第8話 The Best Is Yet to Come

 なんというか、まあ、うん。初めて会ったような気分だった。いやまあ初めて会ったんだけど。でもお姉ちゃんの想像をたくさんしてたから、わたしは勝手にお姉ちゃんのことを知ったつもりになってたんだ。思ってたのと違うっちゃあ違うんだけど、ぜんぜん違うわけじゃない。半分くらいは当たってる。つまり、降水確率五十%の天気予報が、降るのか降らないのかぜーんぜん参考にならないのと同じように、わたしはお姉ちゃんのことをぜーんぜん分からないのだった。

 くせのない真っ直ぐな髪とか、気の強そうな眼差しなんかは、ママに似てる気がする。当たってる五十%はママのぶんで、そこはたぶんわたしともつながってる。でも残りの五十%は触れられないぶぶんで、なんというか、こう、うまい言葉が見つからないんだけど。いや本当は分かってるのに恥ずかしくて言えないんだけど。つまり、そう。わたしはお姉ちゃんを見て、「エロい」と思った。なんか、どきどきする。美人で、痩せてて、色白で、背が高くて、それよりなにより、お姉ちゃんにわたしと同じ血の半分が流れてるってことに、言いしれようのない欲情をおぼえる。

 お姉ちゃんが住んでる家は、居住区に浮かんでるちいさな船のうちのひとつだった。江泊に住んでるのはきほん女性ばかり。だから居住区には女性しか入れないんだって。大地くんには男性の区と女性の区を分ける結界のところまで送ってもらって、そこでお別れをした。別れるとき、大地くんは小さな巻き貝でできた笛をくれた。何か困ったことがあれば、その笛を吹けばすぐに駆けつけるとのことだった。江泊はかなり広いし、携帯電話の番号を交換したほうが便利だよって言ったんだけど、大地くんは携帯電話を持ってないらしい。いまどき持ってない、って。アナログ人間か。とにかくわたしは笛を首から下げ、お姉ちゃんの家を探すため、居住区の桟橋をてくてく歩いた。

 居住区の女性とすれ違うとき、わたしは彼女たちの顔とか服装をついついじーっと見てしまった。なんだか既視感を覚える。若い女性が多かっただろうか。みんながみんな美人なわけじゃないけど、不思議な魅力にあふれてる。自分が自分でいることに自信がある、あの感じ。あ、そうだこれ、山口の、あの高校と同じなんだ。あの高校も、男子校舎と女子校舎に別れてた。あの頃、わたしはそのことがどうしようもなく寂しかった。それから、彼氏ができて、友だちができて、わたしも少しは強くなれたような気がしてた。でも、彼や彼女から離れてこうしてひとりで歩いてみると、今も昔とぜんぜん変わらず寂しいんだってことに気づいた。早くお姉ちゃんに会いたい。わたしは小走りで桟橋の奥へ奥へと進んだ。

 桟橋に沿って並ぶ船はかなりたくさんあって、探すのに時間がかかった。「汐音」っていう表札が目印だって大地くんには聞いてたけど、このへんには多い名字なのか、そういう船はたくさんあった。あいつ「創子を守る」って口ばっかり達者なわりには、ぜんぜん頼りにならんな……。大地くんへの苛立ちが焦りを加速させ、きょろきょろしながら桟橋のあっちを歩いたりこっちを歩いたりしてると、いつの間にか周りから注目されてることに気づいた。やばい、あやしいものじゃないんです。警戒心に満ちた視線をあびながら、愛想笑いを浮かべてぼーっと佇んでると、「想子!」と声をかけてくれたのが、お姉ちゃん、創子だった。

 わたしはお姉ちゃんに連れられて、彼女の住む船のなかに入った。あんまり広くない。六畳くらいかな。右手の壁際に棚があって、文庫本がぎっしり詰まってる。あ、お姉ちゃん、金原ひとみ読むんだ。わたしも読んだことある。そのとなりにはミニコンポ、と、ちいさなテレビ。ブラウン管のテレビじゃん、まだ現役なんだ。ビデオも入るみたいで、テレビの下の棚にはビデオテープがこれまたぎっしり詰められてた。正面には丸い大きな窓。潮風を浴びるからなのか、薄汚れてて向こうの海ははっきりとは見えない。左手の壁際には二段ベッド。それで、部屋のどまんなかには座卓と、それを挟むように座布団がふたつ置かれてた。

「ほら、想子、座りなよ」

 お姉ちゃんは座布団のうえであぐらを組むなり、向かいを手で示してわたしにそう言った。

「あ、おじゃまします」

 わたしは何となく一礼をして部屋のなかに入り、座布団に正座した。向かいにはお姉ちゃん。うわ、緊張する。

「いいでしょー、この座卓と座布団。想子が来るって聞いてたからさ、思い切って買っちゃったんだよ。四国のけっこういい木材を使ったやつでさ、木目がお気に入りなんだ」

 お姉ちゃんはあぐらを組んだまま、上半身をゆらゆら揺すりながら言った。

 うわ、いま、わたしのために座卓と座布団用意してくれたって言った? うわ、なにそれ。

「えーと……」

 ありがとう、とか言わないといけないのに、わたしは胸がいっぱいで何も言えなかった。ありがとうも、それ以上も、それ以外も、お姉ちゃんに言わないといけないこと、言いたいことはたくさんあったはずなのに、息もできないくらい何ひとつ言葉にならなかった。

