第35話 ×××
街を歩き回ること二時間。
僕の後ろを追いかけまわしていた奴を撒こうとしたら、想像していた以上に時間が掛かってしまった。やっぱり田舎はダメだな、人口密度が低いからどうしても発見されやすい。裏路地と細い小路を組み合わせて十五分ほど歩き回り、近隣の住宅で端に水やりをしていたおばあさんに匿ってもらうことで事なきを得た。
……うーん、年上相手に好かれると言っても、やっぱり限度が欲しいなぁ。
僕はうら若き女性が好きなんだから。
「いや、今はそれどころじゃない」
暮れなずんでいた世界もすっかり陽が落ちて、夜の闇があちこちで口を開けている。人気の少ない場所で電柱にもたれかかると、ポケットから手紙を取り出して、そこに書かれた文言に目を走らせた。
彼は僕の行動を逐次監視している、というのだ。そんなことはないだろうと口にしたところで、先ほどから周囲を見渡してしまう辺り、実は彼の言うことを信じてしまっているのだけれど。いや、でもなぁ。
取り敢えず、落ち着け。
深呼吸をして、あくまで慎重にことを運ぶんだ。
「それで、集合場所は……」
もう一度彼からの手紙を確認して、僕は歩きだした。見慣れた道を知り合いに見られないようにと願いながら歩いた。冬の一人歩きはこんなにも寒くて寂しいものだったろうかと、首を傾げてしまうほどだ。
「それにしても、だ」
こちらから動こうと思っていたのに、彼の方から行動してくるとはなぁ。まぁ、手紙を渡して深夜の公園で弟君とのデートを始める、なんてことをするよりはマシだったのかもしれない。
てこてこと歩いているだけでは焦燥感に打ち勝てずに、結局走り出してしまった。目的の場所へ辿り着いたときには、待ち合わせていた通りに彼がいた。二日ほど見張っていたが誰も現れる気配がないし、そろそろ別の場所で張り込みをしようかと思っていたから、ちゃんと彼が来てくれてありがたいことだ。
まぁ、彼に会えないと懲らしめることも出来ないから、いやぁ、本当に。
本当にありがたい。
人気のない畑の隅。貸しコンテナの前に、ゆーちゃんの弟君が立っていた。
僕を待っていたらしい彼の足元には、煙草の吸殻が落ちている。
……どうしようかな。
特に何も思い浮かばなかったので、彼へ話しかけてみることにした。
「やぁ」
「遅かったじゃないか」
「君が悪いんだろ。あんなものをバラまくわ、手紙を僕の部屋に投げ込むわ……」
「だって、君は引きこもりだからね」
だからと言って、それは手紙でくるんだ石を窓に投げつけていい理由にはならないんじゃないかな。あのときは僕しか部屋にいなかったけれど、もしもゆーちゃんがいたらどうやって責任を取るつもりだったんだ。ホントもう、これだから。
喉まで出かかった文句を必死に飲み込もうとしたけれど、無理をしすぎて吐きそうになった。あ、これ走って来たから体調が悪いだけか。
なんてとぼけたことを思っていた僕に話しかけてくる彼は、どこか楽しげだった。
「久しぶりの運動は大変だったかい」
「そりゃもう。吐きそうだよ」
「大変そうだねぇ。でも、君はこうして僕に会いに来てくれた」
「そうしないと、君から出向いてきそうだったからさ」
それもそうだ、と彼が笑う。僕もつられて笑った。
第三者が僕等を見たら困惑するだろうな。だって、姿形はそっくりだ。辿ってきた人生は違うはずなのに、容姿だけはこんなにも似ている。でも、決定的に違うものだってあった。それを示すために、一対一で向かい合っているのだ。
歴戦の刑事が拳銃を取り出すように、後ろの腰ベルトに挟んだものをそっと取り出した。小学生の被っている黄色い帽子だ。数日前、行方不明になってしまった少年が被っていたもので、随分と汚れてしまっている。
幸せを運ぶハンカチみたいに縁起のいいものじゃないが、彼を怒らせるにはこれで十分だろう。事実、帽子を投げてよこすと彼の額に青筋が走った。何も言わず真後ろのコンテナに手を掛けると、抵抗もなくコンテナはその腹の中身を外気に晒した。
