第3話 A Siren

 朝食はいつものとおりカロリーメイトのチョコレート味。バナナとか、ヨーグルトとか、ウィダーとか、ダイエット食はいろいろ試したけど、少ないカロリーでお昼までちゃんと腹持ちするのはこれだった。朝食を抜くのがいちばんさいあくで、成長期のからだはもう十時ごろにはお腹をぐうぐう鳴らせはじめ、二時限のあとのすこし長い休憩のときに購買で買ったドーナツを食べたりしてたらあっという間に三キロ太った。太ったのに胸だけはおおきくならなくてほんとうにさいあくだった。カロリーメイトにしてからは、体重の数字としてはちょっと重い気がするけどまあわるくない体型をキープしてる。口のなかがパサパサするので、豆乳で流し込む。ちなみにパパはもう出勤してて、ママはまだ眠ってるのもいつものことだ。昨夜のうちにアイロンをかけておいたブラウスを着て、プリーツスカートを穿いて、上着をかぶって、首元にリボンを整えた。紺色を基調とした、すっごい地味なセーラー服。ああ、本当はもっと可愛い制服を着るはずだったのに。もともと行くはずだった京都の高校とおなじカトリック系の私立もあって、そっちはもうちょっとましな制服だったんだけど、あの制服じゃないならどこも同じだと思って、一番ちかい公立校に決めた。進学校でもなければ、スポーツとかでとりたてて実績があるわけでもない、いうなれば他にどこにも行き場所がない子が行くような、掃きだめみたいな学校、だと思う。でも昨夜Wikipediaで調べたら、卒業生には作家とか政治家とか社長とか、著名なひとが多かったので、へー、と思った。圧力がくず炭をダイヤモンドに変えるみたいに、こんな場所だからこそ本物が生まれるのかな。まあわたしには、関係ないけど。

 今日は入学式。初めての登校なので、さすがのわたしも様子見しようと思い、化粧と髪型は地味に抑えることにした。顔にはうすく化粧下地だけを塗って、髪には櫛だけを軽く通した。これで、準備は終わり。

「ママ、行ってくるね」

 寝室の前に立って、そう一言声をかける。扉の向こうから返事はない。食卓のうえから携帯をとると、メールが一通だけ入っていて、パパからだった。

『がんばってね』

 と、わたしの好きなミッフィーの絵文字。

『よゆう』

 とだけ返すと、携帯をスカートのポケットに仕舞い、まだ教科書も入ってないぺたんこのカバンを肩にかけて外へ出た。京都の友だちからは、誰からもメールなかった。そんなもんだ。わたしもメールしなかったし。扉の向こうの空には咽せるような花曇が広がってて、かいだことのない青くさい匂いが、わたしに過去を忘れさせてくれた。

 化粧をしなかったぶん、予定よりもだいぶ早く出発することができた。気持ちによゆうがあるぶん足取りが軽くて、国道二号線までの煉瓦の階段をひとつとばしで下りていった。早朝、国道二号線を走る車はトラックが多く、おおきな音と風をはげしく吹き上がらせて駆け抜ける。道路脇にはぽつんと頼りない歩行者用信号が立ってて、そのとなりにはわたしと同じ高校の制服を着た男の子が、自転車を支えたまま信号待ちをしてた。

 あ、あの子だ。とすぐに分かった。ファミレスでごはんを食べてたとき、窓の外を見たら雨に濡れてた男の子。わたしが、「この子とは付き合うかもしれない」と直感した男の子。実は、この子とはそれ以降にも二回すれ違ったことがある。一回はわたしが深夜コンビニに生理用品を買いにいったときで、一回はダイエットがてら駅まで散歩をしてたとき。どっちのときも、その子に会えるかもしれない、と思ってたら、会えた。そしてどっちのときも、その子は自転車を支えて信号待ちをしてた。

