第9話 Summertime

 汐音ラーメン屋の朝は早い。というか、二十四時間休みなく営業してる。置いてあるのはカップラーメンばかりなので、給湯器の水を足したり座卓を布巾で拭く以外は、きほんてきに仕事はない。でも、お客さんは自分でカップラーメンに湯を注ぐのではなく、わたしに淹れてほしいと要望するひとが多かった。

「想ちゃん、こっちこっちー」

 お昼時の汐音ラーメン店内は漁師のお客さんでごった返してる。小さな液晶テレビには夏の甲子園が放送されてて、お客さんみんながそれを注視し、店内には実況の声とか、金属バットがボールを捉える音、歓声、ため息、それから麺をすする音などが忙しそうに響く。ときどきお客さんのなかから手があがり、おおきな声でわたしを呼んだ。

「はーいはい」

 わたしは布巾を洗ってた手をとめて返事をし、水道をとめ、エプロンで手をふきながらお客さんのところへ急いだ。新しく店内にはいってきたお客さんだ。机のうえには、ふたが半分だけ開けられたカップラーメン。

「堅めにする? やわらかめ? それか、ふつう?」

 わたしがそう尋ねると、お客さんは、

「バリ堅でたのむ!」

 と威勢よく言った。

 わたしは微笑んで、

「卵は? つける?」

 とつづけて尋ねる。

 お客さんはすこし天井を見つめて考えた。天井では、ちいさな扇風機がかたかたとぎこちなく首を振りながら風を送ってる。風量は最強にしてあるはずだけど、これだけ人が多いと焼石に水みたいなもので、店内は蒸し暑く、ラーメンの匂いに混じって汗の匂いが漂う。でもとくに気持ちわるくはない。がんばってる人の汗は、とてもいい。

「ふたつ」

 お客さんは、右手の指を二本立ててそう言った。わりと強面の漁師さんがピースサインを作ったことが可愛くて、わたしはもう一度微笑む。漁師さんたちは、なんだか可愛い。みんな可愛い。不器用で、口下手で、でも、真摯だ。男のひとの優しさって、心遣いとか、気づかいのことだと思ってた。事実、わたしが付き合ってきた人のなかにはそういうマメな人が多くって、わたしも彼らのマメなところが好きだった。漁師さんたちは、そんなマメさとはまるで無縁だった。空気読めてないし、距離感はかれてないし、いきなり派手な装飾品をもらったりして戸惑うことも多かった。でも、うれしかった。相手のことを考えて丁寧につくったのではない、心のなかから出たまんまの生々しいやさしさがうれしかった。そんなやさしさに触れたとき、わたしもいつもより自分を作らずにいられる気がした。汐音ラーメンで働き出して、仲の良い漁師さんが両手の指でも数えきれないくらい増えた。トラさん、マシューさん、ジョニー、ケーちゃん、ターくん。わたしが汐音ラーメンに来てお店が賑わうようになると、店主の幸太郎さんも喜んでくれた。

「はーい、お待ちどう」

 わたしはお湯を入れたカップラーメンを「バリ堅」の希望どおり二分だけ待って、たまごを入れて彼のもとに持っていった。彼は半熟たまごが好きなので、たまごを調理してると少しだけ時間がかかってしまった。

「うわー、想ちゃんのつくったラーメン、やっぱりうまいわー!」

 わたしがカップラーメンを机のうえに置くなり、彼はそう言った。いや、まだ食べてないじゃん。

 お昼時を過ぎた汐音ラーメンはだいぶお客さんの波も引いて、空席が目立つ。

「清風さん、となり座ってもいい?」

 わたしは彼にそう声をかけた。

 漁師さんたちにはいろんな呼び名があって、それぞれ由来があって面白い。猫が好きで船のうえでも猫を育ててる漁師さんの呼び名はキャット。元ヤンで漁船をゴテゴテに飾ってる漁師さんの呼び名はヤンさん。日焼けマニアで漁のあいだの暇なとき全身にオイル塗って甲板で肌を真っ黒に焼いてる漁師さんの呼び名はサロン。清風さんは、本名なんだって。清い風と書いて、セイフウさん。漁師になるために生まれてきた名前みたいで、いいなあと思う。

 清風さんは勢いよく麺をすすりながら、隣の席を左手で示してわたしに座るよう促した。わたしが清風さんの隣にすわると、緊張したのか、彼の身体の動きがちょっと堅くなったのが分かった。ほんとうに可愛い。

