第一話 ニッキの思い出

 その日、彼女のもとに、一通の手紙が届いた。

 ここ何年か音沙汰のなかった父からだった。

 封筒の裏には差出人の名前だけで、消印はかすれていて読めなかった。

 

 彼女の名は、三好美美みよしみはる

 実家の老舗和菓子屋菓子司美与志かしつかさみよしの屋号から“美”の字をもらった名前だった。

 美美は、郷里を離れ都心の大学に通う菓子司美与志の一人娘だ。

 一見、地味目の小柄な二十歳の女子大生だが、艶やかなセミロングの黒髪と、黒目勝ちの大きな目が印象的で、地味ながら顔立ちは整っている。


 勝手放題をして出奔してしまった父は、何を今さら手紙に書いてきたのだろう。

 美美は、いぶかし気に封を切った。

 

 封をあけ、中をのぞき込むと、ふっと、なつかしい匂いが立ちのぼった。

 なんの匂いだっけと記憶をたぐると、思い出した。

 これは、子どもの頃、先代の祖父が開発した菓子司美与志の表看板おもてかんばん銘菓の匂いだった。




「わしの子どもの頃は、今みたいに甘いもんがたくさんはなかった。だから、香ばしい匂いのするもんが菓子の味を深めてたんじゃよ。このニッキは水あめにして、よーくなめたもんじゃ」


 祖父はそう言いながら、新作のお菓子を私の手のひらに乗せてくれた。


 蜜色みついろ飴色あめいろがグラデーションを描きながら絡まりあって八の字を描く有平糖あるへいとう


 日にかざすと、きらきらと光って、お日さまのかけらのようだった。


 美美は、きれいなお菓子に目を輝かせて、口にいれた。


「どうだ、うまいか」


 子どもには、ニッキ風味がきつすぎたのか、美美はすぐには答えられなかった。


――おいしいですか――


 と、答えに詰まる美美の耳に、祖父のではない声が響いた。


 おっとりとやさしい声の後、すっと清涼感のある匂いが漂ってきた。


 美美は辺りを見まわした。


――わかるまで、待っていますよ――


 辺りに祖父以外はおらず、耳たぶに感じたニッキ風味の吐息のくすぐったさに、美美はなぜだか頬が熱くなった。


 ニッキのほこりっぽいような苦辛にがからさ。


 飴の甘さもほとんど感じられない。


 けれど、口中に広がる香りは、清らかな刺激と涼し気な風となって鼻腔をすっと抜けていく。


 決していやな味ではない。


 むしろ、この清涼感は好きだ。


 でも、美味しいと言い切れるほど、美美の味覚はまだ発達していなかった。


 これを美味しいと思うようになったら大人になったってことなのかな、と、美美はぼんやりと思いながら、何かを思い出すように目を閉じた祖父の横顔を見上げた。


「そうか。今の子どもの口には合わんかもしれんな。甘くてうまいもん、たくさんあるからな」


 祖父のしわがれた残念そうな声がした。


「あいつも、おまえの父親もな、ニッキは苦手でな。そんでも、わしは、自分の味覚を絶対だと思ってたもんだから、うまいと思わん方が違うんじゃ、未熟もんじゃ、と言ってしもうてな……」


 祖父の寂しそうな顔が、今でも脳裏に焼き付いている。


 鼻の奥がつんとしてきて、美美は、慌てて目がしらを抑えた。




「ニッキって、シナモンのことかと思ってたけど、実際には違うものなのよね。甘味のあるなしが歴然としてる。今なら、味わえるかもしれないな。苦味って、大人に必要な成分なんじゃないかな」


 美美は涙を誤魔化すように独り言を呟いた。


「中国産のカッシアは薬っぽかったのよね、確か。セイロンニッケイは苦みも辛みもなくて薬くさくもない上品な甘さで、これを巻いてシナモンスティックにするんだわ。日本のニッキは根っこから採るんだっけ。八つ橋の香りって言えばわかりやすいかな。それにしても、苦みって、時々欲しくなるのよね」


