第5話 Blank Space
中間テストの結果が返ってきた。なんと、学年で一位だった。そんな成績はとったことがない。わたしの成績は今までよくても中の上くらいだった。今までいたとこよりレベルの低い高校ではあるけども、それを差し引いてもうれしいより先にびっくりして、成績を見るなりけっこう派手に笑ってしまった。わたしが笑うと同時に、わっ、という泣き声が教室の反対側のほうからした。クラスでいちばん頭がいいことで有名な女の子だ。周りのひそひそ声に耳をすませたところ、中学のときから学校でもいちばんだったらしい。それも、三年間ずっとトップから落ちたことがなかったんだって。それがこの高校では、わたしに次いで二位。うわー、やっちまったなあ、またいじめられるかなあ、と思ったけど、そんなことはなかった。中間テストの学年上位五位は、みんなうちのクラスの子だったらしい。そのことを知った冗談好きの女の子が「姫ファイブ」というあだ名をつけて、あんまりにださくてみんなで爆笑したあと、学年中に広まって定着した。
学年一位のわたしが姫レッド。二位の、今までいちばん成績がよかった子が姫ブルー。もちろん姫レッドと姫ブルーはライバルだ。姫ブルーは度の厚い黒ブチ眼鏡をしてて、前髪をピンであげておでこを全開にしてるんだけど、眼鏡を外して前髪を下ろすと、すごい清楚系の美人になる。やばい、わたしも負けてらんない。三位の子が姫イエロー。嘘か本当か知らないけど、姫イエローは家でぜんぜん勉強してないらしい。天才なのか。ただ間違いなく言えることはすごい天然で、たまに口を開くと、のんびりした口調ですごいおかしいことを言う。しかもその大半が下ネタ。理科実験のときに姫イエローがぽつりと言った「コマゴメピペットってえろくない?」って言葉は、そのあと何度か思いだし笑いした。四位の子が姫ピンク。姫ファイブのお色気担当。胸がすごいでかくて、スカートなんかパンツが見えそうなくらい短くしてて、じっさいにパンツ見せてもらったら大人っぽいレースの黒いパンツで、かなり引いた。まあパンツ見せてもらうわたしらもどうかと思うけど。姫ピンクはお化粧がすごい得意で、いつもたくさんの化粧道具を持ち歩いてて、姫ファイブをとびきり可愛くしてくれた。五位の子が姫ブラック。姫ファイブのなかで、わたしと姫ブラックだけがみんなと違う中学出身だ。姫ブラックは、なんかすごいプライド高い。姫ファイブとか姫ブラックって呼ばれるのもいやがってた。姫ブラックはじっさいにお嬢様らしいので、姫って呼ばれることに抵抗があるのかな。それか、本当はうれしいのに照れ隠ししてるのかも。姫ブラックはなんだかなんだで姫ファイブのあそびに付き合ってくれた。そして、わたしに対するいじめのことを謝ってくれたのは、姫ブラックだけだった。ほんとうは、すごい純真でやさしい子だと思う。
姫ファイブのわたしたちは、しばしば集まって遊ぶようになった。休み時間はいつもつるんでたし、お昼ごはんは机を寄せておかずを分け合ったりして、そのあと長いじかんおしゃべりをした。休日、市街に出てあそぶこともあった。もちろん賢くてなんぼの姫ファイブなので、次のテストでもぜんいん上位を独占できるよう、図書室にこもって勉強を教えあうこともあった。
「彼氏、ほっといて大丈夫なの?」
そうこうしてたら、ついにお姉ちゃんに注意されてしまった。そうそう、登下校のときだけは彼氏と一緒にいたけど、相変わらずぜんぜん会話してなかったし、彼氏彼女らしいことも何ひとつしてないのだった。
「いいんだよ、あの子はあれで」
わたしがそう言い捨てると、お姉ちゃんは呆れた口調で、
「他人を都合よく扱うと、今度はあんたが都合よく扱われるよ」
と言った。