 わたしは、彼のすぐとなりに立った。彼はわたしがいることにまるで気づいていない様子で、じっと赤い信号を見つめてる。わたしは、そっと彼との距離を縮めた。彼は身長が一八〇近くあるんじゃないんだろうか。わたしは一五〇もないので、ずいぶん差があって彼の視界にも入ってなさそうだ。わたしは身長差のあるひとと付き合うまえ、いつも体位のことを心配する。シックスナインとか、すごく不器用になるんじゃないだろうか。じゃあバックか? まあ正常位すらしたことないけど。

「ねえ」

 とわたしは声をかけた。タイミング悪く大型のトレーラーが通りすぎていって、聞こえてなさそうだった。

「ねえってば!」

 わたしはもう一度、声をはりあげた。ちょうど行き交う車がいなくて、田んぼを越えてとおく駅舎まで届きそうなくらい、わたしの声が響いた。これじゃ、どっか遠くのひとに声をかけたみたいだ。

 わたしは言葉を諦めて、彼と道路のあいだのわずかな隙間にわたしの身体をすべりこませた。彼の学ランからは、キルフェボンの苺タルトについてるミントみたいないい匂いがした。彼も新入生だから、おろしたての制服のはずなのに、なんでそんな匂いがするんだろう? もしかして、彼の身体から漂う匂いなのか? 中学のときの経験豊富な友だちが、男の子によって身体の匂いが違うって言ってたのを思い出した。そういえば、初めて会ったとき、彼は学ランのまま雨にぐっしょり濡れてたっけ。タルト生地みたいなハチミツ色の肌から、雨水を通じて学ランに染み込む彼の体液をそうぞうした。

「……なに?」

 と言葉が降りてきて、わたしは顔をあげた。そして初めて、彼の顔を正面から見た。

 ああなんか、いいな、と思った。どうしてこうわたしの直感というのは当たるんだろう。とてもいい顔だった。格好いい、というだけなら、たぶん同じ高校にだってもっと格好いい人はいっぱいいる。そうじゃない。わたしが彼氏に求める第一条件。それは、「別れやすい」ということだった。わたしの好きな無印良品みたいに、ありふれてて、それでいて品のある、質のいい、そんな顔だった。

「えーと……」

 わたしはしばらく言いよどんだあと、目線を彷徨わせた。とりあえずわたしにとって話題に出来るものは、広い視界のなかでも目の前にある赤信号しかなかった。

「いつも信号待ってますけど、ここの信号長いですよ。地下道、通ったほうが、早いかと」

 わたしは未だに赤のまま変わらないでいる信号を指差し、たどたどしく言った。

「知ってるよ。俺はお前と違って、ずっと前からここに住んでるんだから」

 彼はわたしを見下ろしてそう言った。彼の背後には、朝日が山の端から顔をだし、彼の表情に影をつくった。その影がわたしにおおいかぶさって、抱きしめられてるみたいにどきどきした。

「じゃあ、どうして、地下道を通らないんですか?」

 わたしは目を逸らさずにそう尋ねた。こわくて、涙がこぼれそうで、ぐっと顔をあげて彼の顔をまっすぐに見つめた。

「こわいから」

 と、彼は言った。

「は?」

 彼は顔をそらし、恥ずかしそうに、

「暗い道、こわいんだ」

 と唇をとがらせて言った。

 わたしは、すう、と息を吸って、彼に気づかれないよう、彼の自転車の後輪の鍵をそっとかけた。鍵はスカートのポケットの奥にしのばせた。

 しばらくして、信号が青に変わった。わたしは、横断歩道の向こうまで走る。彼は、自転車を走らせようとするが、鍵がかかってて動かない。しばらく引きずったあと、ようやくわたしが鍵をかけたことに気づき、

「おーい!」

 と情けない声をあげた。

 わたしは横断歩道を渡りきったあと、振り返って、

「すきー!」

 と叫んだ。それから駅舎に向かって、全力で走った。

 心臓の鼓動は、電車に乗ってもしばらく止まなかった。ポケットに手を突っ込むと銀色の小さな鍵が入ってて、たよりないそれは彼のちんこみたいで、わたしはとてもいとおしいと思った。


