第三話 ドキドキの身体測定兼健康診断

翌日、火曜日。

「身体測定兼健康診断は十時から行われますので、一時限目が終わったら体操服に着替えて待機して下さいね」

 朝のホームルームで、貝原先生はクラスメート達にこう伝えた。

そして一時限目終了直後。

(早く、逃げねえと)

 号令のあとすぐに、喜三郎は教室から出て行こうと後ろ扉に手をかけた。

しかし――。

「どこ行こうとしてるのよ、藁谷くん」

 すでに遅し、クラスメートの一人に羽交い絞めにされてしまった。

「藁谷くんあっさり確保」

「おっ、おい、はっ、放せって」

 喜三郎は身動きを封じられながらも必死に抵抗する。

「喜三郎君、一緒に着替えようよぉ」

「更衣室まで遠いじゃろ」

 クラスメート達が挑発してくる。

「ズボン脱がしちゃえ。どんなトランクス穿いてるのかな。それともブリーフとか」

 クラスメートの一人にベルトを外され、ズボンをずり下ろされてしまった。

「なあんじゃ、がっかり。短パン穿いてたのか」

「普通穿いてくるだろ」

「藁谷くん、夏になったら男の子の大事なとこ、蒸れて痒くなっちゃうけぇそんな重ね着しちゃおえんよ」

「そうなったらうちんとこでじっくり診てあげるよ。皮膚科なんだ、うちんち」

「あたし、今日のパンツ、喜三郎ちゃんが喜びそうな柄を用意してきたの。いちご柄だよ」

「見せなくていいって!」

 喜三郎は目を閉じた。

「こらこらあんた達、ちょっとやりすぎよ」

 洸は喜三郎をからかったクラスメート達を止めに入った。

「すまねえ洸」

喜三郎は、用意してもらった更衣室へと逃げていった。

「ごめんね、清瀬さんの彼氏だもんね」

「べつにそういうわけじゃないけど」

 クラスメートの一人に突っ込まれ、洸は断固否定する。


今日の二時限目は英語。つまり貝原先生の授業だった。

 授業の途中、午前十時。

【高等部の皆さん、ただ今より今年度の身体測定、健康診断を行います。一年一組の生徒さんから、速やかに体育館へ移動して下さい……】

 黒板上部の壁に設置されてあるスピーカーから校内放送がかかった。

【……内科検診、心電図のさいはブラジャーを外すよう、ご協力お願いします】

最後にこう告げられた直後、クラスメート達はくるりと振り返り喜三郎に視線を向けた。

「うわっ、なんだよ」

「あれーっ、にやけてないね。表情無変化じゃ」

「喜三郎君紳士だー」

 クラスメートは彼の顔色を伺いながらくすくすと笑ってくる。そして靴下を脱ぎ、ブラジャーを外し始めた。

「なっ、なんで今外そうとしてるんだよ?」

喜三郎はとっさに目を覆う。

「だって、体重量るとき少しでも軽く出来るじゃない」「本当は素っ裸で測りたいんだけど、風紀委員がうるさいけんね」「あたしなんか今日のために、アンダーヘアーも全部剃ってきたよ」

 と、クラスメート達は口々におっしゃる。

「皆さん、あんまりからかうとかわいそうよ。では、出席番号順に廊下に並んでね」

 貝原先生は微笑みながら指示を出した。

この学校の生徒証にはICチップも埋め込まれており、それぞれの計測データは測定器のそばに備え付けられてある専用読み取り器にかざすことで、コンピュータに自動的に記録されるような仕組みになっていた。

 まずは身長から計測。椛は身長を測るさい、大きく背伸びをして目盛が書かれた柱に背中を引っ付けた。

「美甘さん、お気持ちは分かりますけど、小学生みたいなことは止めましょうね」

「はーぃ。ごめんなさーぃ」

 計測係の先生に頭をペチッと軽く叩かれ、優しく注意された椛。しょんぼりしながら足裏を地にぺたりとつける。

「147.5センチね」

(よかった。去年より2ミリ伸びてた)

 椛はこの結果に満足出来たらしい。

体育館では他に体重、座高、聴力、視力を測定した。

このあとは、保健室で内科検診と心電図検査が行われる。

「室内に入ったら上着脱いでね」

 貝原先生は嬉しそうに指示した。

「俺は、渡辺さんが終わったあとに入ります」

 喜三郎はぽつりと告げた。

「そんなことしたら効率すごく悪いじゃない。高等部の一年生だけで三百人以上いるのに。あとが詰まっちゃうよ」

「きさぶちゃんになら、べつに見られたって構わないもん」

すると彼の前に並んでいる何人かのクラスメートが説教してきた。

「キサブー、高等部の美術の授業では、女の子のヌード描く機会もたくさんあるんじょ」

 すでに診察を済ませた智穂が、歩み寄ってくる。

「俺は書道選択だから関係ないし」

「シャイじゃね。ほなワタシがいないないしてあげるね」

智穂は制服に付いていたスカーフを、喜三郎の目に巻き付ける。

「さあキサブー、どんどん前詰めて」

 智穂は彼の背中を押す。大相撲の決まり手で言うならば送り出しのような感じで。

室内に入ったクラスメート達は体操服を脱ぎ捨て上半身裸になり、用意されているかごに置いていく。

「キサブーも堂々と脱いでっ!」

「うっ、うん」

喜三郎も上半身裸になった。

すると忽ち、クラスメート達が体をぺたぺた触ってくる。こそばし攻撃もしてきた。

「やっ、やめてくれーっ」

 喜三郎は嫌がり、手で振り払おうとする。

「きっさぶろうくん♪」

 その声がした直後、パシーッンと音がした。

「いってーっ! 誰だよ?」

 喜三郎はクラスメートの誰かに背中を思いっきり叩かれたのだ。

「誰がやったか知りたかったら、スカーフ外してみればいいじゃん」

 クラスメートは挑発してくる。

「……」

 喜三郎は怒りが芽生えるも、無視することにした。

 担当医は、担任と同い年くらいの若い女性であった。

「んっっ、んぁ、あっん……はぁ、はぁ……」

「コレコレ、わざと変な声出して藁谷君を誘惑しない!」

 担当医は微笑みながら優しく注意しておいた。

「だって、つめたくって、すごく気持ちいいんだもん……んっ、はぅ」

 聴診器を胸に当てられ、思わず喘ぎ声を上げるクラスメート。

(えっと、問い5の一、階差数列の問題、どうやって求めればいいんだろ)

