第二話 教科授業開始、面白教師登場
八時四十分、一時限目開始を告げるチャイムが鳴る。高校に入学してから初めての教科授業は、英語であった。朝のホームルームに引き続き、担任の貝原先生が受け持つ。
「皆さん、当然予習はやってきてますよね。早速Lesson1から始めていきますよ。テキスト7ページの1行目から5行目までを、今日はエイプリルトウェルフスワンピリオドだから、出席番号八番のミズ清瀬。プリーズスタンドアップ。リード、アンド、トランスレイトジャパニーズ」
「はっ、はいーっ」
洸はびくっと反応し大きな声で返事した。てっきり出席番号十二番の子が当てられると思っていたのだ。イスを勢いよく後ろに引いてガバッと席を立ち、英文に目を通す。
「えっ、えっと。あれ、この単語、どういう意味でしたっけ?」
数秒間の沈黙。
「……清瀬さん、予習はやってきたのかな?」
貝原先生はにこっと微笑みかけた。
「やってるわけないじゃないですか。春の新番組チェックに忙しかったし」
洸は笑いながらきっぱりと言い張った。
「あらあら」
貝原先生は苦笑いを浮かべ、洸の席へと少しずつ歩み寄る。
「そういえば貝原先生、高校の英語の教科書って巻末に単語の意味が載ってないんですね」
「ひょっとして今気付いたの? 英和と和英の辞書は必須アイテムだから、いつも持ってくるようにアテンションプリーズ」
「あいたっ」
貝原先生はにこっと笑って洸の頭をテキストの角でコツンッと叩き、教卓へ戻っていった。これが彼女の素敵なお仕置きの仕方。
(今度からは、気をつけなきゃ)
洸にはちゃんと効果があったらしい。
この学校では四十五分授業制となっているため、一時限目は九時二十五分までだ。
「藁谷くん、ちょっとこっちへいらっしゃい」
授業終了後、喜三郎は貝原先生に呼ばれた。
「何でしょうか?」
「辛い思いさせちゃってごめんね。先生も、校長先生もまさかこんな事態になるとは思わなかったの。男の子は全クラス合わせて十人くらいは入学してくると見込んでたんだけど」
「俺もそう思ってましたよ」
「この学校に馴染めそう?」
「うーん、ちょっとねえ……」
「あの、じつはね、理数コースには他に四名、男の子が合格してたの。けどみんな物の見事に入学辞退しちゃって」
「そうなんですか。俺も辞退すればよかったな」
喜三郎はため息混じりに呟く。さらに喜三郎は担任から、他のクラスにも男子の合格者は計八名いたのだが、彼らもまた全員辞退してしまったという事実を聞かされた。
理数コースでは募集定員四十名のところを、辞退者を見込んで四十五名の合格者を出していた。他に女子三名の辞退者が出たため、二名の補欠合格者を出したことで定員数に達したとのこと。
「藁谷くん、もし悩み事があったら、保健室の先生がカウンセラーしてくれるから気軽に相談してね」
「はっ、はい」
喜三郎はこくりと頷く。
「ワタシも相談に乗るじょ、キサブー」
「私もです。困ったことがあったらなんでも相談してね」
「わたしもーっ」
三人も寄ってきた。
「藁谷くんよかったわね。頼りになるお友達がいて。合宿の部屋割りも原則このメンバーなんだけど、年頃の男の子と女の子で同部屋にするのはちょっとまずいと思うから、特別にお部屋用意してあげるわね」
「ぜひお願いします!」
喜三郎は強く言い放った。
「えー、ワタシ、キサブーと同じお部屋がいい」
智穂は貝原先生に向かって駄々をこねる。
「私もべつに構いませんよ。私、小六になった弟とたまにいっしょに寝てるので抵抗ないです」
「先生、きさぶろうくんはまだ精神年齢子供ですし、わたしの弟のようなものですから」
椛と洸はほんわか顔で意見した。
「おいおいっ」
喜三郎は眉を顰める。
「まあ確かに藁谷くんなら、変な気起こすことなさそうだし」
貝原先生は喜三郎のお顔を見つめ、にこっと微笑みかけた。
「ほな決まりじゃね」
智穂はガッツポーズをとる。
「貝原先生、この人達の意見絶対通さないで下さいね」
喜三郎は困惑顔でお願いする。
「ふふふ、分かったわ。当日までにはなんとか調整しておくから。あっ、藁谷くん。この学校、教職員に限っては男性も多いから安心してね」
貝原先生はそう告げて、他の教室へと向かっていった。
ほどなくして二時限目開始を告げるチャイムが鳴り、教科担任もやって来た。
「それじゃ、始めるよーん。みんな早く席についてねーん」
一組では、今日は数学の授業が組まれてある。
「えー、ワタクシの名前は備前学と申します。内部生の子は知っていると思いますが、ワタクシの趣味はコンピュータゲームとアニメ観賞です。ワタクシがゲームに本格的にのめりこんだきっかけは、小学生の頃にですね、ファ○コンというものが発売されまして……」
数学担当は、四〇過ぎくらいの男性であった。喜三郎は少しホッとした気分になった。備前先生の自己紹介は、その後三〇分近く続いた。
「おっと、ついつい話し過ぎちまった。いい加減始めていかなくては。理数コースでは進度、特に速いから覚悟しといてねーん。合格したからといって浮かれ回って、春休み勉強サボってた子はこれから地獄を見ることになるよーん。それじゃ、数Bの教科書開いてねーん」
「「えっ!?」」
備前先生からそう告げられた直後、喜三郎と洸は同じように反応した。
「どうしたんだい? 清瀬さんに藁谷くん」
備前先生は目を見開いて問いかける。
「あのう、先生。数ⅠAの、授業は?」
「わたし、まだ習ってないんですけど……」
二人は恐る恐る話しかけてみた。
「自分で勉強しといてねーん。内部生の子には中学で既に教えちゃったよーん」
一瞬間を置いたあと、備前先生はにこっと笑い、さらっと言い張った。
「そっ、そんな……」
「嘘ですよね?」
喜三郎と洸は目が点になった。
「今頃慌てふためくなよーん。新入生の手引きのカリキュラム欄に書いあっただろ? 読まなかったのかい? 外部からこの学校に入ってくる子は、そのことは当然承知していると思ったんだけどねん。まあでも数ⅠAくらい、一週間もあればマスター出来るよん」
備前先生はそう告げて、お構い無しに数学Bの授業を進めていく。
「数列の最初の方だけど、きみ達当然予習はしてるよねん? 問題当てるよん。教科書に載ってる練習問題程度だと、このクラスの子にとってはあまりに簡単すぎて失礼だろうと思いますので、ワタクシオリジナルの問題にしましょう」
白チョークを手に取り、黒板に問題文を書いた。
「それではこいつを……えー今日は四月十二日の二時限目だから、十二マイナス四で出席番号八番の、清瀬さんかあ。やってみってねん」
「えーっ」
洸はまたもいきなり当てられ、ため息を漏らす。重い足取りで黒板の前へと進んだ。
出題されたのは、
奇数を順に並べて次のように、1個,2個,3個,……となるように区画に分ける。
1|3 5|7 9 11|13……
このとき、
①第n番目の区画の最初の数
②第n番目の区画に入る数の和
を求めよ。
という問題。
(えっと……なっ、何これ? 数字の横に棒みたいなの付いてるし)
洸は白チョークを手に持ったまま、トーテムポールのごとく固まってしまっていた。
「ふふーん。出来ないのかあ」
備前先生はその様子を眺めて、楽しそうににこにこ笑っていた。
(洸、かわいそうだ。なんだよあの先生。さっきの発言は教師としてひどいだろ。俺がなんとかしてあげたいけど、俺もあれは全く分からない)
喜三郎は自分が代わりに解いてあげようかと思ったが、なすすべなし。固唾を呑んで見守るしかなかった。
その時――。
「あのう、先生。私が解きます」
と、クラスメートの一人が挙手をした。
(えっ、この声は、もみちゃん!?)