うーん。まあ、彼氏を都合よく利用してるという自覚は、ある。じっさい、登下校のときの足として使ってるみたいに思われても仕方ないし。でもなあ、恋愛を進めることに対して、いまいちモチベーションがあがらないのも事実なんだよな。パパとママの淡白な恋愛を幼いころから間近で見てきたからなのか、どうも恋愛に対して夢がみれない。激しく燃える恋愛であればあるほど、より近くに迫ってるだろう別れを意識しちゃう。別れの瞬間だけはけっこうドラマがあって好き。わたしにとって恋愛は、あるいみで別れるためにしてるものだ。付き合ってる最中からどう別れるかばかり考えてる。そもそも、わたしが彼氏を利用してるっていっても、相手だってわたしを利用してるんじゃん。おたがいさまじゃん。少なくとも、今までに付き合った子はみんなそうだった。
でも、いま付き合ってる彼氏だけは、そうではなかった、かもしれない。彼はわたしに対してなにも要求しなかった。ただ「まっすぐな道を見せたい」とだけ言って、ほんとうにそれだけだった。
「うーん……」
そこまで思い至ると、今度は一転して申し訳ないきがしてくる。わたしは彼に何かを返さないといけないんじゃないだろうか。でも、彼がわたしに求めてるものがなんなのか、全然わかんない。彼は物静かで、無欲で、自己主張しなくて、じゃっかんきもちわるいくらいまっすぐだ。そもそも、彼はほんとうにわたしのことを好きなのか? ていうか、なんでわたしがこんなに真剣になって彼のことを考えてるわけ? むしろ、わたしが彼のことを好きなのか?
「デートしてみようかなあ」
そう呟くと、首元に下げた小瓶のなかの水面がきらりと輝いて、
「いいと思うよ」
と、お姉ちゃんから返事があった。
デートに先立って、姫ファイブに相談をしてみた。なんと、姫ブルーも、姫イエローも、姫ピンクも、姫ブラックも、みんなそろって彼のことを好きだったらしく、最初に怒涛のような恨み言を聞かされた。でも三十分くらいで落ち着くと、みんなデートのことを応援してくれた。
姫ブルーは食べログやらぐるなびやら、インターネット上の情報を検索して、るるぶみたいな冊子を手製本で作ってきてくれた。うわ、フルカラーだし。これすごい金と手間かかってるんじゃないの? そのうえ、カラフルな蛍光ペンを使って姫ブルーなりのオススメポイントを細かく丁寧に書き加えてくれていた。
姫イエローはおっぱいを大きくする体操のDVDをくれた。視聴覚室でこっそりみんなで観て爆笑した。体操してるの姫イエローだし。撮影してるお父さんの声入っちゃってるし。後ろを風呂上りのおじいちゃんがブリーフ一枚の姿で歩いてくの見切れちゃってるし。ありがとう、姫イエロー。気持ちだけはうれしい。実は家に帰ったあと、その体操をやってみたのは内緒。
姫ピンクは、彼女のオススメの化粧品を分けてくれた。分けてくれたというか、まるで減ってなかったので、わざわざ買ってくれたやつを気を遣わせないよう開封だけしてそのままくれたんだと思う。けっこう高い化粧品ばかりなのに。しかもわたしに合うようなメイクを考えて、どういうふうに施したらいいかメモ書きまで作ってくれた。試しに姫ピンクに言われたとおりにメイクしてみたら、ナチュラルメイクでぜんぜん派手じゃないのに今まで見たことがないくらい可愛くなった。あんまりに可愛すぎる気がしてふだんは出来ないけど、デートの日はぜったいこのメイクにしようと心に決めた。
