第6話 Ignition

 わたしは、誰にも理解されたくなかった。理解できるとも思ってなかった、というよりは、理解されるのがこわかった。じぶんがとたんにつまらない人間だと思われてしまうみたいで。だから、へんな恰好をしたり、何処のものでもない制服を着てみたり、居もしない姉をつくったりした。そんなことしてるわたしが一番つまらない人間だった。わたしは、わたしの底の浅い個性を守るため、想像のバリアを張った。わたしは分かってなかった。わたしだけじゃなく、他人だっておなじように想像力を持ってるということに。そして、その想像力でもってわたしになかに入ってこれちゃうということに。一也くんがわたしのなかに入ってきたとき、気持ちよかった。わたしは初めて、わたし以外の他人を受け入れた。同時に、他人とおなじようにありふれてるわたしというものを受け入れることができた。わたしは、無印良品だ。無個性で、ありふれてて、でも質がよくて、品がよくて、そんな自分であることに迷いがなく、ちゃんと自信にあふれてる。


「想子ー、これ捨てていいの?」

 キッチンのほうからママの声がした。

「これってなによ。ゴミ箱に入ってるなら当然捨てていいだろうよ」

 わたしは朝御飯を食べながらそう返事をする。意識ははんぶん以上テレビのほうに向かってる。山口ローカルのテレビ番組では、夏の海特集が放送されてた。わたしが住んでいる町には海はないけど、電車で一時間くらい走れば海水浴場があるみたい。いいな、海。今まで一回も行ったことがないから。一也くんとも、姫ファイブとも、もうすぐ始まる夏休みには海に遊びにいけたらいいな。

「これさー、想子が大切にしてた制服じゃないの?」

 ママからそう返事が返ってきた。頭はかんぜんに海のことに浸食されてて、何のことを言ってるかしばらく分かんなかった。ああ、行くはずだった学校の制服をゴミ箱に捨てたんだっけ。一也くんとセックスしたとき、膣からあふれた精液が制服にかかっちゃったんだった。いまさらクリーニングに出すほどその制服に愛着を見いだせなかった。処女を捨てる、っていうけど、その言葉はいいえて妙だな、と思う。わたしは捨てたんだ。自意識とか、プライドとか、純潔とか、こだわりとか、お姉ちゃんとか、破瓜への想像とか、恐怖とか、幻想とか、それとか、わたしらしさとか。

 わたしらしさを捨てると、好きなものが増えた。一也くんもそうだし、姫ファイブもだし、他にも学校で話す相手ができて、あと、ママとかパパとも自然に話せるようになった。

「捨てろし。トラッシュしよし」

 わたしは投げやりにそう返事をする。

 キッチンの奥からゴミ袋をまとめるガサガサ、という音がして、しばらくたって玄関の扉が開いて閉じる音が続いた。ママ、ゴミ捨てにいくのかな。今日が土曜日だったことを思い出した。もうすぐ期末テストが始まるので、わたしは姫ブラックとファミレスで勉強する約束をしてる。テスト前、なぜか姫ファイブは姫レッド(つまりわたし)派と、姫ブルー派に別れた。姫ブラックは姫レッド派。姫イエローと姫ピンクは姫ブルー派。で、別々に勉強するようになった。学校で派閥同士が顔を合わせると、お互いの勉強の進捗具合を確認して牽制しあうようになった。まあ別に仲がわるいわけではない。むしろ、ふだん仲がよすぎたので、こういうふうにライバルごっこをするのはちょうどよかったし、なんか楽しかったし、肝心の勉強も捗った。

 冷蔵庫から水切りヨーグルトを取り出して食べてると、ふたたび玄関の扉が開く音がして、ママが帰ってきた。

「おかえりー」

 わたしはテレビに集中したまま、その言葉を投げる。ここから一番近い海は瀬戸内海っていうんだって。瀬戸内海には無人島とかすごい小さい島も含めて、島が三千個もあるらしい。周りを本州とか四国に囲まれてるので、波は少ないし、気候もおちついた穏やかな海。プランクトンが豊富に生育してて、魚もたくさん泳いでるみたい。こうしていろんなことを知ってくと、想像にレアリティが出るというか、ますます海のことを身近に感じてしまう。まあでも、実際に見たり触れたりしたら、わたしがいま思ってる海とはぜんぜん違う姿をしてるんだろうな。

 テレビ番組は、瀬戸内海の島の紹介をはじめた。美しい鳥居が浮かんでるのが厳島。あ、ここ社会の教科書かなにかで見たことある。たしか松島・天橋立とならぶ日本三景じゃなかったっけ。オリーブ・蜜柑・すももとか、果物がたくさん育てられてるのが小豆島。小豆島って、あずき島って呼んじゃうよね、と思って観てたら、昔はほんとうにあずき島って呼ばれてたみたい。紹介されるどの島も空や海の青色が映える景色がきれいで、いいなあ、見てみたいなあ、と思う。日本で最初の島とされるのが淡路島。そうそう、古事記とか日本書紀の授業のときに習ったきがする。「しかし、本当に日本最初とされる島は、別にある」みたいな重々しいナレーションが入って、え、どこだろ、と思ってるうちに、番組はCMに入ってしまった。あ、プリウスのCMだ。石原さとみ可愛いなあ。わたしの思考も、あっという間に日本最初の島のことは忘れてしまう。

「想子、のんびりしてるけど、今日は予定ないの?」

 ママにそう言われて、壁掛け時計に目をやる。

「うわ、もう十時前じゃん!」

 姫ブラックとの待ち合わせの時間は十時だった。まあファミレスで勉強するだけなので、お化粧とか服装に気を遣う必要はない。女子によってはちょっと会うだけでもそれなりに武装しないといけない相手もいて、たとえば姫ピンクがそうだったけど、姫ブラックはそのてんまるで気兼ねがない。どっちがいい悪いでもないけど、すくなくとも姫ブラックと会ってるとき、わたしは一番素のままでいられた。

