第36話 本編 最終話
スタンドプレーの代償は、瀬川さん渾身の平手打ちだった。
ゆーちゃんにも怒られて、織田先輩には呆れられて、所長は誰よりも青い顔をしていた。瀬川さんは僕が目覚めてからずっと泣いていたし、それだけ僕のことを心配してくれていたのだろう。目覚めた直後の強烈なビンタのおかげで、僕も正気を取り戻したわけだし。
あと、見舞いに来た祖父母は困ったような顔をしていた。僕とゆーちゃん、どちらに比重を傾けて接するかを迷っているようだった。まぁ、無理もない。ゆーちゃんと僕は戸籍上、何の血縁もないことになっているのだし、彼女は自分の境遇を知らないのだろう。説明したところで信じてくれるか分からないし、まだ隠しておいた方が毎日を平和に過ごすことが出来るだろう。
瀬川さんを先輩と所長が外へ連れ出し、ゆーちゃんに紙パックのジュースを買いに行ってもらっている間に、祖父母と今後のことを相談した。二人が僕の決断に納得して静かに病室を出て行くのと入れ替わりに、瀬川さんが入ってきた。先輩と所長は残っている仕事を片付けるために、あの日はそのまま帰ってしまった。
僕が寝そべるベッドにそっと腰かけた彼女は、こんなことを聞いてきた。
「悠一君、どうしてこんなことをしたの?」
答えは、至極単純に。
「偶然にも彼を見つけたから、身体が自然に動いちゃって」
この後、目の赤い瀬川さんに怒られて心底震えたのは言うまでもない。
とまぁ、それが入院三日目の話だ。
出血量が多かったせいで、数日は入院する羽目になるそうだ。普段から不摂生な生活をしていたし、健康な生活には相応しくない嗜好品を好んで摂取していたせいで身体は誰が診断しても不健康と判定されるほどニガタついていた。これを機会に生活習慣を改めろよと、織田先輩には嫌味な笑顔を向けられてしまったくらいに。
閑話休題。
瀬川さん思い切り頬を叩かれてから、今日で一週間。
いつの間にか社会は平穏な流れを取り戻していて、街に流れていた誘拐犯に関する根拠のない憶測も消えてしまったようだ。すべてが、何事もなかったかのように変化していく。
ゆーちゃんは高校へ、先輩や所長は今日も仕事に繰り出している。みんな、元の生活に戻ったみたいだ。ゆーちゃんが弟の逮捕に関して騒がなかったのは印象深いけれど、彼女の性格を考えれば当然ともいえる。彼女は、誰かが悲しんでいないと悲しむことが出来ないのだ。そしてその悲哀の表情が美しいことを、僕は知っている。
きっと、もう一人のゆーくんも。
「ふぅ」
そういえば看護婦さんから、明日か明後日には退院に向けたリハビリが始まるという話を聞いた。まだギプスは取れないけれど、そのうち自由になるし不安がることもないだろう。真っ白なシーツで三食完備、睡眠時間や運動時間まで管理されているから、自宅で引きこもっているよりも健康体になっていくというものだ。
本音を漏らせば、もう少し長居してもいいかなと思っていたり。
だけど深夜に散歩が出来ない辺り、暇でしょうがない。ゆーちゃんが持ってくる小説と、本当に存在するのかも怪しい有給を消費することで病室に居座り続ける瀬川さんが僕の救いだった。
今も隣には、瀬川さんが座っている。
そして、せっせと林檎を剥いていた。
……ゆーちゃんより、断然に包丁の使い方が上手い人だ。
「それにしても雄馬くん、どうしてあんなことをしたのかな」
「犬猫の話ですか」
「それもあるけど、君を一人で呼び出したことよ」
「……バレてましたか」
彼女は答えず、代わりに切り分けた林檎を僕の口へと押し込んできた。
しゃくしゃくと歯ごたえのいいそれを飲み込んで、僕は言い訳をすることにした。
「分かりませんよ、当事者じゃないし」
「本当?」
「本当ですとも」
「……悠一君を始めてみたときもびっくりしたけど……すごく、似ているじゃない。何か事情があるんじゃないの」