「どうしたんだよー、想子ー」

 お姉ちゃんは再び上半身を揺すりながら言った。その動きはお姉ちゃんのクセなのだろうか。痩せててスタイルがいいから、ベリーダンスみたいに色っぽく見える。

「あのね」

 と一呼吸おいて、最初に訊きたかったことを尋ねることにした。

「えと、なんて、呼んだら、いいですか」

 お姉ちゃんは、上半身の動きを止めて、その代わりに小首を傾げた。黒いつやつやの髪がふわっと流れて顔にかかり、薄桃色をしたやわらかそうな唇にまでほそい線を引く。なんでこのひとはひとつひとつの所作がこんなに美しいんだろう。

「別に、創子って呼んでくれたらいいよ。あたしだって、君のことは想子って呼ぶし」

 お姉ちゃんはそう言った。

「なんか、紛らわしくないですか? わたしも想子、お姉ちゃんも創子って」

 わたしがそう言うと、お姉ちゃんは、

「いいんじゃない? あたしがソーコって呼ぶときは君のこと。君がソーコって呼ぶときはあたしのことなんだから」

 と言った。

 あ、なんかこのやりとり、わたしの想像のなかでもしたことがある気がする。初めてわたしは想像のなかのお姉ちゃんとの接点を見つけて、胸がとくんとときめいた。

「ああ、でも、大地くんには呼び方考えてもらわないといけないですね。どっちもソーコなら、紛らわしいし」

 わたしが笑ってそう言うと、お姉ちゃんは表情を固くし、しばらく黙ってしまった。目線はわたしから逸らさない。睫毛がぴんと映える強い目が、なにかを責めるようにわたしに真っ直ぐ向けられる。わたし、なにかへんなこと言った?

「……大地に、会ったの?」

 お姉ちゃんは低い声でそう言った。

 え、なにかまずかった?

「あ、はい。江泊まで船で連れてきてもらって。それで一緒に映画見て」

 言ってるうちに声が震えはじめた気がして、お酒を飲んだこととか、大地くんの船に泊まったことは、こわくて言えなかった。

 お姉ちゃんはしばらくなにかを考えるように黙り込んだ後、

「大地か、あいつ、ちょっと変だよね」

 と言い、笑った。声は笑ってるのに、目は、口は、笑ってなかった。そして、目線はずっとわたしから逸らさなかった。

「ねえ、想子、約束して」

 お姉ちゃんは言った。

「江泊にいる間、ずっとあたしの傍にいて。ここから離れないで。結界の向こうに行かないで。男のいる場所に、大地のところに行かないで」

 言葉だけを捉えれば、よわくさびしい女の哀願みたいだった。でもお姉ちゃんの声も、表情も、そうじゃなかった。お姉ちゃんはさびしいんじゃない。わたしがさびしいってことを分かってくれてるんだ。お姉ちゃんは、わたしを守ってくれる。

 つよいひと。それがお姉ちゃんの第一印象だった。それは、男と女が不思議にも別れて暮らす江泊での、女性のつよさの、象徴みたいにも思えた。


 わたしはお姉ちゃんの部屋に住み始めた。初日、とにかく退屈だった。座布団のうえにふたりごろんと寝転がって、映画を観てるか、本を読んでるかだけ。映画は洋画ばかりだった。ブラッドピット主演のとか、レオナルドディカプリオ主演のが多かったきがする。そのへんの好みはママと似てる。ママも見た目が格好いい男を好きだった。ただ、黙って映画を観るママとは違って、お姉ちゃんは映画を観てるときよくしゃべる。「そうじゃないだろー」とか「わかる」とか。独り言だろうから、わたしもとくに反応しなかった。でも、観終わるとお姉ちゃんはわたしに感想を求めてきた。「いまの映画、想子はどう思うー?」って。へんなことを言うとお姉ちゃんに嫌われそうで怖くって、無難なことばかり返事した。「ブラッドピット、かっこよかったです」とか。お姉ちゃんから訊いてきたくせに、わたしの感想についてはなにもコメントしなかった。お姉ちゃんはだるそうにごろんと寝返りをうち、本棚に手を伸ばして無造作に本を抜き取り、寝転んだまま読み始める。お姉ちゃんの持ってる本はほとんどが文庫本サイズの小説だ。金原ひとみが多かった。あとは、綿矢りさとか、江國香織とか、山田詠美とか。女性作家ばっかりだった。小説と映画があれば何となく時間は潰せるんだけど、どうにもこうにも手持無沙汰だった。ぼんやりと無為な時間を過ごすのはきらいじゃない。でも、勉強とか学校とか、忙しい日々のなかにぽつんと空いた時間だからこそちょっと休憩するみたいにぼんやりできるのであって、ほんとうに何もすることがないと、わたしはぜんぜんぼんやりできなかった。なんか、勉強がしたい。

