第7話 ネコふんじゃった
異変がやってくるのは唐突だった。
夜中に微妙な寒さで目を覚ました少女は、自分のとなりにテガミネコがいないことに気がついて、探しに出る。体を起こして周囲をみまわすが、どこにもいない。
室内とはいえ、うっすら寒く、しかたがないので洗濯した毛布を寝間着の上から巻き付けるようにして廊下にでた。
「おーい、どこにいるのよー」
さむいし、ねむい。
ふらふらと周辺をさがす。
もしかして、下に降りている?
それを確信したのは、少女の滞在するフロアをすべて探し終わった後だった。屋根裏近くのその階はせまく、隠れる場所などそんなにない。
普段行かない場所に行くとは考えにくい、と、最初に居間に向かう。
果たして、テガミネコは居間にいた。たき火の燃えかすの近くで、うずくまるようにして眠っている。
なんでこんなところに?
でも、いたから、まあいっか。
居間には使用人部屋から直通の戸口がある。その隙間から確認して、少女は胸を撫で下ろす。そっと、扉を押し開けて中に入り、
「心配したじゃない。寒いから、ベットに戻りましょう」
抱き上げようとした少女は、すぐに異変に気がついた。
体温が異様に低い。
そして、体はまるで張っているかのように固まっていた。
「…」
膝にテガミネコを置いた少女は、手をその鼻の前にかざす。
ついで、心臓の音をたしかめるべく、手で胸にさわる。
「死んでいるの?」
少女の顔色が紙のように変化する。
「ウソ、でしょう?」
昼間はあんなに元気だったのに。
夜寝る前は、わたしの頬をなめてくれたじゃない。
ケガだって、ほとんど直っていたのに。
そっと、少女が口元を撫でると、真っ赤な血が手にこびりついた。
なんで、死んだのか。
盗賊でもまた、忍び込んだのか?
いいえ、血が出ているのは、口から。毒物か呪いによるものよ。
ふと、ざわざわとした胸騒ぎが少女を襲う。
「ねえ、あんたが殺したの?」
少女は宙に向かって話しかけてみた。
もし、このネコを殺したのが、彼ならば。きっと、返事をすると思ったのだ。
返事がなければいいのに、そう、期待した。
しかし、少女の願いも虚しく、魔王の声が居間に響く。
「そうだよ。僕だ」
「…どうして」
少女は思う。
魔王はテガミネコには特に関心をもっていなかった。殺す理由がないじゃないか。
「コレは言葉を喋らないじゃないか。知能も低い」
どこからか、瞬間移動のように魔王が少女の前に出現した。
かつん、と靴が床に当たる音が、何も無い部屋に広がる。
床に座り込む彼女を、魔王はその泥沼のような瞳で見下ろす。
少女には意味が分からなかった。
言葉をしゃべらなければ。
かしこくなければ。
生きる価値がないというのだろうか。
そうやって殺していっては、最後にはだれも残らないじゃないか。
少女は急に魔王という人物が分からなくなった。
いや、もともと分かっていなかったのだろう。
それゆえに、この青年が魔王なのだという実感が湧き出てくる。少女の考えの及ばない、理解不能で残虐な生き物。
それこそが魔王なのだ、と。
もしかして、自分もああやって理不尽に命をうばわれるのだろうか。
底知れない恐怖が体を襲う。自分で自分を抱きしめるが、体の震えは止まらない。
魔王の冷たい瞳が自分を見つめているのに、たまらなくなって、少女は踵を返して駆け出した。
はやく。
はやく。一刻もはやくここを出たい。
少女ははじめて心から城に来たことを後悔した。
こんな安易な気持ちでここにくるべきじゃなかった。
はやく、ここを抜けて。
右手に曲がれば、出入り口の門がある。
開かないかもしれない、そんな可能性は脳内に浮かんでこない。
ところが。
広い部屋をやっと抜けるか、と思ったとき。
少女の体が宙に浮いた。
もがく彼女の意思を無視して、魔王の前までひきもどす。
「どうして、にげるの?」
恐怖に震えて俯く少女を前に、魔王が問う。
少女の体はびくりと震えるが、声がでない。
「なにが、こわいの?」
少女の目尻に涙が浮かぶ。
それでも、見えない力に引っ張られるようにして少女が顔上げた。その拍子に、涙が一筋頬をつたう。
そして、魔王と目を合わせて愕然とした。