「何処いくの? 誰に会うの?」

 わたしが急いでパジャマを脱ぎ、しまむらで買ったジーンズとシャツを着用してると、ママがそう声をかけてきた。ママが他人に興味をもつなんて珍しいな。ああ、どうせ朝いちばんで映画を観たんだろう。ママがオープンマインドになる数少ない時間だ。わたしがまた帰ってくる頃には、誰と会ったかなんて忘れてそうだし、訊かなそうだけど。

「姫ブラックとファミレスで期末の勉強するんだよ」

 わたしが急ぎ靴下を履きながら早口でそう答えると、ママはくすくすと笑った。

「なんなの、その姫ブラックとか、姫ブルーとか。あんた、戦隊でも組んでるわけ?」

 わたしは顔をあげ、にっこりと微笑んで言う。

「うん、わたしたち、最強だから」

 ママも同じように微笑んだ。

「あんた、いい友だち持ったね。転校先で初めてじゃない? そんなに仲のいい友だちできるの」

 なんとなく長い話が始まりそうな予感がして、わたしは表情をあいまいに崩し、勉強机のうえの教科書とか参考書類を適当にカバンに放りこんで、玄関に向かった。

 ママがわたしの後ろを歩いて玄関まで着いてきた。

「今日、いつ頃帰る?」

 ママに尋ねられて、わたしは携帯電話を開いて見る。げっ、十時よゆうで過ぎてるじゃん! 姫ブラックから「着いたよー」ってメール入ってるし!

「ああうん、晩御飯食べて帰るから、九時過ぎくらいじゃない? ママも語学教室あるでしょ?」

 そう言うと、ママは、

「語学教室はもう辞めたよ」

 と言った。

 急いでて、ママの言葉がちゃんと頭に入ってこなかった。

「鍵しめといて、じゃ!」

 わたしはそう言って玄関の扉を開け放ち、ママの顔も見ずに廊下へ飛び出した。扉が閉まる瞬間、

「ごめんね」

 という言葉が聴こえたような気が、した。


 今年の梅雨は空梅雨で、あんまり雨が降らないうち、はやくも夏に入ってしまった。ニュースでは稲作への影響とか、水不足の心配がさかんに放送された。衣服量販店とか雑貨店はあわてて夏支度を急いだ。なんとなく慌ただしい夏の始まりだった。

 夏、というのがすこしおかしい季節だというのは、十五年間生きてきて薄々気づいてる。なんというか、即物的、俗世的だ。夏を通りすぎるたび、毎年たくさんの子が初体験を済ませていった。わたしは、夏がきらい、というよりは、夏をすごすわたしというものがあまり好きではなかった。わたしらしい想像がうまくはたらかない。夏って、なんだかそれと真逆の、現実的なかんじ。その季節に喰われそうになる。

 でも、今年の夏は、なんだか楽しみだった。海に行けそうだったこともあるし、そのための友だちや彼氏がいることもあったし、やっぱり、夏より前に初体験を済ませたことが大きいのかもしれない。わたしはもう、想像しなくてもいい。無理にそうしようとしなくても、一也くんとか姫ファイブと一緒にいると、自然に促される。それはひとりでするそれよりもずっと幸せで豊かなものだった。わたしは、わたしを変えてくれたこの町を大好きになった。

 ぎらぎらとした太陽が焼く煉瓦の階段を駆け下りていく。眼下には真っ青な空と、その色を吸い取ったように萌える一面の水稲。国道二号線のアスファルトもじりじりと焼かれ、立ち上る熱気がもやもやとした陽炎を漂わせる。青い空を突き刺すような信号機が真っ直ぐに聳えてて、その脇に立ってるツバの広い麦わら帽子の子が姫ブラックだった。

「ブラック、ごめーん、遅れて」

 わたしが駆け寄りながらそう声をかけると、姫ブラックはわたしのほうを振り返って、

「おそいよ! レッド!」

 と不機嫌な声をあげた。声色のわりに、わたしを見つけた姫ブラックの表情は嬉しそうだった。

 姫ブラックは姫ファイブのなかで一番口が悪い。会話のときはたいてい愚痴とか文句を言ってるんだけど、彼女はそう言う対象のことを本当は好きなんだってことはもう分かってる。素直じゃない彼女がかわいいと思う。というか、わたしもたいがい素直じゃないというか、めんどうくさいので、彼女を見てると親近感がわくし、一緒にいて楽しい。言葉では素直じゃないのに、表情とか態度では嘘をつけない点も、わたしたちは似てたと思う。一緒にいるとうっかりどんどん素の部分を出しちゃって、恥ずかしくもあったし、それに、気持ちよくもあった。

 ファミレスに入ると、むっと煙草の煙の臭いがした。これがあるので、わたしも姫ブラックも安っぽい服装で来てる。わたしはしまむら、姫ブラックは、ユニクロかな。ふたりともジーンズに白シャツという簡素な恰好。そういう恰好でいるとちょろいと思われるのか、昔からナンパされることが多かった。わたしは可愛いし、姫ブラックも品のいい人好きのする顔だちをしてる。このファミレスは煙草の煙がもくもくで柄の悪そうなおじさんとかお兄さんが多かったのに、ナンパされたことは一度もなかった。むしろ深夜まで居座ってると「危ないから早く帰りや」と声をかけてくれたりした。わたしを、わたしたちを守ってくれてるような場所だった。勘がよかったのか、わたしは引っ越してきてからすぐこのファミレスを居場所に決めて、ほとんど毎日くらいのペースでこのファミレスに来てた。わたしにとっては居場所は自分のためだけの場所なので、他の誰かを入れたことはない。一也くんとだってファミレスに来たことはない。だから姫ファイブは例外だった。もともと、「勉強ができる」という点だけでつながったユニットみたいなものだったけど、一緒にいるうち、わたしたちの間に別の共通項が生まれた。それを言葉にするのはちょっと難しいのだけど、とにかくわたしにとって一番強くむすびついてる相手は姫ブラックで、彼女との関係のなかに答えがあった。姫ブラックと一緒にいるとき、わたしはわたしじゃなくてもよくって、なんかそれがラクだった。