鍵なんてものは最初から掛かっていなかった。そう思わせるほど自然に開いたシャッターの向こうには、ただっぴろい空間だけが広がっている。嵌められたのか、と憤った彼はこちらをキッと睨みつけてきた。うーん、いいねぇ。その表情は嫌いじゃないよ。今だけはきっと、僕等も鏡写しじゃないんだろうな。
「どうだい。街中を歩き回った努力が無駄になった気分は」
「答えるまでもないな」
「うーんと、僕の悪戯は気に食わない?」
「……ッ」
彼が舌打ちをすると同時に、バチンと酷い音がした。
彼がナイフを抜き放ったとき、コンテナに手を打ち付けた音だった。顔には憤怒と苦痛を半々に混ぜた表情が浮かんでいる。だけどこれ、打ち付けた手の痛みに顔を顰めているわけじゃないんだろうな。
僕への憎悪で彼の顔が歪んでいたようだ。
すっと持ち上げられた手で握りしめたナイフは、僕へとまっすぐ向けられている。
「それ、本気かよ」
「……これ以上の問答は不要だろ」
「怒るなよ、ゆーくん。そもそもだなぁ、僕は何も持ってないのに、君が一方的に
おどけてみせながら、一歩ずつ後ろへ下がる。
危ないことはないだろう、とタカをくくっていた。そのツケが回って来たのか。
走り詰めて疲れてしまった身体が、今頃になって休息を欲し始めている。
あぁ、クソ。
呼吸がやけに荒い。視界が緊張で霞む。
ゆーくんは無言でナイフを構えていた。小学生の頃、両親に凶刃を向けた少年はこんな顔をしていたのだろうか。手遅れなことばかりが思い出されて、その度に掻き消した。ここに至るまでの道のりは長かったけれど、終わってみれば呆気ない。こんな奴には刃物を取り出す必要すらないのだ。
っていうか、僕は人を殺せるような道具なんて持ち歩いていないし。
何かにつまずいたのか、ふと、足元が揺らいだ。
「あっ、タンマ!」
小休止を要求しようとしたが問答無用だ、ゆーくんは僕に向かって勇猛果敢に特攻してくる。闇夜に、彼の振り上げた銀刃が光った。心の臓に向かって真っすぐに突き出されたそれは深々と、懸命に振り回した僕の腕に突き刺さった。
***
この瞬間が来ることを、永遠に待ち続けていたように思う。
天啓が降ってきた、あの日。偽物のゆーくんに懲罰を与えてやろうと思っていたあの日から、僕が辿る道は決まっていたのだ。それは一本道を歩くように、決して迷うことのないたったひとつの選択肢だけを手に歩めばよかった。
簡単だ。
あぁ、簡単すぎて笑えてくる。
彼を残して絶命してしまった家族たちと同じ場所で眠れないことは不運だが、彼の家族は不幸にあって当然の奴らばかりだった。一人は不倫を繰り返し、金に執着していた男。一人は怠惰で強欲な、与えられるばかりで何も生み出せなかった女。そんな二人の間に生まれた姉さんが、不幸な事故で死んでしまったあの日から、こうなることは決まっていたに違いない。
深々とナイフを突き刺した腕から、ゆーくんの血が流れてくる。
ゆーちゃんを縛る枷は、これですべて断ち切られるはずなんだ。
「……抵抗、するなよ」
必死になって、馬乗りになった僕を突き飛ばそうと彼が暴れている。腕を貫いているナイフがより深く刺さっていく痛みなど意に介していないようだ。
だけど、それも関係ない。
殺害した彼をどこか適当な場所に放り込んだ後、火を放てばどうだろう。犯行の跡は消せないだろうが、だからこそゆーちゃんは弟君のことを思い出し、その目に涙を浮かべて悲しむはずだ。
あぁ、彼女が悲しむ顔を観たくてたまらない。
悲しみに溺れた彼女ほど美しいものは、この世に存在しないのだ。
「その為に、君は死んでくれ」
僕の誘拐した小学生を、恐ろしいほど有能な君が救い出してしまったことなんて、匙なことは忘れてあげよう。これが僕にとって、初めての人殺しになるんだ。
「お前は、ゆーちゃんの隣に立つに相応しくない」
偽物のゆーくんにトドメを刺す為、左腕に突き刺したナイフを抜き取ろうとして、彼が僕の服を掴んでいることに気が付いた。無駄な抵抗を諦めて、こんどは泣き脅しでもするつもりなのだろうか。
涙を浮かべていた彼は、ふと、その頬を緩めた。
同時に抵抗する力も緩んで、ナイフが彼の腹へと滑っていく。