姫ブラックだけは何の助けもしてくれなかった。最初から最後まで「私だって彼のこと好きだったんだから」とひたすら強情に主張し続けて、ことあるごとに「早くフラレたらいいのに」という言葉を付け加えた。そのわりに、わたしのデートに関する姫ファイブの会議には必ず顔を出してた。そして会議が行き詰まると、さりげなく助け船を出した。廊下とかですれ違うと、山口の数少ないデートスポットの情報をさりげなく出してきた。今までそんなに興味を持っていなかったはずのファッション誌とかヘアカタログをさりげなく買ってきて、休み時間にはわたしの机のところまでやってきてさりげなく広げた。雑誌の男子ウケがいいアイテムを特集したコーナーには、さりげなく付箋が張ってあった。姫ブラック、めんどくさすぎる……。でも、ありがとう。
「想子、いい友だちもったね」
家に帰ると、お姉ちゃんがそう言ってくれた。
わたしは右手に携帯電話を握り締める。
「もちろん姫ファイブは頼りにしてるけどさ」
それから、左手に首からさげた小瓶をもっとつよく握る。
「いつも傍にいてくれるのは、創子なんだからね」
小瓶のなかで水面がゆらぎ、お姉ちゃんが笑った気がした。
うん、大丈夫だ。わたしは勇気を振り絞り、携帯電話に登録してある彼氏の番号をさがして、通話ボタンを押した。電話番号は付き合い始めてすぐ交換したけど、電話するのはこれが初めてだ。
『もしもし』
ほんの数コールで彼が出た。ちょっと、早いって。まだ心のじゅんびできてないって。しかも電話を通すと声がいつもより低く聞こえて、なんだか男の人みたいで緊張する。
「土屋ですけど」
付き合いはじめてしばらく経っても、彼に対して敬語を使ってしまうのは変わらない。いままで付き合ったひとは、年上でもぜんぜんタメ口で話せたのにな。
『声で分かるよ』
彼はそう言った。あ、いまちょっと笑った? 彼が笑ってるとこはあんまり見たことがないので、可愛いな、と思った。できたら顔も見たかったな。どんな顔で笑ったんだろう。いま何してるのかな。お風呂は入ったかな。服はパジャマなのかな、それともジャージ姿なのかな。後ろから声がかさなって聞こえる。テレビ見てるのかな。ドラマかな、アニメかな。きょう何やってたっけ?
「いま何してるんですか?」
そう尋ねると、彼は、
『野球観てるよ』
と言った。後ろから、わあああ、という歓声が聞こえた。点が入ったのかもしれない。彼が応援するチームが点を取ったのか、取られたのか、彼はぜんぜん喜んだり怒ったりするふうでもない。まあいつもそうだもんな。彼が野球を観る姿なんてそうぞうできない。テレビの前で正座して試合の最初から最後までぜんぜん感情の起伏をださずに観戦してそう。
「あのですね、」
デート行きませんか、と言おうとして、急に不安になった。デートって、何処に行けばいいんだ。彼が喜んでくれる場所なんてあるんだろうか。そもそも、マル一日わたしと一緒にいて楽しいんだろうか。なんか理由つけて断ってくれたらまだいい。デートに来てくれた末、彼を退屈させちゃったらどうしよう。それで、振られたらどうしよう。別れるのなんかぜんぜん何でもなかったのに、むしろ楽しみにしてる節すらあったのに、とつぜん怖くなった。わたしはやっぱり、ほんのちょっとだけど、彼のことを好きなのかもしれない。そう思うといっそう緊張してきて、心臓がばくばく唸りはじめた。震える手で電話を持ったまま、長い沈黙が続いた。でも、彼は何も言わず、ずっと待っててくれた。
わたしは汗ばんで痛くなるくらい電話を押し付けていた右耳から電話を離し、左手に持ち替えた。このときのわたしを支えてくれたのは、姫ファイブがはんぶん。そして、もうはんぶんはもちろん。
わたしは、空いた右手で首からさげた小瓶をぎゅっと握り、叫ぶように言った。
「デートしてほしいんですけど!」
あんまりに勢いよすぎて顔から火が出るくらい恥ずかしかった。なんだこれ。処女か。処女だけど。
『いいよ』
その答えが返ってくると、汗ばんだ顔面から一気に血の気が引いて、そのまま倒れそうになった。なんとか意識を強くもち、荒い息を整えてようやくちいさい声で、
「ありがとう」