洸はくるりと振り向く。まさしくその通りであった。
「えー、きみがやってもつまんないよ。すーぐ解いちゃうんだもんな」
備前先生は椛に向かって何やらネチネチ文句を言い始めた。
「先生、この群数列の問題はやや難易度が高いので、解けなくても無理はないと思います」
椛は備前先生に向かってズバッと言い放った。
「わっ、分かったよん。じゃあ、きみがやってあげてねーん」
椛はスッと立ち上がって黒板の前へ向かう。
「洸ちゃん、あとは私に任せてね」
そして笑顔で話しかけた。
「ありがとう、もみちゃん。助かったよ」
洸はお礼を言って、自分の席へ戻っていく。
(洸、良かったなあ。美甘さんって見た目通り、ほんとに良い子だな)
喜三郎も安堵した。
「先生、出来ました。答えは、①がn^2-n + 1②がn^3です」
洸が席に着いてイスを引いた直後、椛が告げる。彼女は、洸が悪戦苦闘していた問題をわずか十五秒ほどで解いてしまったのだ。
「途中の式も含め文句なしの正解だよん。面白みがないなあ」
備前先生はとても悔しそうな表情を浮かべていた。
「もみちゃん、さっきは助けてくれてありがとう」
洸は授業が終わると、すぐさま椛の席へ駆け寄った。
「どういたしまして。私、困ってる子を見かけると助けたくなっちゃって」
「良い子だねえ、もみちゃん」
洸はにこにこ顔で椛の頭をなでなでする。
「いえいえ」
椛は照れ笑いした。
「やあ、モミ。さっきすごくかっこよかったじょ」
智穂も寄ってくる。
「もみちゃん、ちほちゃん。備前先生って坊っちゃん刈りで、牛乳瓶の底みたいなメガネで、暗い部屋に引き篭もってテレビゲームばっかりしてそうな、の○太顔だよね」
洸はにこにこ笑いながら彼の悪口を言う。
「ビゼンヤキは意図的に出来の悪い子を当てて、難しい問題に困っている様子を楽しむのが好きみたいなんじょ」
智穂はさらっと伝えた。
「性格はス○夫くんも入ってるわね。話し口調はすごく面白いんだけど、当てられるのは嫌だ。わたし、出来が悪いしこれからすごく心配だよ。きさぶろうくんもだよね?」
「まあな、俺も先行き不安だ」
洸は顔を横に向け喜三郎に話しかけた。出席番号の関係上、椛と喜三郎の席は近いのだ。
「わたし、もみちゃんのこと頼りにしてるよ。授業で分からないとこ、山のように出てくると思うからお助けしてね」
洸は、椛の目を見つめながらお願いする。
「はい。お任せ下さい」
頼もしいお言葉がかかった。
三時限目は物理基礎。またも男性教諭だった。
「ぃよう、おまえさんら。外部生の子は初めまして。内部生の子は引き続きよろしく。ワシ、桃から生まれた武者実篤と申します。驚くなかれ、これ、本名です」
教室に入るや否や、彼は大きな声で元気よくご挨拶した。
(なっ、何? あの髪型)
(あの格好、諸にあれだよな)
洸と喜三郎は、彼の姿を凝視する。
なんと、丁髷を結っていたのだ。
さらに陣羽織を身に纏い、腰に刀と袋を携えて、日本一と書かれた幟まで装備していた。
かの有名な桃太郎の格好そのものだった。
「ねえ先生、その袋の中身、黍団子ですよね?」
洸は興味津々に尋ねる。
「その通りや。ワシ、桃太郎に傾倒しとるからのう」
武者先生はとても嬉しそうに答えた。
「ところで藁谷君、お主はスケベよのう」
彼はにやっと笑い、喜三郎の席をびっと指差した。
「おっ、俺、決してそんなつもりでこの学校へ入ったわけじゃ……」
喜三郎は必死に弁明する。
「正直に言ったらええねん、女の子に囲まれてハーレム味わいたかったんやろ?」
「断じて違いますって」
「ハッハッハッ、シャイやのう。ワシと同じく古風な名前やのに。ではさっそく授業進めていきますでー。物理の基本は力学からやっ! これが理解出来んようやと熱、波動、電磁気の内容も理解は絶対出来んからな」
武者先生はそう力説しながら、物理基礎の教科書をパラパラと捲る。彼は、今回は物体の運動(平均の速さと瞬間の速さ、等加速度直線運動、速度の合成と分解、相対速度など)についての説明をスピーディーに行った。
「おまえさんら、第一回目の授業どうやった? 物理っちゅう科目は数式がようさん出て来て難しいわーって感じたやつも中にはおりますやろ? ノープロブレム、じつは物理はめっちゃ簡単ですねん。センター試験理科で一番満点採りやすいぞ。物理っちゅうもんは、字の通り物の理や。物理現象は日常生活あらゆる所に溢れかえってます。数式なんか使わんでも理解は可能や。というわけで次の授業の時、木曜一時限目やな。JR岡山駅前に集合してくれ。ワシが目から鱗の物理授業をお見せいたします!」
最後にこう熱く告げて、授業終了のチャイムが鳴ると同時に教室から立ち去った。
休み時間、四人は喜三郎の席を中心に集まる。
「あの武者って先生、突っ込みどころ満載だったな」
「わたし、すごく気に入ったよ。苗字がめっちゃ格好いい」
「本当のお生まれは兵庫県の西宮市で、大の阪神タイガースファンなの」
椛は二人に教える。
「俺や洸と出身地近いんだな」
「確かにこてこての関西人って感じだったね。これからの物理の授業、すごく楽しくなりそうだよ。この学校って、ユニークな先生が多いの?」
洸はわくわくしながら尋ねる。
「あの二人が特に強烈過ぎただけなんじょ。あとはごく普通の先生ばっかりじゃ」
「なあんだ、もっと面白い先生いっぱいいてほしいな」
智穂から伝えられ、洸はがっかりする。
「ただ単に面白いだけの先生より、授業の分かりやすい先生の方がいいだろ。俺は不安だぜ、あの武者ってやつ。板書、教科書に書いてある内容をそのまま書き写してるって感じだったし」
喜三郎は眉を顰めた。
四時限目は体育。今回は教室で授業の行い方についての説明が行われるため、制服姿のまま。担当は女性。どこの学校にもいそうなごく普通の先生だった。
「藁谷くん、男の子一人のために指導教官用意するわけにもいかないので、藁谷くんもいっしょに授業受けてね」
体育教師がそう告げた瞬間、クラスメート達の一部から喜びの声と拍手が上がった。
「えー、やっぱそうなるんですか?」
喜三郎は当然のごとく嫌そうに振舞う。
「確かに、年頃の男の子が女の子と合同で体育の授業受けるのは嫌よね。けど藁谷くん、体力的に、女の子と変わらなさそうだし」
体育教師は喜三郎のなりを見てくすっと微笑んだ。
「先生、それ、失礼ですよ」
喜三郎はムスッとなった。
「ごめんなさいね、次の授業から三回に分けてスポーツテストを行うけど、期待してるわ。さすがにお着替えだけは別にしなきゃと思うから、藁谷くんのために特別に更衣室用意してあげるわね」
「ぜひともお願いします!」
喜三郎は強く言い放った。
四時限目の授業が終わり、お昼休みが始まると、
「きさぶろうくん、いっしょにお弁当食べよう」
洸は喜三郎の席に駆け寄って来た。
「えっ、俺、一人で」
「いいから、いいから」
喜三郎は手をグイグイ引かれ、ほとんど強制的に洸の席へ連れて行かれた。
「ちほちゃんともみちゃんも来てーっ」
「オーケイ」
「分かりました」
その二人は快く洸の誘いに乗った。イスを寄せ合い、おしゃべりしながらお弁当を食べる。
「次に体育があるのは、さっそく明日の五時限目かあ」
喜三郎はため息混じりに呟く。
「キサブー、明日は午前中に身体測定と健康診断があるんじょ」
「そういやそうだったな。てことは……」
「その前に着替える時間があるってことなんじょ」
智穂は嬉しそうに伝えた。
(幸い俺の席は後の扉に一番近い。即効で逃げないと)
喜三郎は目論む。
「ところでキサブーとヒカリンは、神戸からこの学校来たってことは何かしら興味あったんじゃろ?」
智穂は興味津々に尋ねた。