 喜三郎は意識しないように全く別のことを思い浮かべていた。


「キサブー、渡辺さんの診察終わったじょ。さあ前へ」

 喜三郎は智穂に腕をつかまれる。

「わっ、分かった。ん?……」

 その時、喜三郎の手に何かが触れた。

「きゃん、もう、喜三郎くんのエッチ」

 それは、クラスメートの誰かの乳房だったのだ。こりこりとした突起物に喜三郎は触れてしまった。

「キサブー、今のは誰のか分かったかな? 渡辺さんのじゃないじょ」

「なっ、何てことするんだよ妹尾さん」

 喜三郎は喜ぶどころか不機嫌になった。

「コレコレ、からかわない。藁谷君、どうぞ」

 担当女医はくすくす笑う。

「よろしくお願いします」

 喜三郎は円形の回転イスに腰掛けた。

「男の子のわりに、筋肉ないわね。胸の成長していない女の子みたい」

 担当医は聴診器を当てる前に、腕やお腹をぺたぺた触ってきた。

「あんまり触らないで下さいよ」

 喜三郎はため息をつく。

「ごめんね」

 無事異常も無く、内科検診を終えた。

続いて心電図。

 診察台は二つあるため、効率よく行われていく。

 クラスメート達は仰向けに寝かされ、お腹と手足に器具を付けられていた。

「あっ……んっ。なっ、なんか、拘束されてるみたい。喜三郎君、助けてーっ」「養分吸い取られてるみたいだよぉ」

 またしても艶やかな声で喜三郎を挑発してくる。

(えーと、三角比の公式は……)

 喜三郎は無視を決め込んだ。


「もう外しても大丈夫じゃね」

 喜三郎の番が回ってくると、智穂はスカーフを外してあげた。

「うわっ」

 喜三郎はとっさに目を覆う。

渡辺さんのおっぱいが、彼の目に否応なく飛び込んできたのだ。彼女はまだ検査中だった。

「どうぞお構いなく」

 渡辺さんは微笑みながら言った。見られたことは特に気にしていないらしい。

「藁谷くん、仰向けに寝転んでね」

 担当医に申され、喜三郎は診察台へ。手足と胸に器具を付けられた。

 クラスメート達は彼の上半身をじっくり観察してくる。あとに続く二組の女生徒達も観察してきた。

「おっ、おーい、恥ずかしいからやめてくれーっ」

 喜三郎は診察が終わると、ジャージを手に取り急いで逃げ出す。

「キサブー、いい吸盤のあとじゃね」

 廊下で待っていた智穂は、喜三郎の乳首周りをぺたぺた触ってくる。

「ちょっと妹尾さん」

 喜三郎は顔を真っ赤にし、急いでジャージを着た。

「ワタシもしっかり跡付いてるじょ、見てみるで?」

 智穂は自分のジャージをめくり上げようとした。

「見たくないし」

 喜三郎はぷいっと目をそむける。

「あーん。興味持ってほしいじょ」

 智穂は唇を尖らした。

「でもこれで、何とか終わったな」

 喜三郎はホッと一息つく。

「キサブー、尿検査がまだあるじょ」

「知ってるよ。けどあれって、家で朝一番のを採って学校に持ってくるんだろ?」

「いやいや、今から採尿するんじょ」

「えっ!? 学校でやるの?」

「ほうじゃ」

 智穂は嬉しそうに答えた。

「検査方法変わってるよな」

 保健室から十数メートル進んだ先に、女子トイレがある。そのすぐ向かいに、検尿受付カウンターが設けられていた。検尿用の紙コップは、カウンター横に備え付けられている。

 一組のクラスメート達がカウンターに提出していく姿が見受けられた。

「それじゃ、俺は職員用トイレで」

「キサブー、わざわざ遠い男子トイレまで行かんでも」

 智穂は喜三郎の後襟をつかんだ。

「でっ、でもさ、今回はみんないるしさすがに」

「まあまあ」

「ちょっ、ちょっと」

 喜三郎は女子トイレの前へズズズっと引っ張られていった。

「ねえねえ、キサブーをここでやらせてもいいよね?」

 智穂は大声で叫び、中にいる数名のクラスメート達に確認を取る。

「オーケイ、オーケイ」「個室じゃけぇ全然いいよ」「いらっしゃーい」

 快く許可の返答してきた。

「ほうか。ほなキサブー入れるね」

「おっ、下ろしてくれ」

 喜三郎は智穂に吊り上げられ、抵抗する間もなく個室へと運ばれ閉じ込められた。

「喜三郎ちゃん、私今からおしっこ出すんだけど、採尿手伝ってくれない? コップをお股の間にあてがってくれると嬉しいな」

「わーらたーにくん、下から覗いてもいいよ」

 喜三郎のいる両隣の個室から、甘い声で誘惑される。

「私、紙コップに入れる作業、すごい苦手。あっ、狙い外れた。手にかかっちゃったよ」

「……」

 喜三郎は聞こえない振りをする。

「喜三郎ちゃん、今私の置かれてる状況、想像してるでしょう? エッチねえ」

「しっ、してねえよ」

 喜三郎はちょっとイラッとした。

「それじゃダメだよ。理系の子はね、豊かな想像力も大事なのよ」

「そんな想像力は全くいらないだろ」

 喜三郎はレバーに手を触れ、水を流す。

「あっ、喜三郎ちゃん、今から出すんでしょ? 見せて」

「男の子は構造的に採りやすいから羨ましいなあ」

「……」

両隣からの呼びかけは一切無視し、喜三郎はズボンのファスナーを開けアレを露出させる。そして便器に狙いを定めて尿を発射。途中からコップをかざし、内側に書かれた点線部分まで注いだ。

 扉をそっと開け、足早にトイレの外へ向かおうとした。

ところが、

「やっほー、喜三郎君」

「藁谷君、ちょっといいかな?」

「うわっ」

 クラスメートが二人、入口前で通せん坊していた。

「藁谷君、ここを通るには通行尿が必要です。すぐに御提示なさい」

 喜三郎から見て右側の子が、真剣な眼差しで要求してくる。左側の子はくすくす笑っていた。

「おい、小学生みたいなイジワルはやめろって」

 喜三郎は紙コップをもう片方の手で押さえ、蓋代わりにする。

「大人しくしなさい! 暴れたらおしっこ落としちゃうでしょ!」

 右側の子に注意され、喜三郎は少し怯えてしまった。

「確かに見せたくないよね。ごめんね喜三郎君。クイズに答えれたら通してあげるよ。尿素の化学式を答えてね」

 左側の子が質問してくる。

「知らないよ」

「難しかった? じゃあサービスでもっと簡単なやつにしてあげる。尿素回路を発見した人物の名前を答えてね」

「ますます分からないって」

「それも答えられないのか。正解はクレブスとヘンゼライトよ。ダメな子ね、お姉さんといっしょに個室でお勉強しましょ。マンツーマンでいろいろ教えてあげるから」

「いいから退いてくれよ」

 喜三郎は困惑顔から、次第に泣き出しそうな表情に変わってきた。

「こらこら、あんた達何やってんのよ」

洸は左側にいた子をつかまえ、抱きかかえた。

「あーん、難題に直面した時の考察力を試してただけなのにーっ」

 足をバタバタさせながら言い訳する。

「イタズラはほどほどにせんといかんじょ」

 智穂がもう一人を抱きかかえる。

「妹尾さん、アタシ、べつに悪気があってやったわけじゃないんよ」

 抵抗はせず、言い訳のみをする。

「サンキュー、洸、妹尾さん」

 こうして喜三郎は関所を突破することが出来た。

「きさぶろうくん、この子達片付けとくね」

喜三郎をからかった二人は、洸と智穂の手によって教室へと運ばれた。

「おっ、お願いします」

 喜三郎は緊張気味に、自分の尿が入った紙コップをカウンターに提出する。

「四十番、藁谷くんね。まだ出席番号前の子のが終わってないから、もうしばらく待っててね」

 担当女医に優しく注意し、紙コップを返してきた。

(はっ、早くしてくれ)

