第2話 Wanna Be Starting Something

 春って希望にあふれた季節みたいに言われる気がするけど、わたしにとってはちっともいい季節じゃない。いや、周りの子に訊いてみたって、春が好きって子はあんまりいなかった。みんななんとなくわかってたのかも。始まりっていうのは、ちっとも楽しみじゃなくて、どっちかっていうと憂鬱なんだ。初めて告白されたときのあの感じ。初めて彼氏ができたときのあの感じ。初めてキスをしたときのあの感じ。初潮がきたときのあの感じ。フィール・バッド。いろんなことがどうでもよくなる。でもその「どうでもいい感じ」は病まずに生きていくうえで結構大事なのかもしれないし、むしろ投げやりに生きたくらいのほうが世界はうまく回るもんなんだ。中学校で病んだ子はみんな処女で、賢かった。クラスで一番可愛い子は、馬鹿で、行きずりのオッサンと初体験を済ませた。そのことをその子は「投げヤリやね」って評してて、まあダジャレなんだけどうまく笑えなかったし、むしろ格好いいと思ったのを覚えてる。インスタント・ラーメンみたいなセックスがいいな。いれて三分たらずでフィニッシュ。あれ、けっこう美味しいし。わかってはいるんだ。でも、おとなになるということは、わかるということとやるということが、すこしずつ剥がされていくということなのかもしれない。中学生から高校生へと脱皮する春、現実が夢からゆるゆると剥離してくのを感じてた。そのときのわたしにとって一番大事なことはセックスがどうこうではなく、彼氏と別れたことなんかもどうでもよく、ただ「この春のために買ったとても可愛い制服が着られないこと」だった。

「想子、まだその制服着てんの? 早く捨てちゃいなよ」

 わたしがドレッサーの前で三面鏡に制服を着た姿を映して悦に入ってると、ママがそう言い捨ててわたしの後ろを横切っていった。回転をとめた洗濯機から手早く衣類を取り出し、洗濯カゴに詰め込んで、さっさとベランダに去っていった。わたしに文句を言われるのを察知したのかもしれない。事実、わたしはこの春に山口県へ引っ越してきてから、ママと顔を合わせるたびに文句を言っていた。

 パパの転勤だった。パパはマスコミに勤めてて、昔からやたらと転勤が多かった。幼稚園は札幌、小学校に入るときにさいたまに引っ越し、それから一年おきぐらいで宇都宮とか前橋とか水戸とか、北関東のあたりをジプシーみたいにぐるぐる回った。小学校を卒業するときは郡山にいて、中学校に入学する春、京都に移った。中学校の三年間を、わたしは京都で過ごした。今までに暮らした町のなかで、わたしは京都がいちばんに好きだった。現実の同世代の男の子が粗雑で汚らしく見えてきたこともあって、女の子ばかりの学校でアニメとかドラマの美少年にうつつを抜かすのは楽しかった。校則は厳しかったけど、町へ出てトイレで制服を脱いで化粧を整えれば、わたしたちを縛るものは何もなかった。うちも周りの子もまあ裕福なおうちで、けっこうなおこづかいを貰ってたので、中学生という身の程をそれなりにわきまえればお金にも苦労しなかった。キルフェボンのタルトケーキ、都路里の抹茶パフェ、ジャンカラでフリータイムの椎名林檎全曲制覇。毎日がきらきらしてた。三年生になると、生活が徐々に高校受験の色を帯び始めた。周りに眼鏡の子が増えたり、肌が荒れてる子が増えた。授業中にくだらない手紙がカラフルな紙飛行機で飛ばされることも減って、真面目に授業を聞くか、それか自作の英単語帳に噛り付いて内職をしてた。ほとんどが内部進学なんだけど、全員がぜんいん合格できるわけじゃないので、かみさまの気まぐれな指の隙間からぽろりと零れ落ちないよう必死だった。たのしい中学生活の延長線上にある高校生活が、どれだけ華々しいものであるか、みんな知ってた。高校は中学のすぐとなりに併設されてたので、京都でいちばん可愛いっていわれる制服も、中学生より大人の自信にあふれた落ち着きのある化粧も、ブランド物のケースに仕舞ったアイフォンをネイルの映える細い指先でいじりながら友だちか彼氏を待つ姿も、すぐ近くで見て憧れてた。中学校と高校は、グラウンドと金網を挟んで区切られてた。その金網を越えるってことが、そのときのわたしたちにとって全てだった。そんな必死な生活も、愚痴をたくさん零しながらではあったけれど、みんなと一緒だと充実してたし楽しかった。塾の帰りにマクドに寄って遅くまで勉強したり、本屋で参考書を真剣に選びあったり、三条大橋のスタバで英語縛りの会話で練習してたら外国人に話しかけられて困ったりした。合格できると信じてたし、じっさい合格した。合格発表は早朝に北野天満宮境内で待ち合わせをして、参拝してから市バスで高校まで見に行き、合格番号一覧に全員の番号があることを確認すると、抱き合って泣きながら喜んだ。一週間後の卒業式ではもっと泣いた。憧れた制服の採寸をしてもらってるときは、わくわくして仕方なかった。制服がいよいよ手元に届いて、わずか二日後だった。パパが山口県に転勤になったと知らされたのは。

