第10話 Jump Around

 わたしが数日ぶりに江泊に帰り、お姉ちゃんの部屋に戻っても、お姉ちゃんは「おかえり」ともなんとも言わなかった。いつものように、座布団のうえに寝転がって映画を観てた。わたしが、

「ただいま」

 というと、寝転がったままようやくめんどうくさそうに片手をあげて、

「おう」

 とだけ言った。なに、いまの間。

「創子の、お父さんに会ってきました」

 わたしがそう言うと、お姉ちゃんはパジャマ代わりにしてるズボンのゴムをずらして片手で尻をかき、

「お父さんって誰?」

 と返事をした。

「幸太郎さんです」

 わたしが言うと、お姉ちゃんは、

「幸太郎~?」

 とわざとらしく語尾を伸ばし、

「ああ、あの幸太郎ね」

 といったあと、

「はっはっは」

 と乾いた声で笑った。

 なんでさっきからこっち見ないの? なんでそんなふうによそよそしいの? わたしが結界の外に出たから? でもそれをいうならお姉ちゃんだって。わたしは幸太郎さんに会って、自分がお姉ちゃんを好きだって再認識した。じゃあ、お姉ちゃんは、わたしのことをどう思ってるの?

「どうしてお父さんと一緒に暮らしてないんですか?」

 わたしがそう尋ねると、お姉ちゃんはおもむろにリモコンを手に取り、まだ途中の映画を消した。

「男は裏切るから」

 しずかな部屋に、お姉ちゃんのちいさな声が響いた。

「幸太郎さんに裏切られたんですか?」

 わたしが尋ねると、お姉ちゃんは身体を起こし、わたしの近くまで膝をついてはいはいしてきた。ゆっくりした動きながら、今までにない威圧感を感じた。わたしは尻をついたまま、両足を蹴ってお姉ちゃんから距離をとるようにゆっくり後ろへさがった。やがてわたしの背中が壁にあたると、お姉ちゃんは唇と唇が接触するくらいわたしの近くまで顔を寄せ、真っ直ぐにわたしの目を睨み、脅すように言った。

「幸太郎、どうせ自分に都合いいことばっかり言ってたんでしょ。悔しいから、仕返しに、あたしも昔の話しようかな」


 ☆


 お父さんが嫌いだった。そう、あたしはあの頃、幸太郎のことをまだ「お父さん」と呼んでいた。まだあたしが江泊に来る前で、そもそも江泊の存在すら知らなかった。お父さんはまだラーメン屋をやっていなくて、海辺のちいさな町に住み、車で一時間ほど離れた小都会まで通ってサラリーマンをしていた。お金には困っていなかったと思う。むしろあの貧しい漁村の中では裕福なほうだったと思う。二階のある立派な一戸建てに住んでいて、あたしの部屋はふたつもあった。

 小学校に入る前、どうやら自分に母親がいないのはおかしいことらしいと知った。小さな町だったので、そういう噂が流れていたのかもしれない。友だちに、どうしてあたしに母親がいないのか、無邪気に訊かれた。お父さんが会社から帰ってくるなり、あたしはその質問をそのままお父さんに投げた。別に悪いことをしているとも思っていなかったし、自分がおかしいとも思っていなかったし、ほんの素朴な疑問だった。

 お父さんは、

「創子が十三歳になったら教えるよ」

 とだけ返事をして、それ以上は何も言わなかった。

 次の日、あたしは友だちに、

「お母さんは、あたしが小さいころに死んじゃったの」

 と嘘をついた。

 初めて嘘をついた日、あたしは家に帰ると布団に潜りこんで号泣した。嘘をついたことが悲しかったし、嘘をつかせたお父さんを嫌いになった。この日のことを引きずっているのか、あたしは今も上手に嘘をつくことが出来ない。嘘をつくと悲しさのようなものが胸にあふれてきて、それ以上何も言えなくなってしまうのだ。でもあたしは「お母さんはあたしが小さいころに死んだ」という設定を押し通すため、その設定が嘘にならないよう完成させる必要があった。

