天地創想

にゃんしー

第1話 Enter Sandman

 知らない道を歩いてる。雑踏のなか、聞こえる言葉は何ひとつ分かんなくて、こんらんした。きれいなんだ。瞬くひかりが網膜を通じてあたまのなかに多幸感をもたらす。これは記憶なのかな、未来なのかな。わたしは生きてくのかな、生きてるのかな。ただひとついえることは、わたしはいま、とても気持ちがいい。

 足元にコンパクトディスクが落ちてる。12cmくらいの大きさの、わらうくらい完璧な円形。わたしはそれを拾うことなく、流されるように歩く。コンパクトディスクのぎらぎらに光る裏面が遠ざかる。ジャケットはうかがえず、何の曲なのか分かんなかった。

 誰かの人生みたい。そう思った。わたしがそのコンパクトディスクを拾って、再生するとする。そのコンパクトディスクから、ふいにメタリカの「エンターサンドマン」が流れはじめる可能性は、どのくらい低いだろう?

 たくさんの人に踏みしめられた面はぼろぼろに傷ついてて再生できないかもしれない。何ひとつ曲のはいってないブランクディスクかもしれない。違法の素人エロ動画がzipでぎっしり詰まってるだけのデータディスクかもしれない。再生できたとしても、流れてくるのはメタリカの別の曲かもしれない。それか、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」なんかがうっかり流れ出すかもしれない。そもそも、わたしはそのコンパクトディスクを拾えなかったわけだから、メタリカの「エンターサンドマン」が聴ける可能性は、かぎりなく低い。

 そのくらい低い確率で、わたしはこの世に生まれてきた。

 初めて「エンターサンドマン」を聴いたのはいつだっただろう。わたしが好きな曲はRADWIMPSとかback numberとか邦ロックの売れ線で、洋楽には疎いし、メタルは全くといっていいほどしらない。だからきっと誰かがその曲を教えてくれたのだと思うけど、誰だっただろう?

 幼いころからパパの転勤が多かったので、とてもたくさんの人とすれ違ってきた。わたしなりに誰もが大切で、でもこうして思い返すと彼ら彼女らの顔をまるで思い出せないので、他人から見ればそんなに大切じゃなかったふうに思われるかもしれない。そんなところは、わたしはママに似ている。思いやりが希薄というか、形にのこらず水みたいに流れていく。とくに女の子は残らなかった。いたくないから。

 男の子は、家族といまの彼氏をのぞけば、三人だけ思い出せる。

 ひとりは、初めての彼氏。あれは幼稚園のときだった。今までの彼氏がみんなそうであったように、彼もまた顔がよくて背が高くて賢くて優しい、なんでもできる人だった。その点パパに似ていて、かなしいかな男性の好みにもママとの血のつながりを感じてしまう。彼氏といってもなんとなく仲良くしていたらママとか幼稚園の先生に囃し立てられてそういうことになっただけで、恋人同士らしいことはなにひとつしていない。数か月後、パパの転勤で引っ越すことになり、彼とは離れた。幼稚園最後の日、彼はわたしにプレゼントをくれた。そのときに彼が言った「僕はいつか想子ちゃんのことを忘れちゃうんだろうね」って言葉を今でも覚えてる。その言葉で、彼とは別れるのだということ、今まで付き合ってたのだということを、初めて意識した。それはわたしにとって初めての恋で、失恋だった。まだ泣き方もしらなくて、笑うこともできず、わたしは「うん」とだけ言った。これまでの数えきれない別れのなかで、泣きながらもとにかくうまく熟してきた別れのなかで、この言葉だけをわたしは今でも後悔してる。その後悔で、わたしは彼のことを覚えてる。それ以外はぜんぶ忘れちゃって、彼からもらったプレゼントが何であるかは覚えてない。ただそれは「エンターサンドマン」ではなかった。そんな気がする。

 ふたりめは、初めてキスをした相手。中学生のマル三年間を、わたしは京都で過ごした。それほど長い期間ではなかったけど、パパの転勤先のなかでは一番にながかったし、思春期をその場所で迎えたという意味でも特別な場所だった。わたしは京都で初潮を迎えたし、それを彩るように性に関する知識のほとんどを得たのも京都だった。女の子ばかりのお嬢様学校で、みんな階段の先を争うシンデレラみたいに垢抜けていった。「ガラスの靴、脱いじゃった」って言葉がSNSに書き込まれ、それが「処女を捨てた」って意味だと分かると、コメント欄に祝福と興奮のきらきらした絵文字が星空みたいに散らばった。次の日、いつもよりチークをすこし派手にして登校してきた彼女のはにかみに、わたしは嫉妬し、自分だけの王子様を探した。それで浮き足立ってたのだろうか、とにかくテストでひどい点を取ってしまい、遅くまで補修を受けた夜があった。わたしはバス停からコンビニのある明るい路地を回り道して帰った。すこし肌寒い、泣きそうな満月がとろんと空に浮かんだ人恋しい夜だった。さびしさを紛らわせるため覚えたての英単語をつぶやきながらてくてく歩くと、朽ち果てたちいさな古民家からギターの音色が聴こえてきた。まるで手入れされていない痩せて伸びきった生垣の隙間から庭をうかがうと、濡れ縁に座ってアコースティック・ギターを弾いてるお兄さんがいた。いま思うとギターはそれほど上手くなかったし、月の光をあびながらギターを弾くとか恰好つけすぎで笑っちゃうんだけど、そんなありふれてる感じが都合よかった。わたしはそういう、ありふれてるものにすごく弱い。みんな好きだと思うと安心する。音楽もファッションも人気のものから順にチェックするし、雑貨は今も昔も無印良品がいちばん好きだ。ギターを弾いてるお兄さんに話しかけるのも、自分を少女漫画のヒロインかなんかに重ねればかんたんだった。彼はバンドをやってプロを目指してる大学生らしかった。大学名を訊いて、彼がとびきりの高学歴なことが分かると、わたしは初めての性欲を覚えた。彼と性行為がしたい、そうおもった。わたしは無垢をよそおって彼にいろんな曲を要求し、安い缶ビールを減らし、身体の距離を少しずつ縮めた。歌う曲も話す言葉もいよいよなくなったとき、沈黙にうながされる自然な流れで、わたしたちは唇をかさねた。瞬間、わたしはすごくげんなりしてしまった。わたしは理解してしまった。わたしがしたいのは、子どもをつくるための行為じゃない、SNSに投稿するネタをつくるための行為だった。でも、そのふたつは深いところでつながってる。そう思うと、セックスもSNSも同じくらい気持ちわるいものに思えてしまった。わたしは彼の身体をつきとばし、逃げるようにその場を後にした。家に帰ると、わたしはすべてのSNSを退会した。学校で理由を訊かれたけど、「ママに怒られちゃって」と嘘をついた。そして同じ理由をつけて、セックスもしたくないと思った。それを始めようとすると、あのお兄さんが弾いてたギターの音色がフラッシュバックして、わたしは濡れないような気がした。痛いだけのセックスでかんじるリズムなんて、きっと「エンターサンドマン」じゃない。

 さんにんめ。さんにんめは……わたしがいま殺した。

《はい、殺人の容疑者を現行犯逮捕です。場所ですか? 場所は新宿駅の――》

 ようやく言葉が輪郭を取り戻し始めた。何をいってるのかは、あいかわらずわかんないけど。

 エンターサンドマンを聴いたことがある気がする。それもずっと昔、物心がつくよりも前、生まれてくるよりも前に、聴いたことがある気がする。

 わたしは、エンターサンドマンが好きだ。

 あの冒頭の、やさしいアルペジオが大好きだ。

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