 喜三郎は紙コップを手に持ちながら、そわそわする。

「喜三郎ちゃん、女の子は採尿するのにけっこう手間かかるのよ。これお願いしまーす」

 そう話しかけてきた子は喜三郎の目も気にせず平然と置いた。


「真殿さん異常無しよ」

「よかったーっ」

 真殿さんという子だった。彼女は嬉しそうに教室へと戻っていった。

「あの、喜三郎くん、ちょっと横向いてて」

「うっ、うん」

 真殿さんの次は、椛の番であった。

「あっ、あの、これ……」

 椛は顔を火照られながら提出する。

 担当女医はすぐに取ってあげ、検査機で調べた。

「美甘さん、異常無しよ」

「ありがとうございました」

 椛はぺこりとお辞儀し、そそくさと教室へ戻っていった。

「健康的な色だね」

 喜三郎の尿を、次の虫明さんという子が覗き込んできた。

「見るなって!」

「あ、気にしないで。健康チェックしてあげてるの」

「気にしまくるよ」

 喜三郎はイラっとしている。

 それからさらに数人分が検査され、ようやく彼の順番が回ってきた。

「藁谷君、お待たせ」

「やっとか」

 担当女医に呼ばれ、喜三郎はやれやれといった表情で向かう。

 尿を提出し、少し待つと、

「蛋白が検出されたので、再検査ね」

 担当女医はにこっと微笑みながら告げた。

「えーっ!? おっ、俺、どこか悪いんですか?」

 喜三郎は表情をこわばらせる。

「心配しないで、よくあることだから。明日の朝、一番のを搾ってきてね。はいどうぞ」

 担当女医から検尿コップとスポイト、そして醤油さしのようなプラスチック容器を手渡された。

(すっ、すっげえ恥ずかしい)

 他クラスの女生徒達にもじろじろ眺められながら、喜三郎は早足で教室へと戻っていく。ちょうど今、四時限目世界史Aの授業が行われていた。


四時限目終了後、四人は昨日打ち合わせた通り、学食へと足を進める。

「きさぶろうくん、わたし、一五八.七センチだったよ」

 洸は嬉しそうに言いふらした。

「また今年も負けた。俺、一五八.四だ」

 喜三郎は悔しそうな表情を浮かべて嘆いた。

「それくらいやったら誤差じゃね。ワタシは一六七.三。もう少し伸ばしたい。豊○○生ちゃんくらいは欲しいじょ」

「わたし、そこまではいらないなあ。今の身長のままでいいよ」

「私は、一五〇センチは欲しいです」

 椛はかかとを上げ背伸びしてみる。

「俺は、せめて妹尾さんくらいまでは伸ばしたいな」

 喜三郎はこう呟き、智穂を見つめた。

「男の子やけん、まだ伸びると思うじょ」

 智穂は優しくフォローする。 

「きさぶろうくん、だいぶ背が伸びたよね。中学入った頃はわたしと十センチくらい差があったのに。そろそろ抜かれちゃうかも。視力はわたし、両目とも1.2だったよ」

「それは勝った。俺は両目とも1.5だ」

「あーん、悔しい」

「二人とも視力いいんじゃね。羨ましい。ワタシ、ゲームし過ぎて数年前からちょっと近視になってしまったんじょ。裸眼視力、右0.8、左0.7じゃ」

「私も、メガネで分かる通り近視なの。私は昔からだけど」

 

学食では昨日から、北海道フェアも始まっていた。

「思ったよりもたくさん種類があるね。さすが私立校の学食」

「どれにしよう。迷うなあ」

 喜三郎と洸はメニュー一覧をじっくり眺めている。

「スープカレーもお勧めなんじょ。ワタシ、それにする。インスタントでしか食べたこと無いけんね」

「じゃ、わたしもそれにしよう」

「ほなヒカリン、辛さどのグレードにする? いろいろ選べるよ」

「わたし、虚空にするよ」

 洸は迷わず答えた。

「ほう、一番辛いやつか。ヒカリン勇気あるね。辛いもの好きで?」

「うん! 大好き。韓国料理とか四川料理とかタイ料理とか、大好物なの」

「すごいね。ワタシも辛いものはわりと平気な方じゃけど、そこまでする勇気はないじょ。本当に、虚空にするつもり?」

 智穂は念を押して訊く。

「もっちろん!」

 洸は気合じゅうぶんだ。

「洸って昔から激辛料理には目が無いからな。幼稚園の頃、遠足でおやつにキムチ持ってきて先生に叱られてたし」

 喜三郎はやや呆れ顔で伝えた。

「わたし、甘い物も大好きよ。甘い物食べてからすぐに辛い物食べると、辛さがより一層強く感じられて最高のエクスタシーを味わえるもん」

洸はにこにこ顔で嬉しそうに語る。

「スイカと塩に代表される味の相乗効果かよ。俺は、海鮮丼にするよ」

 喜三郎はやや呆れ顔になっていた。

「きさぶろうくん、わたしと勝負しない? 虚空食べて、どっちが先にギブアップするか?」

 洸は挑戦状を叩きつけてきた。

「やめとくよ。俺、辛いものは苦手だから」

 喜三郎は軽くスルーする。

「そうだよねぇ。きさぶろうくんって好みがお子様だもんねーっ。あっかちゃーん」

 洸は指差してケラケラと笑ってくる。

「くっ!」

 喜三郎は、これにはカチンときたようだ。洸にだけは子ども扱いされるのは少し癪なのだ。

「おっ、俺でもこれくらい楽勝で食べれる。この赤くて細長い物なんて……ストロベリー味のジェリービーンズだと思って食べればいいんだからなっ!」

 喜三郎はムキになり、洸の挑発に乗った。海鮮丼は止めて、スープカレー虚空の食券を購入する。

「喜三郎くん、大丈夫? 私も辛いお料理苦手なので、函館名物いかめしとじゃがバターにするけど」

 椛は少し心配そうにしていた。


 四人は注文を受け取り、テーブル席に着く。洸と喜三郎は向かい合って座った。

「ねえみんなーっ、今からスープカレー対決が始まるよーっ」

 智穂は大声で叫ぶ。すると生徒達が瞬く間に二人の周りに集まってきた。

「妹尾さん、呼ばなくてもいいのに」

 喜三郎は迷惑がっている。

「わたしはますます気合入っちゃったよ」

 洸はとても嬉しそうだった。

【いーけ、いーけ、いーけ、いーけ!】

 多くの群衆から喝采を受ける二人。

「キサブー、男らしさ見せてあげ。ほんじゃ、よーい、スタート!」

 智穂は合図を掛けた。

「いただきまーす」

 洸が先攻を取った。スプーンでルーとライスをつかみ、お口に運ぶ。

「美味しいーっ」

 そして満面の笑みを浮かべる。

「俺も余裕で食ってやるよ!」

 こうなってしまったら後戻りは香車の駒のごとくもう出来ない、と感じた喜三郎は少し躊躇いながらもスプーンで男らしくルーの部分だけを掬いとり、すばやく口へと放り込んだ。