 あたしはお父さんからノートを一冊貰い、そのノートに設定を書くようになった。お母さんは飛び切りの美人で、社長の令嬢で、でもうっかり旅行先で知り合った冴えない男を好きになって、それがお父さんで、駆け落ちをして、子どもが産まれて、それがあたしで、一軒家を建てて、幸せに暮らしてて。そうそう、お母さんは死ななくてはならない。いつ死んだことにしよう。あたしが三歳のときってことにしよう。理由は何かな。二人目の子どもを産んで、そのときのショックで、というのはどうかな。そうだ、あたしには妹がいる。でも妹は、お母さんの家の人に連れ去られちゃって、あたしとは生き別れたことにしよう。

 あたしが頭のなかでつくった妹には、想子、という名前をつけた。あたしが創る子で創子だから、妹は想う子で想子だ。想子の登場以降、あたしのつくりごとノートは今まで以上に捗った。あたしは毎日、ノートの左にはその日に起こったことを書いて、右には想子の身に起こったことを書いた。日本のどこかでお姫様のように華々しく暮らしている想子の話をつくるのは楽しかった。それと平行して進むあたしの生活も充実させたいと思うと学校の勉強もがんばれた。なにより、想子の話をつくっているうちに、想子が本当にいていつかあたしに会いにくる気がして、そのときに胸を張って会えるようあたしは強くなりたいと思った。

 もうひとつ、あたしがノートを書き進める上で大きな事件があった。あたしが八歳のとき、うちに大地がやってきたのだ。あたしの住んでいた漁村には孤児が多かった。若い子が産んで育てられなくなった孤児もいるし、両親が夜逃げして残された孤児もいるし、いつのまにか誰かに捨てられた孤児もいる。大地は、浜辺に捨てられた孤児だった。あたしは記憶にないが、大地を拾ってきたのはあたしだそうで、まだへその緒のある大地を抱きかかえて途方にくれていたらしいと聞いた。あの漁村では、孤児は地域が協力して育てるものとされていた。町内会での話し合いの結果、うちには部屋が余っていたし、あたしが拾ってきたという縁もあって、うちで大地の住む場所を提供することになった。あたしの部屋がひとつ大地に奪われたけど、大地が来てくれたのは弟ができたみたいでうれしかった。弟というより、あたしにとっては自分の子どもみたいなものだったと思う。あたしとお父さんがいない間、大地の世話は地域の人がやってくれることになっていたが、あたしは何かと理由をつけて学校をさぼったり早退したりして、大地の世話に執心するようになった。土地柄なのか、学校の先生もその点には理解があって何か注意しようとはせず、むしろ大地は元気なのか気にかけてくれたり、あたしが大地の世話をがんばっていることを褒めてくれたりした。あたしはそれに気を良くして、ますます大地に没入するようになった。

 世の母親もまた自分の子どもをそういう風に思うのだろうか、あの頃のあたしにとって、大地はあたしの全てで、世界そのものだった。大地がかわいくて仕方なかった。大地を誰よりもいい男にしたかった。あたしはしばしば図書館に行ったり、近所のおばさんに頼んだりして絵本を集め、大地に読み聞かせた。あたしは早く、大地をあたしの世界のなかに取り込みたかった。あたしが毎日変わらずつくりつづけている「創子と想子のノート」をはやく大地に読ませたくて仕方なかった。

 大地がある程度文字を読めるようになった頃、あたしは初めてそのノートを大地に見せた。なんとなくタイトルをつけないといけない気がして、あたしはすこし考えたのち、ノートの表紙に「天地創想」と記した。地とは大地のこと、創とはあたしのこと、想とは妹のこと。天は……お父さんのことだ。このノートには、お父さんと大地とあたしと妹と、四人のことが書かれている。

「大地にはね、あたしとは別に、もうひとりお母さんがいるんだよー」

 そう言って想子の話をすると、大地は想子に強い興味を示し、想子のいろんなことを聞きたがるようになった。もしかすると、大地は想子のことを好きになったのかもしれない。あたしが大地の質問に応えるうち、ノートに書いた想子に関する記述はどんどん充実していった。

「僕はお母さんと想子と、どっちが産んだの?」

 ある日、大地はあたしにそう尋ねた。そんなことに関心を持つほど大人になったのだと思うと嬉しかった。

「想子はあたしの妹だからね、大地を産んだのは、あたしだよ」

 あたしはそう答えた。その設定も既にノートに書いており、あたしのなかでは本当のことになっていた。ちなみに設定では大地の父親は幸太郎になっていて、この頃からあたしは彼のことを「お父さん」ではなく「幸太郎」と呼ぶようになっていた。