次の瞬間、想像を絶する痛みが僕の身体を駆け抜けた。
***
防御が最大の攻撃だ。カウンターという言葉が存在するように、攻撃の瞬間は格好の標的になるものだ。生命の危機に瀕しても世界がスローモーションになることはなかったけれど、喉の奥に詰まるような恐怖が、逆に僕の意識を明瞭に保ってくれたようだ。
「ふぅ」
しかし、今日の収穫は大きかったな。敵対した相手に逃げられないようにするためには、ガッチリとホールドすることも重要なのだ。実践するために払った代償は相当大きいみたいだし、そもそも成功していないのだけど特に問題はない。大事なのは勝つことだと、アメコミのヒーローなら言うだろう。だったら、僕も似たようなことを言っても怒られないはずだ。
腕を犠牲にすることで、僕は正義のヒーローになれたのだから。
「これ、大丈夫かな」
ゆっくりと起き上がって、その場に倒れているゆーくんを眺める。過剰防衛かも、なんて考えが浮かんだのは一瞬だった。勝利を目前に控えながらも女神に振られてしまった男の指が再び動こうとするのを確認すると、考えるよりも先に身体が動いた。
織田先輩から貰いうけたスタンガンが嫌な音を立てて白い光を放つと、悲鳴を上げたゆーくんは白目をむいて動かなくなる。
失神した拍子に刺さっていた
「クソ、このバカ」
あと、これだけは言っておこう。
「全部、君の自業自得だからな」
考えてみれば、
倉庫の周りを丁寧に探してみると、キャンプなどにも使うガイロープが転がっていた。風が強い時に、枝が折れないよう固定するために使っていたのだろうか。わかんないけど、今回はこいつを貸してもらうことにしよう。
農家の人には、後でゴメンと言うことにして。
「……よし」
取り敢えず彼の両手と両足を、それぞれ縛り付けておいた。起き上がることくらいはできるだろうけど、これで遠くへ逃げることは不可能になったはずだ反撃の余地はあるだろうか、ともう一人のゆーくんを眺めてみる。どうだろう? 執念強い彼ならば、噛みついて来ることもあるかもね。
「というか、痛いな、本当、痛い」
意識が飛んでしまいそうだ。
文句だけは、今のうちに言っておかないと。
「ゆーくん、本当に僕が手ぶらだと思ってたのかい」
彼からの返事はない。
「そも成人男性を相手にして、普通に襲ってくるなよ。犬とか猫とか小学生とか、自分より弱い者を虐めていたせいで感覚がおかしくなってないか?」
なんていうかな、社会人って奴は危ない奴らばっかりなんだぞ。僕等は引きこもりで、そういう相手とはほとんど向かい合わずに過ごしているけどさ。でも、他人への接し方とか愛し方とか、僕らにも随分と違うところはあるからね。
そうだよな、もう一人のゆーくん?
「おーい、聞いてる? ……スタンガンだと、普通に起きそうだな」
ゆーくんの目を見ていたら、徐々に焦点が合って来た。暴れられると怖いので、半開きになった口の中に突っ込んでもう一発電気を流しておいた。白目をむいて痙攣を始めたから、これで良しとしよう。……うむ、自分そっくりの奴がビクビクしていると気持ち悪いことこの上ないな。彼が僕に感じていた同族嫌悪を、僕も彼に抱くことにしよう。
閑話休題。
僕が彼に、本当に言いたかったことをまとめると、こうなる。
バカじゃないの、お前。
自分が気持ちよくなりたいがために、誰かを犠牲にするなよ。
「ふぅ。終わった」
あー、寒い。
サラサラと冬の畑で何かの植物が風に揺れる音が聞こえた。安堵感で膨れる胸を、空虚な感覚が攻めてくる。寂しさを覚えつつも、僕が単独で行動をしているのにはふたつの理由があった。
ひとつは、僕自身の手で小学生の頃の事件に終止符を打ちたかったこと。
もうひとつは、ゆーちゃんにこの現場を見られたくなかったからだ。
探偵社ご一行にバレないよう行動を起こすのは大変だった。まぁ、僕が救出した小学生の保護で手一杯という可能性もあるけどな。ふふ、それにしても人助けってのは気持ちがいいものだ。小学生を助けたはいいものの、空腹と疲労で弱り果てていた彼にコンビニのお菓子を奢ってあげたことで警察に誘拐犯と誤認されて、結果的に追いかけられる破目になるとは思わなかったけれど。