「なに探してんのー?」

 わたしが本棚の本をとっかえひっかえしてると、後ろからお姉ちゃんが声をかけてきた。振り返ると、お姉ちゃんはこっちに背を向けて寝転がってる。本を読んでるわけでもないし、映画を観てるわけでもない。ただ、寝転がってた。ミニコンポからは、聴いたことのない洋楽が流れてる。

「え……と、勉強する本がないかと思いまして」

 じゃっかんもじもじしながらわたしはそう返事をした。そんな真面目なんて、お姉ちゃんに笑われると思った。

「はっはっは」

 あ、ほら、笑われた。お姉ちゃんは寝返りを打ち、わたしのほうを向いてうつぶせになり、畳の床にひじをついてあごをのせ、わたしを見上げた。うわ、上目遣い、いろっぽい。シャツの襟もとがゆるく膨らんで、乳首が見えそう。あ、ていうか、ブラしてないんだ。

「退屈?」

 お姉ちゃんはわたしにそう尋ねた。

「え……」

 勉強の本を探してたことで、お姉ちゃんの気を悪くさせた気がして、わたしは言い淀んだ。気圧されるように一歩下がると、本棚に背中がぶつかり、文庫本が数冊落ちた。アッシュベイビー、きのうの世界、ぼくは勉強ができない。

「江泊、退屈かって聞いてんの」

 お姉ちゃんはそう言い、可愛らしく小首を傾げた。別に怒ってるわけじゃないみたい。もしかして、わたしに気を遣ってくれてんのかな。

「あの、こういうふうに、のんびりすごしたことが、なかったので……」

 つっかえながらわたしが返事をすると、お姉ちゃんは、ふふ、と笑い、

「退屈は男の感情」

 と言った。

 退屈は男の感情。わたしは、自分のなかでもう一度繰り返す。

「直に、想子も慣れるよ。この江泊の生活に。そんで、きっと好きになるよ。この女ばかりの、怠惰な世界のこと」

 お姉ちゃんはそう言って、立ち上がった。間口のところまで歩くと振り返り、わたしに向かって手をのばした。

「行こうよ、想子」

 お姉ちゃんはそう言って、微笑んだ。お姉ちゃんの笑顔は、ぜんぜん笑ってない。やさしくない。でも、つよくて美しい。女神様みたいだ。

「案内してあげる。この、女の世界」

 わたしはお姉ちゃんに誘われるまま立ち上がり、ふらふらお姉ちゃんに近づいた。お姉ちゃんは伸ばした手をすっとわたしの背中に回した。

「〝いっ」

 いっしゅん何をされたのか分からず、わたしはカエルみたいな悲鳴を上げてしまった。胸まわりを締め付けてたものがゆるんで、わたしはブラを外されたのだと分かった。すごい、一瞬だった。わたしの女友だちにも片手でブラを外すのうまい子いたけど、それでも数秒かかったぞ。

 お姉ちゃんはわたしのシャツの裾に手を入れ、手品みたいにするするとブラを抜き取った。

「ここではね、みんな下着つけてないから、想子もそれに従ってね」

 そう言いながら、お姉ちゃんはわたしのスカートのなかにも手を入れようとした。

「いや! いいです、いいです、自分で脱ぎます!」

 お姉ちゃんがわたしのショーツも脱がそうとしてるのが分かって、わたしは慌ててお姉ちゃんから距離をとった。やばい、顔が真っ赤に染まってるのが温度で分かる。わたしは二段ベッドの陰にかくれて、いそぎショーツを脱いだ。そのあいだ、お姉ちゃんはわたしから視線を外しておいてくれた。脱いだショーツとブラを丁寧にたたみ、ひとまず隠すように部屋の隅に置いた。