「どこから産まれてきたの?」

 大地は続けてそう尋ねた。

 そんなことはノートに書いていなかった。当たり前のことだ。あたしは嘘をつきたくなかったので、下着を脱いで股を開き、秘部を大地に見せた。

「ここからだよ」

 大地は、あたしの股間をじっと見つめ、匂いがきつかったのか顔をしかめたあと、

「どうやって産まれてきたの?」

 と尋ねた。

 あたしは大地のブリーフを下ろした。そして、大地の股間をあたしの股間にすり合わせ、

「こうやってだよ」

 と答えた。

 性的虐待。そんな言葉は思いつかなかったし、そもそも知らなかった。あたしは、大地に誰よりもいい男になってほしかった。それだけのつもりだった。でもその先には、あたしの独占欲があったのかもしれない。あたしは想子の話をするたび、大地と身体を合わせるようになった。大地のかわいい陰茎は皮をかぶっていて、まだ反応する様子もなかったけれど、少しずつコトの際に大きく堅くなっている気がした。いつかあたしは、大地としてしまう気がする。あたしは、そのやり方を知っている。これが初めてじゃないんだ。あたしはずっと前に、誰かとそれをしたことがある気がする。

 いよいよあたしは十三歳になった。誕生日の前日、あたしは「天地創想」のノートを燃やした。もうあたしのつくり事はいらない。あたしは幸太郎に、本当のことを教えてもらうんだ。

 幸太郎が買ってきたホールケーキにロウソクを灯し、あたしがそれを吹き消すと、幸太郎と大地がハッピバースデイを歌ってくれた。ホールケーキはやたら大きくて、イチゴがたくさん載っていて、三人で食べきるとすっかりお腹がいっぱいになってしまった。大地は苦しいといってお風呂にも入らず眠った。

 あたしと幸太郎はまだケーキの空き皿が汚く並ぶ食卓に缶ビールとグラスを追加し、ビールを注ぎあって乾杯をした。

「うわー、ビール初めて飲むけど、めっちゃまずいわー」

 あたしがそう言いながらグラスいっぱいに注がれたビールに口をつけちびちび減らすと、

「いや、創子がビール飲むのは初めてじゃないよ、数年前に飲んだことあるよ」

 と幸太郎は言った。

「そうだっけ?」

 あたしが尋ねると、幸太郎は早くも飲み干したグラスに手酌でビールを注ぎながら、

「覚えてないんだね。酔ってたんだね、お母さんそっくりだ」

 と笑った。

 そうだ、あたしは今日、自分のお母さんについて教えてもらうんだ。自分の身体がすこし堅くなるのが分かる。

「えーと……お母さんと、幸太郎は飲んだことあるんだよね?」

 結婚してたんだろうからそりゃそうなんだろうけれど、緊張のあまり、当たり前のことを聞いてしまう。

 しかし、幸太郎は首を横に振った。

「ないよ。でも、お母さんが、深雪さんが、酔ったときにどうなるのかってのは聞いてる」

 あたしはお母さんの名前を初めて知った。ミユキさん。名前を知るだけで親しみが沸いてきて嬉しい。幸太郎は今日、あたしの知らないお母さんの話をしてくれるんだ。それを聞けば、あたしはもう嘘をついて悲しくなったり、それを癒すためにつくりごとをしたりしなくてもいい。幸太郎のことも、好きになれるかもしれない。

 そうだ、あたしはお母さんのことを知りたいというよりも、幸太郎のことを許したかったのだ。八年前、幸太郎はあたしに隠し事をした。お母さんがいないことより、何よりそのことが悲しかった。幸太郎とあたしは家族じゃない、そう言われているように感じた。あたしは、幸太郎と家族になりたかった。昔みたいに、幸太郎のことをお父さんって呼びたかった。