ともかく、これで僕の任務は終了だ。
……僕の、血のつながらない姉さんを殺したのは彼だ。事故だった、間接的なもので彼に暴力を振るう意志などなかった。それでも僕は両親を失って、本当の姉さんは帰ってこなくて。
不幸は重なる。
当人たちでも、どうしようもないほどに。
「僕はもう疲れたんだけど、君はどう? ゆーくん」
失神している彼に尋ねてみる。
僕の左腕から流れ続ける血が、彼の服に赤い染みを作っていた。しかし、彼も僕によく似ている。血が繋がっているゆーちゃんと僕も顔がそっくりだけど、こっちのゆーくんと僕も生き写しに近いところがある。
金持ちだった父さんが田舎町を離れなかった理由。
そして、僕とゆーちゃんの顔が似ている本当の理由が、ここにあるのだ。
「うーん、すごくインモラルで、吐き気がするなぁ!」
真実の愛を貫いた結果が他人の妻を横取りすることだったとしても、人はそれを信じられるだろうか? 奪う側に立てば、誰もが素直に頷くだろう。相手を幸せにできると息巻く、自分の力量すら見極められない人間なら尚更だ。
でも、奪われる側だったら?
ゆーくんが僕を嫌う気持ちも分からなくはないのだ。
別件で僕を恨んでいたなら、彼の真意は僕にとって不明だ。ゆーちゃんの友達だからという理由で襲われたとしたら、たまったものじゃないよ。
彼も姉を愛していたに違いない。だったら納得できる。出生の秘密を知っていても愛を隠せなかったと言われたら、彼の行動すべてに僕は頷いて拍手を送ることだろうし。……まぁ、それが正解だとは微塵も思わないけどね。
「閑話休題」
ふぅ。疲れが全身に重く広がって、眠くなってきたな。
んー、しかしだなぁ。
義理の弟をスタンガンで気絶させる男なんて、僕以外にいるんだろうか? そんなくだらないことを考えていると、ゾクゾクと寒気に襲われた。冬だから仕方ないよなと思っていたがそんなことはない。左腕だけが妙に暑いのに身体の末端が冷えていく間隔があった。……あと、根性で無視しようとしていた腹部の痛みが、蜘蛛のように身体を張っている。傷は浅いみたいだけど、それでも急所だからなぁ。
なるほど。
「これが、死に近づいているってことか」
自分の呼吸音ばかりが耳に響く。
冬の夜は恐ろしいほど静かだ。身体だけじゃなくて、魂まで凍えそうになる。流れる血が止まらないし、止血方法を学校で教わったこともない。早く救急車を呼ばないと手遅れになってしまいそうだ。
……ケータイ、持ち歩く癖をつけていればなぁ。
「誰か、僕を」
この暗闇から救い出してくれ。誰も知らない地獄から、拾い上げてくれ。
靴も脱がずにコンテナへと滑り込むと、その場でぐったりと横になった。あぁ、なぜか瀬川さんの顔が浮かんでくる。
あの人のことを、僕はどう思っているんだろう。もっと他愛ない話で僕を癒して欲しかったし、またハグをして、無暗に僕の心臓をいじめて欲しかった。優しく撫でて欲しかったし、彼女に辛いことがあったなら一生懸命に慰めてあげたかった。
くそう、やり残したこと、多過ぎるじゃないかよう。
「バカだなぁ、僕は」
緊張感が解けると筋肉も弛緩して、腕から血が流れていく。少量だったそれも時間経過と共に量を増していく。まるで呪いに掛けられているようだ。
笑った瀬川さんの表情を思い浮かべてみても、すぐに像は霧散する。集中力が欠如しているみたいだ。腕は直視するのが億劫になるほど真っ赤だった。探偵じゃなくて、闘牛士にでもなろうかな。ふふ、それはそれで、面白いような。
開け放したシャッターの向こうに、助けた小学生から借りた帽子が、風に乗って飛んでいく。返さなくちゃ、いけないのになぁ。
瞼を開くための力も亡くなって、僕の視界は暗くなっていく。
ゆっくりと、何もかもが、静かな闇へと落ちていく。
そして、ふいに、消えた。
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