 わたしは清風さんが麺をすする音を隣に聞きながら、テレビを観る。高校野球は試合の合間なのか、プレイは行われてなくって、グラウンドに勢いよく散水が撒かれてる。気持ちよくはねる水飛沫を見てると、じりじり焼かれた土から立ち上る蒸気の夏くさい匂いがここまで匂ってきそう。

「ああ、いい季節だなあ」

 わたしはぽつりと零した。

 清風さんは早くも麺を食べ終えたのか、カップを持ち上げてスープをごくごく音を立てて飲み、はあー、と大きくため息を吐いてから早口で言った。

「江泊には、帰らんの?」

 そうそう、それなんだよね。

 あの日、お姉ちゃんの性行為を見てすぐに、わたしは江泊から逃げた。お姉ちゃんが性風俗をしてる、そのことがショックだった。性風俗をしてる子なんて、今までに何人もいた。同い年の中学生のあいだにもいたし、先輩の高校生にはもっと多かった。やり方を教えてもらったこともある。すごく簡単そうだった。気をつけないといけないのは、病気と、妊娠と、薬と、暴力団。それと、いつでも足を洗えるよう、お客さんに入り込みすぎないこと。そんな相手としてちょうどいい既婚者のネットワークみたいなのがあって、大企業の、しっかりした男性(という言葉もおかしいけど)ばかりで構成されたそのネットワークからお客さんを選べば、とても簡単にかなりの収入が得られるとのことだった。わたしはお金に困ったことがなかったので、その世界に興味はなかった。友だちがそういうことをしてるって知っても、特に止めようとも思わなかったし、「ちょうどおこづかいもらったからパフェおごるよ」と誘われたとき、それが性風俗によるお金だと知ってても、まるで罪悪感なくパフェをおかわりしたりした。一度、友だちに誘われて、中年の男性ふたりとお茶をしたことがあった。先斗町にある、けっこうお洒落な隠れ家的カフェで、鴨川のきれいな景色が見渡せた。メニューを見ると値段が一桁ちがってびっくりした。でも特別なことはそれくらいで、男性とはごくごくたわいのない会話を一時間くらいだけかわして、それで解散した。解散したあと、友だちから封筒に入った一万円札二枚を渡されて、ようやく自分が何をしたのか気づいた。それは、わたしの初めての風俗体験だった。帰り道、わたしは通りがかりのゲーセンに飛び込んで、一万円札を二枚とも百円玉に両替し、すべての百円玉をUFOキャッチャーにつぎ込んだ。何度も。何度も。わたしの身体についた汚れを洗い落とすかのように。うっかり欲しくもないスティッチのぬいぐるみが取れてしまった。それは、さっき会った中年の男性を思い出させた。わたしはトイレに飛び込み、ぬいぐるみに鋏を入れてばらばらにし、トイレに流した。しろい綿が詰まりながら流れていくのを見ると、わたしは胎児を流したような気分になって、ほんとうに落ち込んだ。性風俗なんか、大したことないと思ってた。でも、それは他人がしてたからどうでもよかっただけで、いざ自分がその当事者になってみると、気持ちわるくて仕方なかった。お姉ちゃんが性風俗をしてたこともそうだ。わたしは、お姉ちゃんが気持ちわるくなった。

 誰かにこのことを話したいと思った。大地くんはだめだ。大地くんは、お姉ちゃんが性風俗をしてたことを知ってた。彼のなかで整理できてることをこれ以上蒸し返したくないし、それに意味がないとも思った。ママか? お姉ちゃんは、ママの子どもでもある。でもあの他人にまるで興味をもたないママが、「お姉ちゃんが風俗してます」とか言っても関心をもつとは思えない。「だから?」とか言いそうだ。それか、むしろそのことを知って狼狽するとしたら、そのほうがずっと怖い。いつか、ママにはお姉ちゃんの話をしてみたい気がする。でもそれは夏休みが終わって、わたしが江泊を離れるときのことであって、今じゃない。

 幸太郎さんなら。お姉ちゃんを娘として引き取った幸太郎さんなら、話を聞いてくれそうな気がした。幸太郎さんは江泊から海を挟んで離れた本州の海沿いに汐音ラーメンという店を開いてる。なんでお姉ちゃんと離れて暮らしてるのか分からないけど、その距離感もお姉ちゃんを俯瞰するうえでちょうどいいと思った。わたしはこっそり江泊を離れ、汐音ラーメンで働きはじめた。