 入学式はとてもかんたんに終わった。まあ三年ぶりなんだけど、「ああそういうことするよね」というお決まりの流れだった。新聞記事を切って貼ったみたいな中身のない校長先生の話を聞いて、十クラスぶんの担任の紹介が流れるように続いて、過剰なアピールがちょっといたい部活動の紹介があって、覚えてるはずのない校歌を口パクで済ませて、だいたいそれで終わり。部活は強制じゃないからどこにも入る気がなかったし、担任が誰であろうととくに関わる気がなかったので、二時間くらいのあいだ、ひたすらぼーっとしてた。ただひとつ興味を持てたことといえば、この学校は男女共学なんだけど、男子と女子とで校舎が別れてるらしいということを知った。入学案内にそんなこと書いてあったっけ? いや、入学案内は流し読みしかしてないけど、もし書いてあればぜったいに気づいたはずだ。この学校にとって、男女が別れてることはとくべつなことじゃなく、あえて言う必要もないくらい当たり前のことなんだ。なんでか知らないけど、みょうに感動した。どうでもいいと思ってた山口の、高校の暮らしのなかで、初めてじぶんの行く末に興味をもてた。

 入学式のあと、教室に場所を移して、自己紹介が行われた。ひとクラス四十人くらい。もちろんみんな女子だ。席は名字の五十音順に並んでて、順番に席をたち、アピールしてく。とくにおもしろくもない内容ばかりなのだけど、みんなよく笑う。しゃべるひとも、きくひとも、リラックスしてて雰囲気がおだやかなので、わたしもつい笑顔になってしまう。一部の子だけ表情もしゃべりも重く、その子たちは決まって出身中学を名乗ってた。ああ、それ以外のほとんどの子は、同じ中学から上がってきたんだな。みんなとっくに仲良しなんだ。

 さて、わたしは何を喋ろうかな。転校が多かったので、とうぜん自己紹介にも慣れてる。おもしろいことを言おうとおもえば言えるし、物静かな優等生をよそおうこともできるし、ビッチのふりをしていきなりクラスメイトを引かせることもできる。とにかく第一印象は大事だ。「ひとは何をするかではなく誰がするかでよしあしを判断する」というのは、教師とのいさかいを通じて小学五年生のときにはもう理解してた。わたしの頬を思い切り殴ったヒステリー教師、まだ群馬にいんのかな。そんなことを考えてたら、あっという間にわたしの出番が回ってきた。席から立ち上がると、まわりの視線が集まった。転校が多くいろんな人間関係を経たからなのか、視線に含まれる敵意とか羨望とかといったものは気温みたいになんとなく感じ取れる。いまわたしに集まってる視線は、どっちかというと前向きな好奇心かな。地味に整えた格好は悪目立ちしてないだろうし、自分が可愛い容姿だってことは自覚してる。男の子よりも女の子のほうが、可愛い女子を好むもんなんだ。

「土屋想子です。よろしくお願いします」

 そう言って、軽く会釈をした。あれ、わたし、思ったより緊張してるかも。口のなかが乾いてるかんじがする。そのわりに唾が口のなかに満ちて、飲み込むとゴクンという音が静かななかに響いた気がして恥ずかしくなった。なんだこれ。

「えーと、あの、」

 京都から来ました、と言えば興味を引けただろうし、趣味は昼寝です、と言えばベタだけど笑いが取れただろうし、音楽はRADの前前前世が好きです、と言えば親しみやすい子だと思ってもらえただろう。

 そのどれも言えなかった。

「よろしくお願いします」

 消え入りそうな声でそれだけ言い、座った。席に座るとどっと力が抜け、汗で股が張り付き、貧血気味の頭にたいして大きくもない拍手が割れるみたいに響いた。

 それがわたしの、山口での高校初日だった。


 二日目からさっそく授業が始まった。進学校じゃないので、勉強は難しくなく、苦手な数学だってよゆうで付いていける。そもそも勉強に関してはパパが取ってくれたZ会のほうを頼りにしてたので、学校での関心ごとではなかった。