 パパの仕事柄なのか、転勤の辞令はいつも直前に来る。そして、それが届いてからのわたしたちの動きはすごく早い。もう慣れてるんだ。すぐに引っ越し業者に連絡を取って、最短の日程で動いてくれる業者を見つけて、相見積もりを取ることもなくさっさと予約を済ませ、段ボール箱を送ってもらってどんどん梱包する。本当に必要なものだけを詰めると、あとはぜんぶ捨ててしまう。家電はほとんどリサイクルに出す。段ボール箱を送り終えたあと、要らないものをぜんぶ専門の回収業者に持ってってもらい、そのあとハウスクリーニングの会社に引き払う部屋をぴかぴかにしてもらう。それから部屋の引き渡しのため不動産会社に立ち会って、そのまますぐに新居へと向かう。新居はいつも会社の借り上げ寮らしく、パパがひとりで決めてくるので、入居して初めてどんな物件なのかを知る。それでもとてもいい物件ばかりで外れたことは一度もない。いつもわたしひとりの部屋がちゃんと用意されてて、詰め込んだ段ボール箱が届いてて、わたしはそれを手早く開梱し、前の部屋と同じ空間をコピーする。この間、わずか数日。

 とても忙しなくて、いろいろと考えたりする余裕もなくて、友だちや彼氏とはメールで簡単に別れを済ませた。あんなに好きな京都の町だったのに、あんなに大切な仲間たちだったのに、卒業するときはあんなに泣いたのに、別れはとてもあっさりだった。口裏を合わせたみたいにみんなからは「転校してもまたメールするね!」みたいな返事が泣きの絵文字つきで送られてきて、それきりだった。わたしはSNSをしない。「ママに怒られるから」って理由をつけてはいるけど、本当はずっと続く関係が気持ち悪いんだ。セックスとおなじくらい気持ち悪い。切れるときはばっさり切ってしまいたい。それが、転校の多い生活のなかで身につけた処世術だった。

 高校のために買った可愛い制服が着られない、そのことだけがとてもショックだった。いつもみたいに、前の学校の教科書とか、ガチャを回して交換した模型コレクションとか、放課後に変顔をして撮り合った写真とかと一緒に捨ててきたらよかったのに、新しい制服は梱包すらできず、手持ちのボストンバッグに大切に詰め込んで持ってきてしまった。山口に引っ越してきたあとも、一日一回はその制服を着て鏡の前に立ってた。半分ママへの当てつけもあったんだけど、あのひとは昔からパパやわたしを含めた他人にまったく興味がないので、わたしが制服を着ている姿を見つけても、「早く捨てなよ」と言うだけで、それ以上なにも干渉しようとしなかった。だから制服を着た理由のもう半分も、きっとママにはわかってもらえないだろう。パパは優しくて賢くていい相談相手ではあったし、ときに恋愛相談もできるほど女心を理解する懐のふかいひとではあったけど、同じ視点で共感してはくれなかった。同い年くらいの女の子じゃないと駄目なんだ。今までいろんな町ですれ違ってきた子たちとも違う。わたしと同じものを、ぜったいに切り離せない呪いみたいに抱えてる女の子だけが、わたしの制服を脱がしてくれる。だから、わたしは。

