第31話 本編 10 - 3

 彼について進むうち、点在していた民家やアパートが更に減り、一面の柿畑が広がる地域にやってきた。ここを南に進んでいくと中学校があったような、と散歩で得た知識を活用してみる。確か、それなりに強いサッカー部があったはずだ。グラウンドも広いし、彼が練習試合であの学校を訪れていてもおかしくはないな。ひょっとして忘れ物を取りに行くのだろうか。

 うーん。早とちりだったのかなぁ。くそぅ、罪もない相手を疑ってしまうだなんて。……まぁ、最後まで追いかけてみようか。

 街灯があるときはより距離を置いて、影に紛れながら彼を追いかけた。側溝に落ちないように気を付けるのは、万が一の可能性で死ぬことがあるとを知っているからだ。小学校の頃に足を滑らせて側溝に落ち、頭の骨にひびが入るほどの酷い怪我をした奴がいるから覚えている。頭に何重もの包帯を巻いた姿は、子供ながらに衝撃的だった。

 彼は学校方面へは向かわずに、柿畑の中を歩いていく。視界を遮るものも多いし、ぐっと距離を縮めても大丈夫だろう。足早に彼の元へ向かう。彼が振り向いても、動かなければ柿の木の一部として誤認してもらえるかもしれない。まぁ、僕も彼が動き続けているから視認が容易いわけで、まったく動かなければ人間かどうかも怪しむところだろう。

 彼は柿畑の一角にある倉庫群へと近付いていった。貸しコンテナのようだ。

 近くには一本だけの街灯があって、周囲をぼんやりと照らしている。倉庫と倉庫の隙間から顔を覗かせてみると、彼は餌やりをしているようだった。どうやらこの辺りは野良猫のたまり場になっているみたいだ。

 周囲を見渡せば、そう遠くない位置に喫茶店がある。そこへの行き帰りで猫に餌をやるお爺さんやお婆さんも多いのかな。もう一度中を覗き込むと、彼が鞄を開いていた。

 残念なことに中身はよく見えない。距離があるから判別しにくいのだ。猫缶みたいな銀色のものがあることだけは分かった。だが、あの重そうな鞄にぎっしりと大量の猫缶が詰まっていたとは考えられないな。……猫が好きなら、わざわざ猫めがけて缶を投げたりすることもないだろうし。あ、また投げた。

 いたたまれない気持ちになってふと目を逸らすと、倉庫ごとの所有者を記した看板が目に入った。見知らぬ名前が並ぶ中に、ひとつ、よく知った名前がある。

「入野……」

 ゆーちゃんの両親が倉庫を借りているのだろうか? ふと思い立った疑問は、投げられた猫缶が倉庫にあたって立てる嫌な音にかき消されてしまった。

 時折癇癪を起したように暴れて、猫が散ってからは大人しく餌を見せる。そんなことを繰り返して、十分ほど経過しただろうか。彼は唐突に立ち上がった。その足元には、一匹の猫が踏み押さえられている。

 そして手には、どこから取り出したのか、小さなエアガンが握られていた。短期間で十数回の発砲音がして、思わず目を背けた。軽い音だった。猫の悲鳴と、引き攣った彼の声が聞こえる。

 微かに血の匂いがした。削った鉄のようで、それらとは確かに違う粘着きを持った匂いだ。小学生の頃、夢に出る程嗅いだものだった。

 そして猫が死んでいることも察した。既に悲鳴は聞こえず、エアガンに球を装填する音、発射する音が交互に響く。少年の笑い声も聞こえなくなっている。装填、射撃、装填、射撃。単純な労働と繰り返す悲劇に彼が何を感じているか知らないが、ひとつ案を思いついたぞ。

 そこまで思い詰めて心を壊す前に、酒を飲んでバカになったらどうだろうか。少なくとも飲酒を同級生に自慢して煙たがられること、自転車や原付を飲酒運転することがなければ、一人で勝手に滅ぶわけだからすごく平和な気がするぞ。猫や犬に当たり散らして誰かを悲しませるより、一人で自己陶酔して誰にも理解されない悲哀に溺死したほうが社会にとってマシなはずだ。