「なんで…、なんで…」
文章にならない単語の羅列。
少女の顔に恐怖だけではない表情が浮かぶ。
それは憤怒だった。
腸が煮えくり返るように感じる。
握りしめた拳に、爪が食い込むのを感じる。
その怒りは、そのまま衝動となって表出した。
「なんで、そんな観察でもするみたいに眺めてるのよ!」
ふりあげられた拳は、何に拒まれることもなく魔王の頬に振り下ろされた。
少女の爪のあとが、くっきりと赤い線となる。
それでも、魔王は目線をそらすことなく、肩で息をする少女を眺めていた。
少女は真っ向から、魔王を睨みつける。
「あなた、最低だわ」
魔王が唇のはしを歪める。
「うん、ごめんね」
ぜんぜん、反省していない。
自分が生命をひとつ消し去ったのだということに、まるで重みを感じていないようだった。
魔王が、少女の手首を掴む。
「きみは、どうするの?」
ついに、こらえきれずに少女は泣きじゃくり始めた。それでも、魔王を睨みつけることをやめない。緑のあざやかな瞳が、漆黒の瞳とが交叉する。
「わたしが死んでも。他にも、綺麗な人や、頭のいいひとが、たくさんいるわ。また、適当に、選べばいいじゃない」
そうして、また殺せばいい。
少女はそう思う。
「君がいいよ。だって、君は僕の隣にいるじゃないか」
魔王がそういうのは、ちょうどいい退屈しのぎが手に入ったからだ。そのくらい、少女にも分かる。
「でも、あなたは、自分の気に入らなければ、殺すんでしょう? それでもいいって、言う人、探せばいいじゃない。中には、あなたの残酷さを、許容する人だっているかもしれない」
涙が鼻に逆流して、言葉がつかえる。
「君は僕を怖がらなければ、崇めもしない。それに、怒っている」
それでも少女は言葉を止めない。
「バカじゃないの。世の中全ての人間が、自分の事をこわがっていると思っているの? 傲慢ね。力を振るえば、人はそれを恐れるわ。当然じゃない。誰だって、死にたくないし、テレトリーを、荒らされたくはないもの」
そんな基本的なことも分からないなんて、と少女は吐き捨てた。
「そうかもしれないね」
魔王は、同意してほほ笑んだ。
その笑みに、再び少女の背筋に怖気がはしる。
ほんとうに恐怖している時は涙もでてこない。
以前、どこかで聞いた言葉だ。
どうやら、本当らしい。
少なくとも少女は、そう、実感した。
話の通じる相手じゃないわ。
ようやく、少女は悟る。
へなへなと床に崩れ落ちた。
恐怖の秤が限界値をこえ、振り切れたのだ。
呆然と片手を掴まれたまま、座り込む。もう何も考えないで、この体の中に閉じこもってしまおうか。そう考えた。
しかし、それはできなかった。
限界を迎えた少女の向こうが側で、何かがはじけたからだ。新しい感情。
それは、どこか麻痺した感情の中でも、もっとも場にそぐわない情動。
それは好奇心だった。
奇妙な興味がわいたのだ。
言葉を喋れる者なら、賢い者なら、彼の暇をつぶせると思うその思考に。
どうしてそう思う?
その根拠は?
彼は、なにに満足する?
彼は、なにになら満たされる?
彼が、彼たる由縁は?
どうせ、彼が飽きない限り、この城からは逃げられない。飽きても、生きて出られる保証は無い。
それなら、死ぬまでに、その答えが見つかるかどうか、ゲームをしてみよう。勝負相手のいないゲーム。プレイヤーは自分だけだ。いかにして彼の本質に近づけるだろうか。それが、鍵だ。
そんな奇妙な考えだった。
それは、少女の人間性がなしえた技だった。
少女は今まで自分が泣いていたことを忘れたかのように、魔王を見つめる。
とつぜんの変化に魔王が目を細める。
少女は魔王に言い放つ。
それは、いかにも傲岸不遜で。
その分、強烈だった。
「いいわ。ここにいてあげる。あなた、わたしがここにいてほしいんでしょ? その代わり、条件を呑んでちょうだい」
魔王は少女の心を知ってか、知らずか、微笑みを絶やずに答えた。
「わかった。呑もう」
月の出ている明るい晩。少女の心が少し、変化した。
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