 だから、続けて幸太郎が言った言葉は、あたしを何よりも絶望させるものだった。

「創子はね、深雪さんが、どこの誰とも知らない男との間に作った子どもなんだ。俺はそれを引き取った。だから、創子は、俺の本当の娘じゃないんだ」

 飲みすぎたのか、酔っていた。廊下をふらふらと歩きながら、階段をあがり、大地の部屋に向かった。あたしのお母さんは、酔うと誰とでもしたくなる、そういう人だって幸太郎は言った。でもあたしは、お母さんのことを否定したくない。だってそれは、自分を否定することになるから。お母さんは、酔うと誰とでもしたくなるわけじゃない。お母さんは、そうじゃなくて、酔うと家族が欲しくなるんだ。あたしだってそう。酔うと、家族が欲しくなる。いま、とても、家族ほしイ。でも。カぞく、て。な?に あタイ、カゾク、どこニい?る

 いつの間にか、目の前には大地がいた。布団にくるまれてすやすやと眠っている。あたしは大地にかけられた布団をそっとはがし、そして、大地のズボンを下着ごと下ろした。

 大地の陰茎は小さいものではあったけど、それでもしっかりと弧を描いて立っていた。あたしは、大地の陰茎が勃起したところを初めて見た。あたしは、大地を自分のものにしたくて仕方なかった。絶対にあたしから離れない、あたしだけのもの。それが、家族だ。


 あたしは大地に一生消えない傷をつけた。救急車もパトカーもかけつけて、小さな漁村は大変な騒ぎになった。未成年ということもあってあたしは少しの保護観察を経たあと釈放されたけれど、もちろん元の町にいつづけることは出来なくなって、家族ごと引っ越した。引っ越す際、あたしは幸太郎から離れることを決めた。そうして移り住んだのが江泊だ。あたしが引っ越してしばらくすると、病院を退院した大地も江泊に来て住み始めた。あたしが望んだとおり、大地はあたしの一部になったに違いなかったが、そんなことはもうどうでもよかった。

 あたしは、大地なんかちっとも好きじゃなかった。そうじゃない、あたしが好きなのは、幸太郎だった。それも父親としてではなく、性的に、だ。

 江泊で生活するためには、性風俗に従事する必要があった。それは全然しんどくなくて、むしろあたしにとってはちょうどよかった。あたしはつくりごとが好きなんだ。それは、嘘なのかもしれない。嘘は、悲しい。でもそのくらいがあたしにはちょうどいい。悲しくない愛なんてない。あたしは悲しさに包まれているうちは、幸太郎のことをずっと愛していられる。たとえ、離れていても。

 

 ☆


 全て聞き終えたあと、あたしはお姉ちゃんに尋ねた。

「妹が本当にいるって知ったとき、わたしに初めて会ったとき、どう思った?」

 お姉ちゃんは少し黙った。もしかしたら、嘘をつこうとしたのかもしれない。でも嘘はつけないと彼女が言ったとおり、嘘をつくことを諦めたのか、照れ笑いを混ぜてこう言った。

「助けに来てくれたと思った」

 わたしもそう思ってた。わたしはきっと、お姉ちゃんを助けるためにここに来た。

「もう風俗しないでほしい」

 わたしは言った。

「誰にも抱かれないでほしい」

 言ったとたん、わたしの身体を激しい震えが包んだ。たぶんこんな台詞を言えるのなんて、世界中で、血のつながってる同性のきょうだいだけだ。わたしは今、お姉ちゃんの妹でいられることを、何より誇りに思った。

 長い話が終わり、いつの間にか日が暮れていて、海に沈み込みはじめたであろう夕陽のもたらす琥珀色のひかりが部屋中にあふれ、お姉ちゃんの横顔にさびしそうな影をつくった。お姉ちゃんは長い前髪のかかった艶っぽい表情をやさしくゆるめ、恥ずかしそうに笑って言った。

「じゃあさあ」

 わたしは、お姉ちゃんが何を言うのか予想できてた。そして、うなずく準備があった。

「代わりに、あたしを抱いてよ」

 

 お姉ちゃんはわたしに「男として抱いてほしい」と言った。それがぜんぜんわかんなくて、わたしはとても不器用だった。お姉ちゃんがわたしのために雰囲気を作ってくれた。風俗のときにそうしてるように、塩をわたしの身体にまぶし、見えないところまで丁寧に洗ってくれた。そしてお姉ちゃんは、女として、きれいにお化粧をした。紅色の顔料を唇や耳たぶ、まぶた、乳首、首筋、腰といった性感帯に塗ったお姉ちゃんは、とてもいやらしかった。風俗のとき、女が先に脱いで、それから男が脱ぐ決まりなんだって。わたしがそれに倣い、お姉ちゃんのあとに服を脱いで裸になると、お姉ちゃんは短いタバコのようなものを出してきた。