「すみません、お待たせしました!」

 わたしが間口に立つお姉ちゃんにそう声をかけると、お姉ちゃんはわたしを振り返り、

「ごめんね、恥ずかしい思いさせて」

 と言った。

 いや、そう言われるほうが恥ずかしいんですけど。ましてやそんな物憂げな表情で。わたしの顔はますます赤く染まってしまい、タコみたいになってるんじゃないだろうか。

 わたしとお姉ちゃんは手を繋ぎ、桟橋のうえを歩いた。景色をひとつひとつ指差しながら、お姉ちゃんが江泊の説明をしてくれてた気がする。でもわたしは考え事をしてて、お姉ちゃんの言葉が頭まで入ってこなかった。わたしとお姉ちゃんは周りからどう見えているんだろう、とか。すれ違う人々がわたしたちを見る視線が気になった。お姉ちゃんが女の世界といったとおり、すれ違うのは女性ばかりだ。そして、みんなやたら露出度が高い。申し訳程度のタオルを巻いたほとんど裸くらいの恰好のひともいる。お姉ちゃんがいったとおり、みんな下着をつけてないんだろう。性を意識しない点は、あの山口の高校とおなじだ。でもあのころ、わたしたちは本当に性を意識してなかっただろうか。確かにだらしない恰好の子が多かったけど、男からどう見られるかなんてぜんぜん意識してなかったけど、そのぶん、周りには女の子がいた。わたしたちは、男に対する性じゃなくて、女に対する性をちゃんと意識してた。いま、お姉ちゃんと手を繋いで歩いてるわたしだってきっとそう。わたしは、お姉ちゃんを意識してる。性的に、だ。男としてではなく、女としてでもなく、ただ、お姉ちゃんとして。

「ちょっと、聞いてる? 想子」

 お姉ちゃんがわたしの耳元で強めの声をだして、わたしははっと我に返る。どこだ、ここ。なんか周りから湯気がでてる。湯気の向こうには、あ、裸の女のひとがちらちら見える。ここは……、温泉?

「ここねー、江泊の温泉。いいでしょー、へっへ、男は入れないんだ」

 お姉ちゃんはそう言って、桟橋から飛び降りた。着地した勢いにまかせて数歩あるくと、砂地に沈んだ足跡がとんとんとん、と現れる。あ、ここ、下が砂浜になってるんだ。

「ほら、想子もおいでよ」

 わたしもお姉ちゃんに倣い、桟橋から飛び降りた。すこし水分を含んだ砂はやわらかくて、わたしをしっかり受け止めてくれた。足元の砂地が熱いくらいに熱をもってる。このへん一帯から温泉が湧いてるみたい。

「早く湯につかろーよ」

 お姉ちゃんは手早く服を脱いで裸になり、桟橋のしたの鴨居みたいになってる部分に脱いだ服をひっかけた。

 わたしは、お姉ちゃんの裸を初めてみた。服を着てるときから思ってたけど、すっごく痩せてる。肋骨が浮き出てるくらい。わたしはじゃっかん太ってるくらいなので、体型としてはだいぶ違う。でも。

「あ、ちょっと、なに裸見てんのよ、想子」

 お姉ちゃんが恥ずかしそうに笑って言う。わたしは苦笑いで誤魔化す。

 言えない。「胸がちいさいですね」なんて。そのわりに乳輪が大きいところ。わたしとお姉ちゃんは、胸のかたちがまったく同じだ。

「想子も早く服を脱ぎなさいってば」

 お姉ちゃんに半ば強引に脱がされるかたちで、わたしは裸になった。わたしの裸を見ると、お姉ちゃんはくすくす笑って、

「やっぱり想子も胸がちいさいんだね、姉妹だ」

 と言った。やっぱり、見てるとこも同じだった。

 砂浜にところどころ窪みがあって、ちょうどいい温度に冷やされたお湯が溜まってる。わたしたちは肩まで浸かれるくらいの水深がある窪みを見つけて、並んではいった。

「あー、いい湯だねー」

 お姉ちゃんは、ちょっとオヤジっぽいため息を吐きながらそう言った。立ったままお湯に入って並ぶと、お姉ちゃんとの身長差がけっこうあることが分かる。お姉ちゃんは女子にしてはかなり背が高くって、わたしは低いほう。わたしはいつものように、体位の心配をした。


 かなり長い時間お風呂に入ってぽかぽかになったあと、お姉ちゃんの家へ戻った。わたしもお姉ちゃんも結構のぼせてしまい、お姉ちゃんの白い肌が林檎色に染まっていやらしかった。わたしたちはあついくらいに熱をもった手をぎゅっと握りあい、ふたりでふらふらよろけながら歩いた。桟橋には涼しい夜風が吹いてて、家に戻るころにはほどよく身体を冷ましてくれた。

「二段ベッドの上の段と下の段、どっちがいい?」

 家に戻ると、お姉ちゃんがわたしにそう尋ねた。

「えっと……」

 ほんとうは、同じ布団で寝たい、って言いたかった。でも、噛まずに言える自信がなかった。

「この二段ベッド、わたしが来るから買ってくれたんですか?」

 わたしは代わりに、そう尋ねた。

「そうだよ」

 お姉ちゃんは微笑んだ。あの、ぜんぜんやさしくない、凛とした笑顔で。

「あたしは、想子が来るのを楽しみにしてたから」

 今日のところは、その返事でじゅうぶんだった。

 二段ベッドの上の段に寝転がり、すぐ傍に迫った天井を見つめながら、今日はうまくやれただろうか、そんなことを考えてた。それなりにうまくやれた気がする。でも、もっとうまくやれた気がする。明日はどうだろうか。明後日はどうだろうか。この夏が終わったとき、わたしはお姉ちゃんと、どうなってるんだろうか。

