第4話 Never Gonna Give You Up

 朝、今までより早く起きるようになった。ちゃんとしっかり時間をかけてお洒落をしたいから。昔みたいなむりやりな厚化粧とかちょんまげじゃなくて、もっと大人びた、かんじのよいお洒落。スキンケアは夜にしっかりと済ませてるので、朝は冷水だけで顔を洗う。顔を洗ったあと、化粧水で肌をととのえる。さいきんは睡眠時間が長くとれてるし、眠りも深いので、肌の状態がよくていいかんじに肌が張る。わりと湿った肌質なので、乳液は使わない。で、化粧下地。むかしはSPFの高い化粧下地を何重にも塗ったうえに日焼け止めも意地みたいに強いやつを使ってたけど、いまは化粧下地を軽く塗るだけ。フェイスパウダーもちょっとだけ。肌がもともと白いので、これだけだと血色わるく見えてしまう。それが格好いい、と勘違いしてたころもあった。いまはちゃんとピンク色のチークを使って健康的な表情を演出する。それから、前髪をあげてたピンを外し、髪の毛をかるく濡らしてワックスをつける。最近通販で買ったロレッタのワックスは、パッケージが可愛いし、へんな癖があまりなくてナチュラルなかんじに仕上がるので、気に入ってる。ドライヤーの温風と冷風とをほどよく使い分け、ヘアブラシをいれて髪の毛をしっかり伸ばす。髪質はもともとまっすぐでわりと艶もいいほうなんだけど、ちゃんとスタイリングするとやっぱり見栄えがぜんぜん違う。

 朝食も、カロリーメイトじゃなくって、ちゃんとご飯を半合炊いて食べるようになった。そのほうが痩せたし、元気もでるし、胸もなんとなくおおきくなった気がする(怖いから測ってはない)。

 家を出るまえに、玄関のところの全身鏡で、もう一度自分の姿を確認する。

 春をすぎて、季節はもう初夏といったところ。山口のこの町は盆地にあって、京都と同じで寒暖の差が激しいんだって。昼過ぎには蒸し蒸しする日も増えてきたけど、朝のこの時間はいつもひんやりとしてて気持ちいい。国道二号線までの階段を駆け下りていく。

 信号機まで出ると、いつものように彼が自転車に腰かけて待ってくれてた。わたしが軽く手をふると、彼は自転車の向きを整えて後ろに乗るよう促す。わたしが彼の肩に手をかけ、後輪の軸のところにつけてあるステップに両足を載せると、彼は自転車を走らせ始める。学校までのまっすぐな道、国道二号線の脇を走る広い歩道を、わたしたちの乗った自転車は高速で駆け抜けていく。

 わたしのお洒落は、彼に見せたいからじゃない。彼もわたしに「かわいいね」とかそういうことを言うタイプじゃなかったし。わたしも言われ慣れてるので、言われたとしてもじゃっかんうざいくらいだ。学校までの三十分の道、わたしたちの間に会話はまったくなく、そのくらいがいちばんちょうどよかった。

 校門のところまで達すると、彼は自転車の速度をゆるめる。それを合図に、わたしは自転車から飛び降りる。それを待って彼は自転車を加速させ、校舎の奥にある駐輪場まで消えていく。それを見送ったあと、わたしはひとりで昇降口までてくてく歩く。

 教室に入ると、いつものようにわたしを拒絶するような静寂がすこしだけ広がった。わたしはそれを敏感に感じ取っても、前みたいに傷ついたりしない。「まだいじめ続いてんのか、暇だな」と思うだけだ。わたしは堂々と教室の正面、黒板の横を通り過ぎ、窓際にある自分の席まで着くと、教科書を机のなかに詰めて、すこし考えてから数学の参考書だけをカバンに戻し、カバンを肩にかけたまますぐにトイレへ向かった。

 一階にある進路指導室横のトイレがいちばんいい。教師も生徒もどっちが使ってもよい唯一のトイレだったんだけど、逆にそれが遠慮をまねいたのか、人が入ってくることがほとんどない。それに結構きれいで、なかなかに広い。わたしは、その一番奥の個室に入る。