「そうね、新幹線通学したかったから、っていうのが一番の理由よ」
洸はきっぱりと答える。
「さすが〝ひかり〟って名前だけはあるね」
椛はくすっと笑った。
「車両は〝さくら〟が一番好きなんだけどね。理数コースを選んだのは、きさぶろうくんと三年間同じクラスになれるからよ。わたし、きさぶろうくんと同じクラスになれたの、小四の時が最後だったもん」
洸は満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに話す。
「そういうことかー、納得」
智穂はくすくす笑う。
「俺はさ、洸にしつこく誘われて仕方なく受験したんだ。家から近いごく普通の公立高校行くつもりだったのに、母さんや父さんも受けろって勧めてきたし。俺も洸も数学と理科、ものすごく苦手なんだぜ。なんでこんな秀才ばっかり集うこのコースに入学出来たのか今でも不思議に思う」
「普通コースでも無謀だって中三の頃、担任と進路指導の先生に散々言われたよね。合格伝えた時はめちゃくちゃ驚かれたよ」
二人は楽しそうに思い出を語り合う。
「この学校、内申書の点数は考慮されず当日一発勝負やけんね。毎年番狂わせの合格者が数名出るみたいなんじょ」
智穂はさらっと伝えた。
「俺や洸は絶対そのタイプだ。本来合格出来る様な成績じゃなかったし。俺も洸も中学の時の定期テストの成績、学年二百人足らずの中で良くて三十番代だったから。普通の公立校で」
「わたしときさぶろうくん、ほんとにいつも互角の争いしてたね。奇跡でも何でもわたし、こんな面白い学校に入れてよかったよ。でも卒業、というか進級出来るかが心配だな」
洸の表情はやや暗くなる。
「部活動に打ち込むのもいいですよ。何か入る予定はありますか?」
椛はミートボールをモグモグ食べながら、二人に質問した。
「俺は入らないよ」
「わたしは、スポーツものすごく苦手だし、入るとしたら文化系にするつもり。アニメ同好会入ろうと思ってたんだけど、創作する方が主みたいだからやめた。わたしは見て楽しむ派だし。パンフレット見たけど高校の部活って、すごい数あるよね。唱歌部とか、俳句部とか、物理部とか、数学部とか、阿波踊り部とか今まで聞いたこともないユニークな部活もいっぱい」
「ねえ、クイズ研究会とかどうで? すごく楽しいみたいよ。毎年開かれてる高校生クイズ選手権にこの学校を代表して出場してるんじょ。まあ、地区予選すら突破出来たことは今まで一度もないみたいじゃけどね」
智穂は勧めてみるも、
「うーん、それはちょっとね。わたし、頭悪いし」
洸は即却下した。
「やっぱダメか。まあワタシも暗記物は苦手やけん入らんかったけんね」
「もみちゃんはその部に入ってるの?」
「いえ、大会に出場すると皆から注目浴びて恥ずかしいし、それに私や智穂ちゃんはテストの成績トップであって、こういう大学レベルの知識も駆使しなきゃならないのには対処出来ないよ」
「あの子達のような才能には敵わんじょ。じつはワタシも帰宅部なんじょ」
「じゃあわたしも帰宅部でいいかなあ。部活入ったら勉強にますますついていけなくなっちゃいそうだし」
「あっ、あのさ……」
喜三郎は急にそわそわし始めた。
「キサブー、ひょっとして、おトイレ行きたくなったで?」
智穂はにやにやしながら尋ねた。
「そっ、そうなんだ。先週までは昼までだったから何とか耐えられたけど、さすがにな」
喜三郎は、やや照れくさそうにぼそぼそと打ち明ける。
「喜三郎くん、男子トイレは一階の職員用しかないよ」
「共学にしたけど、そこまで作る予算はなかったけんね」
椛と智穂はさらっと伝える。
「そうなのか。一階まで下りなきゃならないのが面倒だ」
不平を呟きながらゆっくりと立ち上がり、喜三郎は教室から出て行った。
「ワタシもおトイレ行ってくるね」
智穂もあとに続いた。
喜三郎が下り階段に差し掛かろうとした。
その時、
「キッサブーッ!」
「うわっ!」
智穂に背後から抱きつかれた。
「キサブー、女子トイレでしちゃえばいいじゃん」
智穂は喜三郎の耳元で囁く。
「なっ、何言ってるんだよ妹尾さん。俺は当然、男子トイレ使うよ」
喜三郎は引き離そうと体を揺さぶりながら、困惑した表情を浮かべる。
「キサブー、ワタシよりちっちゃいくせに力で勝てるかな?」
智穂は喜三郎のズボンのベルトを両手でつかみ、吊り上げた。
「ちょっ、ちょっと、下ろしてくれ!」
喜三郎の体はふわりと宙に浮く。
「キサブーかるーい」
「やっ、やめろって」
喜三郎は抵抗するも敵わず、あれよあれよという間に女子トイレの入口前と連れて行かれた。
「ちょうど今、誰もおらんじょ」
智穂は中を確認してから入り、個室へと歩み寄る。そして喜三郎をそっと下ろしてあげた。
「妹尾さん、何てことするんだよ?」
喜三郎は少し怯えている。
「さあキサブー、遠慮せずにここでしぃ」
智穂はにこっと微笑みかけたあと、扉を閉めて喜三郎を中に閉じ込めた。
「おっ、おい」
「ちゃんと鍵掛けんといかんじょ。ほな後は自力で、見つからないように戻ってきてね」
智穂は外側からほっこりするような阿波弁口調で話しかけ、女子トイレから走り去った。
(早く、出なきゃ)
喜三郎は一刻も早く脱出すべく、扉を開け、トイレの外へ向かって突っ走る。しかし出口までもう一歩というところで折悪しく、女の子同士でおしゃべりしている声が聞こえてきた。
(うわあああああーっ)
喜三郎は慌てて踵を返し、さっきいた個室へと戻った。
ほぼ同時に女生徒が二人、トイレに入ってきてしまった。
(あと二秒遅れてたら、大変なことになるとこだった)
喜三郎の心拍数は急上昇した。彼のいる個室、すぐ前の個室に一方が入った。
コンコンコンッ。
「!!」
もう一人の子が喜三郎の入っている個室の扉をノックした。喜三郎はびくっと反応し、慌てて鍵を掛ける。
「……あ、入ってるや」
その子は、彼のすぐ後ろ隣の個室に入った。
状況詳細。喜三郎のいるすぐ両隣の個室に女の子が入っている。下着を脱ぎ下ろす音、そして用を足している最中の音が否応無しに、彼の耳元に鮮明に飛び込んで来ていた。
(おっ、おい、音姫使えって……って付いてねえのか、ここ。私立のくせに設備悪いな)
喜三郎の顔は、桃色を飛び越して真っ赤に染まる。
今、仕切り下僅かな隙間から覗こうと思えばいくらでも覗き放題なのだ。
すぐ先に広がる男の夢の桃源郷。
しかし喜三郎は決して覗こうとはしなかった。彼は紳士なのだ。
「ふぅ」
前の個室にいる子が一息つく声。妙に色っぽかった。
続けてトイレットペーパーをカラカラ引いて千切り取る音が聞こえてきた。
その数秒後にジョバーッと水を流す音が聞こえ、前にいる子は個室から出た。
「ハァ」
後ろの個室からも一息つく声が聞こえてきた。
「あっ、ここ紙ないや。どうしよう、困った。ポケットティッシュ持ってるけど流すと詰まっちゃうし……そうだ! あのう、前にいらっしゃるお方、もし紙が余ってたら少しだけでもいいのでこちらへお渡しいただけませんかーっ?」
「――っ!!」
仕切り越しに話しかけられ、喜三郎はびくーっと反応した。
「あれ? いらっしゃらないのですか? 確かさっき……」
(こっ、これは、確認しに来られたら大変だ。やらなきゃ、やばい――)
喜三郎はガチャンと音を立ててホルダーからトイレットペーパーを取り外し、隙間を利用して後ろ側へ転がした。
「ロールごと、ご親切にありがとうございます」
後ろにいる子は礼を言い、後処理を済ませた。
「これ、お返しします」
その子は隙間から手を伸ばし、余った分のトイレットペーパーを差し出してきた。
「……」
喜三郎は当然のように無言で受け取った。
ほどなく水を流す音が聞こえて来て、ようやくその子も個室をあとにしてくれた。