「さぁ、関係ないんじゃないですかね? 顔が似ているのも、遠い祖先が一緒だったとか、そういうものだと思いますよ」
果物ナイフを動かす手を止めて、彼女は僕を見つめてくる。隠し事を見抜かれているのだろうか。なんだか恥ずかしくなって、そっと目を逸らした。普段料理をしないためか、小さなナイフを持つ手元はやや危ない。僕の祖父母が持ってきた林檎が彼女の料理スキル向上に役立てば幸いだ。将来、何かの役に立つかもしれないからね。
ふぅ。
でもまぁ、ちゃんと言っておいた方がいいかな。嘘はよくないし、隠し事も時には毒になるものだ。僕と、もう一人のゆーくんの秘密を説明しておこうかな。傷口が痛む左腕を庇いつつ身体の向きを変えて、瀬川さんへと半身を向けた。
「瀬川さん。ちょっと長い話になるけど、いいですか」
「うん。時間はたっぷりあるからね」
林檎に真剣な瞳を注ぎ続ける彼女をみて微笑ましくなりつつも、僕の過去を話した。彼女が調べても分からなかっただろう、一家惨殺事件の真相を。
おほん。
価値観の違いという言葉に代表されるように、幸せの尺度は人それぞれだ。
世間に溢れる悪と無責任な正義に背中を押されて、自分の価値観を保つことが難しいときもあるだろう。そんなとき、僕は家の地下室へと逃げ込むことが多かった。今や誰も使わなくなった、あの日以来封印され続けている地下室は埃と闇に包まれていたけれど、あの空間には確かに魂を癒す効果があった。影より濃い暗闇に、僕は救いを求めて彷徨っていたんだ。
あの日、僕だけが家に駆るのが遅くなったのは、両親の喧嘩が原因だった。両親が不仲だという程度の認識はあったけれど、離婚という大事件に発展するとは思ってもみなかったんだ。で、その不仲の原因というのは、僕たち子どもにあった。
といっても、僕らが悪いことをしたわけじゃない。
ゆーちゃんと僕の姉さんを取り違えた看護師がいた、というのが問題だったのだ。
瀬川さんが林檎を剥く手を止めて、僕の方を向いた。
「取り違い?」
「えぇ、信じられないかもしれないですけどね」
「……それって、つまり」
「僕の本当の姉さんがゆーちゃんで、雄馬君の本当の姉さんが僕の姉だったんです」
どちらも双子の姉弟で、誕生日もそれほど離れていなかった僕達を、看護師がどういった経緯で入れ替えてしまったいたのかは分からない。そもそも、このことが分かった理由っていうのが、僕の父親が不倫をしていたからなのだ、と言う辺りにこの問題の根の深さ、問題の複雑さがある。
本来は生まれないはずの血液型だ。
不倫をした結果か。誰の子だ。本当の娘は――。
それだけなら、きっと互いに複雑な思いを抱えつつも、映画みたいに感動的で誰もが納得することのできる結末を迎えることが出来ていたに違いない。だけど、揉めに揉めていた両親の心が限界を迎えるきっかけとなったのが、これ。
「雄馬と僕の姉が――互いを、好きになってしまったんですよ」
「でも、二人って本当は血が繋がっているたんでしょ」
「そうです。だから、僕の父親はおかしくなってしまった」
客間として使っていた和室、そう、瀬川さんが宿泊していたあの部屋で事件は起きた。雄馬と僕の姉がキスしているところを、偶然、普段よりも早く帰ってきた両親が見つけてしまったのだ。小学生同士のキスだ、子供同士に芽生えた恋愛感情は可愛らしくて弱々しく、放っておけば数年後には消えてなくなっていたかもしれない。
でも離婚だ、慰謝料だ、誰に責任がある、という
母親が背後から刺されて死んでいたのは子供達を凶刃から守ろうとしたからだろう、と警察の人達は言っていた。姉さんも父親に息の根を止められ、雄馬は何をどう頑張ったのか僕の父親を打倒していた。