「あれ? あんまり辛くないような……」

 ところがそれから約二秒後、

「うっ、うわあああああああ!」

 喜三郎はガバッと立ち上がってセルフサービスドリングコーナーに向かって一目散に突っ走り、メロンクリームソーダを取り出しゴクゴクゴクゴク飲み干す。彼の口元はバーナーの点火口と化していた。辛さは後になってじわりじわりとやって来たのだ。

「もうギブアップ? わたしの圧勝ね」

 アハハハッと大声で笑う洸。得意げに勝利のポーズVサインもとった。

「こんな刺激物食って、明日尿の再検査に影響出るといけないから、今回はここでやめるだけだ」

 意地でも負けを認めようとはしない喜三郎、悔しさとはまた別の涙を流していた。彼はスープカレーを返却口に置き、海鮮丼に注文し直したのであった。


「洸ちゃんすごーい。途中で水も飲まずに全部平らげちゃった。完食おめでとう!」

 洸の成し遂げた偉業? に、椛はパチパチ拍手した。

「楽勝だったよ。全然辛くなかったもん。チキンは美味しかったけど、ちょっと期待外れ。調理のおばちゃんは学生相手だからって基準控えめにしてるね、これは」

「ねえヒカリン、胃は、大丈夫で?」

 智穂は少し心配そうに尋ねた。彼女はツーランク下の極楽を注文したのだが、まだ半分くらいまでしか食べ終わっていなかった。冷たい麦茶も口にしながらつらそうにスプーンを進めている。

「平気、平気」

 洸は爽やかな表情で答えた。

「ヒカリンには適わんんじょ」

 智穂はほとほと感心する。結局、残り四分の一くらいは洸に食べてもらったのであった。

「汗かいちゃったよ。あっつぅ」

 洸はジャージの上着を脱ぎ、夏用の半袖体操服姿となった。さらに服を引っ張り、パタパタ仰ぐ。

「うわっ」

 喜三郎は思わず眼を背けた。

「見たなー、きさぶろうくんのエッチ。えいっ」

 洸はにこっと笑い、彼にでこピンを食らわしておいた。

 

学食をあとにした四人は、次に体育の授業が行われるグラウンドへ。

前回の予告通り、スポーツテストが行われる。

最初は50メートル走から。出席番号順に二人ずつ計測していく。

「ハァハァ……疲れましたーっ」

椛の記録は、10秒16。

計測が済んだ人から順次体育館へ移動するように指示されていたものの、三人は喜三郎の計測が始めるのを待っていた。

「私、タイム落ちちゃったよ。去年は10秒13だったのに。9秒台の壁は厚いよ」

「まだ今日は50メートル走でよかったね。お昼ごはん食べてすぐだし、一〇〇〇メートルとかだったら絶対横腹が痛くなっちゃうよ。わたしもスポーツ苦手、9秒61だったし。これでも自己ベスト更新したのよ」

「三人ともウサイン・ボルトさんの百メートル自己ベストより遅かったんじゃね。ワタシは8秒94なんじょ」

 智穂は自信満々に言い張った。

「8秒台かあ。速いなあ、智穂ちゃん」

「ちほちゃんはかけっこ得意なんだね」

 椛と洸は智穂のことを羨ましく思う。

「まあね」(これでも高一女子平均タイムとそんなに変わらんことは、ナイショにしとこ)