 答えは今にはなかった。しばらくして、下の段からお姉ちゃんの寝息が聞こえてきた。たぶん下の段を覗いたら、お姉ちゃんの寝顔が見えちゃうんだろう。でもわたしはそうしなかった。代わりに、お姉ちゃんの寝顔を想像した。それはとてもかわいくて、わたしは安堵して、波が船をゆらすやさしいリズムに身体を任せているうち、ふかい眠りに落ちてしまっていた。


 そういう風にしてお姉ちゃんとの暮らしは始まった。相変わらず退屈ではあったけど、少しずつそれにも慣れてきた。ただ、お姉ちゃんと一緒にいるときの不思議な緊張感は変わらなかった。わたしはお姉ちゃんに敬語を使い続けた。堅さがお姉ちゃんにも伝わったのか、お姉ちゃんもわたしに妙な気を遣うことがあった。姉妹でありながら、それなりにうまくやりとりしてるように見えながら、やっぱり何となくぎくしゃくしてた。

 ときどき、お姉ちゃんは家から出てどこかにいくことがあった。そんなとき、何処にいくのかお姉ちゃんは決して言わなかった。買い出しでもない。買い物は、定期的に居住区を回遊するコンビニ船で済ませることができるので、居住区に住む女性たちは温泉をのぞけば外に出なくても生活できるようになってることを知ってた。じゃあ、お姉ちゃんはどこに行ってるんだろう。どうしてそのことをわたしに言ってくれないんだろう。不安があった。お姉ちゃんは、男と会ってるんじゃないか。わたしには結界の外に出ないよう釘をさしておいて、自分はひとりで男と遊んでるんじゃないか。その点において、わたしには確信があった。血筋についての確信だ。お姉ちゃんは、ママの血を引いてる。ママは、どこの誰とも分からない男と寝たことがある。そうやって生まれたのがお姉ちゃんだ。繰り返される気がした。そんなのお姉ちゃんの勝手、と割り切ることだって出来た。でもこの話をしたとき、ママは言ったんだ。ごめん、って。わたしがお姉ちゃんに会おうと思ったのは、はんぶんはママのためでもある。わたしはお姉ちゃんを止めたかったのか分からない。ただ、本当のことを知りたいと思った。


 夜、わたしが布団に潜りこんでると、お姉ちゃんが二段ベッドの上の段まで上がってくる気配がした。わたしは寝息のようなものを立て、寝てるふりを決め込む。お姉ちゃんはわたしが寝てることを確認したかったのだろう、しばらく経つと足音を忍ばせながらそっとベッドから降りて、そのまま家の外へ出ていった。少しだけ間をおいて、わたしはベッドから飛び降り、お姉ちゃんの後を追った。

 ぽつぽつと外灯のともる桟橋のうえを、お姉ちゃんが足早に歩いていく。いつものように人通りが多かったので、わたしは隠れることは意識しなくてもよかった。ただ、お姉ちゃんに置いて行かれないよう、ひとに何度もぶつかっては謝りながら、いそいでお姉ちゃんを追いかけた。

 お姉ちゃんを見失わないことに必死で、自分が何処を歩いてるのか分からなくなった。お姉ちゃんが立ち止まったとき、ようやく辺りを見渡した。周りに船はないから、居住区ではない。海のほうに砂浜が広がってる。じゃあ、温泉区か? お姉ちゃんは、お風呂に入りにきただけなのか?

 お姉ちゃんは桟橋から砂浜に飛び降り、砂浜の奥へと進んでいった。わたしも後を追って砂浜に立つ。うわ、砂がめっちゃ冷たい。ということは、ここは温泉区じゃないんだ。そういえば湯気も出てないし、温泉区よりずっと砂浜が広がってるように見える。じゃあここは、どこだ。江泊は六芒星の形をしてるから、住宅区と、温泉区と、もうひとつ別の区画がこの女の世界にはあるはずだ。お姉ちゃんは、そのことを説明してくれたっけ。わたしが聞いてなかっただけなのか。それとも、わたしから隠したくて、お姉ちゃんは何も言わなかったのか。とにかくお姉ちゃんがここで何をするのかを知れば、全ては明らかになるはずだ。いつのまにか、お姉ちゃんの姿は砂浜の奥へ消えていきそうなほど小さくなっていた。わたしは慌てて追いかけるが、砂浜に足を取られてうまく進めない。砂地のうえにうっすらと水が湛えられてる。まるで波たたないしずかな水が鏡のように夜空の群青色を映して、世界中が海に包まれたようなここは、なんだか息苦しかった。その感覚を、この場所を、わたしは知ってる。この場所は繋がってる。わたしの想像のなかの海と。わたしはずっと、想像のなかでこの海を見てた。お姉ちゃんはいつもここにいた。そしてわたしはずっとこの場所を夢みて、お姉ちゃんに会いたいと思ってた。