 だから、と喉の奥まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 今日はもう、猫も寄ってこないだろう。少年が大量の餌を撒いたところで、これ以上の殺生は不可能だ。僕は彼が手を休める時を待ち、飛び出すタイミングを伺っていた。

 エアガンの知識がないから対処の仕方も分からない。ゴーグルもなしに打たれると場合に依っては失明することがある、ということくらいだな。装填と発射の時間を体内時計で測ってみたけれど、どうにも装填にかける時間が短い。小学生の頃、同級生が振り回していた玩具は手でBB弾を装填していたから、一回弾切れを起こすと五分くらいは自由に逃げることが出来たのだが、少年君は何か補助装置のようなものを使っているのだろうか。

 勇んで彼の元へ飛び出した瞬間、いい的になってしまいそうだった。カメラは持っていないし、現場を保存したところで何をすればいいのか分からない。共犯者と疑われるだろうか。

 すべてが終わった後、油断するだろう彼からエアガンを奪い取ってから考えよう。

 大丈夫だ。

 もう、僕は一度死んだ身なのだから。

「……よし」

 呟いて、覚悟を決めた。それにしても、事件が終わった後でしか動けないなんて正義の味方失格だ。それは小学生の頃の僕よりも劣っている。保身に動くと、こうなるんだな。

 溜め息は白く世界を曇らせて消えた。拳を握って呼吸を沈めた。

 世界から音が消えるまで、じっと倉庫群の入り口で彼を見張る。その間、どうやって鞄を奪い取るか考えていた。手に持っているだけなら簡単だし、肩掛けや背負っていた場合は中身を取り出すまでに時間が掛かるだろうから、それまでに何とかしよう。そもそも、彼がエアガンを仕舞っていなかった場合は? それはないだろう、夜の街をエアガン片手に歩いていたら通報ものだ。……でも、この辺りは人が少ないからなぁ。

 今こそ瀬川さんたちに連絡するべき時ではと思ったけれど、少年が丁度出てくるところだった。

 よし。

 すべては成り行きに任せよう。

「こんばんは、少年」

「わっ」

 物陰から急に姿を現した僕に、少年が驚きを露わにする。彼が手に掴んでいた鞄をむしろうとしたが、案の定抵抗された。しかも暴漢と間違われたのか、思い切りのよい頭突きが飛んでくる。額に鈍い痛みが走り、視界が瞬間的に白くなる。怒りに任せて、本能のままに拳を振りあげた。

 あっ、殴ってしまった。

「おまっ、えっ」

「あー、ごめん。……僕は親を殺した男だから」

 考えることを放棄して、その場の成り行きに任せてしまう男だったりもするのだ。

 適当に振り上げた拳が、鳩尾のいいところに入ったのかもしれない。少年はもぎ取られた鞄を口惜し気に眺めつつ、じりじりと後退している。武道の心得もない、筋力的にも貧弱な僕だからこそ深刻なダメージを与えることなく彼から鞄を奪い取ることが出来たのだろう。冗談というか、適当を言っているだけなんだけど。ふらふらと距離を置こうとする少年君から遠く、死骸が横たわっている倉庫群の方へ鞄を投げ捨ててから彼との距離を詰めていく。

 現役中学生と比べれば鈍重だろうけど、横をすり抜けて鞄を奪取されることはないだろう。両手を広げ、少年との距離を縮めていく。鳩尾の痛みから抜け出したらしい少年は僕を正面から睨みつけている。

「――くそっ!」

 叫ぶと少年は、僕とは反対方向へ駆け出していった。

 深夜の柿畑に、彼の姿が溶けていく。

 ……あー、逃げるのか。それは、予想してなかったぞ。

 慌てて走り出した直後、何かを重い物を思い切りたたきつけるような音がした。少年と共に驚愕して立ち止まり音の正体を探す。直後、空を切るような怒号が響いた。

「ライト照射!」

 聞き慣れた声が響くと世界が昼間のように明るくなり、少年を真横から照らす。そして、月を切り裂く飛び蹴りが彼を地面に打ち転がした。暴れる彼を瞬く間に地面へと抑えつけ、後ろ手に拘束する。慣れた手付きで彼の手首に紐を回した男は、まごうことなく織田先輩だった。