と伝えると、そのまま電話を切った。切ったあと、そのままベッドに倒れこんだ。首から下げた小瓶を持ち上げ、蛍光灯に透かす。それはとても綺麗で、涙が零れそうになった。
「創子……」
やったよ、と伝えようとすると、お姉ちゃんからは冷静に、
「日付とか、時間とか、決めなくていいの? あと待ち合わせ場所とかも」
と返事があった。
けっきょくもう一回電話をかけて、お姉ちゃんに言われたとおり、日付と、時間と、待ち合わせ場所を尋ねた。ぜんぶ彼が決めてくれて、わたしは頷いてるだけだった。
次の日、わたしは笑い話として、このことを姫ファイブに報告した。でも、姫ファイブはぜんぜん笑わなかった。その代わりに、
「かわいい」
と言って、みんな順々にわたしを抱きしめてくれた。
デートに着てく服は、お姉ちゃんとふたりで決めた。ありったけの服を床に広げて、鏡の前でファッションショーをした。色合わせがどうのこうの、今年の初夏の流行りはあーだのこーだの、この年頃の男の子の好みはどうだのああだの、はては彼が脱がせやすい服を意識しすぎて近所迷惑な黄色い歓声をあげたりして、お姉ちゃんとふたりでファッションを考えるのは楽しかった。行き先とお化粧については、お姉ちゃんには訊かなかった。そのてんは、わたしには最強の姫ファイブがついてるから。
デート前日夜。わたしは小瓶を枕元に置いた。リモコンを押してライトを豆球にすると、ハチミツみたいなやさしい橙色が小瓶のなかに浮かび上がった。
「創子」
わたしは小瓶に語りかける。
「ずっと傍にいてよ」
お姉ちゃんからは、
「当たり前じゃない」
と返事があって、わたしはそれに安心して眠りに落ちることができた。
あるいはそれは、微睡んでたわたしが見た夢だったのかもしれない。
あくる朝、腰のうしろから頭のさきまでするどい痛みが走って目が覚めた。後頭部がじんじんして、眠気も手伝って視界がおぼろげだ。ようやく焦点があうようになると、天井にたよりない豆球がにじんでた。どうやら、わたしはベッドから落ちたみたいだ。
「いったー……」
ゆっくりと上半身を起こす。いま、何時だ? 辺りが真っ暗だ。目線をおよがせてミニコンポに映るデジタル時計に目をやると、七時を過ぎたところだった。やばい、お化粧に力をいれることを考えると、もう起きなきゃじゃん。ていうか、なんでこんなに暗いんだ? しかもさっきからノイズみたいに耳障りなザーって音がどこからともなく聴こえてくる。思い出したように痛くなった頭を抑えながら、立ち上がりカーテンを開けて、窓のそとを覗いてみた。
さいあく。穴があいた風船みたいに、気持ちがぷしゅううとみるみる間に抜けてくのがわかった。外はバケツをひっくり返したような土砂降りだった。湿気は部屋のなかにも満ちてて、息苦しいくらい。まるで水の底だ。息継ぎするみたいにおおきなため息を吐いて、部屋のなかを振り返った。窓の向こうから漏れるよわよわしい光が部屋のなかをあおく照らす。壁掛けのフックには今日着るよていの洋服がハンガー掛けされてる。リズリサの花柄ワンピースに、ママからパチってきた上品なフリンジデニムジャケットを合わせた。机のうえには、姫ピンクからもらった化粧品と、姫ブルーが作ってくれたお手製ガイド本。それらを見れば、わたしはまた前向きになれるはずだった。そうじゃなかった。わたしは、魚みたいに口をぱくぱくさせた。
窓ガラスをどうどうとつたう雨水をすかした残酷なひかりは、お姉ちゃんの小瓶が床に落ちて割れてるのを暴き出した。ガラスは無残にもばらばらに飛び散り、まるで原型を留めてない。コルクのふたは転がっていってしまったのか、どこにも見えない。床は、小瓶のなかに水が入ってなかったみたいに乾ききってた。
お姉ちゃんは、本当にいたのだろうか?