 わたしたちのいつもの定位置、窓際の一番奥のテーブルに着くなり、メニューを広げた。

「ブラック、朝御飯食べた?」

 わたしが尋ねると、姫ブラックはむずかしい顔をしてメニューを睨み、

「食べてきたけど、勉強するから糖分欲しいよねえ」

 と言った。

 わたしはおおきく頷く。

 このファミレスは都合のよいことに、メニューの全てにカロリーが書いてある。カロリーは年中無休でダイエットをしてる女子高生にとって至上命題だ。スイーツにカロリーが書いてあると「夢がなくなる」とか言って嫌がる子もいた。「カロリーは美味しさの単位」とか言って前向きすぎる子もいた。わたしと姫ブラックはどうだったかといえば、「一時間がっつり勉強すれば一〇〇キロカロリー消費される」とかいう何の根拠もない方程式を立てた。根拠はないけど、勉強はすごく捗った。美味しいものを食べるためには勉強すればいい。勉強さえすれば、どれだけ美味しいものを食べてもいい。リアルに目の前に人参をぶら下げられた馬だった。そして馬が人参を好む以上に、女子高生はスイーツを好むもんなんだ。

「パッフェーにする。プリンパッフェー」

「えっ、めっちゃカロリー高いじゃん。そんだけ勉強できんの?」

「よゆう。つーかプリンは腹持ちいいから。あと世界史を勉強する予定だし」

「私はガトーショコラにしようかな」

「チョコは数学のときにいいからね。間違いない選択肢のうちのひとつですね」

「すみませーん、注文お願いしまーす」

 欲しいスイーツにドリンクバーをつけて注文する。

 どの教科を勉強するかによって、頼むスイーツは違った。数学はチョコ、世界史はプリン、古典は抹茶、英語はタルト、とか。それを食べるとその教科が捗る、とか、これまた何の根拠もない俗説を立てた。でもこれを繰り返してるうち、チョコを食べると本当に頭が数学脳に変わるようになったので不思議だ。むしろ遊びにいっても喫茶店でチョコを食べると急に数学の話を始めちゃったりして、「病んでる病んでる」と笑い合った。

 うっかりノートを忘れてきたので、姫ブラックのルーズリーフをテーブルの真ん中に置いてもらい、ふたりでそれを分け合いながら勉強することにした。最初に頼むスイーツで宣言したとおり、わたしは世界史を、姫ブラックは数学を勉強しはじめた。勉強してる間、わたしたちの間に会話はない。真面目なもんだ。独り言で、

「アレクサンドロスまじかっけー。抱かれたい」

「サインとコサインのすれ違いっぷりやばい」

 とか言ってたりするけど、お互い相手の独り言に反応したりはしない。

 一応、十二時頃に昼ご飯の休憩をとろうという暗黙の了解はある。でもスイーツを食べてそこそこお腹が膨れてるし、わたしも姫ブラックも勉強にかなり入り込んでしまうタイプなので、ようやく疲れて「ごはんでも食べる?」ムードになるのはいつも午後四時くらいだ。

「すみませーん、メニューください」

 店員さんにもらったメニューをふたりの間に広げて、何を食べるか相談する。

 勉強で来てるときは、たいていパスタ。すぐに食べられるし、炭水化物が脳に糖分を補給してくれるから。わたしはたらこスパゲッティ、姫ブラックはカルボナーラを食べることに決めた。

 もちろん、スイーツも忘れない。わたしは抹茶パフェ、姫ブラックはチーズケーキ。

「あ、レッド、抹茶ってことは、午後は古典勉強するん?」

「うん、ブラックは化学でしょ? でも化学って最終日だから今からやらんでもよくね?」

「そうそう。でも私化学苦手だからさ、今のうちにやっとかんと。前日にももっかい勉強するし」

「あー、わたし、一夜漬けとか無理。覚えるのにめっちゃ反復しないと覚えらんない」

「いや、私だって一夜漬け無理だよ。前日は軽く復習して、さっさと寝ちゃうし」

「睡眠が一番の勉強だよねー」

 食事中も勉強について話す。わたしたちの勉強に関する会話はいつも建設的だ。後ろ向きな発言はしないし、「勉強なんかして何の役に立つの?」なんて愚問を呟いたりもしない。わたしたちにとって、勉強は趣味だ。勉強するのは楽しい。たぶんひとりだったらそういうふうには思えなかったと思う。事実、わたしも中学のときには義務感しかなかった。姫ファイブとする勉強は遊びみたいなものだ。勉強の話もいつの間にか楽しいガールズトークに変わってたりする。水素原子と炭素原子をボーイズラブに見立てて、「ベンゼン環ってそういう体位みたいじゃない?」と言った姫イエローの言葉に爆笑したりした。

 かなり遅めの昼食を終えたあと、スイーツを食べて、後半戦。後半戦も長くて、気が付いたらだいたい夜の十一時くらいになってる。休憩時間を除けば、およそ十時間くらい勉強したことになる。これがいつものわたしたちのペースで、もっと短いときも長いときもあるけど、平均したらやっぱり十時間くらい。

「めっちゃつかれたー」

「頭んなかウニみたいになった」

 さすがのわたしたちも弱音を吐きながらメニューをまた貰い、夕食で何を食べるか決める。

「エビフライ定食いっちゃう」

「安定やね。じゃあわたしはハンバーグ&オムライスで」

 夜はけっこうがっつり食べる。ダイエット的には、夜は少なめのほうがいいらしいけど、一日勉強して疲れたわたしたちの食欲は留まるところを知らない。

「これぜったい太るよねー」

 おおきな海老が三尾も載ったエビフライ定食を食べながら姫ブラックが言う。

「やばいね。夏、海に行くのに、水着見せらんないんじゃない?」

 わたしはそう返事をする。

「いいよいいよ、テスト終わったら下剤飲んで断食するから」

「デトックス&ラマダーン! 新月の夜にやると効果絶大らしいよ」

「まーたレッドは適当なことを言う!」

 夕食が終わったら、ゆっくりとドリンクバーを楽しみながら、だらだらとお喋りをする。わたしも姫ブラックもすっかり疲れ切ってて、思考力もだいぶ低下し、会話はいつもより開けっ広げになる。