 お姉ちゃんはやがて、歩みを止めた。その先は水深が深いのだろうか、わずかながら波が立っていて、空も映ってはいない。ただ一面の黒色が広がってる。本当の海だ。わたしは自分の想像から抜け出したような気がして、急に不安になった。わたしはあまりにも大胆にお姉ちゃんの後を追ってしまった気がする。いつのまにか、わたしはお姉ちゃんのすぐそばに立ってた。隠れる場所もないし、お姉ちゃんが振り向けば、わたしが尾行してたことがかんたんにばれてしまう。

 いいんだ、それでも。と、もう一度きもちを落ち着ける。お姉ちゃんは、男と遊んでたんじゃなかった。でもきっと、それと相似するなんらかの行いをここでしてたはずなんだ。わたしはそれを知りたい。それが分かるなら、お姉ちゃんに怒られたり、嫌われたりしてもいい。わたしはできるだけ物音を立たせないよう呼吸を抑えて、お姉ちゃんが何をするのかを見守った。お姉ちゃんが、ポケットに手を突っ込む衣擦れの音が静寂のなかに響いた。お姉ちゃんは、なにか長いひもを伴うちいさな雑貨のようなものをポケットから取り出した。お姉ちゃんがそれを口に咥えるのを見て、どうやらそれが笛だと分かった。あれ、もしかして、大地くんがわたしにくれたのと同じ笛じゃない?

 お姉ちゃんが息を吸う音がなんどかつづいた。同時に吐いてもいるはずだけど、笛からは何の音も聞こえない。しばらくしてお姉ちゃんが吸気音だけの笛吹きを止めたあと、辺りにはふたたび静寂がもどった。

 パシャ、という波音がどこからか聞こえた。波音はだんだんと大きく、強くなり、何かが近づいてくるのが分かった。少しの間を置いて、とりわけ激しいバシャーンという破裂音があたりに響きわたり、水面から白く大きな物体が勢いよく飛び出してきた。

「わああああああ」

 わたしは思い切りびっくりして、大声を出したあと砂浜に尻もちをついてしまった。イルカだ。とつぜん出てきたことにもびっくりしたし、なにより、真白い身体が華麗に波しぶきをまといながら空高く舞い上がる美しい姿に圧倒された。イルカは、ザバーン、と、もう一度激しい音を立てて海中に潜ったあと、まるい頭を水面に出してゆらゆらとお姉ちゃんの傍まで泳いできた。

「はっはっは」

 お姉ちゃんは、イルカの頭を撫でながら、わたしのほうを振り返って笑った。わたしが着いてきたことを知っても、怒らなかったし、嫌いにもならかったようだった。むしろ、お姉ちゃんの笑顔は今まででいちばん自然なように感じられた。

 わたしはまだ震えの残る身体をゆっくりと起こし、お姉ちゃんとイルカに歩み寄った。わたしは、イルカを真近でみた。というかこれは……イルカなのか? わたしはイルカは水族館で観たのと図鑑で見て知ってるくらいで、そんなに詳しいわけじゃない。でも、明らかな違和感があった。イルカって、背びれがなかったっけ? こんなに細い身体だったっけ? 胸びれと尾びれってこんなに長かったっけ?

「水竜の、ハイドラだよ」

 お姉ちゃんは、その子を撫でながらそう言った。水竜って? なんだそれ? お姉ちゃんの言ってることがいみわかんなくて怖かった。ただ、ハイドラ、という名前は、金原ひとみの小説からとったんだろうと思った。でもわたしはハイドラを読んだことがなかったから、そのこともやっぱり怖かった。

 ハイドラは、大きな口から歯をのぞかせ、けけけ、と声をだして笑った。

「何言ってるか分かんないでしょ? 水竜はね、言葉を交流のためには使わないの。その代わり、水竜言語を使って、天変地異を起こすの。水竜は賢いよ。もしかしたら、人間よりも賢い」

 お姉ちゃんはそう言ってハイドラの頭を何度か撫でた。わたしもお姉ちゃんの隣にしゃがみこみ、ハイドラにそっと手を伸ばしてみる。ハイドラのつぶらな瞳がわたしに向けられ、わたしはつい、びくっと手を引っ込めてしまう。

「大丈夫だから」

 お姉ちゃんは、わたしの手をむりやり取って、ハイドラの頭を撫でさせた。あ、なんだかあったかい。こうして触れてると、気持ちが落ち着く気がする。

「水竜はね、女はぜったいに襲わないの」

 お姉ちゃんは、うれしそうに笑ってそう言った。お姉ちゃん、こういうふうに笑えるんだ。なんかいつもよりもやさしいというか、大人びてる。ママに似てる……かも、と思うと、無性にさびしくなった。いつものママは、こんなふうには笑わない。映画を観終えたあとのママだ。本当にわたしのことを心配してくれるとき、ママはこういうふうに、やさしくわらった。

