第一章06『吹雪の中の決戦』
その日は猛吹雪だった。視界はほとんど白しかなく、数メートル先の人の顔など見えないほどの雪の弾幕。その中でその巨大な象に似た生物は片方だけの目で辺りを見渡していた。
──まだ見つからない。この目を潰した、あの小僧が。
雪原の王とも言えるその生物が、これほどの傷を負うことは稀であった。おまけに隻眼のそれはマンモスの中でも首長といった存在。誇りがないわけはない。
──どこだ、あの小僧は。
あの日からずっと探していた。その片方の目に明確な恨みを持って。人以外の生物が感情を持つか、などと野暮な議論はするまでもないだろう。隻眼は怒っていたのだ。あの男に対して。
血眼になって探す。が、生憎今日は猛吹雪だ。この広大な白の大地でちっぽけな小僧を探すには視界が悪い。諦めて引き返すか、そう思ったその時──
──視界の端に、黒い奇妙な布をまとった、そいつが現れた。
「……付いてこいよ」
そうして彼は、にやりと笑ったのだった。
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あの巨大なマンモスを、翔とフィーリニだけで倒す。そのためには、まず翔の知恵をフル動員する必要があった。生来翔は運動能力にも、対人能力にも恵まれていないが物覚えだけは一級品であった。加えて一人でいることの多かった十六年間だ。彼の頭には、少なからず人類が編み出してきた、戦い方の知恵が眠っている。
そしてその中で、人類が巨大な敵に立ち向かう時、有効とされる策は「追い込み」である。自らの有利な局面、場所、etcに「追い込み」、数の力でねじ伏せる。この場合この白銀世界には翔とフィーリニの二人のみで敵を追い詰めるため、それ以上に追い込む必要がある。
だからそのために挑発要員の翔だ。フィーリニも立候補はしたが、この役回りは彼の方がいいのだ。
「……付いてこいよ」
だから勇気を振り絞って、その一言を言い放った。
そしてその効果は絶大のようだった。眼前のマンモスの足がこちらに動く。
「……って」
翔はすぐに違和感に気付いた。走り出さなければまずい。まさか、まさか──
「……象って、走るの遅いもんじゃないの……?」
少なくとも今こちらに向かってくるそのマンモスは、乗用車並みのスピードは出ている。遅いというのは野生での話だ。人間が自然界の中で足の早いほうだという認識は誤っている。
「……やべぇな……これ」
加えて降り積もった雪によって足場は悪い。あの吹雪の中マンモスに見つかるために超接近したのだ。元々余裕などほとんどない。その状態で乗用車に追われるようなものだ。決死、命をかけて走る他にない。
翔の役割は挑発、そして目的のポイントにマンモスをおびき寄せることだった。そのためいつまでもマンモスから逃げなければいけない訳では無い。しかしマンモスを誘導し終わるまでに翔がマンモスに追い付かれたら、それで終わりだ。
「あああああ!」
何度かその鼻に捕まりそうになりながらも全力で脚を回し、何とか逃げ切る。翔は何としてもこのマンモスを誘導しなければいけない。足が重く、身体は寒さに震えながらも走り続けた。
こんなことならしっかり体力をつけておくんだった、と翔は後悔していた。小学校、中学校、高校と時間はあったはずだ。それをしなかったのは紛れもなく、翔の怠惰。非常時に体力や筋力が役立つことを、非常時になってから再認識した。是非とも次の異世界召喚があるならば、その時までには体を鍛えておこうか、そんなことを思いながら。
しばらくするとそんなことを考えている暇もなくなった。マンモスがスピードを上げたのだ。一方翔はどんどんと疲労が溜まっていき走るスピードは落ちる一方。鬼ごっこのような追いかけっこでは、逃げるルートを自分で決めることの出来る追いかけられる側の方が少し有利ではあるかもしれない。しかしそれも、圧倒的な早さ、持久力の前では小手先の技術以上の効果を発揮しない。
体が熱い。なのに肺は嘘みたいに冷えていた。外気が冷えているのだから当然だ。その冷たさが運動の熱量を取り去ってくれるなどと期待していたが外れたようだ。ただ体が熱く、肺が痛い。肺の中の空気を吐き切り、それでも走り、限界まで、限界を超えても走った。翔の体力や足の速さを鑑みれば、それは驚異的であったと言えるだろう。
しかし翔は体力に自信がある方ではない。運動など進んですることなどなかったのだから。どれだけ足掻いても、彼我の実力差はそう埋まらない。十分も経たないうちに、翔はマンモスに追い付かれていた。