「サユリー、お待たせーっ。紙無くて焦ったよ」
前の個室にいた友人を呼ぶ声。
「たまにあるよね、そんなこと」
「うん、でも今回は前のお方が譲ってくれて助かったよ。あのう、本当にありがとうございました。あの、失礼かもしれませんが長いですよね? お腹の調子悪いんですか? それだと紙たくさん使いますよね? あっ、気を悪くしてしまったら申し訳ございません」
(心配してくれなくていいから、早く出てってくれよ)
その二人は、このあとも三分ほど手洗い場でおしゃべりし合っていた。この間にまた一人、喜三郎のいる個室三つ後ろに入ってきてしまった。
(やばい、もう、限界だ。ここで、するしかねえ)
喜三郎は尿意に耐え切れず、やむを得ずこの場で用を足すことにした。ズボンのファスナーを開けて、男の象徴を露出させた。そしてそれの先端を便器に向ける。
(ねっ、狙いにくい)
彼の目の前にある、これまでに幾多もの女生徒達が用を足していった和式便器。普段使っている小便器や自宅の洋式トイレとは違い、標的は真下にある。彼は和式便器の後ろ側に仁王立ちすると、ついに尿を発射してしまった。彼の尿は第3象限に描かれたy=マイナスx2乗のグラフのごとくきれいな放物線を描き、的=和式便器へと上手く落ちていく。
(やっちゃった……)
用を足し終えたあとも、すっきりすることはなかった。とてつもない罪悪感に駆られたのだ。
ファスナーを閉じて、息を整える。
(いっ、今の内に)
次に扉をそっと開いてわずかな隙間から外を覗き、誰もいないことを確認した。そして耳を澄まし、トイレ入口付近にも人気がないことを確かめる。このチャンスを逃すまいと素早く女子トイレから外へ出た。
(よかったぁーっ。うまくいった)
喜三郎はホッと胸をなでおろす。心拍数も少しずつ下がり平常値へ戻っていった。安堵の表情で教室へと向かう。
「おかえり、キサブー。よく無事に戻って来れたね」
智穂は爽やかな表情で出迎えた。
「妹尾さん、誰かに見つかったらどうするんだよ」
喜三郎は頬を火照らせながら智穂をキッと睨み付ける。
「ごめんごめん、もう絶対しないって。まあべつに見つかったところで、きっと事情は分かってもらえると思うんよ」
智穂はくすくすと笑う。
「……」
「ちほちゃん、きさぶろうくんを女子トイレに連れ込んだの?」
洸は眉をぴくりと動かした。
「ほうなんじょ」
「悪い子ね」
洸はニカッと笑い、智穂の頬を両手でぎゅーっとつねる。
「いたたた、いたーいヒカリン」
「智穂ちゃん、女子トイレに男の子連れ込んじゃダメでしょ」
椛は物理基礎の教科書の角で、智穂の頭をコチンッと叩く。
「いったーい」
そのダブル攻撃に、智穂はやや涙目になった。
「きさぶろうくんも、この子引っ叩いていいのよ」
洸はさらりと言う。
「いやあ、それはちょっとね。妹尾さんも反省してるようだし」
喜三郎は申し訳なさそうに言った。
「もう、甘いわね、きさぶろうくん」
洸は彼の優し過ぎる対応に少しがっかりしていた。
お昼休みは一時間。五時限目開始は午後一時十分からだ。月曜日は、化学基礎の授業が組まれてある。
「それでは、とりあえず元素記号の復習から始めましょう」
担当は六十代前半のお爺さん先生。亀のようなゆっくりのんびりとした口調で授業を進めておられた。面白いことに彼の苗字は池亀と、亀が付いていらっしゃるのだ。
「Baは、何の元素記号か分かるかな? 清瀬さん。教科書は開かずに答えてね」
「……」
洸は指名されたことにも気づかず、すやすやと眠っていた。
「おやおや? お休み中」
池亀先生は洸の席へ、これまた亀のようなゆっくりとした速度で歩み寄り、
「おーい」
と、一声かけた。
「……」
洸は、まだ目を覚まさず。
すると池亀先生は、ある行動に出た。
「起きて下さいなー」
洸のうなじを指示棒で軽くチョン、チョンとつつく。
「はっ、はう!」
すると洸はビクンと反応し、パチッと目を覚ました。
「おはよう清瀬さん」
「……あっ、寝ちゃってたんだ、わたし。いっけなーい」
垂れたよだれを制服の袖で慌ててふき取る。
「季節もようなって、お昼ご飯食べて眠たいところやけど、今授業中やでえ。ところで、さっきから質問なんやけど、Baというのは、何の元素記号かな?」
池亀先生は優しく問いかける。
「えっと……ビーエービーエービーエー、バ、バ、バー……バームクーヘンだ! わたし、あのケーキ大好きーっ」
洸はお目覚め爽やかスマイルで質問に答えた。
次の瞬間、他のクラスメート達からドッと笑い声が起きる。
「あれぇ? 違うの? じゃあ……バルバドスかなあ? カリブ海にあったよね? そんな国」
笑い声はさらに高まる。
「バから始まるのは正しいんやけど……」
池亀先生はやや困り顔。
「それじゃ、これだ! 把瑠都凱斗。強くて面白いよね、このお相撲さん」
「……清瀬さん、確かにバームクーヘンもバルバドスも把瑠都凱斗も、ローマ字にするとBaで始まるけど、それは全く違うでえ。そもそも元素記号名じゃないよう……まあ、いいや。ではこの問題は……妹尾さんに答えてもらおう」
池亀先生は苦笑いしながら智穂を指名した。
「バリウムじゃろ。楽勝、楽勝」
智穂は即答する。
「はい正解。お見事。ちなみにバリウムは、化合物の硫酸バリウムがレントゲン撮影の造影剤として使われていることは、このクラスの子ならご存知だよね」
池亀先生はそう告げながら、ゆっくりとした歩みで教卓の所へと戻っていった。
(よかった。わたし、叱られるかと思ったよ。ちほちゃんすごいな)
洸以外にも何人か、居眠りしている生徒はいた。堂々とマンガやライトノベルを読んでいる子もいた。さらには携帯ゲーム機で遊んでいる子までいた。けれども池亀先生はそんな子達のことは注意もせず、完全放置して授業を進めておられた。
次の六時限目、情報の授業は移動教室。一組のクラスメート達はコンピュータルームへ。
四人はおしゃべりしながら廊下を歩く。
「洸、あの答えはないだろ」
「だって、寝惚けてたんだもん。バリウムってことは当然知ってたよ。それよりあの先生、のんびりしてて優しい先生だよね。まさに瀬戸内育ちって感じ」
「睡魔に襲われるヒーリング授業だったな。俺もいつの間にか寝てしまってたよ。まだ眠い」
そう言って、喜三郎は一回あくびをした。
「趣味は釣りなんじゃって。小豆島へ毎週のように海釣りに行ってるみたいじょ」
「へぇ。見た目通りの趣味持ってるのね」
洸はくすっと笑う。
「私もあの先生の授業、とても気に入ってるの。でも一つ気をつけて。成績はけっこう厳しくつけるみたいだから。授業態度も常にチェックしてるよ」
椛は二人に警告する。
「やばい。わたしさっき居眠りしたの、減点されちゃったかも」
「俺も次から気をつけないと」
洸と喜三郎は、少し気が引き締まった。
コンピュータルームには、最新式に近いデスクトップパソコンが50台ほど設置されており、一人一台ずつ利用出来るようになっていた。
四人は近くに固まるようにして座った。
「わたし、この授業一番好きになりそう。インターネットやり放題だもん」
「俺もこの授業一番楽しみにしてたよ」
洸と喜三郎は期待に溢れていた。
授業開始のチャイムが鳴り、入口の自動扉が開かれ、教科担任が入室した。
「えっ!? またあいつなのかよ?」
喜三郎は思わず声に出した。
「その通りっさ藁谷くん。丸聞こえだよーん」
現れたのは、備前先生だった。数学Bに加え、この授業も兼任していたのだ。
「やっぱ嫌な授業になるかもな。課題いっぱい出されそう」
「わたしはあの先生でもべつにいいよ、パソコンで遊べるし。さっそく動画投稿サイト見ようっと」