「果たしてきさぶろうくんは何秒出るかな?」

 こんな会話を弾ませているうちに、喜三郎の番がやって来た。

「喜三郎くん、頑張って下さい」

「キサブー、男の子の実力見せてあげ」

「きさぶろうくん、わたしよりは良い記録出さなきゃ情けないぞ」

三人は体育座りし、期待の眼差しで彼を見つめる。

「よーい、スタート」

 担当教師からの笛の合図でスタート。

「うわっ!? 嘘だろ?」

 喜三郎の動きは一瞬、ぴたりと止まった。彼とペアで走っていた渡辺さんは、喜三郎の前方を一気に突っ走る。

 結局、喜三郎の記録は9秒15に終わった。

「渡辺さん速すぎだろ。6秒台って、男子でも速い方だよ」

「あの子は陸上部だからね」

 椛はさらっと伝えた。

「キサブー、ワタシより遅かったね。男の子で9秒台は情けないじょ」

「だって俺も体育、大の苦手だし。ていうか立ち止まらなきゃ絶対8秒台前半だったはず。もう一回測りたいよ」

「男の子でしょ。言い訳しちゃダメ。受験ではそんなこと通用しないでしょ」

 しかめっ面でぶつぶつ不満を言う喜三郎に、体育教師は優しく注意する。

「そんなー」

 喜三郎はがっくり肩を落とした。


体育館に移動した四人はまず、握力を測定することにした。

「うううううーっ!」

 椛は顔をりんごのごとく真っ赤にさせ、握力計を力いっぱい握り締める。

「ふぅ、右は19キログラムか」

計り終えると、椛の顔色は一瞬で元に戻った。

「よぉーし、次は左」

 再び顔を真っ赤にさせて握り締める。左は17kgだった。記録用紙には良い方を書き込む。

「これ、ものすごーく疲れるよ」

「一生懸命になってるモミのお顔、めっちゃかわいいかったよ」

 智穂はくすくす笑う。

「私、力入るとお顔がどうしてもすごく赤くなっちゃうの。恥ずかしいからなんとか治したいな。はい、次は洸ちゃんの番だよ」

 莉子に握力計を手渡す。

「わたしも自信ないな。えーいっ」

洸は左22キログラム、右20キログラム。左の方が強かった。

「ほんとに疲れるわね。腕痛い」

「洸、たったそれだけ? 40は軽くあると思ったんだけど」

 喜三郎はからかう。

「失礼よ、きさぶろうくん」

「いったーっ」

 洸は手をグーにして、喜三郎の頭をコツンッと殴った。

「もみちゃんわたしと同じくらいだね。なんか嬉しい」

「次はワタシじゃね。そーれっ!」

 智穂は右28。左25。

「すごーい、ちほちゃんとっても力持ちだね」

 洸はパチパチ拍手する。

「いや、平均くらいやって。とういかこの記録はあんまり良過ぎても嬉しくないし。か弱い乙女として30は超えたくないものじゃね」

 希実は苦笑いをした。

「俺もそれくらいかな」

喜三郎は右26、左23だった。

「四人の中で最強はちほちゃんだね。おめでとう!」

 洸はパチパチ拍手する。

「ヒカリン、褒められても嬉しくないじょ。キサブーはそれだけ? わざと力緩めてないで?」

「俺、本気だって」

「キサブー、女の子化してるね」

 即反論する喜三郎を見て、智穂はくすっと笑った。

続いて反復横跳び。白線を一メートル間隔で三本引き、その上を二十秒間に何回跨げるかを計測する。

「智穂ちゃん、私からやるね」

椛は三本あるうちの真ん中のラインを跨ぐような形で立ちスタンバイ。

「オーケイ。ほなよーい、スタート!」

 智穂はタイマーを押し、心の中で椛の跨いだ回数をカウントする。

「えい、えい、えい」

 椛は一生懸命白線を跨ごうと奮闘している。

「はいモミ、そこまで」

 あっという間に二十秒が経過。

「つっ、疲れたーっ」

 椛は息を切らす。

「二十五回じゃったよ。ちゃんと跨げてなくてカウント出来ないのが多かったのが惜しいね。ほなモミ、ワタシの数えてね」

 智穂もスタンバイする。

「うん。それじゃ始めて」

 椛の合図と共に、智穂は反復横跳びを開始した。

「いーち、にー、さん……あっ、あれ? えーと……ごめん、智穂ちゃん。分からなくなっちゃった。速すぎるよ」

「ほうか」

 椛がそう伝えると、智穂はすぐさま動きを止めた。

「まあいいじょ。五十回くらいにしとこ」

 そして記録用紙に書き込む。

「ちほちゃん、回数ごまかしてもいいの?」

「うん。先生も見てないようやけんね」

 洸の問いかけに、智穂は笑顔で堂々と答えた。

「じゃ、わたしもそれくらいにしーとこ。しんどいしめんどいし。適当、適当」

洸は測定もせず、記録用紙に書き込んだ。

「おーい、洸。妹尾さんも、それやっちゃダメだろ」

 喜三郎は困り顔で二人に注意する。

「喜三郎くんは、真面目に測るよね?」

 椛は彼の肩をポンポンッと叩き、同意を求めてくる。

「そりゃ、もちろん」

 喜三郎は得意げに答えた。

 この日は他に上座体前屈、上体起こしも行うよう指示されていた。

素直に測定し、正直な記録を用紙に書き込んだ喜三郎と椛に対し、洸と智穂はこれもまた適当にごまかしたのであった。


「それでは皆さん、次の授業に遅れないようにね。今日はこれで終わります」

 担当教官から、解散の合図。

『ありがとうございました』【クラスメート一同の挨拶】

 こうしてクラスメート達は、体育館をあとにする。

(妹尾さんと清瀬さん、サボってたことは知ってるわよ。減点っと)

 智穂と洸の一部始終は、担当教師にしっかりと観察されていた。

授業のあと、購買部でお菓子を買ったり、自販機でお茶やジュースを買ったりする子の姿も多く見られた。

「ちょうだい」

「いいよ」

(いっ、今、回し飲みしてたよな……)

 校舎へ戻る途中、喜三郎はクラスメート達のした行為に思わず目を背ける。

「高校って、校内に自販機があるのが便利だね」

洸はコカコーラの缶を開け、ごくごく飲んでいく。

「洸、炭酸飲料飲み過ぎるとお昼入らなくなっちゃうよ」

 喜三郎は優しく気遣った。

「きさぶろうくんも飲む?」

「いっ、いらないよ、そんなに汗かいてないし」(そんなことしたら、間接キスってことになるだろ)

 喜三郎は洸が差し出してきた缶を反射的に突っ返した。

「遠慮しなくても」

 洸は唇を尖らす。

そんな時、背後から声がした。

「藁谷君の記録って、女の子みたいね」

「うぶぉ」

 クラスメートの一人が追い抜き際に、喜三郎へボディーブローを食らわしてきた。

「本当は女の子なんじゃないの? 付いてるの?」

 さらにもう一人が、喜三郎のあの部分をズボン越しにタッチしていった。

「やっ、やめろって、なんだよあいつら、小学生みたいなことしてきやがって、進学校でもあんなやつがいるなんてな」

 喜三郎は怒りが芽生えると共に呆れ返る。

「ワタシより背の高いツインテールの方が野々上さんで、ちっちゃい方栗色お団子ヘアーの方が国富(くにとみ)さんなんじょ」

「あの子達、ああ見えて知力はかなり高いよ。数検、英検、漢検、どれも一級持ってるから。クイズ研究会所属なの」

 智穂と椛は、彼女達のことを詳しく教える。

「すごいな。あいつらに勉強で勝てないのは、なんか悔しい」

 喜三郎の顔は苦虫を噛み潰したようになった。

「そして腐女子なんじょ。ア○メイトや、ら○んばんでBL系の小説や同人誌漁ってるのよく見かけるよ」

 智穂は付け加えた。

「わたし、BL系は好きじゃないなあ」

 洸は呟く。

「ワタシもなんじょ、ヒカリン。男の子が視るような美少女萌え系の方が好き」

「BLって何?」

 喜三郎はきょとんとした表情で尋ねる。

「そっ、それはね……」

 洸は返答に戸惑う。

「……ブレインロジック《Brain Logic》の略なんじょ。頭脳論理」

 智穂は三秒ほど考えたあと、冷静に答えた。

「よく分からないけど、頭良さそうなやつが読む難解な本のことか」

「ほうじゃ、ほうじゃ。キサブー、あの子達のこと嫌わんといてね、ほんとは良い子なんじょ。キサブーのこと気に入ってるけんイタズラしてくると思うんよ。三次元の男の子に飢えてるって言ってたし」

「俺にとっては、ものすごーく迷惑なんだけど……」

 喜三郎は暗い表情になる。

「きさぶろうくん、モテモテだね」

 洸はにこにこ笑っていた。


(さすがにもう着替え終えてるよな)

 まもなく六時限目開始のチャイムが鳴ろうという頃、喜三郎は教室前へ戻り、扉を引いた。

「……ごっ、ごめんなさい」

 謝ると、慌てて閉めた。

まだ体操服を団扇代わりにパタパタと仰ぐ子、ブラ一枚下着姿の子などなど、喜三郎にとってかなり刺激的な光景が広がっていたのだ。

 喜三郎の体力の消耗は、授業の時以上に激しかったという。


          ☆


翌朝、水曜日。

「藁谷くん、おはよう」

 喜三郎が登校してきて席に着くなり、保健委員の子がぴょこぴょこ歩み寄ってきた。

「あ、おはよう」

 喜三郎は素の表情で挨拶を返す。するとその子は、いきなり質問してきた。

「おしっこ持ってきた?」

「もっ、持ってきたよ」

 喜三郎は慌てて答え、顔を赤くした。

「それじゃ早く出して」

 保健委員の子は躊躇なく手を差し出してくる。

「あのう、俺が持っていくから」

 喜三郎は断ろうとした。

「いいからあたしに任せて」

 しかし保健委員の子は粘る。

「そっ、それじゃあ……はい、これ……」

喜三郎は大変気まずそうに、保健委員の子に紙袋を手渡す。

「ありがとう」

 その子は躊躇なく受け取った。

「あっ、藁谷くん。お名前書き忘れてるよ」

「あっ、いけねえ」

「気をつけてね。大学受験においては、こういったうっかりミスが命取りよ」

 面と向かって注意してくる。

(この子、高校入試終わったばかりなのに、もう大学受験のことをしっかり意識してるのか。さすが進学校の特進クラス)