「じゃあ、男は襲われちゃうんですか?」

 わたしがそう尋ねると、お姉ちゃんの表情から一瞬で笑みが消えた。

「水竜はね、男を食べるの」

 笑みが消えても、お姉ちゃんはやさしそうだった。そしてそのことを赦すかのように、まっすぐにハイドラを見据え、そうであれと言い聞かせるように、言った。

「水竜の主食は男なの」


 金原ひとみ。お姉ちゃんの部屋の本棚には、金原ひとみの本がたくさん並んでる。「蛇にピアス」は読んだことある。あと「アッシュベイビー」と、「マザーズ」も読んだかな。三冊も読んだんなら好きなんだろう、と思われるかもしれないけど、まったくの逆で、わたしは金原ひとみがかなり苦手だった。苦手だから、何冊も読んだ。わるいと知りながらもにきびに何度も触れてしまうようなものだ。金原ひとみの文章は、なんというか、痛い。読むと傷つく。お姉ちゃんの本棚には「ハイドラ」も並んでた。それを読めば、あの水竜のハイドラのことも少しは分かるかもしれないと思った。でもわたしは結局「ハイドラ」は読まなくて、その代わり、お姉ちゃんに連れ添って何度もハイドラに会いに行った。ハイドラは、わたしに対して好意を示してくれてるように感じた。わたしを見つけると嬉しそうに、けけけ、と笑って、波打ち際で楽しそうに身体を躍らせてはしゃぎ、わたしに水がかかってわたしが悲鳴をあげると、また、けけけ、と笑った。でもわたしは、ハイドラが苦手だった。金原ひとみの小説と同じだ。ハイドラと会ってるとき、わたしは何故か、傷ついた。

 お姉ちゃんは、そのことが分かっていたのかもしれない。だからハイドラに会いに行くとき、わたしに何も告げなかったのかもしれない。わたしとハイドラが会ったことで、わたしとお姉ちゃんはまた少し近づいた。わたしは、お姉ちゃんの今まで知らなかった笑顔を知った。お姉ちゃんは、今まで見せなかった部分をわたしに見せた。そのことは、わたしをなんだか寂しくさせた。お姉ちゃんと二人で家にいるとき、並んでお風呂に入ってるとき、どうにもやるせなく感じることがあった。どうしてこんなに近くにいるのに、こんなに遠く感じるんだろう。近づけば近づくほどそうだった。わたしの行き所のない欲情はとうに沸点を越えてなお加熱し続け、ついに結界が壊れるその日を迎えた。


「あたし、結界の外に行ってくるから」

 お姉ちゃんはある日、ふいにそう言った。

「あ、そうなんだ」

 ちょっとコンビニ行ってくるから、くらいの軽い言い方にわたしは事態をまるで把握できておらず、間抜けにもそれだけの返事をした。お姉ちゃんがいつになくしっかりと化粧を整えてることとか、バニラみたいな甘い香りを身体から漂わせてることとか、わたしは違和感をもって然るべきだったのに、お姉ちゃんを問い詰めてしかるべきだったのに、それ以上は何も言わず、ただ寝転がって「六番目の小夜子」を読み続けた。もうそうなる準備ができてたのかもしれない。もうそうなることが自然だったのかもしれない。それか、単純にわたしは、お姉ちゃんに疲れてたのかもしれない。どんなに大事に思ってても、どんなに大事にしてても、ひとつ何かを間違えるだけで、関係はかんたんに壊れてしまう。

「じゃあ、行ってくるから」

 たぶんそんな言葉を言い残して、お姉ちゃんは去っていった。わたしは特に返事もせず、ばかみたいに「六番目の小夜子」に描かれたフィクションに浸りつづけた。

「……お姉ちゃん?」

 ようやく読み終えて顔をあげると、そこにお姉ちゃんはいなかった。いつの間にか夜になっていて、部屋のなかには間口から漏れるあおい光と、しずかな波音だけが沈んでた。

 なんでお姉ちゃんいないんだっけ。そういえば、結界の外に行くって言ってたっけ。つーか結界ってなんなんだ。男の世界と女の世界をわける境目だっけ。なんか大げさだな。山口の高校のときの、男子校舎と女子校舎をわける廊下もそうだったけど。別にそこを行き来することくらい、なんてことないのにな。

 そんなことを考えながら、わたしは結界に向かった。わたしは前に一度、大地くんに見送られて、結界を通り抜けたことがある。そのときも特にどうってことなかった。特に何のへんてつもない、ただの門だったと思う。もう一回そこをくぐることだって出来ると思った。大地くんに会ってみてもいい。彼を誘って、また映画を観ながらお刺身食べたり粉ビール飲んだりしてもいい。わたしはごく軽い気持ちで、結界に向かった。

 結界は、六芒星の辺が交わる二か所にあり、それぞれ男の世界と女の世界を隔ててる。前は居住区と管理区の境目にある結界を越えたけど、今度はそれとは反対側、温泉区のはしっこにある結界を越えることにした。結界の向こう、男の世界には、なにやら派手な赤い瓦で飾られた屋形船が見える。たしかあれは宿泊区だ。船で江泊にやってきた漁師さんたちが身体を休めてく場所だ。でも、ほんとすごい派手だな。ただ寝るだけだろうに、あんなに派手にする必要あんのかな。うわ、ネオンを輝かせてる船まである。