電源ボタンを入れ、生徒それぞれに振り分けられている学生番号とパスワードを入力することで起動するような仕組みになっている。セキュリティ対策も万全なのだ。
「おーい、きみ達。ちゃんと今日の課題済ませてからにしてねーん」
授業開始から十五分ほど経ち、四人でわいわい騒いでいると、備前先生が苦笑いを浮かべながら近寄ってきた。
「えー。初授業なのに、いきなり課題があるんですか?」
洸は嫌そうな表情で切り返す。
「当たり前じゃないかあ。この授業は遊びじゃないんだよん」
備前先生はふぅとため息をつく。
「ねえ、備前先生。パソコンが大好きなんですよね。ちほちゃんから聞きました。一日どれくらいやってるんですか?」
洸は嬉しそうに彼に話しかけた。
「うーん、そうだなあ、平日五時間、休日十時間くらいじゃないかなあ。パソゲーで遊んだり、動画投稿サイトをウォッチしたり、プログラミングしたりして有効に活用してるよん。プログラミングといえばワタクシさ、本当はゲームクリエイターになりたかったんだよねん」
「その方が教師よりもずっとお似合いですね」
洸は相槌を打つ。
「そう思うだろう。けどさあ、ワタクシのパパママに大反対されてさ、仕方なく教師になってあげたんだよん。ワタクシ、ゲー専へ行きたかったのに、あそこはプータローの養成所だからとか言われて四年制大学行かされてさ。ワタクシの家系、代々教師ばかりなんだよねん。ママもパパも教師だし。グランパは校長先生もやってたんだよん。そんでワタクシも半強制的に教師にされちゃったわけさ」
備前先生は不平を独り言のようにぶつぶつ呟く。
「テレビゲーム禁止されてたんですね。ちょっとかわいそう。わたしはもとからあまりやらないけど。どっちかっていうとアニメを見る方が好きだなあ」
「ゲームで遊ぶこと自体はワタクシ世代のヒーロー、高○名人が提唱しておられた一日一時間どころか何時間でも思う存分、自由にやらせてもらえてたよん。欲しいゲームは何でも買ってもらえたよん。ただね、条件としてゲームを職業なんかにしちゃ絶対にダメだって厳しく言われてただけなのさ」
「先生のご両親の気持ち、わたし分からなくもないな。ゲームクリエイターっていったら、連日徹夜続きで、安月給でこき使われる過酷な労働環境みたいだし。アニメーターよりはマシみたいだけど。中学の時、テレビゲームやアニメ、マンガにも否定的で昔気質な、山辺って苗字の先生がそうおっしゃってたよ」
「そういえばワタクシの小学校時代からの友人は、漫画家を目指してたよん。『ボクちん将来はジャ○プで週刊連載して、ド○ゴンボールを超える大ヒット作を生み出すんだ!』って宣言して、高校卒業後は某予備校みたいな名前の教育施設に進んだんだけど、そこ卒業して以来二〇年以上経った今でもずっとニート兼ヒッキー続けてるなあ。ママやパパの言ってたことはあながち嘘ではないことがよく分かったよん。大学進学を勧めてくれたことに今でも感謝してるさ」
「確かに山辺先生も、そういう系のとこ進んでも、その道で食っていけるのは極々一部の才能に恵まれたやつだけだっておっしゃってました」
洸は楽しそうに、備前先生と会話を弾ませる。
「そういやワタクシ、就活の時はママと揉めたなあ。大反対を押し切って受けたんだよん、その手の企業。プログラマーにデザイナー、プランナー、サウンドクリエイター……どの職種も作品選考と筆記までは大方通るんだけど、面接でことごとく落とされ続けて結局はどこからも雇ってもらえなかったっていう悲しい思い出もあるのさ。ワタクシ、あの時惜しくもゲームクリエイターになれなかった悔しさをバネにして、最近はホームページに趣味で自作したゲームを公開するようになったのさ」
備前先生はどんなもんだいと言わんばかりに自信満々に語る。
「備前先生すごいですね」
「ゲームが作れるなんて、天才だね」
喜三郎と洸はそんな彼を褒めてあげた。
「いやいやあ、それほどでもないよん。とりあえずC言語、C♯、C++、Javaを覚えて、DirectXやOpenGL、XNAなんかの使い方をマスターすれば、誰でも手軽に本格的な3Dゲームを創作出来るのだよん」
「? 聞いたことのない用語だらけでわたし、先生の言ってることがよく分かりません」
「俺も」
「そうだろうな、高等学校レベル以上の数学と物理の知識も必要だし、清瀬さんと藁谷くんには難し過ぎて理解は絶対無理だよん」
備前先生はにやけ顔で言い張った。
「今の発言さりげなくひどっ」
喜三郎は呆れ顔になった。
「わたし、独学してやるもん!」
洸はぷくーっとふくれる。
「まあまあ、C言語の基礎はもう少ししたら教えてあげるから楽しみにしててねーん」
「ビゼンヤキの作ったゲームって、どんなのか気になるーっ」
智穂は興味津々な様子で備前先生のお顔を見つめる。
「ふふふ、見たいかい? しょうがないなあ。見せてあげるよん」
備前先生はそう告げて、URLをキーボートで打ち込み、彼が製作したというホームページを開いた。
「ほほう、『備前ゼミナール【備ゼミ】』か。なかなかセンスのあるタイトル付けたね」
智穂は感心しながらページ内のリンクボタンをクリックしていく。
「代○ミのパクリですよね」
椛は笑顔で突っ込む。
「ありゃ? 算数パズルとか中心にまともな学習系ゲームばっかじゃん。意外や意外。ワタシがイメージしてたアレ系のとは全然ちゃうね」
「おいおい妹尾さん、イメージだけで想像するなよーん」
備前先生はにんまり微笑みながら、照れ隠しをするように頭を掻いた。さらに話を続ける。
「ワタクシはねえ、算数嫌いな子供達に、算数というのはとても面白いものなんだよってことをもっと教えてあげたいのさ。苦手な教科を勉強するというのは嫌なことだけど、ゲームという媒体を使えば親しみを持ってくれやすくなるだろ。子供達に算数を、ゲームで遊びながら楽しく学んでもらう。そうなってくれたら、ワタクシとしてもとても嬉しいのさ。ここで嫌いになっちゃった子は、中学高校に入ってますますついていけなくなるだろうからねん」
「あ、分かります。わたしも小学校の頃から算数大嫌いでしたし。数式とかグラフとか図形とか、見るだけで頭痛くなってきますよね」
洸はにこにこ笑いながら打ち明ける。
「じゃあなんで理数コースに来た、というか入れたのか摩訶不思議だな」
備前先生はくすっと笑う。彼はこのあともしばらく、自身が小学生の頃に遊んだゲームソフトの思い出話を四人に語ってあげた。その時の彼の表情は、おもちゃに夢中になっている幼い子供のように、とても生き生きとしていた。
七時限目は現代社会。進学校らしく、水曜日以外はこの時限まで授業がある。教科担任は男性。どこの学校にでもいそうな、没個性的な感じの先生であった。
終了は午後三時四十五分。
そのあと帰りのホームルームが行われる。
「皆さん、お待たせー」
貝原先生は商店街などの籤引きで使われる、回すと玉が出てくるアレを持って現れた。
「あっ、新井式廻轉抽籤器だ!」
クラスメートの一人が発言した。
「正式名称よく知ってるわね。さすが理数コース生。最初の担当箇所を決めますので、各班の誰か一人、回しに来て下さいね」
喜三郎の班は、洸が代表して行った。
「よーし、いくよ」
洸は精神を集中させ、ゆっくりとハンドルを回す。
ガラ、ガラ、ガラという音の後、カランッと音がした。
「やったーっ、金色だーっ!」
落ちてきた玉の色を眺めて、洸はキャアキャアはしゃぐ。
「一等賞おめでとう清瀬さん、金色は、トイレ掃除よ」
貝原先生は爽やかな笑顔で告げた。
「へ!?」
その瞬間、洸はきょとんとする。
「おい、洸」
喜三郎は悲しげな表情になった。
「キサブー、よかったね、初っ端から女子トイレ掃除で」