創子、と彼女の名前を呼ぶこともできなかった。なんとなくだけど、分かっていたのかもしれない。だって、わたしは想子だから。こういうふうにありもしないつくりごとを思い浮かべるのは、なにより得意だったから。でも、なんだか愛しい彼氏とか、一緒にいて楽しい姫ファイブと仲良くなれたことはほんとうだ。ほんとうが充実したから、うそのことはもういらなくなってしまったのかもしれない。じゃあ、わたしはもう、現実を食って夢を生きる想子じゃない。夢を食って現実を生きる創子だ。
ずっとわかってた。わたしは創子だ。わたしのなかに、創子がいる。わたしのなかにしか創子はいない。だからわたしは今日、いかないといけない。創子をほんとうにするために。
「いくよ、創子」
そう呟いて、リビングに向かい、いつものように朝食を摂った。かるくシャワーを浴びて全身をきれいにして、肌を整え、姫ピンクが書いてくれたお化粧の指南書を何度も声にだして読み直しながらお化粧をした。姫ブラックが雑誌で見つけてくれたちょっといいワックスを使って、湿気でクセづいた髪の毛をふわふわにまとめた。それから、きのう選んだワンピースとジャケットじゃなくて、わたしは制服を着た。いまの学校の制服じゃない、行くはずだった学校の制服。どこの誰のものでもない、わたしのためにだけある制服。
出発する前に、玄関の全身鏡でもうちょっとだけお化粧と髪の毛をととのえた。もういい時間かな、と思い、携帯電話を確認すると、メールが四通入ってた。
『たのしんできてね。わたし本当は彼より想子のが好きだったからwしっとしっとー』
『ゴム忘れちゃだめだよ!きゅうりとかで着ける練習しとけばよかったね。気がきかなくてゴメン。汗』
『応援してるよー。終わったら姫ファイブでダッツの新作食べ比べしようぜ。もちろん想子のおごりな!』
『なんか困ったことあったらいつでもメールちょうだい。私暇だし、今日家にいるから』
姫ファイブだ。わたしは、
『ありがとう』
の簡潔なメールに感謝のすべてを込めてぜんいんに返信し、まっすぐに前を向いて、家をでた。
外にでると、雨足はさっきよりだいぶ激しくなってた。数メートル先が見通せないくらいの豪雨。もちろん傘をさしてきたのだけど、風にあおられて入ってくる雨と、地面から激しく跳ね返ってくる水とで、あっという間にずぶ濡れになってしまった。彼との待ち合わせ場所は駅舎。ふだんなら歩いて十数分で着ける距離だ。けど雨なので早く歩けないし、体感的にもやたら長く感じた。なんか、普段の道ではなかった。国道二号線を行き交う車はヘッドライトだけがゆらゆらたゆたって見えて、幻想的だった。夢のなかみたいだった。こんな場所に来たことがある気がした。でも、わたしは過去に起こったことの夢なんかみない。だからこれは夢じゃない。でも、現実でもない。じゃあ、ここは。
海?
彼氏は、わたしよりも先に着いてて、思ったとおりわたしと同じようにずぶ濡れだった。わたしが手を振って、
「おはよう。すごい雨ですね」
と話しかけると、彼はわたしに気づき、満面の笑みでこう言った。
「想子!」
いっしゅん、雨が止んだ気がした。それで、わたしは傘を取り落としてしまった。容赦ない雨がわたしの身体をぐっしょり濡らした。彼はわたしの傍まで駆け寄ってきて、傘を差しだし、そのままわたしの身体を抱きしめた。彼の身体は冷たくて、堅くて、間違いなく男の子だった。でもこれ、彼じゃない。ぜったいに違う。
「想子、会いたかったよ。想子、触れたかったよ」
彼は、わたしの耳許でそう囁いた。待ってる間寒かったのか、声がふるえてた。
「創子!?」
わたしが叫ぶと、彼は唇を紫色に染めたまま破顔して、おおきく頷いた。
予定どおり、わたしたちは電車に乗って市街へ向かった。デートで行く先についてはお姉ちゃんにも話してたので、どんな場所に行くのか彼女もぜんぶ知っていて、「抹茶パフェたのしみだね」とか、「無印で買いたいもの決めた?」とか、したいことの相談をしながら電車に揺られた。車内はそれなりに人がいて、なんとなく遠慮してしまって訊けなかった。なんで彼のなかに創子が入ってるんだ?