 わたしは結界のある小屋のなかに入った。朽木で簡単に囲いをされただけの、小さな小屋だ。別に誰かが立って見張ってるわけでもない。結界という言葉もおおげさなものだ。こわがってここを越えようとしなかった大地くんが、やけに真剣な表情でここを越えないよう脅してきたお姉ちゃんが、とても滑稽に思えた。わたしは反復横跳びをするみたいに、何度も結界を行き来してみた。ほら、なんもないじゃん。

「いたっ」

 なにかがわたしの頭に当たって、がらん、おおきな音を立てて床に落ちた。板が結界のうえにぶら下げられてたみたいだ。潮風で荒れてぼろぼろになった、細長い板。なんだよこれ。わたしはため息を吐きながら、その板を手に取る。ちかくで見ると、その板には何か文字が書かれてることに気づいた。表面がだいぶ痛んでるし、そのうえ何度も書き足されたみたいで、よく見えない。わたしはそれを外灯の光に照らしてみた。光の加減によってうまく反射させると、ようやくその言葉が読み取れた。

 その板には、こう書いてあった。


〈結界ヲ越エル者ハ、ソノ性ヲ棄テル〉


 わたしは板を取り落した。同時に、身体をはげしい震えが襲った。

「お姉ちゃんッ」

 わたしは叫びながら走った。結界を越えたいま、わたしに性はない。ただ、お姉ちゃんが大切だった。お姉ちゃんが好きだった。性なんて関係なく。

「お姉ちゃーん! お姉ちゃーん!」

 性を失ったお姉ちゃんはいまどこで何をしてるんだろう。そんなこと、分かってた。わたしは分かった。あの屋形船たちが、あんなに派手な造りをしている意味。その役割。

 わたしは屋形船まで渡り、お姉ちゃんを探す必要があった。でも屋形船はたくさんあるし、それにわたしには、あそこまで渡る船がない。

 わたしは、首からかけてた笛を手に取り、息を思い切り吸い込んで、笛を吹いた。お姉ちゃんが吹いた笛と同じで、音はまったく出ない。ただ息のつづくかぎり、なんどもなんども笛を吹いた。「創子を裏切るな」と言った彼を呼び続けた。

 いよいよ息が切れて、わたしはしゃがみ込んだ。涙があふれてぼたぼたと地面に落ちた。息はもう出ないのにまだ涙を流す力が余ってることが悔しかった。目の前で、たくさんの屋形船が赤い光をちらつかせながら揺れてる。その隙間を白い航跡が切り裂き、わたしに向かってまっすぐ進んできた。

「何してんだよ、もうひとりのソーコ」

 大地くんが水上カブを桟橋のすぐ下に寄せ、前と変わらない皮肉な表情で微笑んだ。

「大地くん!」

 そう叫ぶなり、わたしは桟橋から水上カブに飛び乗った。

「うわ、危ねー!」

 ちいさな水上カブは大きく揺れ、大地くんは上半身を起こしてバランスを取る。わたしは大地くんの背中に抱き着いて、急かすように身体を寄せ、

「お姉ちゃんのところまで行って!」

 と叫んだ。

 カブのよわよわしいエンジン音がカラカラカラと哭く。

「創子って……創子がいま何してんのか、分かってんの?」

 大地くんはそう言った。大地くんも、やっぱり分かってるんだ。

「わかってる! はやく!」

 わたしは大地くんの身体を抱く力を強める。おもいきり。

「お前が傷つくだけだぞ……」

 初めてみせる大地くんのやさしさが嬉しかった。でも、やさしいってことは、よわいってことだ。大地くんも本当は、行きたいんだ。会いたいんだ。ただ、傷つくほど強くはないってだけで。

「いいの、わたしは、」

 わたしは想う。わたしは、大地くんを傷つける。

「わたしは、お姉ちゃんのことが好きだから!」

 大地くんは思い切りスロットルを捻り、クラッチを蹴った。水上カブはかるく前を起こしながら屋形船の間を高速で駆け抜けていった。


 お姉ちゃんのいる屋形船は簡単に見つかった。屋形の先に方形をした舞台が付き出してて、そこには真っ赤な丸い布団が引かれ、そのなかで乱れているのがお姉ちゃんだった。

「満足か?」

 じっとお姉ちゃんの痴態を見つめるわたしに、大地くんがそう言った。大地くんはお姉ちゃんに背を向け、その様子を見ようとしなかった。でも、声が震えてるのが分かった。

「うん」

 わたしは頷いて、お姉ちゃんの表情とか、声とか、体位の変え方なんかを目に焼き付けた。とても傷ついた。金原ひとみの小説を読んでるときと同じだ。金原ひとみなら、今のわたしのことをどんなふうに描くんだろう。できるだけいやらしくしてほしい。アッシュベイビーのラストシーンのように。なにひとつ、救いが残らないように。

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