 喜三郎は感心していた。

「容器にも書いてる?」

 そう問いながら保健委員の子は袋を開けて、彼の尿が入ってある透明な容器を臆することなく取り出した。

「あっ、やっぱり書いてない」

「やっ、やめろって。じっ、自分で書くから」

 喜三郎は容器に手を伸ばす。しかしその子は返すことを拒んだ。

「遠慮しないで。あたしが書いてあげる」

 保健委員の子は胸ポケットからボールペンを取り出した。容器を左手に持ち、小さな字で『藁谷喜三郎』と書いていく。

「……」

 喜三郎は今まさに、穴があったら入りたい気分となっている。

「藁谷くん、確認するけど、朝起きて一番搾りのを採った?」

「うっ、うん」

「ちゃんと中間尿を採取した?」

「うん」

「アレはちゃんと定期的に来てる?」

「?」

「あっ、来るわけないよね、男の子だもんね。変な質問してごめんね。大きい方の便はちゃんと毎日出てる?」

「……いや、それは(さっきからなんてこと訊いてくるんだよ)」

 喜三郎はお顔を真っ赤にさせながら答える。保健委員の子が真剣な眼差しで喜三郎のお顔を見つめながら次々と質問してくるのだ。

「あのう、藁谷くん。お体大丈夫? 急激な環境の変化に適応出来てる? 体調悪かったらいつでも相談してね。あたしんち、心療内科医院だから藁谷くんなら無料で診てもらえるように頼んでみるよ」

「いえ、その……」

このクラスって、親が医者って子もけっこういるんだよな。

「藁谷くん、お大事に」

 その子はウィンクし、自分の席へと戻っていった。そして朝のホームルームが終わったあと、その子は他の再検査になった子の分(十個近く)も持って、保健室へ提出しに行った。

「きさぶろうくん、あの子、すごく思いやりのあるいい子だね」

 洸はにっこり微笑み、喜三郎に話しかける。

「たっ、確かにそうなんだけどさ……でも……」

 喜三郎のお顔は、まだ真っ赤なままだった。


一時限目、高校に入ってから三回目の数学の授業。

「ではでは、今日は抜き打ち小テストを行うよーん。教科書ノートはしまって、机の上は筆記用具だけにしてねーん」

 備前先生は号令のあといきなりそう告げて、プリントを配り始めた。

「やったあ!」「待ってました」「超難問かかって来い」

 するとクラスメート達から嘆きの声、ではなく大絶賛の声と拍手が上がったのだ。

(さすが進学校だな)

 喜三郎はほとほと感心する。

 真ん中くらいの列に配る際、

「おーい清瀬さん、悪あがきしたって無駄だよーん。焼け石に水っさ」

「分かってますよぉ」

 備前先生は優しく洸に注意する。彼女は指示されたあとも教科書を眺め続けていた。しぶしぶ片付けた。

 廊下側の列最後尾つまり喜三郎の席までプリントが行き渡ると、

「それでは始めてねーん」

 と、備前先生は開始の合図をかけた。

制限時間は十分間。その間に五題の問題を解くようになっていた。一問2点の10点満点。

[問い1 次の座標を持つ2点間の距離を求めよ。A(-5,8),B(7,3)]

(えっ、えーと。三平方の定理使うやつだよね。7引く-5タス、3引く8のルートで……ルート7、だよね)

 洸、初っ端からうっかりミス。

(これ、公式に当てはめたらいいだけだな。7引く-5の2乗タス、3引く8の2乗、169のルートで、13か)

 喜三郎は見事正解。

[問い2 x^9 + y^9を、因数分解せよ]

(因数分解かあ。って何この形? 9乗って)

(……俺にはさっぱりだ、パスパス)

 二人とも即、次の問いへ移った。

[問い3 360の約数の個数を求めよ]

(1、2、3、4、5、6、7は違うな……)

 三分ほど考えた挙句、喜三郎は何とか正答である24個を出すことが出来た。

(あーん、面倒くさーい。降参)

 五分ほど考えた挙句、洸が問い4に着手しようとしたところ、ピピピピピッとタイマーのアラームが鳴り響いた。

「はいそこまでー、後ろから集めてねーん」

 ここで制限時限いっぱい。備前先生から合図がかかる。

(ギャアアアアアッ、もっ、もうタイムアップ? もう少しだけ。一文字だけでも……)

 鳴り終わってもシャーペンを置こうとしない洸。

「あのう、清瀬さん」

(うーん、どう解くんだろう。えっと……)

「清瀬さーん!」

「……あっ、ごめんね」

 後ろから集めに来た子は、洸がなかなか手渡してくれないので困り果てていた。

「今回の試験、ものすごーく簡単だったよねん? 外部生の子に配慮して中学の復習問題も出してあげたし。おそらくは、ほとんどの子が10点満点じゃないかな。まあもしも、6点未満だった子がいるようでしたら、放課後再試験してあげるからねーん。このクラスの子には、まさかそういう子は一人もいないとは思うけどな」

 備前先生は回収されたプリントをパラパラッとめくり、にこにこ顔で告げる。

(せっ、先生。わっ、わたし、まさしく再試験ですよーっ)

(おっ、俺、書いたとこ全部当たってても確実だーっ)

 その瞬間、洸と喜三郎は背中から冷や汗がタラリと流れた。


 一時限目終了後の休み時間中。

「藁谷くん、尿の再検査異常なしだって。よかったね」

 落ち込んでいた喜三郎の席に、保健委員の子が寄ってきた。爽やかな表情で伝えてくる。

「あっ、そう。報告ありがとう」

 喜三郎は沈んだ声でお礼を言った。良い診断結果にも彼の気分は晴れることはなかった。

「本当に大丈夫?」

 保健委員の子は、少し心配そうに彼の姿を見届けた。


             ○


「備前先生から預かっていた小テスト、返却するわね」

帰りのホームルームで、貝原先生は出席番号順に返していった。

(やっぱり、再試験だった。の○太くんのレギュラーな点数とっちゃったよ)

 10点満点中、洸は0点。

(予想通りだったな。一問目と三問目しか合ってないし、問い四と五解こうとしたけど、Cの両サイドに数字が付いてるやつとか、sin、cos、tanって記号が意味不明だったぜ)