電車を降りる頃には、雨は霧雨くらいの弱いものになってた。盆地の天候はけっこう変わりやすい。改札で駅員さんに切符を渡して、駅舎のそとに出た。彼(というかお姉ちゃん)が傘をさしたので、それに倣ってわたしも傘をさした。商店街までのブリックロードはけっこう広い。傘がぶつからないよう、わたしたちは身体を離して歩いた。
「……あのさあ」
しばらく黙ったままだったお姉ちゃんが不機嫌な声をあげて、傘を思い切りたたんで道端に放り投げ、その勢いのままわたしがさす傘のしたに飛び込み、腕に絡みついてきた。
「ちょっと、なにすんのよ」
お姉ちゃんとはいっても身体は男で、わたしはこんなふうに男の子の身体に触れたことがなかったので、気持ちわるくなってお姉ちゃんの身体を突き飛ばしてしまった。
お姉ちゃんは表情を痛々しいものに変えた。そんな顔は、彼には、男の子にはぜったい出来ないものに感じられて、彼のなかにいるのがお姉ちゃんだってことを確信した。
「あたし、やっと身体を手に入れて、想子のそばに来られたんだよ」
お姉ちゃんは霧雨に降られながら、ぽつり、ぽつりと言った。
「もうちょっと優しくしてくれてもいいじゃない。ずっと傍にいてって、言ったじゃない」
わたしは苦笑して、お姉ちゃんに傘を差し出す。
「いや、分かってるって。わたしたち、姉妹じゃん」
お姉ちゃんは思い切り首を横に振った。男にしてはすこし長い髪から水滴が飛び散って、拒むようにわたしの顔に降りかかった。
「そうじゃなくて」
お姉ちゃんは、苦しそうに言った。
「姉妹みたいにじゃなくて、女の子同士みたいにじゃなくって、恋人同士みたいなデートがしたいの」
お姉ちゃんはなにを言ってるんだ? お姉ちゃんは何がしたいんだ? わからないけど、お姉ちゃんが満足しないうちは彼の身体を手放さないだろうと思った。それがいいことなのか、わるいことなのか分からない。つまり、わたしにとってお姉ちゃんと彼と、どっちが大切なのか分からない。
わたしは、お姉ちゃんの手をとり、恋人同士がするように指を絡ませて手を握った。
わたしだって、何をしてるのか、何をしたいのか、分からない。ただ間違いなくそうすることは、お姉ちゃんの気持ちにも彼の気持ちにもまっすぐ応えることになるだろうと思った。だっていま、彼はお姉ちゃんで、お姉ちゃんは彼なんだから。そして、わたしはふたりが好きなんだから。
わたしたちは、電車のなかで話し合った場所も、元々姫ファイブと相談していた場所も、まわらなかった。アーケードのある商店街に入ると、とりあえず雨を避けることはできた。でも、一転してお姉ちゃんが黙ってしまった。何処をまわりたいのか、なんとなくわたしも訊けなくて、商店街を当てもなく歩いた。古書店に入ってふるい少女漫画を立ち読みしたり、ミスドの横を歩いてウィンドウの向こうに並んでるドーナツをちらちら眺めたり、はやくも百貨店をにぎやかせはじめた派手な水着を冷やかしたりした。お姉ちゃんは、なにかを、どこかを探してるふうだった。レンタルCD屋に入ると、お姉ちゃんはCDをとっかえひっかえして、ヘッドホンを強く耳に押し当て試聴を繰り返した。お姉ちゃんがとってきたCDは洋楽ばかりで、あおっぽいジャケットのCDが多かった。そんなに真剣な表情で、なにを探してるんだろう。わたしはお姉ちゃんの後ろから、なんのCDを聴いてるのかこっそり覗いてみた。ちいさなCDプレイヤーのなかをCDが回転してるのが透明な窓から見えるんだけど、あおい色以外はなにもわからない。
ふいに、なにかを思いついたようにCDが回転をぴたっと止めて、「METALLICA」と書かれた盤面が窺えた。
メタリカ?