僕が家に帰って来たのは、ちょうど彼が、父親にナイフを突き立てた瞬間だったんだよ。肩で息をする同級生を見て、床に臥せっている姉を見て、血塗れになっている両親を見て、理解なんてものが出来たはずもない僕はその場に崩れ落ちた。
雄馬が必死になって自身の指から引き剥がした血塗れの包丁は、僕の足元へ吸い込まれる様に転がってきた。反射する光は怪しく揺らめき、悪魔が囁くように僕を引き寄せた。あまりに衝撃的な、恐怖で魂が犯されてしまうような出来事だったから、潜在的な防衛機能が働いたのかもしれないな。僕は泣きながらも、いつの間にか包丁を握りしめていた。ひょっとすると、生き残っていた最後の少年を殺そうとしていたのかもしれない。
「だって僕は家族が好きだったから」
彼が殺したのが父親だけだったとしても、彼を赦したくなんてなかったんだ。
でも、殺せやしなかった。例え彼が玄関から走るようにして逃げていかなくても、僕は彼に害を与えることなどなかっただろう。僕は本質的に、悪意を抱けない人間なのだ。握りしめた包丁から流れてくる血が僕の手を濡らすと、指先に力が入らなくなった。
夕陽の差し込む廊下にへたりこんだ僕は、眼前に広がる血の海を見て呆然としていた。声を荒げて泣くことはなかったけれど、目尻から涙がぽろぽろと零れ落ちてきた。何時になっても帰ってこない弟を不審に思って駆けつけたゆーちゃんが僕を、そっと、ぎゅっと、優しく抱き締めてくれるまではずっと泣いていたように思う。
事件のことを知っていても、その背景に不幸な入れ替わりがあったことを知らないのはゆーちゃんだけだ。彼女にとっては親しかった友人が死んだ、それだけのこと。僕と、彼女の大事な弟だと思っていた少年が悲しんでいるのを、悲しんでいただけの話なんだ。
「とまぁ、これが、一家心中と目された事件の真相です。あと、これとは関係ない話なんですけど、僕にはゆーくんの気持ちがわかります」
「ゆーくんって、雄馬くんの方?」
「はい。彼はね、姉に恋をしたんですよ」
僕にも、似た経験があった。
死んでいた姉さんをみて、あれほど苦しくて悲しかったのは、彼女が好きだったからだろう。それが親族への情だったのか、それ以上のものだったのか、今となっては判断のしようがない。ゆーちゃんと仲良くなっても、友人以上の関係になることなく現在まで関係が続いているのも、あのとき姉さんに抱いていた憧憬や恋慕を超える何かを抱けずにいるからだ。彼女には僕と同じ血が流れている。だけどそれが、僕の恋心を押しとどめている理由ではないのだった。
一応の社会通念に従ってみれば、
「以上で、僕の話は終わりです。最後の方は、少し余計でしたね」
「お姉さんが好きだった、って話?」
「そうです。……まぁ、初恋未満って感じなんですけど」
「ふーん……」
瀬川さんは何か思いに耽るように、窓の外を眺めている。
剥き終えた林檎を、今度は丸ごと差し出された。かじってみると充分に甘い。美味しいです、と小さく呟いて、僕も彼女が眺めている窓の外へと目を向けた。空には薄い雲がかかっている。太陽の光は弱いけれど、優しく僕等を照らしているようだ。
適切な温度に保たれた部屋から、厳しい冬を眺める。なんだか、少しだけつまらなくて、僕は身体を動かしたくなった。うむ、はやく退院して、夜中に散歩をしようじゃないか。
窓の外に視線を向けたまま、瀬川さんはぽつりと呟いた。
「それが、君の初恋だったわけか」
「そう、なんですかねぇ」
姉さんを好きだった。だから、学校にも行けなくなるほど苦しくなった。あんまり認めたくないし、褒められたことでもないけれど、瀬川さんがいうなら多分、そういうことなのだろう。数年でも年長の相手なのだ、言っていることに間違いはないと信じようじゃないか。
大きく背伸びをした瀬川さんはナイフを籠へ放り込むと、何もなくなった手をすり合わせた。今日もいつかと同じように眼鏡をかけて、髪は後ろで結んでいる。