 それよりも、人間関係をうまくこなす、ということのほうが、わたしにとってはずっとたいへんだった。つまり、まわりの女子との関係を気にしてた。中学から続いているらしいグループみたいなものがすでに出来てたけど、どのグループともそれなりにうまくやれてた、ように思う。表面上はそうだ。京都にいたときだって、それより前だって、わたしの人間関係は表面上のものでしかなかったけど、おしなべてとても順調だった。でも山口で始めたそれは、今までよりずっと不器用だった。最初の自己紹介のときの失態を引きずってるのか。それなら、そもそも自己紹介のときうまくしゃべれなかったのは何でだろう。わたしはみんなとそれなりにうまくやりながら、この学校がわたしにもたらした違和感を突き止めようと試みた。わたしを俯瞰できる場所が欲しいと思った。

 今までも学校には「わたしだけの場所」があった。保健室の清潔なカーテンに仕切られた奥のベッドだったり、プールの脇にあるポンプ小屋の陰だったり、油の匂いがただよう美術準備室のイーゼル置き場だったりした。わたしはわたしでいることに疲れたとき、その場所でぼんやりして自分を整え直す必要があった。

 この高校で見つけた「わたしだけの場所」は、今までのどの場所よりも「想子」という名前らしいぼんやりを捗らせてくれた。

 女子校舎と男子校舎をつなぐ渡り廊下だ。三階建ての各階をつないでる。一階部分は購買にパンを買いにいく生徒で昼食前には往来があった。二階部分は美術とか書道の教室移動で使われることがあった。三階部分は、いちばん広いのに、ほとんどひとが行き交うことはなかった。ここを歩くひとは、女子校舎に入る男子か、男子校舎に入る女子か、どっちかだ。その境界を乗り越えることはとても恥ずかしい、みたいなムードが誰も口に出さないままあった。わたしはそれをいいことに、境界の渡り廊下を自分の居場所として定めることにした。

 三時限目が終わると、購買まで昼食を買いにいく。みんな目当てのパンを買うためこの時間に集まるのだけど、どっちかというとコンビニ派のが多いみたいで、売り切れることは少ない。わたしが好きなのはラスク。味は三種類あって、きぶんによって変える。まあ王道で間違いないのはシュガーラスク。一番美味しい。でもあんまり続けると飽きるので、ときどきシナモンラスクに手を出す。香りにクセがあるけど、ときどきその刺激がほしくなる。付き合う相手がシュガーラスクで、浮気相手がシナモンラスクってかんじ。で、もうひとつの味は、ガーリックラスク。ラスクを食べるのなんて八割がた女子なのに、なんでこんな匂いの残るものを売ってるんだって思う。案の定、昼休みが終わってもガーリックラスクだけは毎日ぽつんと残ってる。わたしがガーリックラスクを食べるのは、三時限のあとに復習してたりとか週番があったりとかで他の味を買いそこねたときだけ。ガーリックラスクしか選択肢がないのを見ると、すごくがっかりする。でも食べはじめると、泣きそうなくらい愛しい気持ちになる。ガーリックラスクは、わたしにとっては恋人でも浮気相手でもない、夫みたいなものなのかもしれない。

 昼休み、渡り廊下に座ってラスクの袋を開くと、心地よい香りが青空いっぱいに広がる。山口じたい、空がとても広い街だ。でも、渡り廊下から見渡す空がいちばん広い気がする。マンション七階のベランダから見る空よりぜったい広い。三六◯度のブルー。やさしく流れてくる風は春のおだやかな陽気をたっぷり含んでいて、すこし肌寒いんだけどいい匂いがして、眠気を誘う。うちの高校の昼休みはやたら長い。かるく居眠りしてもいいかな、と思い、まぶたをとじた。