「お姉ちゃんがほしいなあ」

 洗濯物を干したあと、映画を観はじめたママをリビングに見つけ、わたしはソファのすぐ隣に座るなり、その言葉を投げた。ママは何もいわず、ただローテーブルのうえからリモコンを手にとり、音量をふたつ上げた。ママの好きな洋画だ。ママは英語音声の映画を観るときは字幕を出さないので、どんな内容なのか分からない。ただ、主演男優の顔が恰好いいことだけは分かった。ママは顔のいい男が好きらしい。わたしが歴代の彼氏を紹介したとき、あんまり興味を示さなかったのに、顔についてだけは必ず言及した。点数をつけられたこともある。ちなみに一番点数が高かったのは小学六年生のときに付き合ってたクォーターの男の子で、他に好きな子ができたとかいう理由で振られると、わたし以上にママが残念がっていて、それを引きずってそのあと一年間彼氏ができなかったりした。

「あーー、お姉ちゃんがほしい」

 わたしはもう一度、ママに聴こえるよう映画の音声に負けない声を張り上げる。妹じゃ駄目なんだ。妹だと年が離れすぎるし、わたしが面倒みなきゃだし、それに、有り得ないとは思うけど、ママとパパがもしその気になれば叶えられてしまう。お姉ちゃんなら、ママはぜったいにつくることが出来ない。だから、行きどころのない不満を表す文句として適切なんだ。

 それにしても、ママはいつものことながら、全く聞いてる様子がない。このひとの左耳と右耳は直接つながってるんじゃないだろうか。それか、英語しか聞き取れない耳なのか?

「えーと、あ、あいうぉんと、しすたー」

 冗談めかして、英語で言ってみた。発音がうまくできなかったし、それに慣れない英語で言うと妙にレアリティが出たというか、わたしがいよいよ切実にそれを望んでいるみたいに感じられて、恥ずかしさのあまり顔が真っ赤に染まった気がした。

 映画はいつの間にか終わり、エンドロールが流れ始めた。何度か観た映画なのだと思うけど、ママはいつもエンドロールは最後まで観る。ママいわく、それは「ルール」らしい。缶ビールの飲みはじめはシンクに捨てるとか、ショートケーキの苺は左手で最初に食べるとか、ハーゲンダッツはまったく溶けていない硬いうちに食べ始めないとダメだとか、ママのよくわからない自分ルールのうちのひとつだ。ローテーブルのうえには、ママの好きなダージリンのストレート・ティーがガラス製のティーカップの底に少しだけ残ってる。

 エンドロールを見送ると、ママはやっぱり自分ルールに従って紅茶を飲み干し、ほう、とため息を吐いたあと、言った。

「You have an elder sister」

 映画を観終えたあと、ママはいつもより素直になる。妙に甘えてきたり、親身にわたしの将来の話を尋ねてきたり、パパの愚痴を零したりする。何を考えているか分からないママの、数少ない本音を感じられる瞬間だった。ママは本音を言わないのではなく、言えないのかもしれない。そんな彼女がすこしだけ本当のことを話すために、長い時間をかけて映画を観ているのかもしれない。

 だからママが映画のあとに零したその一言は、きっと大切なことに違いなかった。あまりに流暢すぎて、うまく聞き取れなかった。それに、わたしの理解が正しいのか、まるで自信が持てなかった。ゆー、はぶ、あん、えるだ、しすたー? えるだーしすたーって、姉? 「あなたには姉がいる」って、そう言ってる?

「れ、れありー?」

 わたしはようやく、そう返事をした。アールとエルの発音がまるで出来ていない、とても間抜けな英語だった。そしてその間抜けさゆえに、わたしは姉に対する執着を生々しいまま曝け出してしまう。ああ、高校に入ったら、ちゃんと英語を勉強しよう。勉強というものは、嘘をついて世のなかをうまく渡るためにするものなのかもしれない。少なくとも現時点ではわたしの英語の成績は五段階の三しかなくて、嘘をつくこともその程度にしか出来ないのだった。

「水子のお姉ちゃんならいたよ」

 ママはそう言って、リモコンを手に取った。DVDデッキからDVDが吐き出される。ママはDVDをケースに仕舞い、ママのDVDコレクションが並ぶ棚に戻した。

「ソウコって名前だった。あなたは想う子でソウコでしょ。じゃなくて、お姉ちゃんは、創る子でソウコって名前にするつもりだった」

 ママはわたしのほうを振り返らないままそう言って立ち上がり、食卓のうえのアイフォンをとった。メールチェックでもしたのか、手早く指を滑らせて何かを確認し、ボッテガヴェネタのローマバッグに投げ込んでそのままリビングを出て行こうとした。

「ちょっとー、何処いくのー?」

 あまりに突然だったので、わたしはちゃんと反応できず、ソファに深くもたれかかったまま声だけを投げた。ママの姿は玄関に消え、

「ごめん、語学教室に行くの忘れてたわ。急いで行ってくる」

 という返事が返ってきた。リビングに壁掛けされた時計を見やると、もうすぐ午後五時だった。今日は土曜日だったっけ。ママは語学が趣味で、今までも英語とフランス語の教室に通ってた。山口に来てまだ数日にも関わらず、もう英語の教室には入学したみたい。フランス語の教室もそのうち見つけるんだろう。

「何時頃帰るのー?」

 再び声を張り上げると、玄関から、

「教室のあとレイトショー見るから、」

 という返事があり、続きは扉が閉まる音に遮られた。

 わたしは立ち上がって玄関に向かい、いつものように鍵をかけた。

 語学教室のあと、レイトショーを観て帰るのはママのいつもの習慣だった。山口の新しい語学教室も、同じ建物に最新のシネマコンプレックスが入ってると言って喜んでた。九時から映画を観るとして、終わるのは十一時くらい。帰ってくるのは日をまたぐ頃か。パパは今日も仕事で、帰ってくるのはママよりも遅いだろう。

 リビングに、わたしだけがぽつんと取り残された。買ったばかりのソファやローテーブル、食卓なんかが整然と並び、聴き慣れない冷蔵庫の音がしずかなうなりを上げている。

「ああ、もう!」

 ママに向けた怒りが倍になって帰ってきた。ママにお姉ちゃんのことなんか話すんじゃなかった。なにが水子の姉だ。なにが創子だ。わたしには、出来のわるい嘘としか思えなかった。ママが嘘をつくのは今に始まったことじゃない。べつに欺こうとか自分が得するようにとか悪気があるわけじゃなく、本当のことをそのまま言うのには照れがあるらしい。そんなママは可愛くて、ぜんぜん嫌いじゃなかったのだけど、ときどきそんなあどけなさが妙にイラッとくることがあり、それが今だった。

 再びソファに戻って座ると、テレビが点けっぱなしになっていた。リモコンを取って電源を落とすと、黒い画面には制服を着たわたしの姿がわたしじゃないみたいに映し出された。

「創子……」

 ぽつりと呟いてみる。

 出かけるとき、ママはやけに慌ててた。もしも、もしもだけど、わたしに水子の姉・創子が本当にいるとしたら、どうだろう。水子ということは堕胎したということだから、今はこの世界にはいないわけだけど、少なくともかつてママのお腹のなかに存在した。だとすれば、創子の遺伝子の一部はわたしの身体のなかにも引き継がれているかもしれない。いや、きっとそうだ。

 わたしのなかに、お姉ちゃんがいる。

 わたしはいろんな町で過ごしてきたけど、そのどれもが海のない町だった。小学校のとき、図工の授業で「海の絵を描きましょう」と言われて、わたしは戸惑った。結局、わたしは画用紙いっぱいを真っ赤に塗りつぶした。その絵について、先生も、友だちも、何も言わなかった。とくに賞も取れなかったので、教室に張り出されることはなく、誰にも見られなかった。