「清風さんは、江泊にはよく行くの?」

 幸太郎さんと話をするまえに、軽く清風さんに話をふってみる。

「このへんの漁師はみんな行くでしょ」

 清風さんは悪びれず微笑んで言った。わたしの口からわずかため息が漏れる。そうだよね。みんな江泊には行くんだ。キャットも、ヤンさんも、サロンも、みんなそうなんだ。そして江泊に行くということは、みんなあそこの性風俗で癒されてるということなんだ。

「清風さんって、奥さんはいるの?」

 わたしは声を潜めてそう尋ねてみる。

「え、もちろんいるよ。宇和島に。奥さんと、娘ふたりと、犬が一匹」

 犬なんてどうでもいいよ。ていうか、娘もいるんじゃん。もしかして清風さんもお姉ちゃんを抱いたことがあるかもしれないと思うと、頭にかっと熱があがってきた。

 わたしは声をできるだけ落ち着けて言った。

「なのに、どうして清風さんは、江泊で女を抱くの?」

 わたしがそう言うと同時に、後ろから、

「想ちゃん!」

 という声がわたしを呼んだ。

 振り返ると、そこには幸太郎さんが立っていた。

「休憩時間だ。ちょっと付き合ってよ」

 幸太郎さんはそう言い、意味ありげに笑った。


 汐音ラーメンの前には、長い突堤が海に突き出してる。突堤沿いには漁師さんたちが等間隔で座り、昼間には並んで煙草を吹かす。夜は、手持ちの花火で遊ぶ。昼はアンニュイな表情で煙草を吸ってたおじさんたちが、夜には花火を振り回しながらはしゃいでるのを見ると、子どもに戻ったみたいで微笑ましかった。数日前には、簡単なお祭りが開かれた。水上スイカ割りが企画されたんだけど、いかに泳ぎが得意な漁師さんでも目を塞がれるとうまく泳げないし、指示が聞こえなくてスイカの方角まで向かえないし、ぷかぷか浮かんでるスイカを尻目にぶつかりあった漁師さんたちが裸で喧嘩を始めたりして、その様子が間抜けで爆笑した。いよいよ最後にはみんな服を脱いで裸になって、流しソーメンを食べた。男の裸を見るなんて恥ずかしいんだけど、こんなにたくさんあるといよいよどうでもよくなるというか、ちんこがどれも同じに見えてきたというか、それこそ無印良品で量販されてるちんこってかんじで、なんか安心した。みんなで先を争うように流しソーメンを食べて、さくらんぼが横取りされると軽くいさかいがあったりして、裸をぶつかりあわせふざけあって、なんだかいい夜だった。ほんのすこしお姉ちゃんのことを忘れることができる、いい夜だった。

 突堤に並んで煙草を吹かす漁師さんたちの後ろを幸太郎さんはまっすぐに進んだ。わたしはその後ろを小走りで着いていく。幸太郎さんは突堤の先端まで達すると、そこに腰をおろした。わたしは少し迷ったのち、幸太郎さんの隣に座った。

 目の前には真っ青な海が広がってる。気持ちのよい夏空がひらけてて、入道雲がたかく聳える。瀬戸内海はいつも静かに凪いでる。このへんはわりと漁船の往来が激しいんだけど、ちょうど船がいなくて、いつもより海は静かに感じられた。海の向こうには水平線があるばかりで他になにも見えない。天気がいい夜には、江泊の明かりがうっすらと見えることがあるんだって。

「あんなこと言っちゃだめだよ」

 幸太郎さんは、最初にそう言った。

「清風さんだって、他の人だって、奥さんとか家族がいちばん大事だってこと、分かってるよ。分かってるけど、寂しいんだよ。漁師は寂しいんだ。だから抱くんだよ」

 からっと乾いた空に、幸太郎さんの少し高い声が響く。

「お姉ちゃんは?」

 わたしはそう返事をした。

「お姉ちゃんだって、寂しいよ」

 わたしは幸太郎さんにタメ口で話す。お姉ちゃんには敬語を使ってたのに。別に心を許してたわけじゃないし、幸太郎さんのことを苦手なのは最初から変わらない。たんじゅんに、わたしは幸太郎さんを尊敬できない。

