらふらと立ち上がった。
ここで恵まれもしない金を待つよりも、少年についていった方がいいように思えたのだ。
ひょこまかと路地を抜ける兄妹から、一定の距離をあけてついていきながら少女が問う。
『どうして声かけてくれたの?』
その言葉にちらっと少女をふりかえった兄の方が答えた。
『だって、お姉ちゃん、普段、こんな暮らししてないでしょ。見てれば分かるよ。おなかすくの、苦しいよね。だから、助けてあげようとおもったんだ』
少女は単純に、死んでもいい、と思った。
こんな親切な少年が追いはぎをするとは考えられない。だますためだけにこんな泣けることを言うのなら、それだけ困窮具合がひどいからだろう。もし、そうなら恨むまい。喜んで死んでいこう、と。
要するに、感動したのだった。
少女以上に苦しんでいる人間が、少女を助けようとしているということに、少女は感動していた。もしかしたら、少年はただ、自分が貧しいということを自覚していないだけなのかもしれなかったが。
果たして、着いた先は一見の店だった。
『バー?』
『喫茶店だよ! 夜はお酒も売っているんだ』
アンティーク調なその店からは、静かな音楽が流れていた。
少年達がドアを押して開けると、からんころんと鐘の音が響く。
暖かい空気が中から流れ出てきた。少女も中に入ると、その空気が逃げてしまわないように慌てて扉を閉める。
ウッドテーブルの上にはそれぞれ、小さな蝋燭が灯っており、それが店の雰囲気を感じよく演出していた。カウンター席では、男性客がすでに酒を飲んでいるようだ。背格好からして中年だろう。その向こう側では、ネクタイを締めたやせぎすの初老の男性が、ワイングラスを磨いている。
『おじいちゃん、お客さんだよ』
少年が妹と手を握りながら、その初老の男性にかけよった。男性は、磨いていたワイングラスとグロスを置くと、ちらりと少女を見た。
『いや、わたしは…』
金がない、そう続けようとした少女だが、おじいちゃん、と呼ばれた男性によって遮られてしまった。
『やあ、かわいらしいお嬢さんだね。いらっしゃい』
にこやかにカウンター席を勧められる。
少女は、なんとなく気まずいまま、席についた。
男性は、すい、とカウンターを離れ、奥の厨房から作り置きらしいサンドイッチを持ってくると、入り口にいた兄妹に渡してやった。兄妹は礼を言って、店を出て行く。また、鐘の音が響いた。
男性は手を振ってそれを見送った。
結局、一人取り残されてしまった少女は、おずおずと切り出した。
『あのう…わたし、お金がなくて』
『なるほど』
金がないっていうのに、男性は少女に暖かいスープを差し出した。断るより先にサービスですよ、と言われて、手をつける。
あたたかい。
夢中になって飲み干した。じんわりとお腹から体があったまっていく。
食べ終わって理性を取り戻した少女ははっとした。
いくらサービスと言われたからって、無銭飲食するのはいかがなものか。逡巡したすえ、店主に問う。
『あの、ここでしばらく働かせてもらうことってできませんか?』
男性は否とも応とも言わず、
『お嬢さんは旅人ですか?』
と聞いてきた。
少女は頷く。
店主はやわらかい笑みを零した。
『あの子供たちは、ときたま一風変わったお客さんを連れてくるんです』
そう言って、子供達がでていった戸口を見つめる。とっくに出て行ってしまったというのに、まるで彼らがそこにいるかのようにほほ笑んでいる。
『…あの子たちは、あなたのお孫さんなんですか?』
男性はシワだらけの首を横に振った。
『あの子たちの親がだれかは、だれも知りません。親から捨てられたんでしょう。私は子供が好きなんだが、いかんせん、歳のせいか養うだけのかい性がない。だから、せめて、こうしてやってきた時に恵んでやってるんですよ』
『やさしいのね』
少女の言葉に、店主は再度首を横にふる。
『子供達は弁えていて、ここには滅多にやってきません』
店主はにっこり笑う。
『だからこそ、滅多にない頼み事を叶えてやりたいのです』
少女はほっとして言った。
『ありがとう』
こうして、少女が魔王城に行くまでの期間、バーのような喫茶店で給士をすることになったのだった。このときはまだ、店で一人飲んでいた中年男性と、一緒に飲むほど仲良くなり、賭けをすることになるなんてことは、知らない。
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