「最近、レッド、彼氏とはどうなん? あー、私も彼氏ほしい!」

「別にふつうだよ。今まで通り、登下校のときに一緒なくらい」

「へー。やっぱり、お別れのときとかキスとか、しちゃう?」

「ないない。別れる場所、国道二号線沿いの信号のとこだよ? 晒し者じゃん」

「へー。デートとかも行ってなくない? 手を繋いだりとか、してる?」

「デートしてないなあ。手繋いでない。なんもない」

「でもセックスしたって言ってたよねえ、だいぶ前に」

「そうだよん。でも本当にしたのかな、って思う。なんかあれ、ウソだったみたい」

「えー、それ寂しくない?」

「寂しくないよー。毎日楽しいもん」

「そんなもんかねえ。やっぱりそれは好き合ってるからなのかな」

「それもあるかもね。でも好きっていうよりは、可愛い人って感じだね」

「うわ、ノロケんな、クソ」

 夕食後の会話は恋愛の話が多かった。姫ブラックは彼氏が欲しいと言うし、会話はだいたい彼女の「彼氏欲しい願望」から始まる。でもいつのまにか、話の内容はわたしの恋愛に関することばかりになってる。わたしに幸せなことがあると彼女は茶化してくれて、ちょっといやなことがあると彼女は相談に乗ってくれる。わたしの恋愛がうまくいってるのか、姫ブラックはいつも気を遣ってくれる。おかげで、わたしはじぶんの恋愛に余裕とか自信を持つことができた。今までの恋愛を振り返ってみて、その余裕とか自信みたいなものは恋愛において一番大事なものなのかな、と思う。それがないと彼氏が何をしても後ろ向きにとらえちゃってぎくしゃくしちゃうし、それで喧嘩になっちゃう。でも、そんな類のものって、彼氏本人にしか与えられないものだと思ってた。そうではなく、わたしは姫ブラックと話し、彼女に羨ましがられたり、同情したりしてもらえるおかげで、自分の恋愛に胸を張ることができるようになった。そんなふうに姫ブラックを利用してるわたしは、ちょっと嫌な女なのかもしれない。そんなわたしに言えたことでもないけど、姫ブラックはいい女だと思う、本当に。

 

 期末テストが終わった。わたしとしては、かなり自信があった。で、自信のとおりの点数が取れて、わたしは中間テストに続き、学年一位をキープできることを確信した。しかし結果は二位。一位を取ったのは姫ブルーだった。結果を知るなり、わたしは彼女の机まで攻め入って、半ば無理矢理に彼女の成績表を奪い取り、わたしのそれと比較した。なんか、わらってしまった。姫ブルーは数学と英語が満点で、ほかの教科も一問か二問しか間違えてなかった。こんな点数、ぜったいに取れない。ぜったいに適うわけない。なんか、わたし嬉しかったんだ。こんなにすごい子と、友だちでいられるってことが。

 ちなみに三位は姫ブラック、四位は姫ピンク、五位は姫イエローだった。わたしたち姫ファイブは中間テストに続き、ほかの生徒から大差を離して上位五位を独占することができた。でも、姫イエローは五位に落ちてすごく悔しそうだった。次はもっと勉強してやるって意気込んでた。今までろくに勉強してない姫イエローが本気だしたら、わたしはおろか、姫ブルーだってやばいかも。

 まあ、次があればだけど。


 わたしは、姫ファイブから距離を取るようになった。一也くんとも、時々理由をつけて登下校を別にしたりした。こうしてわたしは、少しずつ、少しずつ、準備をしていくのだ。今までずっとそうしてきたように。

 期末テストが返ってきたあとの金曜日、わたしは学校を休んだ。姫ファイブが心配してメールしてくれたけど、わたしは「風邪を引いたから」と嘘をついた。そして、ママと一緒に東京へ向かう新幹線に乗った。

「別に着いてこなくてもよかったのに」

 新幹線の車内でママはそう言った。

「パパの転勤先、東京の本社なんでしょ。もうずっと定住することになるんでしょ。じゃあ、わたしもマンション見ときたいし」

 わたしはそう返事をした。

 嘘だ。わたしは、一也くんにも、姫ファイブにも会いたくなかった。

 パパはもう東京本社に転勤を済ませてて、マンションでの生活を始めてた。本社配属になると、基本的にもう転勤はないらしいし、昇進があったらしく給料がだいぶ上がったとのことで、ローンを組んでマンションを購入した。山手線内の駅近にある立派な高層マンション。わたしの部屋は九畳もあって、そのうえ六畳くらいのウォークインクローゼットまでついてた。わたしの転校先にも既に話はつけてあった。都内有数の女子高で、制服はめちゃくちゃかわいい。なのに、ちっとも心が躍らなかった。

 金土日と、家族で過ごした。パパが時間の都合をつけてくれて、珍しく三人で代官山の美味しい料亭に行ったり、スカイツリーに登ったり、浅草観光したりした。

 日曜夜はパパの仕事が入ってるらしく、新宿駅でお別れをして、わたしとママはふたりで中央線に乗り東京駅に向かった。

「あんた、いい加減に機嫌直しなよ」

 中央線の車内で、ママはわたしにこう言った。

「別に、機嫌わるくしてなんかないし」

 わたしはママの顔を見ないままそう返事をした。そうは言っても、電車の窓に映るわたしの表情は明らかにブスだった。

「せっかくパパと一緒にいるのに黙ってばっかで。パパだってね、想子がいまの高校を気に入ってるってこと、知ってるよ。だからすごい気にしてたんだよ。転校になってごめんって。想子には直接言わないけど、私には何度も謝ってた」

 ママはゆっくりと言い聞かせるようにそう言った。がたたん、がたたん、という規則的な電車の車輪のリズムがそうさせるのか、東京の空々しい雰囲気がそうさせるのか、ママの言葉は作り事みたいに感じられた。パパはいい。わたしにごめんって直接言わないとこも、ちゃんと気をつかってくれてるなって思う。でも、ママは狡いと思う。自分の言葉は使わずに、パパの言葉を借りてわたしを説得しようとしてる。じゃあ、ママ自身はどう思ってるの? わたしのこと、どう思ってるの? どうしてそれを言葉にしないの?