「創子かー……」

 幸太郎さんはそう言って、海になにか投げるふりをした。海面に波紋は現れなかったので、なにも投げなかったのだろう。それか彼が投げたのは、なにか気まずさのようなもの。

「どうしてお姉ちゃんと一緒に暮らしてないの?」

 わたしがそう尋ねると、幸太郎さんは、

「イマジン」

 と言った。

 続いて、幸太郎さんは歌をうたった。洋楽は詳しくないけど、それがジョン・レノンのイマジンだってことは分かったし、幸太郎さんが飛び切り歌が下手だってことも分かった。

 You may say I'm a dreamer、とのところでキリ悪く歌をとめると、幸太郎さんは、

「君は想子だろう。イマジンの想子だ」

 と言った。

 わたしは頷く。わたしの「想」は、「想像する」の「想」だ。そしてお姉ちゃんの「創」は、「創造する」の「創」。

「ジョン・レノンのイマジンは、平和の曲みたいに言われてるけど、俺にはそうは思えないんだ。むしろ逆な気がする。イマジンは、想像は、ひとを傷つける。君が、想ちゃんが、そうしてるように」

 幸太郎さんの言ってることは、いつもよく分かんない。何かがわたしとずれてる。だからわたしは、幸太郎さんのことを理解しようとは思わない。ただ、わたしの知りたいほんの少しのことだけを、教えてほしいと思う。

「やさしいのは、創子のほうだ。あの子はほんとうにやさしい。創ることは、やさしい」

 幸太郎さんはそう言った。

 幸太郎さんの言葉から感じる違和感の理由がすこし分かった。彼はいつも、自分勝手なんだ。身勝手なんだ。「幸太郎さんはお姉ちゃんのやさしさに甘えてるだけなんじゃないの?」と責めそうになる言葉を飲み込む。それよりもわたしは、幸太郎さんとお姉ちゃんのことを知りたい。知らなくてはならない。

「なんでお姉ちゃんのことを引き取ろうと思ったの?」

 わたしが尋ねると、幸太郎さんはまた何かを海に投げるふりをして、

「好きなひとの娘だったから」

 と言った。

「俺は想ちゃんと創子のお母さんが、深雪さんが大好きだった」

 幸太郎さんは、そう繰り返した。

「幸太郎さんは、ママとはどこで知り合ったの?」

 わたしがそう尋ねると、幸太郎さんは背中を倒して地面に仰向けになり、

「すこし長くなるけど、いい?」

 と言った。

 わたしも幸太郎さんの隣に寝転がる。夏の太陽に焼かれたセメントが背中にじゅうう、と熱をもたらす。目の前には、青い空が眩しい。わたしは細めた目をゆっくりと瞑り、幸太郎さんの話に耳をかたむけた。


 ☆


 深雪さんとはね、結婚式で知り合ったんだ。誰の結婚式って? 俺だよ。そうそう、俺、結婚してたんだよ。そんとき俺は山口の大学にいてね、妻とは学生結婚だった。結婚式は、こんなふうに暑い夏の日だった。その結婚式で、妻の友人として出席してたのが深雪さんだった。友人だったかな、遠い親戚だったかもしれない。よく覚えてない。とにかく、一目ぼれだった。自分の結婚式で、ほかの人に惚れるっておかしいと思う? でも、おかしいってなに? ひとを好きになることは、そんなにおかしいことかい? もしおかしいというならば、夏という季節だったのかもしれない。

 それに俺はそのあとしばらく、深雪さんと接点なかったんだ。メアドの交換もしてなかったし、そのころ深雪さんは金沢に住んでたし、ただSNSではつながったからそれでたまに近況を知るぐらい。なにか事を起こそうとも思ってなかった。それくらいの常識はあるよ。想ちゃんは俺のこと非常識だと思ってるみたいだけど。え、思ってない? 嘘ん。

 二、三回お茶したくらいかな。深雪さんの実家は山口だから、帰ってきたときにね。え、知らなかった? 今でもまだ実家には帰ってないの? ああ、じゃあ、まだいろいろ引きずってるんだなー……。で、お茶したときは、妻も同席してたし、ミスドで軽く話すくらいで、特別なことはぜんぜんなかった。俺はめちゃくちゃ嬉しかったけどね。