「はーぁ。なんかショックだなぁ」
「どうしたんですか、急に」
「別に。なんでもないよ」
妙なことを言う人だなぁ、と瀬川さんのうなじを眺めていた。なぜか恥ずかしくなって目を背けようとしたら、振り返った彼女と目が合ってしまう。瞳の奥まで覗き込むように、彼女は僕へと顔を近づけてきた。
「悠一君。君には好きな人がいるの?」
「は、いや、何のことですか」
「いなくても、今後誰かに恋をすることってあるよね?」
「……まぁ、そのうち? たぶん」
「乗り気じゃないなー」
「仕方ないでしょう。真っ当な青春を送ってこなかったんですから」
特定の誰かを深く愛するのは苦手だし、隙あらば誰彼構わず愛されたいと思うのが人間というものだろう。好きと嫌いで振り分けることは出来ても、そこから先の、愛する人とそれ以外に分類するのが不得手だし。などと、様々な言い訳をあげ連ねてみたがどうだろう。
彼女は納得してくれただろうか。
かじり続けていた林檎が芯だけになった頃、瀬川さんが再び口を開いた。
「ね、悠一君。これからも探偵をするつもりはあるかな」
「契約書さえ持って来てもらえれば」
「そうか。じゃ、よろしくね」
差し出された手を握る。慌てて手を拭うと、僕は彼女の手を取った。
握り返された手の平は思っていたより温かくて、心がじんわりと赤らんでいく。最初のうちは手と手を合わせるだけのビジネスライクな握手だったけれど、ずっと握っているうちに指を絡めた仲良し握手になった。よく、ゆーちゃんと遊びに行ったときにする奴だ。
なんだか気分が妙に盛り上がって来て、今日ぐらいは許されるかなー、と淡い期待をこめつつ彼女に抱き付いてみた。抵抗されることもなく、彼女もそっと抱き返してくる。やった、ゆーちゃんには拒否されるけど、瀬川さんは大人のお姉さんだから僕を優しく抱擁してくれるのだ。
……うん。そういうことにしておいた方が、勘違いだったときに辛くないし。
一通りの優しさを摂取して身体を離すと、瀬川さんの顔が真っ赤になっていた。あれ、僕が何かしたというのだろうか。考えてみも分からないし、ここは調査する必要があるな。というか僕も頬が熱いんだよなぁ……風邪か?
とりあえず、もう一回ハグしたい。
どちらが先というのもなく腕を伸ばして、天使の羽根に包まれるような柔らかい抱擁に溺れていく。瀬川さんがゆっくりと身体を倒してきて、僕の背中がベッドに触れたとき、病室のドアが元気よく開いた。
「こんにちは、ゆーくん。私もお見舞いに――うわ! なにしてるの!」
「ゆ、有希ちゃん。あ、え、学校はどうしたんですか」
「今日は午前授業です! それより、ゆーくん!」
元気よく駆け寄ってくる彼女は、弟が逮捕されたことにめげていない。
それどころか、何も感じていないかのような素振りを見せている。
――やっぱり、彼女が、一番壊れているのかもな。
「というか、あの、ちょっとタンマ。左腕は絶賛大怪我だから、頼むから抱き付くのだけはギャァァ」
「なーにが大怪我中なんだよぅ。瀬川さんとは仲良しでも、私とは仲良くできないっていうのかい?」
「いや、あの、さっきのはですね」
「ん? なーに、瀬川さんも文句あるんですか?」
二人きりだった世界は、こうして崩壊した。暖房とは別の何かで身体が温かくなっていくのを感じる。双子の妹みたいな関係で、しかし実際は実の姉である幼馴染と、親しい姉みたいな人柄で、しかし何処か心惹かれるところのある女性に抱き締められて、僕は両頬を朱に染める。
真昼の太陽がカーテンの向こうで淡い光を放つ中、僕等はずっと、真っ白な壁に囲われた病室で笑い合っていた。
ふぉぁ・ゆー・すとーりー 倉石ティア @KamQ
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます