第3話魔王と少女
地下の大広間では阿鼻叫喚が繰り広げられていた。
元々はワイナリーだったそこは、気温がえらく低い。ネズミの仔すら一匹もいないのは、そこに空間の異質さを感じるからだろう。
人間は動物ほど敏感じゃないから、危険を感じ取れずに、そこに近づいてしまう。現に、少女も何も気がつかずにそこを目指しているのだから。
その空間は一面、赤でまみれていた。
ワインの赤ならもっと、薄かっただろう。
木でできたアーチ状の入り口も、階段も、漆喰で塗り固められた白い壁も、全てが紅く、あるいは赤茶にそまっていた。
血液独特の、濃い匂いが室内には広がっていた。
「期待はずれだな」
中央で、ぼそりとつぶやいたのは、まだ若い青年だった。
濡れたように美しい黒い髪が、体を包む漆黒の衣服が、青年の人形のように作り物めいた顔を際立たせている。人形のような造形を美しいというなら、彼はたしかに美しいのだろう。
ただ、全体的に作り物めいた存在の中で、唯一、瞳だけが異質だった。
その漆黒の瞳は、どこまでも続く底なしの泥のようだ。
見るものを物怖じさせるかもしれないが、同時にその仄暗さは人を引きつけるだけの力をもったものだ。まっさらで、清く正しい人間でない限り、人はどこかしら彼のような目をした人間に惹かれるに違いない。
今回、彼の目線の先にあるのは、生きた生物ではなかった。
視線の先には、ぼろをまとった男たちが折り重なるようにして倒れている。しかし、息をすることはなく、恐怖に目を見開いたまま、こと切れていた。その見開いた目や、垂れたよだれは、その男を殺した青年の美しさからはほど遠い。
やがて、青年が興味をうしなったように、ふいと手を振るとたちまち、死体は青い焔に包まれて、すぐさま灰になった。
そして、その灰がさらさらと元の形をうしなっていくのを見つめている。
青年はおもむろに口を開くと、話しかけた。
「…それで? きみは誰なんだい?」
「ばれていたの?」
驚いたような口調とともに、扉の向こう側から、少女が姿を表す。
しきりに振り返っては、自分の臀部を確認している。
そして、階段からおそるおそる中に入ると、まっすぐに青年と向き合った。覗き見をしていたことに対する後ろめたさと、見つかったことに対する気まずさが入り交じった表情をしている。
「そりゃあね。きみも僕を殺しにきたの? それとも、僕に殺されにきたの?」
青年はうっすらほほ笑んだ。
しかし、その手は何かを準備しているかのように少女には思えた。
なにかされてはたまらない。
少女は、はじけるように首を横にふった。
「まさか。わたしはここに写真をとりにきただけよ」
「写真?」
問い返された事に安心して、少女は続けた。
「そう、酒場で賭けをしたの。ところで、あなたは? 冒険者なんでしょ?」
ここには宝も何もなさそうだけど、という言葉を飲み込む。
青年が意外そうに少し目を見開くと、今度はくすくすと笑い出した。
「僕が? まさか」
盗賊かしら。
少女が身をこわばらせる。
どこか機械的に青年の笑いが止まる。
「僕は、この城に住んでいる」
その言葉に少女はまじまじと上半身を乗り出すと、青年を見つめた。
「そうなの?…この、城に住んでるって」
盗賊?
冒険者?
どちらかというと、吟遊詩人や文学者みたいだ。
「ああ、…もう、ずっとね」
「それって、つまりー」
魔王。
少女は、気がつくやいなや、駆け出した。
勿論、出口に向かって。少女の頭が相手を魔王だと理解した途端、心臓が生命の危機を告げてきたのだ。
魔王だろうが、その偽物だろうが、逃げるが勝ちだ。なんとなく。
力の限り、地面を蹴る。
「…」
ところが。
開けておいたはずの扉が、自分から閉まった事により、少女は扉に衝突した。その反動で、階段から転がり落ちる。
一回転した所で、床に落ちたことによって、止まった。
「い、…痛い」
背中を打ち付けた痛みに、体を震わせながらも、立ち上がる。
「なにするのよ」
目の端にうっすら涙が浮かぶ。
「なにって…逃げようとしたじゃないか」
魔王は少女の着ている衣服をまじまじと見る。不思議な光沢を持つ緑のワンピースを見て、魔王が言う。
「きみは、自由民かい?」
少女は自分の骨が折れていないか、確認しながらも答える。
「ええ、そうよ。そんなに、分かりやすいかしら」
「その緑の服、きみたちの一族に伝わる、独特な製法をもって作られる植物性の服だろう? その、赤い髪の毛も。有名じゃないか」
「それは、それは。知っていただいているようで光栄だわ。魔王さ、ま…に」
そこまで啖呵を切るように言って、自分が対峙しているのが、誰だか思い出したらしい。困ったように、魔王を見つめると、じりじりと後退した。
「ねえ、ほんとうに魔王なの? 眠っているって聞いてたんだけど」
「眠ってるよ。気が向いた時にね」
「…わたしの何がのぞみ?」
「勝手に入ってきたのはきみだろう?」
逆に問い返され、それもそうかと少女は目玉をきょろりと動かして、萎縮した。
「それは、ごめんなさい」
不思議そうに魔王が近づいてきた。
「なぜ、あやまる?」
右手がかざされた。
攻撃されるのか、と少女が身構える。
きゅっと目をつぶったその様子を見て、魔王が言う。
「僕はここから動けないもんだけど、ファンが多いらしくて。一目でも僕をみようと剣を携えてやって来るやつらがいるのさ」
「へ?」
薄目を開けるのを確認して、魔王はその美しい顔を見せつけるかのように近づけた。
「暇なんだ。もう、誰かを殺すのにも飽きた。甚振るのにもね。みんな、反応が同じなんだ。きみ、しばらく、ここにいないかい?」
つまり、それは、魔王が自分に暴力を振るわないってことだろうか?
少女は視線を避けるようにして、言われた言葉を吟味すると、ぐるりと周囲を見回した。答えはすぐにでた。
「いやよ。どう見ても、いい衛生状態じゃないじゃない」
「それは、残念。だけど、ここに来たのが運の尽きだね」
もう決定事項なんだ、とにこやかに告げる青年を見て、今度こそ少女の顔から血の気が引いた。
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