 学生最後の夏、ひとりで車で小旅行しようと思ったんだ。で、行き先を金沢にした。深雪さんに会いたいと思った。べつに浮気とかじゃないよ、そのことはちゃんと妻にも話したし。妻も「気をつけて行ってきてね」とか、そんな感じだったと思う。深雪さんに会いたい、それだけだった。で、SNSを使って深雪さんにアポとって、高速で金沢に向かった。ただ、深雪さんからの返事が、なんというか、ちょっとこう、いやなかんじだった。ほら、深雪さんって、あんまり「ありがとう」とか言わないじゃない? でも、そんとき言ったんだよ。それも二回か三回くらい。で、嫌な予感がして、急いで金沢に向かった。ちなみにそのとき速度違反でオービスに捕まって罰金払った。ってこれはどうでもいいね。

 金沢についたら、深雪さんが観光案内してくれるって言って、一緒に兼六園歩いたり、金箔ソフト食べたり、まあ他愛のない話しながらぶらぶら歩いてたんだ。え、手を繋いだりしてませんよ。そういう話じゃない。

 で、ひととおり観光を終えて、スタバに入って一息ついたら、深雪さんが急に泣き出したんだよ。びっくりした。何がびっくりしたって、その泣き方の美しさにびっくりしたんだ。声を漏らさず、表情も変えず、ただ涙だけが筋をつくって流れてくんだよ。今まであんなふうに綺麗に泣く人は見たことない。でね、深雪さんに子どもができたことを知らされたんだ。深雪さんっていつも飄々としてるじゃない? その日もそんな感じだった。「子どもできちゃってさー」とか、そんなの。泣いてるくせに、まるで何もなかったふうに。

 だから戸惑ったのは俺のほうだった。まず自分の身に覚えがないか思い返した。いつの子だ、って。いやもちろん、なんもないよ。深雪さんと身体の関係はおろか、キスもなければ、手も繋いでないし。

 深雪さんはどうしたいんだろう。そう思った。でね、想ちゃんも知ってると思うけど、深雪さんはあんまり自分で決められない人なんだ。産むとか、堕ろすとか、そういう決断ができない人なんだ。深雪さんが泣いてるのは、そんな悲しみだろうと思った。どうしようもできない悲しみ。深雪、っていい名前だよね。深い雪。静かにとうとうと降り積もる悲しみのなかで生きてる。俺は改めて、彼女のことを大好きだと思った。

 でね、言ったんだ。「子どもを引き取りたい」って。彼女を救いたかったわけじゃない。それで救われるとも思ってなかった。ただ、大好きな人の子どもが欲しかっただけなんだ。

 深雪さんは、その申し出を断らなかった。俺は急いで帰って、妻を説得したんだ。この説得のほうがよっぽど大変だった。俺は一緒に育ててもよかったんだけど、妻がどうしても嫌だっつって、ほとんど一方的に判を押した離婚届を投げつけて、金沢に向かったんだ。

 創子が産まれてきたときのことは、もちろん今でもよく覚えてるよ。家族じゃないから出産には立ち会えなかったんだけど、でも、深雪さんの次に産まれたばかりの創子を抱くことができた。深雪さんは泣いてた。あのときと同じように、声も出さず、表情も変えずに泣いてて、やっぱり俺は、深雪さんを美しいと思った。


 ☆


 幸太郎さんの独白を聞いて、控えめに言っても、吐き気がした。ママが幸太郎さんのことを最悪な人だと、大嫌いだと言った理由が分かった。わたしは今までで一番ママに共感したし、自分がママの娘であることを実感した。

 ひとつ、最後に訊いておきたいことがあって、わたしは幸太郎さんに尋ねた。

「どうして幸太郎さんはママと結婚しなかったの?」

 幸太郎さんはひとつ息を吐いた。その得意げな表情は、今まででいちばん醜いものに感じられた。

「それはね、俺が深雪さんのことを本当に好きだからだよ」


 わたしは、江泊に帰ることにした。お姉ちゃんに会いたいと思った。お姉ちゃんと話したいと思った。

 お姉ちゃんが幸太郎さんと離れて暮らしてる理由がわかった。幸太郎さんの何処にも、お姉ちゃんはいない。お姉ちゃんもきっとそのことが分かってるんだ。

 わたしは、お姉ちゃんの居場所になりたい。なれるだろうか。「ひとを傷つけるだけだ」と言われたわたしの「想う力」は、お姉ちゃんを癒せるだろうか。

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