「パパがね、山口のマンションは、会社の契約が切れてもしばらく自腹で借りとくから、夏休みの間はそこにいてもいいって。別に東京に来てもいいし、山口にいてもいいって、パパはそう言ってたよ」

 そんなの、山口に残るなんて、有り得ないに決まってるじゃん。なんで有りもしない逃げ道を用意してくれた振りをするの? わたしがそれを選べないってこと分かってるくせに、わたしがそれを選ばなかったってことを理由にして、責任をわたしに押し付けて逃れようとするの?

 ママは狡い。

「東京も嫌。山口も嫌。どっちでもない場所がいい」

 わたしは言った。

「それってどこよ?」

 ママは、じゃっかんうんざりしたような声でそう訊き返す。

「海の見える場所がいい」

 今までそんな場所で過ごしたことなんてなかった。今後もずっとそんなことはない気がする。どこでもない場所だ。わたしは、そんな場所がいい。どこでもない場所で、今年の夏をすごしたい。

「あなたねえー!」

 いっしゅん空気が凍って、それを切り裂くような大声が響いた。わたしは、その声がわたしの隣に立つママから発されたものだと一瞬気づかなかった。隣を向いて、ママの鬼のような形相を見て、ようやくママがその言葉を発したのだと分かった。

 そんなママの顔は初めてみた。ママが怒ったところを初めてみた。ママはいつも他人に興味がなくて、でもそれなりに優しくて、それなりにいろんなことが出来て、悩みもなさそうで、いつも飄々としてた。でもママにだって、今まできっといろんなことがあったはずなんだ。わたしはいま、初めてママの人間じみた部分に触れようとしてた。

 でも、電車内の緊迫した雰囲気のなか、視線がママに集まってることに気がついたのか、ママはすぐにいつもの落ち着いた表情に戻った。それからわたしにだけ聞こえるくらいの小さい声で、

「そんなに海が見たいなら、お姉ちゃんのところにでも行きなさいよ」

 と囁いた。

 なにそれ。お姉ちゃんって、創子? 水子の? わたしに死ねってこと? それがママの本音?


 東京駅についた。ママと一緒にいたくなくて、わたしはひとりで駅構内をぶらぶらしてた。売店を見ると、東京ばな奈を売ってた。へえ、今はいろんな味が出てるんだなあ。パッケージも可愛い。わたしは試食しながら、姫ファイブのことを思い浮かべた。

 キャラメル味はスタンダードだから、姫ブラックに向いてるかな。バナナプリン味は可愛いから、姫ピンクにあげたい。甘いメープルバナナ味は姫ブルーに。あの子、いちばん甘いの好きだもんね。姫イエローは……どれだろ。あの子下ネタ好きだから、どの東京ばな奈でも喜びそうだな。あ、このバニラの匂いがするバナナシェイク味、姫イエローっぽいかも。じゃあわたしは、ツリーチョコバナナ味かな。

 どの味も甘くて、美味しくて、わたしたちそのものだった。一緒にいるようになってたった三か月だったけど、わたしたちは可愛かった。わたしは、あの子たちが、大好きだった。でもきっとわたしは、あの子たちを忘れちゃうんだろう。食べると消えちゃう東京ばな奈みたいに、ありふれたお土産みたいに、女の子との思い出なんて、あっさり消えちゃうんだろう。とくに姫ファイブなんていう、よくできたお菓子みたいな関係だったから。

 わたしはぼろぼろ泣いた。そんなわたしを見ても、誰も足を止めなかった。流れ落ちる涙がコンコースに水たまりを作っても、ただ乾くだけだ。それは海に繋がってないし、他のどこにもつながってない。わたしは海を探してる。この悲しみを流す場所を、わたしを流す場所を探してる。


 週明け、二日だけ学校に行く機会があって、そのまま終業式・夏休みとなった。わたしは、クラスの子や、姫ファイブ、一也くんに、ごく簡単に東京に転校になることを話した。誰も泣かなかったし、寂しいとも言わなかった。へえそうなんだお元気で、くらいの感じで、わたしはちょっと拍子抜けをした。今までの学校でも、もうちょっとお別れ会的なものはあったぞ。でもわたしはあのお別れのときの無理につくったような悲しみが苦手なので、そのくらいがちょうどよかった。

 最後の挨拶のために職員室に行くと、進路担当の先生の机のうえに進路希望の紙が置かれてあった。進路担当の先生は五人いて、それぞれ就職担当・専門担当・私立担当・国公立担当・難関大学担当、だ。難関大学は旧帝大だけで、うちの学校から進学できる人はおろか目指す人すらほとんどいない。わたしが見つけたのは、難関大学を目指す生徒の進路希望の紙だった。進路希望の調査は昨日行われて、わたしはもう転校が決まってたし冗談で「東京大学志望」と書いたのだけど、ほかにも難関大学を目指そうとする人がいるらしいことに驚いて、ちらっとその紙を盗み見てみた。

 紙はぜんぶで六枚あった。その全てが東京大学志望で、名前の欄にはわたしと、姫ブルー、姫イエロー、姫ピンク、姫ブラック、それから一也くんの名前が並んでた。

 いや、無理でしょ。姫ファイブはまだしも、一也くん、この学校でも中の下の成績しかなくって地方国公立すら無理そうなのに、何考えてんの?

 まさか、いやまさかと思うけど、ぜったい違うと思うけど、わたしと再会するために東京大学目指すとか、そういうことじゃないよね?