 洋式便器の底に溜まる透明な水には、うっすらと人の影が映った。完璧に整えた化粧は、水面を介すると不鮮明ながらもっと美しく見えた。それはもちろんわたしじゃない。

「創子……?」

 とわたしはお姉ちゃんの声を呼ぶ。

「おはよう、想子」

 と、お姉ちゃんの返事が返ってくる。

 どっちもソウコなんだから、そう呼ぶのは紛らわしいんじゃないか、という話はした。でもお姉ちゃんが「あたしがそう呼ぶときはあんたのことを指してるんだし、あんたが呼ぶときはあたしのことを指してるんだから、それでよくない?」と提案して、わたしはお姉ちゃんを創子、お姉ちゃんはわたしを想子、と呼ぶことになった。

「ねえ、創子って数学得意?」

 わたしはお姉ちゃんにそう声をかけると同時に、カバンのなかから数学の参考書を取り出し、ピンクのフセンが挟んであるページを広げる。

「あたしに苦手な科目なんてあると思う?」

 お姉ちゃんは思ってたとおり、頼もしくそう言った。お姉ちゃんは何を訊いてもいつも自信ありげなのに、ぜんぜん嫌味っぽく聞こえないのがすごいと思う。背伸びをして自分を大きく見せようとしてないというか、自然なのだ。自然に何でもできちゃう。

「じゃあさ、この問題教えてよ。今日の宿題なんだけど、全然わかんなくって」

 わたしは参考書を広げ、お姉ちゃんに見えるよう差し出した。

 すこしの間を置いて、お姉ちゃんはわたしにこう尋ねた。

「……自分で何処まで考えた?」

 お姉ちゃんはいつもこうだ。簡単には答えを教えてくれない。必ずわたしがいつもひとりで考えるように促す。

「因数分解って各項でくくるじゃん。で、エックスでくくって見たんだけど、この先に進まなくって。ワイもだめだし、ゼットもだめでしょ」

 わたしは自分で書いたノートを広げ、お姉ちゃんに見せた。B5サイズのノートの見開きいっぱい計算式を並べたけど、どうにも行き詰まってしまった。

「え、いい線いってんじゃん」

 お姉ちゃんはそう言った。

 ミスばかりの計算式でも、お姉ちゃんに見せるのはぜんぜん恥ずかしくなかった。お姉ちゃんはぜったいにわたしを馬鹿にしたりしない。要領のわるい解法に苛立ちをみせたり、分からなくなって一緒に困ったりもしない。わたしの解法のいいところを見つけてくれて、自然とゴールに気づかせてくれる。

「え? どこ?」

「その、エックスプラスワイの三乗をしてるとこ」

「え、でも、これだとゼットは出てこないよ?」

「応用すんのよ。エックスプラスワイをエックスに、ゼットをワイに代入してみて」

「え、なにこれ、公式? こんなん習ってないよ?」

「覚えといたら次から使えるから。数学で一番大事なのは公式だからね。公式に頼らず自分で考える力が必要なのも事実だけど、それが出来るのは公式をたくさん知ってる人だから」

「創子かっけー」

 始業五分前のチャイムが鳴った。

「あ、ほら、想子、もう行かないと。あとは一人でできるでしょ?」

「ごめん、創子、あとでまた来るから!」

「ばいばい、がんばってね」

 便器の水を流すと、ゆらゆらとお姉ちゃんの姿が消えた。わたしは数学の参考書とノートをカバンにしまい、走って教室に戻った。

 一限の英語の時間にこっそりノートに数式を並べて考えを整理し、一限のあとの休み時間を使って、ぎりぎり問題を解き終えることができた。

 二限目、数学の授業。授業前から教室内には難しい宿題が出たとき特有の倦怠感が満ちてた。そこらかしこからため息が聞こえる。先生が教室に入ってくると、ひときわ大きなため息がどこからともなく漏れた。宿題で出た数式を、先生が黒板の左上にチョークを威勢よく滑らせて書く。書きおわると同時に、始業のチャイムが鳴った。

 x^3+y^3+z^3-3xyz

「因数分解できた奴はおるか?」

 先生は教壇のまんなかに立ってそう言い、教室中を見渡した。

 教室はしーんと静まり返ってる。何人かが視線をクラスで一番成績がよい子のほうにちらちら向ける。その子はその問題が解けなかったことが悔しいのか、表情を強張らせてじっと下を見つめてた。