智穂はにこっと笑って、喜三郎の肩をポンッと叩く。
「よくないよ。またあんな場所入らなきゃいけねえのかよ」
喜三郎はがっくり肩を落とし、ため息混じりに言った。
「まあ遅かれ早かれいずれ回ってくるんじゃし。さあ、春休み中ほとんど掃除されてないけんけっこう汚れてるし、気合入れてやるじょ」
智穂は女子トイレに入ると、さっそく用具入れの扉を開けて中からホースを取り出す。そして手際よく水道管に繋いだ。
「妹尾さん、床掃除は俺がやるよ」
喜三郎は入口前の廊下から叫んだ。
「ダーメ! キサブーはこれで便器磨いてね。はいっ!」
「えーっ」
智穂はブラシを手渡してきた。喜三郎は嫌々受け取る。
「きっちり丁寧に磨くんよ」
智穂はそう告げて、喜三郎の額をピッと押す。
「しっ、仕方ねえ」
喜三郎が入口から一番近い側の個室へ向かおうとしたその時、
「あのう、すみません、今使っていいですか?」
入口付近で一人の女生徒が、もじもじしながら問いかけてきた。
「もちろんいいじょ」
智穂は快くオーケイする。
「あっ……男の子がいるのか……まあ、この子ならべつにいいや。それに、これ以上我慢できないし」
その子は喜三郎を一瞥してから、個室に入った。
(なんか俺、めちゃくちゃ悪いことしてるような……)
喜三郎はその場にいても立ってもいられず、トイレ外の廊下へ退避した。
それから約三分後、
「ありがとうございました」
女生徒は用を足し終え手を洗ったあと、智穂にぺこりと頭を下げて礼を言い、そそくさとトイレをあとにした。
「さて、お掃除始めるよ。キサブー、戻ってきて」
「わっ、分かった」
喜三郎は重い足取りで個室へと向かい、水を流してからブラシで便器を擦り始める。
「恥ずかしがらずにちゃんと便器の汚れ見て! 黄ばんでるとこ、もっと力入れて擦らないと落ちないじょ」
智穂から厳しく指摘される。
「そっ、そんなこと言ったってさ、なんか、ものすごい抵抗感が……」
喜三郎は目を閉じた。
「キサブー、そんなに恥ずかしがらなくても。○○○○○さんならきっと大喜びでやってくれるのにな」
智穂はため息をついた。
「わたし、その声優さん知ってる! ○○○○さんとコンビでパーソナリティしてるちょっとエッチなアニラジ、毎週聴いてるもん。ひょっとしてちほちゃんって、アニメ好き?」
洸は突然、大声で叫んだ。そして智穂に近寄り興味津々に尋ねる。
「うん、大好き。ワタシ、アニラジもよく聴くし、深夜アニメもいっぱい見てる。ア○メイトもよく利用してるじょ」
智穂は嬉しそうに答えた。
「へぇ。意外だね。ちほちゃんってなんか渋谷とか原宿歩いていそうな、いまどきの感じの子なのに」
「やっぱアニヲタっぽくは見えないかな?」
智穂は照れ笑いする。
「見えない、見えなーい」
「オタク趣味なのはかまわないけど、身なりだけはちゃんと綺麗にしなさいってママに言われてるけん。ヒカリンはいつ頃から深夜アニメ見始めたで?」
「中一の頃からかな。徹夜でテスト勉強してる時に、テレビ付けたらアニメやってて」
「ワタシときっかけそっくりじゃね。ワタシは小六の時、中学入試の勉強を徹夜でしてた時にね。ブルーレイとかCD買ってる?」
「滅多に買わないな、欲しいんだけどお母さんお小遣いほとんどくれないから」
「ほうか。ワタシもじょ。中高生にとっては高過ぎるよね」
洸と智穂は、趣味トークに実が入っていった。
それをよそに、喜三郎は黙々と清掃作業を続ける。椛も彼を手伝ってあげた。
それから五分ほど後。
「あの、妹尾さん。一応全個室の便器、磨き終えたよ」
まだ洸とおしゃべりを続けていた智穂に、喜三郎は伝える。
「おう、ほうか。すまんね、つい話に夢中になって」
智穂は一部屋ずつじっくり点検した。
「合格じゃ。でもこれ、ほとんどモミがやったんじゃろ?」
「そりゃあまあ……」
「智穂ちゃん、男の子にここをお掃除させるのはかわいそうよ」
椛は困惑顔で注意する。
「せっかく女子トイレへの抵抗感無くしてあげようと思ったのに。はいキサブー、次はこのサニタリーボックスの中にあるやつを、ポリ袋に移し変えてね」
智穂はその箱をひょいっと持ち上げた。そして喜三郎に手渡そうとしてくる。
「ええっ!?」
喜三郎は思わず仰け反った。
「キサブー、これくらいのことが出来んと、この学校でやっていくのは厳しいじょ。あっ、これ、さっきの子のやつじゃわ。多かったんじゃね今日は。大変そうじゃ」
智穂は蓋をパカリと開けて、中をじっくり覗き込む。
「……おっ、おい。見てやるなよそんなの。プライバシーの侵害だろう」
喜三郎は頬を赤くさせながら智穂に注意する。
「キサブーも見たい?」
「……」
「この学校の子って、それ、直に捨ててるの? 見えないように包んで捨てた方がいいのに」
洸は顔を赤らめながら叫んだ。
「ワタシもそうしてるじょ」
智穂はさらっと言う。
「わたしは、ちょっと恥ずかしくて出来ないなあ」
「私はそれ、まだ来てないけど、絶対見られたくないよ」
椛は俯き加減でコメントする。
「ちほちゃん、その作業きさぶろうくんにやらせようって正気なの? わたしがやるよ」
洸は慌てて智穂の持っていたサニタリーボックスを奪い取った。
「あーんヒカリン、キサブーがどんな仕草をとるか見たかったのにぃ」
智穂は唇を尖らせる。
「ちほちゃったら」
洸はテキパキと、各個室にあるサニタリーボックスをひっくり返し、中身をポリ袋に移し変えていった。
これにて、女子トイレ掃除は一段落付く。
(先が思いやられる……)
喜三郎は、トイレ掃除はもう懲り懲りといった様子だった。
「キサブー、ヒカリン。今日からは部活動見学会が始まるじょ」
「パンフレットだけでは分からない部分もあると思いますので、ご覧になられるといいですよ」
「もちろん見に行ってみるよ」
「俺も、入る気はないけど一応」
「ほなワタシ、学食で待ってるけん」
「ゴミも私が捨てて来ます」
智穂と椛はそう告げて、この場をあとにする。
喜三郎と洸は、文芸部から見学してみることにした。活動場所は、情報の授業時に利用したコンピュータルームだった。パソコン部と交代で利用しているとのこと。
足を踏み入れると、画面に向かってキーボードを一生懸命打ち込んでいる部員達の姿が目に飛び込んできた。部員は、三〇人くらいいるようだ。
「あっ、いらっしゃい。私が部長です。どうぞごゆっくり見て行って下さいね」
部長さんはすぐに声をかけて来た。黒髪おかっぱ頭でメガネを掛け、いかにも文芸部員っぽかった。
「どういう活動をしているんですか?」
洸は興味津々に尋ねる。
「部員のみんなで力を合わせて小説を執筆し、ラノベ系の新人賞へ投稿しています。つい先週、電○に投稿し終えたばかりでして、今は5月末締切りの講○社ラノベ文庫新人賞に向けて新作を構想中なの」
「なんか敷居高そう。わたし、小説なんて一度も書いたことないよ」
「初心者でも大歓迎ですよ。うちの部では新作に取り組む前、いつもミーティングを開いてみんなで意見を出し合ってるの」
「前々作は残念ながら失敗に終わったぜ。最近はのん○んびよりとかご○うさとかきん○ザみたいな感じの作品が流行ってるみたいじゃけぇ、そういう系の作品執筆してみようぜってことになったんじゃ。とりあえず女の子キャラを四人作って、起承転結も無く何気ない日常がだらだらと続くだけのやつ執筆してG○に投稿してみたんじゃけど、見事一次落ちにされちまったぜ」
他の部員の子が言う。
「その作品について選評シートもいただきまして、女子高生達の日常シーンは上手く書けていると褒められてはいるのですが……」
部長さんは照れ笑いしながら、喜三郎にその用紙を手渡した。