 在り得ない。すべてが在り得ない。そう思いながら、わたしは何だか幸せだった。この学校に来てよかった、改めてそう思った。わたしは、姫ファイブと一也くんとで過ごす、東京大学での生活を想像した。一緒にサークルを探したり、出席の代返を頼んだり、ノートを写させてもらったり、お酒を飲みすぎてトイレに籠ったり、狭いアパートにみんなで集まって鍋を食べたり、そんなありふれた、そんな素朴な、けどぜったいに手に入らない未来を想像した。それが山口の短い暮らしでの最後の想像だった。それは今まででいちばん無理矢理で、でも切実で、「想子」という名前にふさわしいと思った。


 終業式を終えて家に帰ると、リビングから音が聴こえた。英語の会話。ああ、ママがまた映画を観てるんだな。東京で喧嘩して以来、ママとは一言も口をきいてない。これほど派手な喧嘩は初めてだと思う。「死ね」と言われたならまだ許せた。「お姉ちゃんのところへ行け」という言葉は、わたしという存在をそれ以上に否定する言葉に聞こえた。

 ママとは顔を合わせたくなかったのだけど、リビングを通らないと自分の部屋に入れないので、そっとリビングの扉を開ける。ぷんとお酒の匂いがした。ソファにはママが深く腰をかけてて、机のうえにはアサヒのビール缶のおおきいやつが三缶も並んでる。ママ、ふだんはお酒を全く飲まないはずなのに。わざわざ買ってまで何してんのかな。

「想子、ちょっとそこ座りなさい」

 わたしがママの後ろをそっと通り過ぎようとすると、そう声をかけられた。ママらしくもない、芯のとおった力づよい声。それでいて、少し悲しそうな。

「なによ」

 無視してもいいんだけど、やっぱりわたしはママが大切だし、心配だ。わたしは、ママの斜め前にあるソファにそっと腰かけた。

 しばらく沈黙になる。

 ママは、机のうえにあるビール缶をひとつとって、プシュ、と音を立ててプルタブを引き、ビール缶をわたしの前に置いた。

「飲めってこと?」

 わたしは尋ねるが、ママは何も答えない。じっとテレビに映る洋画を観てる。薄暗くなりはじめた部屋のなか、ママの瞳に映るテレビの画面がちらついて、なんだか泣いてるみたい。

 わたしはビール缶を手に取り、ちびちびと減らし始めた。わたしも滅多にお酒は飲まない。飲めないわけじゃないんだけど、あんまり酒が並ぶ会合に縁がなかった。前に飲んだのは中学生のとき。あれ、いつだったっけ。何で飲んだんだっけ。すごい嫌なことがあったきがするけど、思い出せない。

 わたしがビールを飲んでいるあいだ、ママは黙って映画をじっと眺めてた。ママの前に置いてあるビール缶をなにげなく手に取ってみると、一缶は空いてたけど、もう一缶はそのままだった。ママもそんなにお酒に強いわけじゃないのかな。

 長い時間をかけてようやくわたしがビールを飲み終えたころ、テレビには映画のエンドロールが流れ始めた。わたしの頭には酔いがまわりはじめて、なんだかふわふわした。気持ちいい、雲のうえにいるみたい。

「あんまりお酒を飲むと、私みたいになるからね」

 エンドロールが終わるのを待って、ママはそうぽつりと言った。

「え、なんて?」

 意味がわからなくて、訊き返す。

「あんまりお酒を飲むと、私みたいになるよ」

 ママはもう一度言った。声はさっきより震えてた。テレビには、DVDのメニュー画面が表示されてて、それはママの瞳に映り、青色をしたそれは海みたいだった。

「私はね、ていうか、あんたもそうだと思うけど、お酒に弱いの。弱いっていうか、お酒に酔うと、ちょっとオープンになるというか、……まあ濁しても仕方ないからはっきり言うと、誰とでもしたくなっちゃうの」

 ママは、消え入りそうな小さい声でそう言った。

 したくなるって、なにを? しばらく考えて、わたしは前にビールを飲んだとき、初対面のお兄さんと初めてキスをしちゃったことを、その先もしそうになっちゃったことを思い出した。

「私は本当に馬鹿だった。行きずりの男と寝て。しかも最悪なのは、ずっと妊娠してるってことに気づかなかったことよ。ていうか、生理が来てないことには気づいてたんだけど、面倒くさくって、全然検査しようとしなかった。気づいたときには、もう堕ろせなくなってた。ていうか、そもそも妊娠してるなんて思わないじゃない。ごめんなさい、ごめん」

 ママが何を言ってるのか分かんなかった。ママが何を言おうとしてるのか分かんなかった。ただ間違いなく言えるのは、ママが映画を観たあとに話しているこれは、とても大事な話だってことだ。ときどき、その話のなかに嘘が含まれることもあった。でもママは嘘をつくとき、冗談を言うとき、ぜったいに謝らない。プライドの高いママが謝るのは、いつも本当の話をするときだけだった。

 わたしは息をひそめ、耳をすませ、ママの話の続きをうかがった。

「想子、あなたにはね、お姉さんがいるの。ソウコって名前なの。あなたは想う子って書いて想子でしょ。そうじゃなくて、お姉さんは、創る子って書いて、創子」

 いつか聞いたことがある気がする。でもわたしはあのとき、ぜったいに嘘だと思ってた。でも、本当になればいいなって思ってた。だからわたしは、想像のなかで創子をつくり出した。

「創子って、お姉ちゃんって、水子って言ってた、あれ?」

 わたしがそう尋ねると、ママの手が急に震え出した。

「水子じゃないの。私は、産んだの。産むしかなかったのよ」

 ママの手の震えはどんどん強くなり、新しくビールの缶を開けた。そのまま飲もうとしたあとテーブルのうえに取り落し、横倒しになった缶から黄金色の液体があふれ、ガラスでできたテーブルのうえをつたった。

 窓からは、夕間暮れのあおい光があふれた。ママの瞳からは、とうめいな涙があふれた。

 いまこの部屋には、いたるところに海があった。

「創子はね、お姉ちゃんはね、海のある町に住んでるの」

 ママはわたしに尋ねた。

「行きたい? お姉ちゃんに会いたい?」

 わたしが海のある町に行きたいと言ったとき、ママは激怒した。きっとお姉ちゃんのことを思い出させたのだろう。わたしがお姉ちゃんに会いたいと言うことは、今以上にママのことを傷つけるかもしれない。

 じゃあわたしは、首を横に振るだろうか。東京に行って、お姉ちゃんのことを知らずに生きていくのだろうか。きっとそれはとても幸せなことだろう。今までの生活がそうだったように。でも、わたしは。