「見つけた!」
お姉ちゃんは、急におおきな声で叫んで、わたしの手を握ってレンタルCD屋を飛び出した。休日でも人のすくない商店街のどまんなかを真っ直ぐに抜け、信号機のある角を曲がり、ブリックロードにたまった水たまりを蹴飛ばしながら全力ではしった。雨はとっくに止んでて、朝の豪雨がうそだったみたいな青い空が広がってて、初夏のつよい陽射しがわたしたちを照り付けたけど、わたしたちの身体はやっぱり湿ったままで、さむかった。わたしは、おしっこがしたいと思った。お姉ちゃんも、もしかしたらおしっこを我慢してるのかもしれない。じゃあトイレに入らなきゃ。でも、個室がひとつしかないのだとしたら、どっちが先に入るのかな。お姉ちゃんが譲ってくれる? わたしが譲る? それとも、一緒に入る?
舗装されてない雑草の目立つ路地を抜けると、そこにはカラオケショップがあった。やたら汚れた雑居ビルだけど、いちおう名前だけはよく知られたカラオケだ。たしか京都にもあった気がする。お姉ちゃんは、荒い呼吸も整えずにわたしの手を引いてカラオケショップの扉を開け、入ってすぐのとこにあるやたら狭いフロントに立って受付をはじめた。無精ひげの目立つ若い男性の店員さんが面倒くさそうにペンを滑らせながら、
「時間はどうされますか?」
と尋ねた。
「フリータイムで!」
お姉ちゃんは、即座にそう答えた。
フリータイムってなんだっけ。フリーってなんのことだっけ。タイムってなにするんだっけ。え。わたしたち、歌うたうんだよね。いや、それおかしくない? なんで歌うたうの? つーか、今日何しに来たんだっけ。なんでここにいるんだっけ。デートって何するんだっけ。そもそも、なんでお姉ちゃんがいるんだっけ。あ、やべ、こわい。足がふるえてる。つーか、それより。
おしっこしたい。
「痛い!」
カラオケの部屋に入るなり、お姉ちゃんはわたしをソファに押し倒した。そのままわたしの髪の毛を強引に掴んで、わたしの首筋を吸った。わたしの首をはう唇や舌の感触よりも、下腹部にあたったお姉ちゃんの太腿で膀胱が刺激されて、それがいちばん苦しかった。
暗がりのなか、お姉ちゃんのごつごつした手がわたしの股間を手探りで見つけ、節くれだった指が下着のうえからわたしの陰核をまさぐって、ぴゅぴゅ、とまたわたしの尿が漏れたのが下着が湿る感触でわかった。
「ちょっと、待って」
わたしは、ふるえる両手に力をいれてお姉ちゃんの身体を押し返し、ブラウスの乱れた胸元やスカートの裾を直し、ブラジャーの位置を整えた。お姉ちゃんはそんなの構わずに力ずくでわたしを抑え込んじゃうのかと思ったけど、意外にもわたしの拒絶を受け入れてくれて、少し距離のあるソファに座りなおした。
わたしとお姉ちゃんの呼吸がととのったあと、わたしはゆっくりと切り出した。
「あのね」
わたしは何を言えばいいんだろう。おしっこしたい、とか? そんなのお姉ちゃんの性欲を刺激するだけだし、用を足したらまた続きが始まるだろう。そもそも、お姉ちゃんはなんで彼の身体を借りてまでわたしを抱こうとしてるんだ? そんなこと考えてもわかんないので、わたしは、わたしの話をすることにした。
「わたしはね、セックスが気持ちわるいの」
わたしがそう言うと、お姉ちゃんは黙ってうなずいた。顔こそ彼氏のそれなんだけど、表情はいつものように聡明な、落ち着いたお姉ちゃんのものに戻ってた。大丈夫だ、お姉ちゃんは、わかってくれる。わたしは息をすこし深く吸って、きもちを落ち着けたあと、その続きをはなした。
「わたしはね、繋がるのが気持ちわるいの。子どもを作ることに意味を見いだせないの。なんかそういうの、すごくばかみたいに思えちゃうの。わたしはばかにはなりたくないの。お姉ちゃんだって、賢いからわかるでしょ。ねえ、だから、」