「はい、解けました」

 わたしはそう言って手をあげた。教室内がすこしざわつく。先生は表情を綻ばせた。

「お、また土屋か。ええぞ、前に出て解いてみろ」

 わたしはノートを持って立ち上がり、再び静まり返った教室の机の間を堂々と歩いて前に出る。チョークを握り、ノートに書いた計算過程と見比べ改めて確認しながら、ゆっくりと数式を並べていった。

 書きおわっても、先生は何も言わなかった。わたしは先生のほうを向き直って、軽く頭をさげると、先生は、

「土屋、すごいな」

 とうなるように言った。続いて、後ろから控えめながら歓声のようなものが聞こえた。

 わたしは勉強自体はそれなりに意味のあるものだと思ってたけど、今まで学校の授業にはそんなに価値を感じてなかった。宿題はあんまり真面目にやってこなかったし、授業中はなるべく当てられないよう控えめにしてたし、学校の定期テストは赤点をとらないようにだけ気をつけてた。授業中に手をあげて発表するなんて考えたこともなかったし、そうするひとのことを「目立ちたがりなんだなー」くらいに思ってじゃっかん見下してた。わたしはただ、お姉ちゃんのことを自慢したくて、お姉ちゃんと解いた問題をたくさん発表するようになった。数学もそうだし、古典とか、英語とか、倫理とか、はては美術とか家庭科だって。なにを訊いてもお姉ちゃんはわたしと一緒に考えてくれて、それでわたしに答えまで導いてくれた。

 わたしに対するいじめはずっと続いてた。でも、なんとなく、なんとなくだけど、わたしに対する視線からトゲが抜けてくのを感じるようになった。わたしが授業でたくさん発表するようになると、教師たちはわたしに目をかけてくれるようになった。そのムードも、わたしに対する追い風となったようだった。

 そんなことはどうでもよかった。わたしにとっては、お姉ちゃんと過ごす時間がいちばん大事だった。

「創子ー、聞いて聞いてー!」

 わたしは数学の授業が終わるなり、教室を飛び出してトイレの個室に向かった。

「おつかれー、想子。因数分解、どうだった?」

 便器の底に溜まる水にはお姉ちゃんの姿が映ってて、わたしにそう返事をしてくれた。

「創子のおかげでさ、助かっちゃったよ。あの怖い亀井先生がさあ、褒めてくれたもん」

「あれは想子が解いたんだよ。がんばったのは想子じゃん」

 お姉ちゃんと話すには、なぜかトイレの水を介する必要があった。ママからは、お姉ちゃんは水子だって訊いたので、それが関係あるんだろうか。鏡とか、水たまりに映る姿だとダメだった。その代わり、トイレなら何処のトイレでもお姉ちゃんに会うことが出来た。学校以外でも、家とか、ファミレスとか、駅とか、お姉ちゃんに会いたくなるとわたしはいつもトイレに駆け込み、水のなかにいるお姉ちゃんに声をかけた。勉強の相談のほか、恋愛の相談もした。田舎暮らしの文句を言ったり、パパやママの愚痴を言ったりもした。お姉ちゃんはそれらをぜんぶ黙って聞いてくれて、聞き終わったあとには落ち着いた口調でアドバイスをくれたり、心配してくれたり、笑ったり、たしなめたりした。コナンのアニメの話をすると、お姉ちゃんは漫画だけ読んだことがあるみたいで、いろんなことを興味深そうに尋ねてきた。蘭と哀ちゃんのどっちが新一の彼女としてふさわしいかって話題では、けっこう派手に口喧嘩したりもした。いつも静かなお姉ちゃんがむきになる姿は愛らしくて、そんな姿を見せてくれるのはうれしかった。

「もうすぐ中間テストだなあ、やだなあ」

 わたしがそう零すと、お姉ちゃんは、

「いまの想子なら余裕でしょ」

 と言ってくれた。

 この学校に入って最初の中間テストがもうすぐある。じっさい、かなり自信があった。お姉ちゃんの助けを借りて勉強するようになってから、わたしはどんどんいろんなことが分かるようになった。お姉ちゃんの教え方がうまかったこともあるし、わたしはお姉ちゃんにいいとこを見せたくてがんばった。こんなに一生懸命勉強したことは今までなかった。こういうの、愛っていうのかな。だとしたら、愛ってすごい。こんなに人を変えちゃう。でも愛は他人に与えられるものでしかないから、お姉ちゃんに会えたわたしはすごくラッキーだ。いじめにだって感謝したい。