 ライトを背中から浴びながら、彼は口元を緩める。

「正義の味方、ここに参上」

「先輩、どうして」

「腹が減ったから迎えに来たんだよ。……というのは冗談でな、お前には探偵の神様が宿っていると思ったんだ。で、お前のスマホの位置情報を俺のスマホに連携しておいた」

 ……? よく分からないけれど、僕の行動は彼に筒抜けだったということか。彼は呻いている中学生の身体を起こしてやりながら、スーツついた泥をはたき落としている。

「案外、尾行上手なんだな」

「仇間くん、本当に探偵やってみない? あの、契約書は事務所なんだけどね」

「所長! はやく警察を呼んでくださいよ」

「分かってるよ。もう、織田くんはせっかちだなぁ」

 先輩にも所長にも褒められた。それはいいとして、なぜここに彼らがいるのか。しかも、所長までいるのはどういうことか。先輩に跨られた少年と、柿畑を縦横に走る道路の上で上手く隠れていた乗用車を交互に見る。今日乗っていたのとは違って、所長が個人で所有している乗用車だった。巷ではその静音性を評して暗殺者などと呼ばれている車種である。

 乗用車から降りてきた所長は手際よく警察にこの場所の説明などをすると、ニコニコと笑いながら僕の方へ近づいてきた。僕も彼の元へ歩み寄ろうと立ち上がると、先輩の身体が大きく揺らいだ。

「うおっ、てめ」

 先輩を突き飛ばして、彼は逃走した。あわや、というところで少年が急に立ち止まって、僕等の方を振り返る。謎の行動に戸惑う素振りを見せず先輩は突撃していき、その場に彼を取り押さえた。パン、パン、パンと平手打ちの音が三回聞こえて、少年は静かに泣き始めた。

 慌てて駆け寄る僕に、ライトで照らされた先輩が自慢気な顔を向ける。

「どうだ、必要最低限の暴力で荒事が解決したぞ」

「いや、殴っちゃダメでしょ」

「お前にだけは文句言われたくないんだけどな」

「……何だよ。誰なんだよ、お前等……」

 すすり泣く少年を無視して、彼が立ち止まった理由を調べてみる。すると、道路にネットが掛けられていることが分かった。目を凝らせば辛うじて暗闇に浮かび上がる深緑色のそれは、道の両端にある畑に生えた柿の木に結び付けられているらしい。軽く押した程度では抜けられないし、たとえ足掻いたところで絡まってしまうのがオチだろう。少年が元来た道を戻って来て、先輩に叩き伏せられた理由も分かった。

「カラス避けのネットが転がっていたから、それを有効利用させてもらった。冬だから出来ることだよなー、これ」

「……あとで農家の人に怒られませんかね」

「え、なんで」

「柿の木が折れた! 曲がった! とか。めちゃ大切ですよ」

「……まぁ、後で戻しておけば許してくれるだろ。おい、少年君。地面にこすりつけて靴についた血を隠そうとか、そういう小狡いことはしない方がいいぞ」

「そうだねぇ。警察からの心象が悪くなるし、場合に依っては刑務所で……」

 先輩と所長のありがたい言葉を聞いて、少年はぐったりと動かなくなった。叫んで誰かに助けを求めることも、暴れて逃げ出すこともしないあたり自分の立ち位置や力量を理解しているようだ。

 強烈な音の正体を尋ねてみると、乗用車のドアを思い切り閉めた音なのだと言う。それだけで驚くだろうかと思ってみたけれど、知らないものや発想がそこに至らないものに対しては、人間って意外と弱いからねぇ。さもありなん、って感じだ。

 警察が来るまでの十分弱、僕等はじっと少年君を眺めていた、なんて精神的被害を与えるような真似はしなかった。断罪する必要はない、僕等は彼が犯行に及んだ動機くらいは知っておきたいが、それ以上彼の生活や思想に干渉するつもりはないのだから。