 誰にも理解されなかった。あの絵は、わたしにとっては子宮を表現したものだった。お姉ちゃんだけは、同じ子宮で過ごしたお姉ちゃんだけは、あの絵が海だって分かってくれる気がする。この世に生まれてくるということは、ものすごい奇蹟だと聞いたことがある。たぶん人と人が分かり合える確率も、同じくらいの奇蹟だ。その奇蹟を同じように乗り越えて来たお姉ちゃんだけが、わたしのことを分かってくれる気がする。

 わたしは洗面所に向かい、鏡の前に立った。そこに映っているのはまぎれもないわたしだった。肩くらいで切りそろえた髪の毛は前髪ごとまるっと上に持ち上げ、輪ゴムでまとめてちょんまげみたいにひとつくくりにしてる。元々色白の肌には化粧下地を三重に塗り込み、たっぷりのファンデーションでますます真っ白に染めた。頬っぺたには紅色の派手なチーク。誰に言われるまでもなく、とてもへんだ。中一の秋に始めたそのメイクを見たとき、ママは珍しく、ぷっと笑って、「あんた可愛いんだから、ふつうにしてたらいいのに」と皮肉っぽく言った。そんなこと、言われなくてもわかってる。パパも、ママも、家族のひいき目抜きにして、俳優といっても通るくらいの美形だ。ふたりの子どもであるわたしが可愛く生まれないわけがない。すっと通る鼻筋と、形よくとがった顎、ぴんと張った睫毛は、パパの遺伝だ。薄絹みたいに透き通る肌と、黒目がちで意思のつよそうな瞳はママゆずりだ。わたしはそんな血縁に歯向かいたくて、初潮がきたすぐあとから、へんな恰好をはじめた。へんな恰好をしていても、彼氏には困らなかったし、市街に出るとよくナンパされた。ざまあみろわたしはパパやママの力を借りなくてもモテるんだ、と得意になる一方、イージーすぎてすごく空しくなった。

 ほんとうは、ちっともイージーじゃないのに。

 わたしは三面鏡の右側の鏡を手前にひらき、裏の戸棚に収納されてるクレンジングオイルを取り出した。ボトルのプッシュを連打し両手いっぱいにオイルを広げ、そのまま顔にぶっかけた。痛いくらいひんやりして気持ちがいい。手探りで蛇口のレバーを押し流水を流しっぱにして、ダヴの洗顔フォームを何度もつかい、丁寧に顔を洗って化粧をすべて落とした。最後、髪をしばっていた輪ゴムを外す。髪にでたらめな癖がついてヤマンバみたいに暴れてたので、髪を軽く濡らし、パパのパウダーシェイクを借りて、ドライヤーの弱風で整えた。

 あらためて、鏡に向かい合う。化粧も髪も自然に戻し、何処のものでもない制服を着たわたしは、お姉ちゃんみたいだった。創子だ。きれいで、つよくて、魅力的で、なんでもできちゃう。しばらくこの高揚をたのしみたくて、わたしは解放感に促されるまま、外へとびだした。

 マンションは小高い丘のうえにあって、煉瓦造りの長い階段を降りてくと、国道二号線にでる。片側二車線の広い道をびゅんびゅんいいながら車とか大型トラックが通り過ぎてく。道路の向かいには広大な田んぼが開けてて、その向こうには単線の鉄道と、簡素な駅舎が見える。駅に行くには、横断歩道もあるけど、かなりの長い時間信号待ちをしないといけないので、地下の歩道を通ったほうがいいというのは入学の手続きで初めて高校に行ったときに知った。ここから一駅電車に乗ったさきが新しく通うことになる高校だ。そこからさらに三駅進むと市街にでる。とにかくわたしたちが住んでるところは、すごく田舎。ただ、国道二号線沿いにはファミレスが並んでて、それでわたしは安心した。わたしは新しい土地に引っ越すたび、必ず最初にファミレスを探した。元々は、パパとママは家にいないことが多いから食事を摂る場所が必要だという実用的な理由だったのだけど、ファミレスで長い時間を過ごすうちに、わたしはそこに自分だけの居場所を求めるようになった。わたしがファミレスに求める条件はみっつある。ひとつは、二十四時間営業してること。早朝でも深夜でも、行きたいときにいつでも駆け込みたいから。ふたつめは、ドリンクバーが充実してること。そうじゃないと、居座るのにお金がかかるから。みっつめ、知り合いが誰も来ないこと。国道二号線沿いを歩きわずか数分で最初に行き当たるファミレスは、今まで過ごしてた関東とか関西では一度も聞いたことがない店名だったのだけど、わたしが求める条件をすべて満たしてた。店内が広いわりに人が少ないのも過ごしやすい。しいて難をいえば、全席喫煙であることくらいか。今までそんなファミレスは見たことがなかったので、店内に充満する煙に多少、いやけっこう面食らったのだけど、それ以外はいいお店だったので、煙はまあアロマぐらいに思うことにして、引っ越しそうそうこのファミレスを居場所に決めた。