「あ、でも、その前にソフトボール大会があるんじゃなかったっけ?」

 お姉ちゃんに言われて、わたしは表情を暗くした。

「あー、そうだった。げー、さいあく」

 まったく意味のわからないことに、中間テストのちょうど一週間前に全校のソフトボール大会がある。テスト前の勉強が忙しい時期にやるなんて、ほんとうに意味がわからない。あんまり勉強のできない体育会系の子たちは、放課後に集まって練習もしてるみたいだ。わたしには当然声もかかってないので、練習には参加してないけど。でも大会は参加が義務付けられてるので、ぜったいに出ないといけない。

「ソフトボール大会には創子の助けは借りられないなあ。ちぇー」

 わたしが唇をとがらせてそう呟くと、お姉ちゃんはクスクス笑って、

「本当に困ったらトイレにおいで。あたしが助けてあげるから」

 と、意味ありげに言った。


 春のソフトボール大会は、うちの高校では秋の文化祭とならぶ一大イベントらしい。ほかに体育祭みたいな体育系のイベントがないので、運動が得意な子たちにとってはいちばんの見せ場だ。野球部が参加するのはフェアではないので、彼らは運営スタッフになる。それ以外の全校生徒が参加する、全クラスのトーナメント形式。土日のマル二日間を使って行われるので、父兄とかOB・OGが覗きにくることもあるみたい。そのあと月曜と火曜は振り替えの休みで、そのままテスト週間に突入することになる。テスト前に思い切り身体を動かしたいのか、みんなヤケクソみたいにテンションが高い。ふだん勉強ばかりしてる子も含めて、やらされてる感のある子なんかぜんぜんいなくて、みんなやたら前のめりだ。負けたチームの子が泣くなんてしょっちゅうだった。そういうの見てると、わたしは逆に熱が引いてしまった。試合のない時間、他の子は練習してるか近くのクラスの応援に行ってるかだったんだけど、わたしは誰もいない教室に残って、窓からグラウンドをぼーっと見下ろしてた。なんとなくお姉ちゃんに怒られそうな気がして、トイレには行かなかった。

 試合があるときだけわたしはグラウンドに向かった。試合にはクラスの生徒がぜんいん出ないといけない。わたしは代打とかいうもので、いっかい打席に立つだけでよくって、それっぽく三振したらわたしの役割は終了。なんとなく悔しそうな演技だけして見せて、ベンチに戻ったらきんきんに凍ったペットボトルの麦茶をこくこくと飲み、ハアーとため息を吐き、ベンチに深く腰かけて半ば居眠りしながら試合の終了を待つ。

 ソフトボールのルールもよく分かってないけど、なんかうちのクラスは強かったらしい。あれよあれよとトーナメントを勝ち進み、なんと決勝戦まで来てしまった。

 決勝戦の相手は、なんと男子クラスだ。一応、女子クラス側にはハンデのようなものがつくらしい。それでも、今まで女子クラスが男子クラスに勝ったことはなかったんだって。それに相手は三年生の、野球部以外のいろんな部活の主力級が集まった優勝候補みたいなチームらしく、「ぜったいに勝てない」みたいな声がうちのチームからも観客のほうからも聞こえてきた。後ろを振り向くと、すごいたくさんのひとがわたしたちの試合を観に集まっていた。そうか、この試合でソフトボール大会が終わりだもんな。たぶん、全校生徒がわたしたちの試合を観にきてるんだ。とはいっても、わたしに出来ることなんて「三振したあと悔しそうにする演技」しかないしな。誰っぽく演技するのが映えるかなあ、やっぱりそういう後ろ向きな演技は綾野剛かなあ、とか緊張感ゼロでぼんやり考えてるうちに、決勝戦が始まった。

 わたし以外の子はすごく緊張してたみたい。試合開始そうそう、五点も取られたのが得点表示板で分かった。グラウンドに立つうちのクラスの子たちは焦燥感まるだしですごく悔しそうに下を向いてて、それを見てるとわたしだって悔しくなった。ついベンチから身を乗り出して、試合展開を追った。