 ちょっとでも眠るとわたしはかんたんに夢をみることができて、起きたあとでもそれを鮮明に覚えてる。パソコンと心理学に詳しいオタクの友だちが言ってたんだけど、夢っていうのはメモリーっていう一次記憶にたくわえられて、それは時間が経つと忘れちゃうんだって。で、現実に起きたことはハードディスクっていう二次記憶にたくわえられて、こっちはなかなか忘れない。そんな話だった。その話を聞いたときも思ったんだけど、わたしは真逆だ。現実のことをすとんすとんと忘れちゃう。その代わりに、夢で見たことはいつまでも覚えてたりする。たぶんふつうのひとは、夢を食って現実を生きるんだと思う。わたしは、現実を食って夢を生きてる。わたしにとっては、現実なんて夢をみるための睡眠薬でしかないんだ。だから、退屈であれば退屈であるほうがいい。

 昼休みはしょっちゅう昼寝をしてて、いろんな夢をみた。過去に起きたことはぜったいに見ない。だいたいは未来に起きそうなこと、起きてほしいことだ。それが本当になったこともよくある。最近よく見るのは、海の夢だった。わたしは今まで海のある町に住んだことはない。夢のなかでみる海は、空が鏡みたいに映っててとても綺麗だった。でもナショナルジオグラフィックに載ってるウユニ塩湖とかじゃなくて、日本の海。だってそこには、お姉ちゃんの、創子がいた。わたしはその海で、創子とふたりで暮らしてた。おいしいお刺身を食べたり、海を泳いで競争したり、白いイルカと遊んだりした。夢のなかで、わたしは創子ととても仲がよかった。夢をみるたびに、創子との距離が縮まっていった。手を繋ぎ、口づけを交わし、裸を見せあい、そして。

「んッ」

 しびれるような快感がわたしの身体のいちばん奥から脳のてっぺんまで電流みたいにかけあがり、わたしは身体をふるわせて思わず声を漏らした。口元をぬぐうと、よだれが出てることに気づいた。わたし、もしかして、いま、いった?

「なにしてんの?」

 その声が聞こえて、わたしは一瞬でいまに返ってきた。かんぜんにぼんやりしてて、ひとが近づいてくるのに気が付かなかった。オナニーをみられた気がして(まあ半分そうなんだけど)、わたしは慌てて顔を起こした。

 彼がそこにいることを認識したのは、視覚よりも先に嗅覚だった。甘酸っぱい、いい匂い。ことを終えたわたしをそっと癒してくれるような、やさしい匂い。わたしに声をかけてきたのが彼じゃなかったら、わたしはレイプされた後みたいな屈辱のあまり冗談じゃなく渡り廊下から飛び降りて死んでたかもしれない。でもちゃんと彼だったので、わたしは背筋を伸ばして彼の顔を見上げた。

「お姉ちゃんの夢みてました」

 そう言うと、アザラシみたいな大あくびがでた。そういえば今日の昼ご飯はガーリックラスクだったことを思い出し、それがいちばん恥ずかしかった。

「チャリの鍵、返してよ」

 彼はわたしの隣に腰を下ろし、そう言った。

 わたしはスカートのポケットに手を突っ込み、そこに鍵が入ってることを確認する。好きなひとの弱みを握ることは素敵だ。交換条件として「キスしてくれたら返してあげる」と言ってもいいんだけど、口が臭いので今日は止めておく。

「自転車なくて、どうやって学校来てるんですか?」

 代わりにそう尋ねてみる。

「歩いてきてるよ。せっかく中学より近くなったのに、前よりずっと朝早く起きないといけなくなって、まじだるい」

 鍵を奪ったら電車で会えると思ってたのに、どうりで出くわさなかったわけだ。うちの家のあたりから高校まで電車で一駅。田舎だから駅間隔はかなり広いので、歩くと二時間近くかかるんじゃないだろうか。さすがのわたしも、鍵を奪ったことを申し訳なく思ってしまった。

「なんで電車で通わないんです?」

 尋ねてみた。

「お前がチャリの鍵を盗ったからだろ」

 そう溜息を吐いたあと、彼はこう続けた。

「道がまっすぐなんだ」

 彼は膝をかかえるように手を組み、たのしそうに指をあそばせながら、なんだか意地悪い笑顔で空を見上げ、言った。

「なんでもない道なんだ。本当になにもない。周りには田んぼと、ときどきファミレスとかコンビニがあるだけ。でも、学校までまっすぐなんだ。本当にまっすぐ。一ミリも曲がってない。俺はその道を走ると安心するんだ。ああ俺は曲がらなくていい、そういうふうに思えるんだ」