 ペンキで白塗りされた木の扉を開くと、扉上部に据え付けられたベルが、かららん、と鳴る。カウンターの向こうに暇そうに立ってる店員がこちらに目線を向けるのだけど、とくに出迎えてくれるわけでもなく、わたしは軽く会釈をしてファミレスの一番奥へ向かう。国道二号線に面した窓際のいちばん奥の席はいつも空いてて、なんとなくそこがわたしの定位置になった。

 メニューを開く。このファミレスに来るのは、引っ越ししてきてなんだかんだでもう十回目くらい。やけにメニューが多いのだけど、最初に食べたナポリタンスパゲッティがとても美味しかったので、そのまま浮気することなくナポリタンスパゲッティを食べ続けた。ただこの日は、いつもとは違うものが食べたいと思った。今日、わたしは想子じゃない。創子なんだ。お姉ちゃんなら、きっともっと格好いいものを頼むはずだ。

 わたしは、お姉ちゃんのことを考える。つよくて、かしこくて、きれいで、なんでもできるお姉ちゃんのことを考える。わたしのことを誰よりも大切に考えてくれるお姉ちゃんのことを考える。世界でたったひとり、わたしのことを分かってくれるお姉ちゃんのことを考える。

 わたしは、ミックスピザとジンジャエールを頼んだ。ピザはぱさぱさで、ジンジャエールは苦いばかりの安っぽい味で、ぜんぜん美味しくなかった。半分以上を残し、ぼんやりと窓の向こうを見ていた。

 机のうえに置いてたスマホが、びびび、と震えた。開くとママからメールが入っていて、泣きの顔文字つきで、

『濡れちゃった』

 と一言書いてあった。雨でも降ったのかな。

 わたしの心も、身体も、どうしようもなく乾いてた。ふっ、と笑うと、その投げやりな笑い方はママに似てる気がした。既読マークはついただろうし、それ以上返事を返す必要も感じなくて、そのままずっと窓のそとを眺め続けた。

 しばらくして、ここにも雨が降り出した。わらっちゃうくらいの結構はげしい雨だった。窓の外、国道二号線に沿う広い歩道のうえを、少年が自転車を押しながら歩いてきて、信号待ちを始めた。傘も持ってなくて、ずぶ濡れだった。制服を着てるのは、部活か何かなのかな。わたしと同じ高校だ。あ、自転車の後ろに貼ってある学校指定の駐輪シールが青色。ということは、わたしと同じ一年生だ。

 顔も、名前も、なんにも分からないのに、彼とは付き合う気がした。昔からわたしはそうなんだ。ふいにぴんとくることがあって、何故かその通りになってしまう。わたしはほんとうに、想子だな、と思う。想うことが、わたしにとって重要な出来事をもたらす。でも願い事が叶うってわけじゃないので、別に得をしたことはないし、むしろしたいことが出来なくてやっかいだ。したいこと? ってなんだろう。例えば、お姉ちゃんなら。創子なら。本当にしたいことを、創り出したりとかできるのかな。

 外はすっかり暗くなってて、店内の明かりが窓ガラスに反射し、そこに映るのはわたし以外のだれでもなかった。その向こう、歩行者用の信号が青に変わる。わたしの想い人は自転車に乗り、烈しい雨のなかをよろよろと走り去ってく。それをいとおしく見送ったあと、わたしは、わたしも傘を持ってないことを今更みたいに思い出した。

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