 三回に一点、五回に二点を返すことができた。六回にも一点を取っていよいよ追いつきそうになったときは、場内の歓声がすごくて、わたしもついはしゃいでしまった。その裏に二点を取られても、背後の大応援団はわたしたちの味方をしてくれて、わたしもそれに釣られて応援の声を枯れるくらい張り上げた。

 うちの大会のソフトボールは七回までで終わるので、いよいよ最終回。七回表、三点を追ううちのチームの攻撃。簡単にツーアウト取られたんだけど、そこから粘って満塁までこぎつけた。ふだん勉強してばかりの子が不器用にファウルを続けてフォアボールで出塁したときには、場内が今日一番の盛り上がりを見せた。

 しかしここで、相手チームが審判団になにかアピールを始めた。審判団は、試合の経過であろうノートを取ってる女の子に何かを確認し、それからうちのベンチを指差して何かを言った。何を言ってるのか分かんなかった。時間を置いて、場内がすこし静かになったあと、ようやく審判がわたしの名前を呼んでることに気づいた。

 それで、他の子も、わたしも、ようやく気づいた。熱狂のなかにいたので、かんぜんに忘れてた。ソフトボール大会は、「チームのすべての子が出場する必要がある」んだ。なのに、わたしだけがまだ出場してなかった。わたしはここで打席に立たないといけない。気づいたあと、他の子たちはお通夜みたいに静まり返ってしまった。チームのキャプテンの子なんか、堪えきれなくなったみたいに嗚咽を始めてしまった。まあじっさい、わたしにヒットなんか打てるわけないんだから。ここまで女子投手ばかりを相手にしてたのに、わたしは三振しかしてない。ここでわたしが三振して、負けて終わり。そんなの、チームの全員が分かってた。でも、ああ、なんか悔しいな。どうでもいいと思ってたのに、なんかすごく悔しい。理屈じゃない。さっきから、心臓がばくばくいってる。打ちたいって、勝ちたいって、そう言ってる。でも、わたしにはそんなこと出来ないってことも知ってる。

 でも、もしかしたら、お姉ちゃんなら。創子なら。

「ねえ、ちょっとトイレ行ってきていい?」

 わたしはチームのキャプテンと審判にそう伝え、グラウンドの端っこにあるトイレに走った。


「たすけて、たすけて、たすけて、創子!」

 わたしはトイレの個室に入るなり、和室便器の底に溜まった水に映るお姉ちゃんに向かって、今の状況を早口でまくし立てた。

「大変だね、想子」

 お姉ちゃんはなんだか楽しそうに含み笑いをして言った。

「それで、どうしてほしいの?」

 どうしてほしいって……。そんなの、どうしようもないじゃん。でもお姉ちゃん、言ったじゃん。助けてくれるって。

「お願いだから、助けてよ。創子」

 そう言うと、水面がかすかに波立った気がした。

「それじゃあ、想子。あたしに、キスをしてくれる?」

 お姉ちゃんはそう言った。

 キスって……。水面に口をつけろってこと? 野外のトイレだし、だいぶ汚いんですけど……。便器にうんことかもついてるし。

「早く」

 お姉ちゃんはせかすように促した。

 他のみんなもわたしの帰りをまだかまだかと待ってるだろうし、わたしは意を決して水面に口をつけた。

 ぐるん、と視界が一周した。わたしの目線の先には、明かりに蜘蛛の巣が張ったトイレの天井と、ジャージを着たわたしが見える。いや、これ、わたしじゃない。お姉ちゃんだ。お姉ちゃんがジャージを着て立ってる。そしてわたしは……、わたしはお姉ちゃんの代わりに、トイレの水のなかにいる?