「ほのぼのとした学園生活、日常描写はそれなりに楽しいですが、それが同じペースでずっと続くとさすがに辛くなってきます……か。そりゃそうだよな。そういうのはマンガやアニメでイラスト付きで見るのが面白いのであって、文章で長々と読まされるのはきついと俺は思う」
喜三郎は書かれていた総評を眺め、淡々とコメントする。
「そんなもんかいな? じゃけど、そういう系のアニメ作って大ヒット飛ばしてる、京○ニが主催してる小説賞にも同じようなやつ投稿して、あっさり一次落ちしたのは納得いかねえぜ」
「担当編集者のように的確なコメント、ありがとうございます。あの、男の方、今度出す作品の主人公モデルになってくれませんか? お連れの方もヒロイン役として。大賞を取ったら賞金半分以上差し上げますから」
部長さんは爽やかな表情でお願いしてくる。
「変に扱わないなら、べつにかまわないけど」
「わたしでいいの? 喜んで引き受けるよ」
洸の目はきらきら輝いていた。
「ありがとうございます」
部長さんはぺこりとお辞儀しながら礼を言う。
「どれどれ……うーん、男の子の方、今度出すとこの主人公にはそぐわないかな。中性的な顔立ちで熱さが全然感じられないし。熱い主人公が欲しいみたいだぜ」
部員の子は喜三郎のお顔をまじまじ眺めながら呟いた。
「きさぶろうくんは、基礎体温は熱いよ」
洸はその子に伝えた。
「そういう熱さじゃ、ないと思うんだけど……」
喜三郎はすかさず突っ込む。
「あっ、ほんまじゃ」
部員の子は喜三郎のおでこにぴたっと手の平を当ててきた。
「ぅわっ」
喜三郎はびくっと反応する。彼の体温はさらにヒートアップした。
「主人公の設定①、基礎体温が熱い。あっ、日本語おかしいですね、高いに修正」
部長さんは熱心にメモをとっていた。
「体温高いだけじゃ落第点じゃな。ねえきみ、ブ○リーみたいな厳つい表情してみてよ。熱い男らしさが出るかもしれねえぜ」
部員の子は喜三郎に要求してくる。
「誰だよ、そいつ。洸、もう行こうぜ」
喜三郎は洸の制服の袖をぐいっと引っ張った。
「ヒロインに甘える主人公の姿、いい構図です」
次の瞬間、部長さんはデジカメのシャッターを押した。
「おーい、撮らないでくれよ」
喜三郎は少し機嫌を悪くした。
「まあいいじゃない、きさぶろうくん。それじゃ文芸部員さん、またどこかで」
洸は部員達に向かって手を振る。
「ご協力、ありがとうございました」
部長さんから再度礼を言われ、二人は部室をあとにした。
続いて訪れたのは料理部の活動場所、調理実習室だ。
「クラブ見学しに来て下さった皆様には、岡山県の名産品を振舞っております。どうぞこちらへ」
料理部部長さんは二人をテーブル席へ手招いた。
「岡山名物といえばドミカツ丼やママカリ、えびめし、黍団子を思い浮かべる人が多いと思うのですが、他にも隠された名物料理がございますよ」
そう伝えられ、喜三郎と洸は期待しながら待つ。
「お待たせしましたぁ。日生名物〝かきふらいソフト〟でーす」
約五分後、部員の子がそのメニューを二人分、そっと置いていった。
「うわっ、なんつう奇怪な組み合わせ」
喜三郎は思わず仰け反った。
真っ白なソフトクリームに、黄金色の衣がついたカキフライが数個突き刺さっているのだ。さらに醤油までかかっていた。
「美味しそうだーっ」
洸は顔を近づけコーンに手を伸ばし、躊躇なく齧り付いた。
「ほんとに美味しいね。きさぶろうくんも食べなよ」
洸は美味しそうに頬張りながら強く勧めてくる。
「いっ、いいって」
喜三郎は自分の分も洸に手渡した。
「ほんとにいらないの? 勿体ないなあ」
洸はそれもぺろりと平らげ、満足げに調理実習室をあとにした。
二人は他にも吹奏楽部や化学部、うらじゃ同好会、漫画研究会、茶道部、園芸部など十個くらい見学していく。
「ねえ、きさぶろうくん。相撲部も見学してみない?」
「女で相撲かあ。気は進まないけど、怖いもの見たさで」
「きさぶろうくん、言っとくけど女相撲は上半身裸にマワシ一枚姿じゃないよ。期待したらダメよ」
洸はにこにこ顔で言い、喜三郎の頬っぺたをピッと押した。
「そんなこと知ってるって」
体育館校舎一階にある相撲部の部室に足を踏み入れると、すぐさま土俵が目に飛び込んできた。その奥にある畳部屋に、部員達の姿があった。みんな制服姿だった。
「おおおおお! あなたが、本校始まって以来初の男子生徒、藁谷喜三郎関っすね。あっし、部長の〝豚鼻山〟っす。高等部三年生っす。よろしくっす。きみ、第五代横綱小野川さんと下の名前同じなんすね。ぜひ入ってほしいっす!」
ぽっちゃり系、お顔は案外かわいい相撲部部長さんは可愛らしい声を上げながら、喜三郎に近寄ってきた。
「いや、やめておくよ、俺、相撲には一切興味ないし。ていうか関って……」
喜三郎は手を振りかざし、拒否の素振りを示す。
「そう言わずに。高級スイーツタダでぼっけぇぎょうさん食べ放題なんすよ」
部長さんは顔を近づけて、ますます強く勧誘してくる。
「わたし、相撲部に入ろうかなあ」
スイーツという言葉に反応し、洸の目はきらきら輝く。
「やめとけって。部長さん、どうせそんな甘い誘惑して厳しくしごくつもりなんだろ?」
「そんなこと全然ないっすよ」
部長さんは真顔で答える。
「あたし、副部長の〝ピヨ奨菊〟でーす。高等部二年生です。がぶり寄りが得意っす。ヒヨコみたいな歩き方だねって皆からよく言われるので、この四股名にしましたー」
副部長さんも近寄って来た。
「この子は万年大関級の実力を持っているっす。他の部員も紹介するっすね。一番左側にいる子が部員で一番スレンダーな〝華奢青龍〟っす」
「こっ、こんにちは」
その子は二人に向かってぺこりとお辞儀した。相撲を取るとは思えないような小柄さだった。椛よりも背が低いように思われた。中学部三年生とのこと。
「そのお隣が部員一の巨乳、〝きょにゅしき〟っす。なんとFカップなんすよ」
「グッイーブニン、あんまりエッチな目で見ないでね♪」
その子は喜三郎に向けてウィンクしかけてくる。高等部二年生、イギリス人留学生とのこと。
「そのお隣がパフェの大好きな〝パフェボノ〟っすよ」
「ごっちゃんです!」
その子は今まさにチョコレートパフェを美味しそうに頬張っていた。口の周りにべっとり付けて無邪気な表情で挨拶する。中学部二年生とのこと。
「……四股名の基にされたご本人達が聞いたら、訴えられかねんぞ」
喜三郎は苦い表情で呟く。
「みんなユニークな四股名だねえ」
洸はにこにこ笑っていた。
「藁谷喜三郎関にはぜひとも入部していただきたいっす。今、男子部員は幽霊部員一人しかいないっすから」
「いるのかよ!?」
喜三郎は少しびっくりする。
「ほら、あそこっす」
部長さんは壁の上の方を指差した。
「力士の写真?」
喜三郎はそこに目を向ける。白黒写真が額に飾られていた。
「あの写真に写っておられるお方は、わが街岡山市出身の第三一代横綱、常ノ花寛市さんっす。大正時代から昭和初期にかけて大活躍した偉大なお方なんすよ」
「故人かよ。本当に幽霊じゃねえか。それより、相撲取ってるとこ見せてくれないかな」
喜三郎は話題を切り替えようとした。
「これが活動のメインっすよ」
「えっ! 肝心の稽古は?」
「我が相撲部では、稽古してる時間よりもお茶してる時間の方が遥かに長い部なんすよ。我々はゆるゆる活動しているっす。試合があるってわけでもないっすし」
「お相撲さんは、食べることが仕事ですからね」
部長さんと副部長さんはにこにこ笑いながら堂々と言い張る。
(……バイキング部に名前変えたらどうだ)
喜三郎は頭を抱えた。
「藁谷喜三郎関、お連れの方も、ぜひとも入部というか入門、お願いします!」