目の前にはその大きな牙。そしてその奥に、翔自身が潰した片目。そしてその長い鼻が、翔の体に伸びてくる。薙ぎ払われるか、捕まり振り回されるか。どちらにしても、翔に未来はない。
「……まさに絶体絶命、ってか」
翔は呟く。現に目の前のマンモスは勝ち誇った様に口角を上げている。この光景を見れば、誰もが翔の敗北を認めるだろう。
「……一人だったら、な」
しかし翔は焦っていなかった。彼はきちんと役目を果たしたからだ。翔は体力が底を尽きたから立ち止まった。しかし翔が誘導に失敗したとは言っていない。翔が力尽きた場所であると同時に、そこは誘導の目的の場所であった。
「フィル!」
合図をした。その瞬間、彼はマンモスの身体の下に滑り込む。
それはある意味自殺行為でもあった。今隻眼のそれが脚を崩し体を地に付けたなら、翔は容易に押し潰されてしまうだろう。その危険を知りながらもその作戦を決行したのは、少しの神頼みと、大きな相棒への信頼であった。
翔が合図したその瞬間、近くの岩場に隠れていたフィーリニが助走をつけ、そして跳んだ。翔が作戦を練ったあの日からフィーリニに教えてきた「技」。飛び蹴りである。
「フィル! いっけぇぇぇぇ!」
翔の叫びに呼応するようにフィーリニの蹴りがマンモスの腹に炸裂する。しかしそれは、その巨体のバランスを少し崩すだけであった。
「……けど、それでいいんだよ」
マンモスの巨体がバランスを崩す。そしてそれを支えようとした足が、空を切る。
「……同情じゃねーが、この罠に関しては気付けなくても仕方ないと思うぜ」
マンモスの体が傾いていく。その巨体を預けるための地面が、そこに無い。
「……俺も、気付けなかったしな」
そこにあったのは、高さ十メートルはあろうかという崖。それは紛れもなく、彼がこの世界に来たその初日に落ちた崖であった。
翔にとって半ばトラウマでもあるその崖が、マンモスを追い詰めるための罠。自ら落とし穴などを掘る必要は無い。自然のままを、利用してしまえば相手を崩せる。
衝撃と爆音がその場に轟いた。見ると遥か目下で、マンモスが痛々しそうに横たわっていた。翔が以前落下した時は下に雪があったためクッションになったが、それを翔は事前にどけておいた。ダメージは少なからず届いたはずだし、そもそもまだ翔の作戦は終わらない。
「フィル!」
その指示に呼応し、獣の少女は崖を飛び降りる。先程言っていたように、マンモスの落下地点の雪はどかした。その雪を一箇所に集めておいたのだ。そこを目指して飛び降りれば、こちらのダメージはほぼない。
追い込み、相手を落としたあとは追撃だ。落下のダメージも、以前の戦闘の傷もそう軽くはない。しかしあの巨体だ。それだけで倒れるとは思えない。
「……だから追撃の手を緩めない」
とはいえこの猛吹雪だ。マンモスがない足場に気付かないという面ではそれは翔達の味方をするが、同時にただの人間である翔の活動時間を制限するものでもあった。だから早くに終わらせないといけない。追い込みの後は畳み掛け。そのためにフィーリニには知恵をさずけておいた。
「……だから、俺は最後の一手を打つ準備をするだけだ」
翔は走り出した。崖の下へではない。ある目印を目指して、だ。そこにはあのマンモスを下すためのトドメとなる「武器」があった。フィーリニの突進は時間稼ぎ。戦いの勝敗は、翔にかかっている。
走りながらも、吹雪は尚も強さを増していく。あのマンモスを崖に落とすために、視界の悪い吹雪の日を決行日に選んだのだから仕方が無いのだが。それでも初日と同等、それ以上の強さの吹雪は、翔の心をへし折ろうとしているようだった。
「……はぁ、はぁ。」
息を切らしながらも走る。吹雪を恨みながらも、それに感謝して。もしそれが無かったなら、あのマンモスは恐らく容易に断崖絶壁に近付いたりなどしなかった。あの崖に気付かれないことはこの作戦の核とも言える。それを果たしたのはこの吹雪のおかげ。しかし同時に、今度はそれが翔に牙を剥く。良くも悪くも猛吹雪は戦況に大きな影響を与えるのだ。敵にも、味方にも。
その吹雪に負けず暫く走った。視界がほぼ白に染まっているこの状況で、目的の場所になど向かえるのか。視界は頼りにならない。翔は幾度と無く通った道、その記憶を頼りに進んでいく。
走り続け、息も切れ、そんな苦しい中でも走り、体力を限界まで使い果たしたその時、翔はやっと目的の地点に到着した。
そこには針葉樹の丸太がレールのように敷かれていた。何も知らないものがそれを見たら、何なのだ、と怪訝に思うだろう。それを並べたのは翔達であった。何も知らないものがそれを見たら、何をそんな馬鹿なことを、と笑うかもしれない。