分かるでしょ、わたしの名前。わたしは現実じゃなくて、想像のなかで生きていたいの。
そう続けようとして、わたしは怖くなって口をふさいだ。いや、ふさいだのはわたしじゃない。お姉ちゃんの唇だった。熱くふとい舌が息苦しいくらい喉の奥まで浸食してきて、でもなぜか涙よりも股間のほうが先に滲んだ。
「あたしはばかだよ」
長い時間の口づけとも思えない行為をおえてお姉ちゃんが唇を離すと、わたしたちの間にさびしそうな糸がながい線をひいて、天井のミラーライトでかがやいた。
お姉ちゃんは、ゆっくりと服を脱いだ。暗がりのなかに、お姉ちゃんのものでも彼のものでもない、生殖のイデアみたいに隆起したものが現れた。痩せたしろい身体は汗なのか雨なのかわずか湿っていて、ひかりを受けててらてらとひかった。
「あたしは水子だから、海から来たから、乾いたらもうここにはいられないの。ねえ、分かるでしょ。知ってるでしょ、あたしの名前。あたしは想像じゃなくて、現実を生きたいの」
お姉ちゃんは卓上のリモコンを取って、手早く曲をセットした。ちいさなテレビには「エンターサンドマン」と曲名が表示されて、すごく頭のわるそうなギターサウンドが爆音で流れ始めた。あ、歌手のなまえ、メタリカって書いてある。この曲、さっきお姉ちゃんが聴いてたやつだ。
お姉ちゃんは、この曲が好きなのかな。お姉ちゃんは、わたしが好きなのかな。それ以外、考えられなかった。だってわたしたちは、好意の確認をしてた。好きな気持ちと好きな気持ちとを、たとえば「想う」と「創る」の差こそあれど、合わせ鏡のように映し合い拡大させ続けた。テレビには歌詞が延々と表示されて、「Enter」と「Exit」が何度も繰り返された。ぜんぜん意味わかんなかった。わたしは、ばかだった。わたし、ばかになっちゃった。わたしはお姉ちゃんを乾かせたくなくて、おもいきり放尿した。それ以外のものも混じってたかもしれなかった。さよならみたいなものだ。わたしはお姉ちゃんとトイレで出会った。だから最後も、わたしにとってお姉ちゃんはトイレだった。さよなら、お姉ちゃん。快感は何度も繰り返されて、次第に収束し、だんだん水は引いていった。
「一也くん」
すべてが終わったあと、わたしは初めて彼の名前を呼んだ。
ぐったりとソファに横たわっていた一也くんは、わたしを抱いた身体をゆっくり起こし、抱えるように腕をわたしの頭に回して、髪の毛をそっと撫でた。遠慮がちな撫で方も、ミントみたいな肌の匂いも、気まずそうな微笑みも、なんだか彼らしくて、ああ、ここにいるのは一也くんだ、と思った。
「ずっとそばにいた?」
わたしがそう尋ねると、一也くんは愛おしそうにわたしの身体を抱きしめて、
「いたよ」
と言った。
「うれしい」
一也くんに抱かれてると、わたしが泣いてることにも気づかれなくて、ちょうどよかった。
「これからも、ずっと傍にいてね」
その言葉を本当に聞いてほしいひとは、もう何処にもいない。
下腹部から力を抜くと、しろい液体がとろとろと膣から溢れ出してきた。お姉ちゃんも、ばかだな。なかでだしたら子どもできちゃうじゃん。それか、お姉ちゃんにとっても、わたしはトイレだったのかもしれない。おなかに手を当てて、排泄された未来を想ってみる。もしも子どもができたら。そんなことを考えた。その子どもは、わたしと、お姉ちゃんと、一也くんの子どもだ。いや、もしも子どもができないとしても、このお腹が空っぽだとしても、わたしのなかにはお姉ちゃんがいて、一也くんのなかにもお姉ちゃんがいる。
わたしは、一也くんと結婚しようと思った。わたしの不思議な想う力を、彼のために使い続けようと思った。
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