 せせらぎのほとりの図書館で、和菓子大事典を読みふけるのが放課後の日課だった美美は、記憶を辿っていった。

 あまりおしゃれとは言えない老舗という名の古びた店を継ぐのは、思春期の頃の美美には抵抗があった。

 そのため家では知らんふりをしていたが、和菓子自体には興味があったので、知識を求めて図書館通いをしていたのだ。


「古代エジプトでは、シナモンは、ミイラの防腐剤に使われたって確か書いてあった。そういえば、クリスマス飾りに使うオレンジやリンゴのポマンダーもシナモンパウダーをまぶしてから乾燥させる。果汁でカビの吹きやすいフルーツが腐るのを、果実に突き刺すクローブとの相乗効果で防ぐためにね」


 ひとしきり記憶を辿り終えると、美美は、もう一度嗅ごうと思って封筒に鼻を近付けたが、一気に霧消むしょうしてしまったのか、ニッキの匂いはもうしなかった。


 そこで封筒を逆さにすると、和紙の便箋がひらり、と、舞い落ちた。

 ひろげて見ると、そこには、


―― 蔵の朱塗り蒔絵文箱まきえふばこの中のものを曝書ばくしょしておくように――


 と、書きなぐるように記してあった。


 この命令口調。

 踊るような大胆な筆跡。

 明かに父のものだ。


 美美はため息をついて便箋を封筒にもどした。


 美美にとって父親は、面白いけれど困った人だった。


 父は、人にものを頼むというこのできない人だった。

 溢れるほどのアイデアはあっても、それを究めて深めて永続的なものとして、商品として洗練させることのできない人だった。

 飽きっぽくて、無計画で、家族はいつも振り回されていた。


 ただ、菓子作りに自分なりに精魂傾けていたことだけは確かだった。

 母は、そんなところに魅かれていたらしい。

 それと、父は、いわゆるイケメンだった。

 母は、父の開発した負の遺産のしりぬぐいに奔走するのも、困った顔をしながらうれしそうだった。


 そう、美美の父は、困ったちゃんの愛すべき人物だった。

 溢れ出る銘菓のアイデアも、郷土愛溢れる面白いものではあった。

 しかし、一般受けするにはほど遠く、キッチュという部類に属するようなものばかりであった。


……天城越えわさび練り切り、踊り子温泉羊羹、ちゃっきり茶畑煎餅、富士山溶岩おこし、元祖反射炉江川パンぼうろ、……


 どれもこれもぱっとしなかった。

 ぱっとしないどころか、反射炉ぼうろに至っては商標権だか肖像権だかなんだかでもめて、あやうく裁判沙汰になりかけた。

 それでも父はこりずに、駿河湾深海魚エキス飴、西伊豆ラブ生ロールケーキなどを創案したが、ますます迷走していくだけだった。

 昨今流行のメディアミックス聖地巡礼を当て込んで作ったものも、あざと過ぎるとファンからはそっぽを向かれ、ことごとく失敗した。

 ネット社会に乗り遅れ、プロデュースに失敗し、大量の在庫を抱え、最早にっちもさっちもどうにもこうにものありさまだった。


 ただ、父も、祖父の手前ひっこみがつかなくなっていたのだろう。


 先代、つまり美美の父は、名菓子匠めいかししょうと称された父の父、つまり美美の祖父への反発で、新機軸の和菓子を打ち出すべく、次々と新製品をひねり出していたようでもあった。

 

 自分から新作銘菓作りをやめるとは言わなかった。

 けれども、奇をてらうのも度を超すとうっとうしいだけだ。

 せっぱつまっているのか、そこのところを父はわかっていなかったようだった。

 

 アイデアのインフレ、過剰、過熱、ヒートアップ、そして、爆発……沈黙……放心……出奔。


 美美は、父のことを思い浮かべていたら、めまいがしてきた。


 思い出の中の父に振り回されて、ふらふらになったところで、電話がかかってきた。

 実家近くの病院からだった。

 店を一人できりもりしている母が倒れて入院したとのことだった。


 大学の後期が始まるまでにはまだ間がある残暑厳しい九月。


 とるものもとりあえず、父からの手紙とともに、美美は実家へ帰ることとなった。




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