「なにそれ?」

 わたしが尋ねると、お姉ちゃんは、

「キッシングシガレット」

 と答えた。

「これはね、両端をふたりの唇で咥え、そのままキスをするの。魚の毒で作られてて、ふたりぶんの唾液を混ぜないと毒が中和されなくて死ぬ。そういう愛し合うときに使うタバコなの」

 わたしたちはキッシングシガレットの両端を同時に咥えた。キッシングシガレットは短くて、そのまま簡単にキスをすることができた。ちゃんと唾液を混ぜないと死んでしまう、そのことが今までにない快感をもたらし、わたしたちはちいさくなったキッシングシガレットをお互いの咥内に移しあいながら、長い時間のキスを交わした。

 もうそれだけで、わたしは気持ちよくて仕方なかった。お姉ちゃんがもうひとつキッシングシガレットを出してきたとき、もう壊れそうで弱音を吐きそうになった。お姉ちゃんはキッシングシガレットを片手に摘んだまま、わたしを押し倒して言った。

「今度は下の口でキスしようよ」


 ひとは簡単には壊れないんだ。すべてが終わったあと、わたしは弛緩しきった頭でそんなことを思った。でもお姉ちゃんとなら、壊れてもいい、そう思った。壊れたかったのかもしれない。壊してほしかったのかもしれない。それか、壊れたのかもしれない。

「わたし、もう寂しくないよ」

 裸のままお姉ちゃんに身体を寄せてそう言うと、お姉ちゃんは、

「あたしも、もう悲しくない」

 と言った。

 つけっぱなしのコンポから、音楽が流れてきた。

「この曲……」

 わたしが呟くと、お姉ちゃんは、

「エンターサンドマン」

 とその曲名を言った。

 あのとき、わたしが空想上のお姉ちゃんに山口で抱かれたあのとき、聴こえてた曲も「エンターサンドマン」だった。それは偶然だろうか。奇跡だろうか。いやわたしとお姉ちゃんは、血縁を共有してる。産まれてきたことがそれ以上の奇跡で、愛することがもっと奇跡でも、わたしとお姉ちゃんはそれを起こすことができる。

 わたしは聴こえないふりをして、お姉ちゃんの胸元に潜り込み、首筋に息を吹きかけた。

「くすぐったいって」

 お姉ちゃんは恥ずかしそうにそういい、わたしを抱きしめてくれた。


 お姉ちゃんが「見せたいものがある」といい、わたしとお姉ちゃんは手をつないで夜の桟橋を歩いた。行き着いた先は、水竜のハイドラに会ったあの砂浜だった。

「ハイドラに会うの?」

 わたしがそう尋ねると、お姉ちゃんは、

「いや」

 と言って、砂浜に飛び降り、波打ち際まで真っ直ぐに歩いていった。わたしはお姉ちゃんのあとを追いかける。


 波打ち際には、裸の女性があおむけで横たわっていた。やけに大きな丸いお腹が上下してる。出産するんだ。

「ちゃんと見て」

 わたしがお姉ちゃんの腕をぎゅっとつかんで後ろに隠れようとすると、お姉ちゃんが強い口調でそういい、わたしの顔をその女性のほうへ向けた。膣口から液体のようなものが流れでて海へ吸い込まれ、わたしはもっと怖くなった。

「江泊で性風俗に従事する女性はね、子どもができると、こうして海へ流すの。男の子なら、陰茎を切ったあとにね」

 わたしの身体を包む強い奮えは、次のお姉ちゃんの言葉を聞くと、ぴたりと止んだ。

「あたしも二回流したことがあるから、想子には見ておいてほしかったの」

 お姉ちゃんはそう言い、わたしを連れて女性のもとを離れた。わたしも、お姉ちゃんも、振り返らなかった。だから、産み落とされた子がどうなったのか、見届けてない。でも可能性は、ふたつしかない。

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