喜三郎は4点。よって二人とも仲良く再試験が決定した。

「キサブー、ヒカリン。今日のトイレ掃除はワタシとモミでやっとくけん、試験勉強に使い」

「ありがとう。十分くらいでも、やらないよりはマシだよね」

「なんか悪いな」

そう申し訳なさそうに言いつつも、喜三郎は内心とても喜んでいた。


放課後、一組の教室。

「ごめんね、付き合わせちゃって」

「妹尾さん、美甘さん。俺と洸、こんなにバカで申し訳ない」

 洸と喜三郎は最前列の中央、つまり教卓すぐ後ろの席に隣り合うように座った。

「そんなこと全然気にしなくていいよ。焦らずに落ち着いて考えて解いてね」

「公式覚えていれば簡単に解けるんじょ。ヒカリン、キサブー、頑張り!」

 椛と智穂は、すぐ側で応援する。

「ハハハッ、きみ達やっぱり予想通りだな」

 備前先生はかなり機嫌が良さそうだった。再試験となったのはこの二人だけだったのだ。

「制限時間、今度は十五分間あげるよん。さらにさらに特別大サービス。教科書、ノート等見ながらやってもいいからねん」

 備前先生はテスト用紙を二人に手渡すと、「それでは始めてねーん」とお決まりの合図をかけた。

 二人は数Ⅰ数Aの教科書を手元に置き、懸命にシャープペンシルを走らせる。

「おっ、今度はすごく簡単だ」

「教科書の例題と全く同じ問題が出てる! やったあ! 備前先生ありがとう」

スムーズに進む、進む。

 そして十五分が経過。

「はーい時間切れ」

 備前先生は二人の用紙を回収すると、赤ボールペンを取り出し、その場ですぐに採点を始めた。

「ほい、清瀬さんは7点だよん」

「バンザーイ!」

 洸は受け取った瞬間、両手を高く上げて満面の笑みを浮かべる。

「おいおい清瀬さん、決して喜ぶような点数じゃないんだよん。藁谷くんも同じく7点、合格点に達成。きみ達本当に仲良いなあ。次はもっと頑張ってねーん」

「ねえ先生、今度は始めから問題もっと簡単にして下さいよ」

 洸は備前先生の袖を引っ張り、お願いしてみた。

「ノーウェイ。これ以上簡単にするなんて無茶だよーん」

 しかし備前先生はあっさりと断わる。

「あーんもう。先生ケチ過ぎ!」

 洸は唇を尖らせて不平を言う。

「ハッハッハッ、それではさらに難しくなる次回の小テストもおったのしみにー」

 備前先生は高笑いしながらそう告げて、教室から立ち去っていった。

(わたし、先生の弱み知ってるのよ)

 そんな彼の後姿を、洸はにやりと微笑みながら眺めていた。


「喜三郎君、再試験お疲れ様。うちの学校、進度速いから授業ついていくの大変でしょ? 学習参考書あげるよ。お代はもちろん結構だよ」

 下駄箱へ向かおうと廊下を歩いていたところ、喜三郎はクラスメートの一人から声をかけられた。

「あっ、ありがとう」

 喜三郎は照れくさそうに礼を言う。

「じゃあね、喜三郎君。お勉強いっしょに頑張ろうね。バイバイ」

 渡した子は、ぺこんとお辞儀したのちそそくさとその場から離れていった。

 渡された物は、水玉模様の包装紙とオレンジ色リボンできれいにラッピングされていた。

「きさぶろうくん、本当にモテモテだねえ」

 洸はにっこり微笑み、喜三郎の頬っぺたをつんつんつつく。

「モテてるんじゃなくて、心配されてるんだと俺は思うけど……あの美甘さんよりちっちゃい子、確か国富さんって子だったね」

「ほうじょ。いい一面持ってたじゃろう? キサブー」

 智穂は笑顔で問いかける。

「うっ、うん。ちょっと見直したかも。数学の参考書かな?」

 喜三郎は少し嬉しく思った。

「数学の学習参考書、私たくさん持ってるよ。『大学への数学』も毎月買って問題に応募してる。教科書よりもずっとハイレベルな問題が載ってるから、重宝してるの」

 椛は嬉しそうにこう伝えた。

「あの雑誌、ちょっとだけ見てみたけど超難問しか載ってないよな。さすがだね」

「もみちゃんすごーい」

 喜三郎と洸はとても感心する。


「どわあああああああーっ!」

 家へ帰って自分のお部屋で開封してみて、喜三郎は思わず仰け反った。

「……こっ、こっ、これは、ある意味普通のエロ本よりもやばいぞ……新幹線の中で開けなくて本当によかったよ」

 包まれていたのは一冊。小学校高学年向きの“性教育絵本”だったのだ。タイトルは『女の子のからだのふしぎ』。年齢と共に女の子の体はどのように変化していくのかが、カラーイラストで分かりやすく解説されており、人によっては恥ずかしくて直視出来ないような内容といえよう。

「ん?」

 メモ用紙も封入されていた。そこには、

【喜三郎君、この本熟読して、女の子のこといーっぱいお勉強してね♪ヽ(^o^)丿】

 と、丸っこくかわいらしい文字で書かれてあった。

(…………あっ、あいつううううううう)

 喜三郎のお顔は茹蛸のようにだんだん赤くなっていった。少しの怒りと強烈な照れくささ、両方を感じていた彼はすぐさまこの絵本を一ページずつビリビリ破き、そのあとシュレッダーにかけたのであった。


               ☆


 翌朝、木曜日。

高等部一年一組のクラスメート達は、この日は学校へは向かわず、武者先生から指示された通りJR岡山駅前に集合した。

朝のホームルームもこの場所で行われることになっていたので、貝原先生も来ていた。かなり迷惑そうな表情を浮かべながら。

八時半。貝原先生は一組のクラスメート達が欠席の子を除き全員揃ったのを確認すると、連絡事項を手短に済ませ、急ぎ足で学校へと向かった。一時限目から他のクラスで授業が組まれてあるのだ。

それからほどなくして、

「ぃよう、おまえさんら。ワシのしょうもない授業なんかのためによう集まってくれたな。ワシは今、めっちゃ嬉しいでーっ。それではご褒美に、今から慣性の法則というものをお見せ致します! やっぱ物理っちゅうもんはな、ビジュアルで体験するんが一番脳内にインプットされやすいねん。百聞は一見にしかずやな。おまえさんらもいっしょに路面電車に乗ってくれ。本校の生徒共の多くが普段通学に利用しとる路電、これは走る物理学実験室や!」