 もう十分すぎる程、彼を観察ピーピングしたのだし。

 サイレンを鳴らしながら警察が到着すると、少年は小刻みに震え始めた。今更、何を恐れているのだろう。年齢のこともあって重い処罰は下されないだろうが、それでもみっちり絞られるだろう。中途半端に真面目なところがある彼にとってみれば、それは明確な罰を下されるよりも苦しいことかもしれない。可哀そうだと思わなくもないが、このまま引き渡して反省して貰おう。案山子に向かって改造エアガンをぶちかますくらい個人の自由だが、それを他人のペットや動物にやってはいけない。というか、案山子も自分の所有物じゃなきゃダメか。

 うーん、ストレス発散の為に力を振るうこと自体が間違っているんだろうな。

 それが分からないなら、僕等は檻の中に生きるしかないなんだ。

 今回はやけにしつこかった警察からの簡易な事情聴取を含めて雑多な事情を解決した後、僕は先輩たちが乗ってきた乗用車で家まで送ってもらうことにした。少年君の後ろについて歩いてきただけだから、正直なところここからまっすぐ家に帰れる自信がないのだ。この付近に知った学校がある程度で、そこから家までの道のりが分かるわけじゃないし。

 うーん、この地域に迷い込んだときは酷い目に遭うからなぁ。

「瀬川には、お前が迷子になったと嘘を伝えてきた。危険を乗り越えてヒーローになるのは男連中と相場が決まっているからな」

「そんなことより、どうしてここが分かったんですか」

「あー、さっきの説明で分からなかったのか。……仇間。お前、携帯に関する知識はどのくらい持ってる?」

「どこでも電話を掛けられる便利な箱ですよね。僕には使いどころがありませんが」

「いつの時代の人間なんだよ。ほら、お前の持ってる奴、出してみ?」

 ポケットから取り出した彼の携帯を返すと、手慣れた動作でメールの画面を表示して見せた。パソコンじゃない癖にインターネットにも接続できるらしく、動画も閲覧可能らしい。田舎だから電波状況が悪いと先輩は唸っていたが、何処でも繋がるだけマシなのだろう。

 そうかー、ショップの人が長々と説明していたのはこの辺りの話だったのか。瀬川さんに殆ど任せきりだったから、半分も聞いてないんだよなぁ。街中の高校生たちが騒いでいるのを聞いて、何やら色々な機能があることだけは知っていた。だけど、使い方はさっぱり分からない。今後も、僕が携帯を持って出歩く機会は少ないだろう。

 というか、今回みたいに使わずに済ませてしまう可能性が高い。

「で、どうやって僕を?」

「携帯の電波を元に、位置情報を特定できる機能があるんだよ。それを使って探したって何度も言ってるだろ」

「?」

「……まぁ、うん。もういいや。今日初めて使ったんだがな、ちゃーんと見つかったんだからよしとしてくれ」

「そうですね」

 難しい話は大学院で研究したい人だけが扱ってくれればいいや。

 犯人と思しき少年は捕まったし、二日くらいは休養を貰っても問題ないだろう。所長が勧誘してくれるのは嬉しいし、事務所での雑用を手助けしてくれる人材を切に求めていることが目の下のクマからも容易に想像できるけれど、彼が差し出してくる書類に名前を書くのはもっと後で良い。

 溜息を吐いて、車窓から外の世界を覗く。

 夜の畑は身震いするほど静かだった。それでも、街が近づいてくるほどに賑やかで明るくなっていく。明日は、久しぶりにゆーちゃんと遊びに行きたい。瀬川さんも誘ったら、もっと楽しくなるだろうか。先輩の荒っぽい運転で吐きそうになりながら、そんなことを考える。柿畑を抜けた頃には、酔いを抑えるために目も閉じた。

 死んだ猫は何処へ行くのか、ふとした拍子に思い沈む。

 その答えを見つけるより早く、僕等は家にたどり着いてしまった。所長まで晩御飯を食べたいと言い出したのに笑いながら乗用車を降りると、玄関口に見慣れた姿が見えた。瀬川さんだった。心配そうな顔をしていた彼女に玄関口で抱き締められて、茶々を入れた先輩や所長との口喧嘩が始まる。

 長いようで短かった事件は、こうしてあっけない大団円を迎えた。

 これが僕のハッピーエンド、怠惰で退屈で陰鬱な日常からの脱出劇だ。

 そう思っていた。



 翌日、動物の死骸が山となって発見されたことを、僕等が新聞で知るまでは。

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