 最初に彼に会ったとき、学ラン姿で雨に濡れてたことを思い出した。どうして雨に濡れながら、それも学校のない日に学ラン姿で走ってたのかと思っていた。彼の説明を聞いて、その理由がわかった。彼は、まっすぐなんだ。何かによって曲がったり道を変えたりしない。きっとそうすることは「こわい」んだ。彼が地下道をくぐるのではなく長いじかん信号待ちをする理由を訊いたとき、彼はそれを「こわい」と言った。あのときわたしは彼のことを可愛いと思った。でもいまは、彼のことを可哀想だと思う。そのふたつの感情はよく似てる。どっちも恋しいひとにもつ感情だ。誰だって可愛いと思われるほうがしあわせだろう。でもわたしは、可哀想のほうが深い情だと思う。たとえそれが相手を傷つけるものだとしても。

「俺からも質問していい?」

 彼はそう言い、わたしをまっすぐに見つめた。

「どうぞ」

 わたしはそう応え、彼からまっすぐに与えられるであろう質問にいっさいの防御を行わず、生身の感情を晒しあるがままに振る舞うことを決めた。

「なんでここにいるの?」

 思ったよりもずっと心がざわついた。でも、思ったよりもずっと平気だった。次いで、わたしは彼に感謝したいと思った。それはわたしが一番訊かれたかった質問で、誰かに、できれば大切な誰かに答えたい質問だったから。

「何処にも居場所がないので」

 なるべく自嘲気味にならないように、できるだけ自然にそう答えた。言ったあとで、わたしはその言葉のもつ深い業のようなものに気付いた気がした。わたしのいる場所なんて、今まで何処にもなかった。でも今までは、そのことに無意識でいられた。この町だけが、この学校だけが、わたしに孤独を突きつけた。そうだ、男でも女でもない場所で、居もしないお姉ちゃんにいくなんて、たぶんそれ以上の孤独はない。

「ふーん」

 べつに理解を求めたわけではないけど、その相槌はやっぱり少し寂しかった。始業五分前のチャイムが鳴ると、彼は早々に男子校舎に帰ってしまった。それもやっぱり寂しかった。


 昼休み、それから彼は一度も渡り廊下に来なかった。わたしは今までどおりひとりでラスクを食べ、居眠りをした。でも、あれ以降きゅうに夢をみることができなくなって、わたしは焦った。夢をみたときにいったのなら、いけば夢をみられるかもしれないと考えた。ポケットに手を入れると、ちいさな鍵が入ってた。これを使ってオナニーしてみたらどうだろうか。でも、性病になるかもしれない。淋病、という漢字は、ほんとうに事を言い当ててると思う。さびしい病気なんだ。わたしはさびしくて、さびしくて仕方なくて、でもぽっかりと開いた穴を埋めるためのものが何なのか分かんなかった。鍵だと小さすぎるし、ちんこだと大きすぎる。答えは、お姉ちゃんが、創子がもっている気がする。創子はどこにいるんだろう。海?


 放課後、とくにおしゃべりする相手もいないのでさっさと帰ろうと机のなかの教科書をカバンに詰め込んでると、教室の間口のほうからざわめきが広がった。ふだんの教室にはない、なんだか色気づいた歓声。恥ずかしさといやらしさをカクテルして喜びで割ったような、思春期の女子独特のおさない嬌声。顔を上げると、間口のあたりに人だかりが出来ていた。それはモーゼの十戒みたいにゆっくりと割れ、なかから背の高い男の子が顔を出した。