「想子、ちょっと身体借りるよ」

 お姉ちゃんはそう言って、トイレの外へと去っていった。


 三十分くらいして、お姉ちゃんが帰ってきて、わたしはまた身体を取り戻した。

 トイレから外にでると、わたしはたくさんの人たちに取り囲まれた。携帯のカメラのシャッター音がしきりに鳴った。新聞部らしいひとがわたしに向かってマイクみたいなものを差しだし、「今の気持ちは?」みたいなことを興奮気味に尋ねてきた。運営の野球部のひとたちが「土屋さんすげーよ」と連呼した。いろんな運動部のひとたちから勧誘の嵐にあった。

 自分のクラスに戻ると、クラスの子たちが泣きながらわたしに抱きついてきた。言葉にならない声のなか、何度も繰り返される「ありがとう」だけは聞き取れた。

 みんなから訊いた話を総合した結果、どうやらわたしの身体を使ったお姉ちゃんが逆転満塁ホームランを打ったこと、しかもそのあとピッチャーまでやって、その裏の相手の攻撃を三連続三振にしとめたこと、を知った。

 なんてことしちゃったんだ、お姉ちゃん。

 表彰式のあいだずっと恥ずかしくて、ひたすら下を向いてた。打ち上げに誘われたけどもちろん断って、彼氏にも会いたくなかったので、電車に乗ってさっさと家まで帰った。

「なに考えてんのよ、創子!」

 家のトイレに飛び込むなり、わたしは初めてお姉ちゃんを説教した。お姉ちゃんは、いつもよりずっと長いわたしの話を黙って聞いたあと、一言こう言った。

「本当は、想子もこのくらい出来るんだよ」

 そう言われると、すごくみじめな気持ちになった。

「創子にはわかんないよ」

 だってお姉ちゃんはなんでも出来るから。勉強だって、スポーツだって、もちろん恋愛も、友だちも、家のことも、ぜんぶ簡単にこなしちゃえるから。

 わたしにはどれも出来ないってこと、お姉ちゃんにはわかんないよ。

「ほら、あたしは創ることはできるけど、想子みたいに想うことはできないでしょ?」

 お姉ちゃんは、わたしをたしなめるようなやさしい口調でそう言った。

 そうだ、確かにお姉ちゃんがやってることは、いつも建設的なことばかりだ。わたしは、ぼんやりといつも想像をふくらませてばかりだった。それをお姉ちゃんはできないってこと? でも、お姉ちゃんがやってることのほうが、すごくない?

「想うよりも、創るほうが立派じゃない?」

 わたしはそう言うと、お姉ちゃんは、

「それは誰が決めるの?」

 と言った。

「少なくとも、あたしは想子が羨ましいよ」

 誰かに羨ましいと言われたのは初めてだった。しかも、それをお姉ちゃんに言われるなんて。あ、なにこれ。やばい。身体中がふるえてる。え、なにこれ。

「ねえ想子」

 お姉ちゃんは言った。

「創るよりも、想うことのほうがすごいよ」


 二日間の休みを挟んで学校に行くと、みんな中間テストの勉強にかかりっきりで、ソフトボール大会のことなんか忘れたかのようだった。一方で、わたしはいろんなひとに話しかけられるようになった。休み時間のたびにわたしは机のまわりを囲まれ、勉強について質問されたり、恋愛について相談されたり、最近流行りのコスメについて話を振られたりした。最初は戸惑った。いじめのことはなかったことになったのかな、と思うと、ちょっと腹も立った。でも、「土屋さん、かわいくなったね」と言われると、なんかもう全てを許そうという気になった。馬鹿みたいだけど。その言葉が、いちばんわたしとお姉ちゃんとの関係を肯定してくれてる気がしたから。

 周りに友だちが増えると、トイレには篭もりにくくなった。でも、やっぱりお姉ちゃんと話す時間がいちばん大事だった。わたしは無印良品で小さな小瓶を買った。コルクのふたに輪っかのついたねじを差し込んで、輪っかのところに紐を通し、首からぶら下げた。小瓶のなかにはトイレの水を入れた。これで、いつ何処にいても、お姉ちゃんに会える。

「ねえ、創子」

 彼氏に自転車で送ってもらったあとの帰り道、小瓶を覗き込んで、お姉ちゃんに話しかける。

「なあに、想子」

 小瓶にゆれる水面に映ったお姉ちゃんから返事がある。

「海って、見たことある?」

 わたしがそう尋ねると、お姉ちゃんは、

「あたしたちがいた場所でしょ?」

 と答えた。

 ああ、やっぱり、わたしとお姉ちゃんは、繋がってる。

 うれしくなって、マンションまでの煉瓦の階段を、ひとつとばしで駆け登った。首から下げた小瓶が揺れ、水がおどるようにはねた。お姉ちゃんも、喜んでくれてるみたいに。

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