──だがそれは、翔にとっては紛れもなく、勝利への道であった。
「……さて、フィルが時間を稼いでいてくれているうちに、俺は俺の仕事をしないとな」
そうして翔は、最後の一手の準備を始めた。
その一方、勢い良く崖を飛び降りたフィーリニは、マンモスと対峙していた。相手は既にフィーリニの存在に気付いている。正面から突っ込んでいけば、以前のようにあの長い鼻に捕えられてしまうのは目に見えている。普通に考えれば急がば回れ、迂回して近付いた方が得策であろう。
しかしその状況で、フィーリニは、正面からマンモスに走っていった。元よりあの長い鼻ではどこから攻めても反撃を食らうのは確実だ。ならばヒットアンドアウェイ。打っては離れ、打っては離れを繰り返すのが定石だ。
翔はフィーリニに一つ頼み事をしていた。マンモスを倒すための最後の準備をするために、時間稼ぎをしてくれ、と。ならばそれをするまでだ。相手が倒れている今、機動力はこちらの方が圧倒的に上なのだ。
彼女は鼻の下を潜り抜ける。そしてフィーリニは、その爪を立て、マンモスの腹に一撃を加える。
すぐに鼻がこちらに伸びてくる。だから離れる。相手に猛打を叩き込めないことはフィーリニにとって歯がゆかったが、勝つため、と翔に念押しされたのならば仕方が無い。
フィーリニのヒットアンドアウェイは一見マンモスを追い詰めているように見えた。だが、このまま相手を力尽きさせることは不可能であろう。マンモスのタフネスは二人はよく知っている。このままではジリ貧なのだ。最後の一手、あのマンモスの止めにはフィーリニの力は少し足りない。
幾度となく当て、逃げを繰り返す。獣のようであるとはいえフィーリニも少女である。体力は無尽蔵ではない。いよいよ大地を駆けるその力も弱まり、フィーリニの体力が底をつき始める。
その時、遥か頭上、崖の上で、翔がにやりと笑った。
「フィル!!」
その一声は合図であった。彼女は瞬時にマンモスから距離を取る。戦いを諦めたからではない。勝利を確信したからである。
翔は最後の力を振り絞り、そのものを落下させた。マンモスの目に、それは自らを貫く弾丸のように見えた。
それは大きな岩であった。怪力のフィーリニでも押すのがやっとの岩石。それを崖上まで翔が運ぶことが出来たのには、訳があった。
道のように並べた丸太。その上に岩を載せて転がしたのだ。昔ピラミッドを建設する時に使われたとか実は使われていなかったとか聞く方法だが、今使える戦術であることには変わりない。
この岩を洞穴横から崖上まで運んだのは紛れもなく翔のその知恵によるものだろう。ならばその知識でもう一つ。物体の位置エネルギーとは、どのように定まるものであっただろうか。
「……質量、重力加速度、高さの積だ。勉強になったな、マンモスくん」
この世界の重力加速度が正確にどれくらいであるかは分からない。だがしかし、この世界に来てから、体が特に軽くなったやら重くなったやらという感覚はない。それほどかけ離れた値でないことは確かだ。
ならば。膨大な質量を持ったその岩が、あの高さから落下した場合、それが直撃した場合──
「ふぉぉぉぉぉぉ!」
隻眼のマンモスは吠えた。しかしその祈りは届かない。その岩は翔の予想した軌道を通り、轟音とともにマンモスの腹を容赦なく潰した。
その衝撃は崖下にいたフィーリニも感じていた。マンモスの足止め役にフィーリニでなく翔を起用していたら、岩を避けることが出来ずにマンモスとともにお陀仏ということも考えられた。その面でも、このキャスティングは最もだった。
衝撃と共に巻き上がった雪煙がようやく晴れた頃には、そこに横たわるマンモスに生気は感じられなかった。その雄大な牙の片方は半ばの辺りで折れ、その腹からは鮮やかな色の内蔵が覗いている。
もう、マンモスの叫びは聞こえない。その場には風のつんざく音と、荒い翔とフィーリニの息の音だけが残っていた。翔は技術を、知恵を使ったとはいえこの極寒の環境であの重い岩を運んだのだ。フィーリニに至ってはその環境下でマンモスとの戦闘を十分ほど続けていた。互いに疲労困憊。フィーリニの身体にはいくつか怪我も見られる。賢く勝ちに行く、などと言っておいてなんとカッコ悪い有様であろうか。
──しかし、紛れもなく目の前の巨象は、力尽きている。それはつまり、
「……俺たちの、勝ちだ」
誰が見ている訳もない、誰が知る訳もない、そんな誰にも知られない、猛吹雪の中の決戦は、そうして幕を閉じた。
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