 彼じゃん。

 女子校舎に男子が入ってくることは殆どなかった。いちばん男子校舎に近い側のクラスにはときどきお洒落系の男子が顔を出して、そのクラスには化粧を意識した、スカートの短い女子が多かった。いっぽうわたしたちのクラスは男子校舎からいちばん遠かったので、男子が来たことは一度もなかった。それを揶揄して「姫クラス」なんて言われてもいたけど、姫なんていいものじゃなく、男子がいないのをいいことに肌の手入れをさぼってたり、口ひげを伸ばしっぱにしてる女子がたくさんいた。そこにふいに男子が入ってきたのだ。嫌悪感があらわにされても全然不思議じゃなかったと思うけど、彼を迎える女子たちの反応は、歓待ムードだった。彼はそういう、他人に安心感を与える雰囲気を持ってる。わたしが彼を好きになったとおりだ。そして、他の女子たちも一瞬で彼に惹かれてしまったのかもしれない。姫クラスになんの抵抗もなく入ってこれてしまう彼は、間違いなく王子だった。

 しかし、何をしに女子校舎の奥地まで来たんだ? わたしがじっと彼を見つめてると、彼は、まっすぐにわたしに向かって歩いてきた。

「鍵を返してもらう方法、考えてたんだ」

 彼はわたしの前に立ち、そう言った。女子たちのざわめきが一瞬で止まり、わたしたちの会話に耳をすませてるのが分かった。

「土屋、おまえ、京都から来たんだろ?」

 え、なんでわたしの名前知ってんの? あと、わたしが京都から来たことも。

「なんで……」

 周りの反応も気になるし、うまく言葉にならなくて、わたしはようやくそれだけを言った。

「この町で引っ越してきたやつのことなんか、すぐ噂になるよ。お前の名前も知ってるし、お前んちが金持ちなことも知ってるし、お前が前の学校の制服を着てファミレスでパスタ食ってることも知ってる」

 名前とか、家のこととかはどうでもいい。それより、行くはずだった学校の制服を着てるのを見られたことが恥ずかしくて、でも、なんだか嬉しかった。わたしはその姿を誰かに見せたかったから。

「でもお前は、この町のことを何も知らないだろ?」

 彼は言った。わたしはこくんと頷いた。

「だから、俺がお前に教えてやるよ。この町のこと」

 ああ、彼は男の子なんだな。そのことを実感した。彼は、分かってほしい、と思っちゃうんだ。わたしは違う。わたしは、分からないでいてほしいと思う。例えばあの制服に閉じ込めた、わたしの想いのこととか。

「だから、チャリの鍵、返してよ。俺と一緒に学校いこうよ。チャリの後ろに乗っけたるから。お前にまっすぐな道、見せたいんだ」

「えーと……」

 それはつまり、どういう?

 周りの女子たちも敏感にその雰囲気を察知したのか、「やー」という悲鳴みたいな呻き声が、遠巻きにわたしたちを見つめる彼女たちの間から上がった。

 彼はわたしに右手を差し出し、頭をさげて、こう言った。

「付き合ってください」

 彼は、分かってほしいと思ってる。わたしは、分からないでほしいと思ってる。その綱引きが、付き合うということなんだ。太陽と月のかくれんぼみたいに。分かることは日蝕だ。たぶんすごく美しい。その先には別れしかないとしても、わたしは、それを見たいと思った。

「よろしくお願いします」

 わたしはそう言い、彼の右手に自転車の鍵を握らせた。


 彼と付き合いだして生活が変わったかといえば、しばらくはそうでもなかった。電車より自転車で通学するほうが時間がかかるのだけど、そもそも電車の本数が少ないので、家を出る時間は今までと同じだった。マンションから降りた先の、国道二号線の信号の前で彼と待ち合わせをし、二人乗りで学校まで行く。帰り道もそう。とくに寄り道はしなかった(行く店もなかったし)。再び待ち合わせ場所の信号の前に着くと、おしゃべりもそこそこにお別れ。わたしたちの交際は、そんなふうに始まった。

 付き合い始めてしばらくしたある日、放課後に、教室で泣いてる子がいた。なんだろう、と心がざわついた。思春期のわたしたち女子は、同じアンテナを持ってて、お互いの感傷をそれなりに共有できる。その泣いてた子と話したことは殆どなかったけど、なんか、悲しかった。彼女が一瞬わたしを見つめた冷たいまなざしに、いやな予感を覚えた。