 わたしは誰なんだろう。それを何よりも知りたいと思う。わたしと同じソウコという名前をもつもうひとりの人間を通して。わたしという人間をわたしの反対から見つめて。わたしに意味を与えたい。わたしの、想子の、想うという行為に、創子の、創るという行為のような、意味を与えてほしい。

 気がついたら頷いてた。わたしは、やっぱり少し酔ってたのかもしれない。ママが酔ったときに過ちを犯したように、わたしは繰り返してるのかもしれない。じゃあ、創子は過ちの結果だろうか。わたしはそれを知りたいと思う。もしかしたらママも、そうだったのかもしれない。

「そういうと思った」

 ママは泣きそうだった表情をむりやりに綻ばせて、アイフォンを取り出した。

「創子はね、幸太郎さんって人に引き取られて、いま幸太郎さんと一緒に暮らしてるの。幸太郎さんは私の友だちなんだけど、けっこう最悪なひとだよ」

 ママはそう言ってアイフォンに指を滑らせ、耳に当てた。幸太郎さんという人に電話するのだろうか。最悪なひと、と言いながら、幸太郎さんの話をするときのママは嬉しそうだった。

「ちょっと、何聞いてんのよ」

 ママはそう言ってわたしの顔を睨むと、アイフォンを耳に当てたまま自分の部屋に引っ込んでしまった。だから、わたしはママと幸太郎さんが電話で何を話したのかは知らない。ただ、恥ずかしそうだったママは何だか初恋をする乙女みたいで、かわいかった。ママにとって、幸太郎さんはどういう存在なんだろうか。創子を、お姉ちゃんを引き取ってもらいながらも何で結婚しなかったんだろう。いろんな疑問が頭をよぎったけど、ママには訊かなかった。幸太郎さんに会えば、お姉ちゃんに会えば全て分かる。それを楽しみにした。


 夏休みに入ると、いったん荷物をまとめて東京に引っ越した。それから必要なものだけをボストンバッグに詰めて、幸太郎さんとお姉ちゃんがいる海へ向かうことにした。ふたりがいる海の名前は、エドマリというらしい。漢字で書くと江泊。瀬戸内海の真ん中にある島みたいな場所だって。

 出発の日はけっこうな大雨だった。なんというか、幸先がいいというか、ちゃんとたどり着けそうなきがした。雨の日は、わたしのいる場所が海とつながってる気がする。雨が激しければ激しいほど、そうだ。

 東京駅までママが見送ってくれた。わざわざ入場券を買ってまで新幹線のホームに入ってきてくれた。たった一か月の旅なのに。ママには映画があるし、語学教室も始めるだろうから、寂しくはないだろう。わたしに何か言いたい言葉があるのかもしれない。わたしは黙ってママの言葉を待った。ママは一言も口を開かず、とうとう出発する新幹線の扉が開いてしまった。

「じゃあ」

 わたしが軽く手を振って新幹線に乗り込もうとすると、ママは、

「会わせたかったのかもしれない」

 と言った。

 わたしが振り返ると、ママは幸太郎さんと話すときと同じ、おさない少女のような表情で、こう言った。

「わたしは幸太郎さんにあなたを会わせたかったのかもしれない。大嫌いなあいつに、私の人生を自慢したかったのかもしれない」

 江泊に向かう新幹線のなか、窓の向こうを眺めた。やがて雨があがり、うつくしい虹が青い空におおきなはしごを架けた。

 ママが、わたしのことを、自慢だって言ってくれた。

 そのことが嬉しかった。わたしが江泊に行くことに、幸太郎さんとお姉ちゃんに会うことに、意味を与えてくれた。

 わたしにとって、このじてんで江泊に行く目的は全て果たされてたのかもしれない。ただ、ママにとってはそうではない。わたしは大好きなママのため、江泊に向かうという気持ちを強く結んだ。


 新幹線で福山駅まで進み、そこで降りて在来線に乗り換えた。在来線は各駅停車でゆっくりと進んだ。鞆駅で降りて、そこでまたバスに乗り換える。ボンネットがやたら大きいオンボロバスだった。しかも運転が激しくて、カーブするたび木で出来た床が軋む。酔っちゃいそうで窓のそとをじーっと眺めてると、民家の向こうに時折黒い視界が開けるようになった。あれが海なのかな。そっとバスの窓を開けてみる。嗅いだことのない酸っぱい匂いがして、わたしは怖くなり、すぐに窓を閉じた。

 一時間くらい乗って、ママに言われたとおり、仙酔造船所前で降りた。造船所のものなのか、巨大なクレーンが空高く聳えてて、高いところで赤色灯がきらきら光る。まず海まで行き当たって、突き当りの岸壁を右に曲がり、まっすぐ行ったところの汐音ラーメンという店に幸太郎さんはいると聞いてる。しかし海に行くには造船所のど真ん中を突っ切らなくてはならない。入っていいものなのか、戸惑いながら、しかし入場を拒むような仕切りの類はないし、尋ねる人も見当たらないので、造船所のなかを真っ直ぐに進んだ。

 行き当たり、岸壁で、わたしは初めて海をみた。夜はとっくにとっぷりと暮れてたので、真っ黒だ。やっぱりバスの窓を開けて嗅いだときと同じへんな匂いがする。なんかもっと感動するかと思ったけど、どっちかというと、怖かった。なんか、飲み込まれそう。わたしは本当にこんなものが見たかったのか。泣きそうになりながら、まずは幸太郎さんを探そうと岸壁沿いを歩いた。岸壁には、たくさんの船がくくりつけられてた。漁船なのだろうか、小さいものが多い。ときどき、岸壁に腰かけて休んでるおじさんがいた。漁師さんかな、とても身体つきがよい。わたしを見てもまるで興味を示す様子がない。わたしの姿はほんとうに見えてるんだろうか、やっぱりわたしはここに場違いなんじゃないだろうか、そんなことを考えながら、汐音ラーメンまでの道を急いだ。

 ひとしきり歩くと、海に突き出た突堤があって、そのうえに簡素なバラックが煌々とした光をただよわせて建ってた。赤いのれんがラーメン屋のそれっぽい。他にそれらしい建物もないし、のれんに大きく書かれた「汐音」という文字が目印になって、そこが汐音ラーメンだとすぐに分かった。