 武者先生がグ○コポーズ走りで颯爽と現れた。駅構内で四十名近くいる一組のクラスメート達に向かってマイクは使わず、なぜか扇子片手に大声で叫び回る。

「先生、うるさいよ。もっと小声で話してね」

 洸は注意する。

 四人が座っていた場所はその先生のすぐ近くだったため、かなりの騒音域となっていた。

「清瀬よ、ワシのテノールボイスを迷惑がるとは一丁前やのう。ワシにアカペラで『桃太郎の歌』歌わせたら右に出るもんはおらんのに。罰としてパンツ、拝ませてーな」

 武者先生は黍団子を右手に持ったまま、にじり寄ってくる。

「ちょっと先生。それ、セクハラじゃないですか?」

 洸は少し迷惑そうに、けれども笑顔で対応した。

「ムッシャー、公衆の面前でそんなこと叫んだらお巡りさんが寄ってくるかもしれんじょ」

智穂は武者先生の丁髷をペタペタ触りまくる。

「そんなんノープロブレムや。あいつらには慣れてるさかい。それより妹尾よ、ワシの髪、そんなに触り心地ええんのんか? ハハハッ」

 上機嫌な武者先生はスキップしながら、路面電車乗り場へと向かっていった。他のみんなもあとに続く。

〈まもなく、発車します〉

車内アナウンスから約三秒後、扉が閉まった。そして動き出す。当然車内はぎゅうぎゅう詰めだ。事情を知らない一般利用客らは不思議そうにこの光景を眺めていた。

「狭苦しいな。マッチ箱みたいな電車や」

 武者先生は運転席のすぐ側に立ち、不平を述べる。

「ここで一句、【春麗 女生徒運ぶ 岡電かな】」

 続いて腰袋から黍団子、ではなく短冊と万年筆を取り出し書き記した。

「そういや岡電って、車内に俳句ポスト設置されてなかったな。岡電は遅れとるのう。伊予の国松山の路電を見習わにゃーいかん」

「……」

さらに運転手に向かってくどくど説教し始める。


路面電車は岡山駅前電停二つ隣の柳川電停を出た直後、信号待ちのため急停車した。

「うおっと!」

 と、同時に武者先生はつんのめる。

「見よ、これが慣性の法則ビジュアル版や。さっき運転手が急ブレーキかけたやろ? でもワシや、おまえさんらは動き続けようする力が働くねん」

 熱弁を振るうも、クラスメート達のほとんどは彼の話を聞いておらず、お友達とおしゃべりをして過ごしていた。

路面電車は次の城下電停を発車すると、すぐにカーブへ差し掛かった。

「おっとっとっとっと、見よ、これも慣性の法則や!」

 武者先生は、今度は尻餅をつきそうになった。

「先生、アクションオーバー過ぎです」

 クラスメートの一人からようやく意見が出た。

「……それでやな、ワシやおまえさんらは、直進し続けようとする力が働くんよ。もう一つ見せたる。この中でジャンプするとどうなるのかをお見せ致します!」

 そう大声で告げ、武者先生はピョンッと飛び上がり、ズンッと着地した。

「ほら見よ。同じ所に着地したやろ。これはな、電車の速度と同じ速度で、ワシの方も動いてるから、こういうふうになるわけや。これはジャンプした瞬間の速度が関係してくるねん。つまり、もし、運転手のやつが急ブレーキかけて減速しようものなら、ワシは跳んだ位置より前に移動するわけなんよ。というわけで運転手、今すぐやってくんなはれ」

「……」

 武者先生からの無茶な要求に、運転手さんはかなり迷惑そうな表情を浮かべる。

〈県庁通り、県庁通りです〉

 その到着アナウンスが流れた直後、

「ワシはここで降りて、天満屋バスターミナルへまっしぐらや。これから今夜の阪○戦のために高速バス乗って甲子園まで行って来る! 一旦梅田まで出て、百貨店で応援グッズ買い漁って、そのあとに阪神電車使うて現地入りや。あのすっかり変わり果ててしもうたカー○ルサン○ースとも再会して来る! 言っとくけどワシが投げたんやないでー、しょっちゅう疑われるねんけど。というわけで、授業の残り時間は自習!」

 武者先生はそうおっしゃり、ハレカ定期券をタッチさせ路面電車から降りていった。

「武者先生、完全に授業放棄だよな」

 喜三郎は的確に突っ込む。

「大胆な行動する先生じゃろ? キサブー、驚いたみたいじゃね」

「そりゃ驚くよ、あんなので、よく今までクビにならず教職務まってるよな」

「今日のはまだマシな方なんじょ。中学の時にやってくれたドップラー効果の説明の時はサイレンの音聞かすためだけに救急車と消防車とパトカー呼んでたけん。しかも大雨の日に。あのあとムッシャー、隊員と警察官と校長からすごい叱られてたんじょ。反省の色は全くないようじゃけどね」

「遠心力の説明の時は最悪だったなあ。遠心力をお見せしますとか言って武者先生に私のカバン、廊下までぶん投げられたの。中に入ってた大事なペンケースや手鏡も割れたし。実践を通じて理解を深めるという武者先生のお考えは私も共感出来るけど、他人に迷惑かけたらダメってことをもっと理解して欲しいな」

 椛は少しムスッとしながら告げる。

「傍若無人な桃太郎さんだね」

 洸はにっこり微笑んだ。

「私立だから異動もないし、これから三年間ずっとあの先生なんだよな。俺、ただでさえ物理苦手なのに」

 喜三郎は眉を顰めながらぶつぶつ不満を漏らす。

「キサブー、そのうち慣れてくるって。高等部でムッシャーの授業を受けられるのは理系だけやけん、楽しまな損、損」

 智穂は微笑みながら言い、喜三郎の肩をポンッと叩いた。


「皆さん、おかえりなさい」

一組のクラスメート達が教室へたどり着くと次の二時限目、国語総合(古典)を担当している三十歳くらいの女の先生が快く出迎えてくれた。

「あの、先生。武者先生は授業ほったらかして甲子園球場へ行ってしまいましたよ」

「これはよくあることだから、スルーしてあげてね」

 喜三郎の発言に対し、古典の先生はさらりと言い張った。彼女は授業開始後もしばらく、彼の話を続けてくれた。

「あいつはね、私の恩師なの。もう十年以上は前になるかな。当時からこんながさつな感じだったのよ。道頓堀に飛び込んだことも何度もあるらしいわ。外部生の子に言っておくけど、物理の授業ではデタラメを教えることも多いから何でもあいつの言うこと鵜呑みにしないがいいよ」

その他にも、阪神電車に乗る時は必ず最後尾の車両に乗り、下車したあとは車両に向かってお辞儀をするという自分ルールを持っていることなど、武者先生の素性を包み隠さず教えた。

「ねえ、先生。武者先生って物理の知識はほとんどないですよね? この前あたしが分からない問題質問しに行ったら、そんなん自分で考えやーって言って慌てて逃げていきましたし」

 クラスメートの一人が発言した。

「その通りよ。中学レベルも怪しいくらいなの。物理教師のくせして物理の問題は全然解けなくて教えられる能力はない、そんな理由から私が中学生の頃は“ニセ物理”っていうあだ名でも呼ばれてたのよ」

 古典の先生は笑いながら伝えた。

そのことがきっかけでこの授業のあと、武者先生のことを“ニセ物理”と呼捨てするようになった女生徒達が出始めたのは言うまでもない。

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