 その次の日からだった。クラスにおけるわたしの立ち位置が微妙なものになった。話しかけても、なんだかよそよそしい。向こうからわたしに話しかけてくることはない。授業でわたしが当てられると、教室がとたんに静かになる。あ、これ、いじめだ、と、わたしは察知した。

 今までに転校してきた学校で、いろんないじめを見てきた。軽くからかうだけのものもあったし、持ち物を隠したり落書きしたりなんていう古典的なものもあったし、教育委員会とか警察まで出てきて地方版だけど新聞にも載った派手なものもあった。いちばん激しいものだと、強姦されたものもあって、彼女は保健室登校をすこし続けたのち学校に来なくなってしまって、その後のことは分からない。京都のいじめはパンクで、その子のコンドームに穴を開けて、マジックで「ノーファックノーライフ」と書くというものだった。穴は分かりやすく開いているし、マジックが目印になって分かるから、そのコンドームを使ってセックスしちゃうというような実害はない。ただ、威圧としては効果的だった。その町の、その性別の、その年頃の、それぞれの在り方によって、いじめは形を変えてきたと思う。わたしはこれまでその当事者になったことは加害側としても被害側としてもなく、また止める側に入ることもなく、ただ傍観してきた。わたしは初めていじめの対象になった。他にも彼を好きな子がいたことが原因だろう。でも、べつにわたしが何か悪いことをしたわけじゃない。他の子もそれが分かってたのか、この学校でわたしに与えられたいじめは、「無関心」というものだった。

 いじめというには、形がないものだった。教師から見ても気づかないし、言っても分かってもらえないだろう。親にも相談できない。もちろん、彼氏にも。それでも精神的には少しずつ苦痛がたまっていった。わたしは平気だと思い込もうとした。そのことが、ますますわたしを追い詰めた。何より、登下校のときに彼氏と自転車で走るまっすぐな道が、わたしに一番の苦痛をもたらした。

 昼休み、わたしは彼氏にも会いたくなくて、トイレの個室が居場所になった。ラスクを音をださないように少しずつ食べて、食べきれなかったぶんはトイレに流した。長い昼休み、わたしは便器に溜まってる透明な水をずっと見つめてた。わたしは海のことを想った。この水は、海にもつながってるだろうか。ここから流されれば、わたしは海に辿り着けるだろうか。

 理科の授業中、すごくお腹が痛くなった。でも意地でもトイレに行きたいとか言い出したくなくて、脂汗を堪えながら授業の終了を待ち、なんでもないふうを装ってトイレに行った。

 専門教室が集まる階のトイレは他にひとがおらず、静かだった。いそぎスカートをたくしあげて下着をおろし、便座に座り、おなかの力を抜いた。

 あっという間に、透明な水が赤く染まった。真っ赤に染まった水は、海みたいに見えた。わたしはかつて、「海を描く」という課題で、画用紙を真っ赤に染めたことを思い出した。わたしはそれを、子宮を表現したものだと思ってた。でもわたしの身体から溢れたこの水は、生理の血じゃない。血尿だ。この赤い海は、何処にもつながってない。子宮にも、何処にも。

「たすけて……」

 誰もいないトイレの個室に、その言葉が響いた。逃げ場所は何処にもない。ここにはわたしの身体しかない。わたしはお腹に手を当て、ほかの誰でもない自分にそう語りかけた。

(想子……?)

 ふいにその言葉が聴こえた。

 わたしは辺りを見渡す。なんだか懐かしい声。ママの声にも似てる。でもママより幼くて、でもずっと芯の強い声。

(想子……? あたしだよ、ここだよ、創子だよ)

 便器のなかの赤い海を見つめた。そこには、わたしの姿が映ってた。いや、わたしじゃない。わたしはこんな強い顔をしてない。創子だ、お姉ちゃんだ。

 創子が、わたしを助けに来てくれたんだ。

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