部長さんは強く勧誘してくる。
「スイーツ食べ放題よ」
副部長さんは、喜三郎と洸の制服の袖を引っ張り引き止めてくる。
「断る!」
喜三郎はきっぱりと言った。
「わたし、入門するかも。すごく楽しそう」
洸は興味深そうに、お食事タイムを楽しんでいる部員達を観察する。
「やめとけって。太っちゃうよ」
「……よく考えればそうだね、やっぱやーめた」
喜三郎からの助言を聞いて、洸はすぐに気が変わった。二人はくるりと振り向き、タタタッと部室をあとにした。
「まっ、待ってほしいっす。部員少なくて廃部の危機なんすよ。野球賭博も八百長もしない健全な部っすよぉーっ」
部長さんは追いかけてきた。
「きさぶろうくん、あの人まだ勧誘してくるよ」
「しつこいなあ」
二人は駆け足で体育館校舎を飛び出し、向かいにある高等部校舎へ入った。そして二階へと駆け上がる。
「あれ? もう追ってこないわね」
「諦めてくれたみたいだな」
階段の途中で後ろを振り返った。
「ハァハァ、足早いっすね。あの人達」
同刻、部長さんは体育館校舎出入り口付近で息を切らしていた。部室からわずか三十メートルほど走っただけであったのだ。
ともあれ喜三郎と洸は、智穂と椛の待つ学生食堂へ。
「あっ、なんかすごく美味しそう」
「豪華なパフェだね」
洸と喜三郎は、二人の食べていたメニューを興味深そうに眺める。
「これは東桃学食名物、バラエティフルーツパフェなんじょ」
グラスに詰められたアイスクリームの上に白玉、チョコレート、バナナ、チェリー、いちご、桃、マスカット、メロンなどがトッピングされていた。
「これでも税込三五〇円なの。お二人も食べますか?」
「……食べたいのは山々なんだけどね、わたし、今日はもうお腹いっぱい」
洸はお腹をさすりながら、悲しげな表情を浮かべた。
「洸は料理部の試食でいっぱい食べてたからな」
喜三郎はくすくす笑う。
「クラブ見学は、どうでしたか?」
「何か入る気になったで?」
椛と智穂は尋ねてみる。
「うーん、ますます迷っちゃったよ」
「俺、帰宅部でいいや。どれも入る気にまではなれなかった」
「ほうか。ワタシやモミ含めて帰宅部の子も多いけん、それもありじょ」
「ねえ、明日のお昼は、学食で食べない?」
洸は提案してみる。
「ほうじゃね」
「もちろんいいですよ」
「俺も。食堂で食べてみたかったし」
三人とも快く賛成した。
学生食堂すぐ隣には、購買部が併設されている。書籍や文具類、お菓子、お弁当、日用品のほか学内オリジナルグッズも売られており、コンビニエンスストアのような役割を果たしていた。
食堂をあとにした四人は、そこへ立ち寄る。
「東大京大の過去問や大学への数学、ニュー○ンとか日経サイ○ンスとかの科学雑誌、冊数かなり揃えてるな」
「さすが超進学校ね。でもラノベやマンガもけっこう置いてあるわね」
「売れ行きはマンガ・ラノベの方が遥かにいいみたいなの」
智穂以外の三人は、書籍コーナーを楽しそうに物色する。
「キサブー、これ、レジで支払ってきて」
そこへ智穂が割り込んできた。
「――じょっ、冗談じゃねえぞ、こんなもの」
喜三郎は智穂から手渡されたものを反射的に突き返した。それは、思春期を迎えた女の子が月一回のペースでやって来るあの生理現象を補助するアイテムだった。
「そう来ると思ったじょ」
智穂はくすくす笑う。
「智穂ちゃん、からかっちゃダメよ」
「あいたーっ」
椛は商品棚に置かれてあった分厚い漢和辞典を手に取り、智穂の頭をゴチッと叩いておいた。
「ちほちゃん、またきさぶろうくんに変なことさせようとしてたでしょ」
洸は智穂の髪の毛を思いっきり引っ張る。
「いったーい」
「洸、俺は気にしてないからもうそのくらいにしてあげて。あっ、あそこ、アインシュタインの絵が描かれてるTシャツが置いてる。他にもマグカップとか顔を模ったクッキーとかも売られてるし」
「わたしもこの面白顔のお爺ちゃん知ってる」
四人はその商品のコーナーへ歩み寄った。
「アインシュタイン・フェアはしょっちゅうやってるんじょ。ワタシもやつのグッズはいくつか持ってる。ステッカーとかねんどろいどとか」
「不思議な魅力があるよね、このお方」
智穂と椛は商品棚を嬉しそうに眺める。
「あれ? そういえばアインさんって、頭に釘がグサッて刺さってなかったっけ?」
「洸、それはフランケンシュタインだろ」
喜三郎はツッコミを入れた。
「あっ、そうか。アインさんは舌をペロリンって出してるやつ、すごくかわいいよね。ペ○ちゃんみたい。きっとアインさんもお菓子が大好きだったんだろうな」
洸はそのTシャツを手に取り、うっとり眺める。
「でも夜中に目が光ると怖いかも。どうしようかなあ」
数十秒考えた挙句、そのTシャツを購入することに決めた。意気揚々とレジへ持っていく。
「洸も変わったもん好きだよな」
喜三郎は少し呆れ気味だった。
「一五九円です」
と、店員さんは申す。
「わー、ほんとに安い。値札の通りだ。0を一つ付け忘れてるんじゃないかって思ってたよ。これ、お部屋の壁に飾ろう」
会計を済ませ、洸はご満悦だ。
購買部ではその他にもナポレオンやバッハ、豊臣秀吉や坂本龍馬などなど、歴史上の偉人グッズが多数販売されていて、生徒達にかなり売れているらしい。
(奇妙なグッズにされた当の本人は草葉の陰でどう思ってるのか私、ちょっとだけ気になるな)
椛はにんまり微笑みながら、商品棚を眺めていた。
校内の施設をいろいろ見回っていくうちに、時刻は午後六時を回っていた。
残っている生徒は下校するように促す校内放送が流れ始める。今の時期は、最終下校時刻は午後六時半だ。
「さあ帰ろう」
洸は正門の方へ足を向ける。
「あっ、ちょっと待って。もうすぐ面白いものが見られるから」
椛はそう呼びかけ、三人を体育館へ繋がる二階渡り廊下へ案内した。
「あそこを見て」
小声でそう告げ、手で指し示す。
「ん? あれは、ビゼンヤキでないで?」
「あ、ほんとだ。なんかきょろきょろしてる」
「言ったら悪いけど、全然知らない人が見たら不審者に思われちゃうかも」
洸はにっこり微笑んだ。
その場所から三十メートルほど離れた裏門の所に、備前先生が立っておられるのが見えた。
それからほどなくして、そこに自動車が止まる。そして中から、女の人が降りて来た。
「うわあ、すごい高級外車だ、長っ。ひょっとして備前先生の彼女? いや、違うかな。七十歳くらいだし。もしかして、あいつの母さんとか?」
「大当たりよ喜三郎くん、備前先生は、毎日お母様に送り迎えしてもらってるみたいなの。先週の金曜日、忘れ物取りに学校へ戻った時偶然見ちゃった。このことはみんなにはナイショにしといてねって言われたけど。どうしても教えたくて」
椛はにこにこ顔で話した。
「ほんとかよ?」
喜三郎はきょとんとする。
「あらまあ、ビゼンヤキったら、かわいい一面あるね。ワタシも今まで知らんかったじょ」
智穂はくすくす笑い出した。
「いいなあ、お母さんが毎日迎えに来てくれるなんて」
洸は羨ましそうに、ママに手を引かれお車に乗せられる備前先生を眺める。
「そうかな? 俺は絶対に嫌だ」
「なんといっても備前先生は倉敷のお住まいだからね。二百坪の大邸宅に住んでるってお母様は自慢されてたの」
「そりゃすごいな。俺達と住む世界が違いすぎる」
「やっぱそうじゃったか。名前からしてお坊ちゃんっぽいけん」
「ってことは、メイドさんとか執事さんとかいるのかなあ?」
かくして三人も、備前先生の知られたくない恥ずかしい秘密を知ってしまったのであった。
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