 ママからは、幸太郎さんには既に話を通してあるから、「想子です」と言うだけで話が通ると聞いてる。わたしは入口の前でひとしきり呼吸を整えたあと、ゆっくりと引戸を開けた。引戸は軽く、カラカラという耳障りな音をたてて簡単に開いた。

 いらっしゃい、とか言われるかと思ったけど、何も反応がなかった。傷だらけの畳が敷かれた店内にはぼろぼろの大きな座卓が並んでて、それ以外に何もない。座卓のうえにはでんとトイレットペーパーのロールが置いてあって、汚れたコップに割りばしが刺さってる。キッチンらしき場所は見当たらない。壁際にちいさな液晶テレビ。ど真ん中には存在感のある柱があって、その脇に湯と水が出せるらしきおおきな給水機。そのしたにこれまた大きな戸棚。戸棚の扉はすこし開いてて、なかには紙コップと、たくさんのカップヌードルが見える。ていうか、人が誰もいないんですけど。

「すいませーん」

 と声を張り上げてみるが、何も反応がない。

「すいまっ! せーん!」

 じゃっかん叫ぶくらい大きな声を出してみた。

「はーい」

 すこしの間を追って、どこからともなく男性の声がした。なんだか若々しい、男性にしては少し高い声。後ろの扉が開く音がして、わたしは振り返った。

 あ、幸太郎さんだ。なんとなく、すぐに分かった。年齢はママより少し若いくらいだろうか、無精ひげはあるけど、肌のつやがよい。睫毛が長く、頼りない二重まぶたをやさしくみせる。頬がこけてて、痩せ細ってて、不健康そうでじゃっかん汚いんだけど、とにかくやさしそうに見えた。かなしいくらい、やさしそうだった。幸太郎という名前のとおりだ。ママの子を引き取るのは、きっとこういう人だと思った。ただ、俗世離れしてるというか、ママの人生にはいないタイプだと思った。映画とか語学の世界とはまるで縁がなさそうな。ママと結婚しなかったのは、そのへんが理由なのかもしれない。

「あの、こんにちは、想子です」

 わたしがそう言って頭を下げると、幸太郎さんは、

「ソーコ……?」

 といって虚空に目を迷わせ、しばらく首を傾げた。

 大丈夫か? ちゃんとママは話を通してくれてるのか?

 と不安になりながら、彼の視線の行く末をしばらく見守ってると、彼は、

「ああ!」

 と言い、とたんに弱々しかった瞳を輝かせ、

「そっちのソーコね! 深雪さんの娘ね!」

 と何度か頷いた。

 深雪は、ママの下の名前だ。

「そうです、マ……えーと、深雪の娘の、想子です。想う子、って書くほうのソーコです。よろしくお願いします」

 わたしはそう言い、頭をさげた。

 幸太郎さんは、しばらくにこにこして、わたしを眺めていた。

「えーと……」

 どうすりゃいいんだ? なんだこのムード?

 困ってしまい、わたしが愛想笑いを浮かべると、

「早速だけど、お姉ちゃんに、創る子のほうのソーコに会いたいでしょ?」

 と言い、扉を開けて去っていってしまった。

 なんというか、第一印象。わたしは、幸太郎さんが苦手かもしれない。なんかテンポが違う。思ってるのとは違う反応が返ってくる。

 黒い海のまんなかをゆっくりとちいさな船が近づいてきて、汐音ラーメンの隣に着岸した。船のうえから背の低い男の子がひょっこり顔を出した。

「こいつ、創子の彼氏の、大地っていうの。創子のいる江泊まで連れてってくれるから、乗ってって」

 へえ、お姉ちゃん、彼氏いるんだあ。幸太郎さんの言葉に頷こうとすると、少年は、

「彼氏じゃねーよ!」

 とぶっきらぼうな声をあげた。

 汐音ラーメンのライトで彼の姿が見えた。Tシャツに短パンというかざらない姿。うわ、顔つき、めっちゃ幼いじゃん。くりくりの目とか、ふわふわのくせっ毛とか、かわいー。

「お前ら、まだ付き合ってなかったの?」

「まだって言うか、付き合わんわ、一生」

「嘘ん。でも大地、創子のこと好きでしょ?」

「うるせえ幸太郎、ぶっ殺すぞ」

 幸太郎さんと、大地っていう子のやりとりを見ながらわたしが愛想笑いを浮かべてると、大地くんが手を振って、

「おいもう一人のソーコ、連れてったるから、乗れよ」

 と言った。

 岸壁から船までけっこう高低差がある。

「どうやって乗るの?」

 わたしが大地くんを見下ろしてそう尋ねると、大地くんは、

「ん」

 と言って、両手を広げてみせた。

 抱きとめてくれるっていうのか、けっこう男前だな。

「先に荷物だけ投げたほうがいいよ」

 後ろから幸太郎さんにそう言われて、そっと荷物を落とすと、大地くんがそれをキャッチしてくれた。

 次いで、わたしは身体を船のうえに投げた。とてもちいさい船ではあったけど、そのぶん逆に船体が水面に沈んでクッションみたいに衝撃を吸収してくれて、意外と簡単に乗り込むことができた。

「じゃあ、行くぞ」

 大地くんがそう言って、船後尾にあるスクリューを回し始めた。ぎゅううううん、と音が唸ると同時に、白い泡を後ろに立てながら船が黒い海の真ん中を進む。岸壁では、幸太郎さんが両手を振ってて、すぐに見えなくなった。

 わたしはこれから、創子に、お姉ちゃんに会うんだ。想像上のお姉ちゃんじゃない、本当の、本物のお姉ちゃんに会うんだ。どういう人だろう。きれいかな。想像のなかみたいに、強いかな、やさしいかな、賢いかな。江泊ってどんな場所なのかな。お姉ちゃんはそこで何をしてるのかな。船は風をつっきって進む。わたしは船の先頭に立って風に煽られながら、黒い海の向こうにやがて現れるであろうもうひとりのわたしを睨み続けた。

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