第30話 本編 10 - 2

 見張り開始から三日経った。

 特に進展はないけれど、無駄とも思える時間を積み重ねたことで何か成果が得られるのならば、それに越したことはない。例えそれが、誰もが夢見る甘い戯言なのだとしても。

 所長は今日も書類仕事に精を出しているそうで、現場で見張りをしているのは僕と瀬川さん、そして織田先輩の三人だった。しかし三人掛かりで中学生君を見張っている、というわけでもない。

 同じアパートの三階と二階で、それぞれ見張るものが違うのだ。先輩は先日調べていたのとは別件の仕事を引き受けたようで、浮気現場から調査対象の男女が出てこないかとカメラを構えている。僕と瀬川さんは犯人と目している中学生が出てこないかと待ち続けている。でもやっぱり動きがあるまでは暇なので、最近寝不足らしい瀬川さんが寝落ちするまで、彼女と先輩は和気藹々とお菓子を食べながら副業だという不動産の勉強をしていた。

 すごいなー、中卒の僕には二人の会話が分からないなー、などと思いつつ二人を眺めていた。本業よりも儲かっていたら、そりゃ本気で取り組むわけだ。探偵としての依頼が来ない間も、アパートを経営していれば最低限の収入を見込んで動けるわけだし。

 真っ当な社会人になろうという努力を惜しまない瀬川さんを見ていると、彼女の最終学歴も中卒だということを忘れそうになる。自分自身へ負のバイアスがかかり過ぎていて、それを他人にも適用しようとするのは悪い癖だな。この仕事が終わったら所長の書類整理を手伝いに行こう。

 そうやって誰かの役に立っている間は、僕は嫌なことを忘れられる。昨日、忘れ物を取りに行くついでに訪れた事務所の中は物理的に散らかっていたし、ここは数年来に渡って鍛え上げた家事スキルを見せるときかもしれない。

 閑話休題。

 僕等が待ち構えている中学生は、見たところ不審な点のない少年だった。学校では野球部に所属していて、レフトを守っている正選手だ。練習態度は極めて不真面目だし、他の部員たちとの折り合いも良好とは言えない。だが、友人がいないわけじゃない。学校から家への帰り道では数人の生徒と行動を共にし、僕や瀬川さんが味わってこなかっただろう青春を満喫していた。

 羨ましい限りだ。

 それ以外の場面では、往々にして日々の生活に退屈している印象を受けた。

 先輩がくゆらせる煙草の煙を目で追いながら、ポケットを探る。そこになにもないことを知って、僕は視線をアパートの階段へと戻す。小学生くらいの女の子が、親に付き添われて外食へ向かうところだった。乗用車に乗り込んでからも楽しそうな少女を視線の端で追いかけながら、自分の人生と比較する。

 羨ましいなぁ。

 正直、凹むぜ。

「本当に暇ですね」

「そうでもないぞ。アパートの階段の段数を数えると退屈が紛れる」

「素数を数えた方がマシですよ」

「そうだ、暇なら不動産を取り扱う際の心得について教えてやろうか」

「破滅しそうだからやめときます」

「大丈夫だろ。うん。いや、分からんけど」

 にこやかに他人を破滅させようとしてくる先輩に溜め息を吐うと、僕の太腿の上でもぞもぞと動くものがあった。瀬川さんである。ゆっくりと開いた瞳がぼんやりと僕を見上げ、徐々に焦点があってきた瞳が動揺に震える。

「おはようございます、瀬川さん」

「お、おはよう」

「どうだ、よく眠れたか? 仕事中に寝落ちするとか、普通の会社なら始末書だぜ」

 うちにはそんなもの存在しないけどな! と先輩は豪快に笑った。

 慌てて起き上がった彼女は、僕に背を向けてシートの上で膝を抱えてしまった。その背中が普段よりも小さく見えて、なんとなしに手を伸ばす。背中に指で文字を書くと、くすぐったかったのか急に反転してぼこすかと殴ってきた。

 その頬は微かに染まっていた。

「おぅおぅ、怖いなぁ」

 瀬川さんを膝枕をしていたのだ。窓にもたれている彼女が窮屈そうだったのと、どうせなら座席を倒せばいいのにと彼女のまわりでごそごそやっていたら、瀬川さんの方から倒れてきたのだ。

 どちらが年上か分からないな、と先輩に笑われてしまったことを、ぐっすり眠っていた彼女は知る由もないだろう。

「オホン。おはようございます」

「おはよう瀬川。よく寝てたなぁ」

「何か、業務で進行したことはありますでしょうか」

「何も変わって無いよ。暇で暇でしょうがなくて、仇間と好みのエロ漫画について語り合っていたところだ」

「んなことしてませんよ」

 本当だろうか? と瀬川さんから訝しまれた。僕が弁明のためにあくせくと説明をし始めたというのに、織田先輩は涼しい顔で視線をアパートへと戻していた。

「正月うちは家に引き籠って、のんびり過ごすのかもよ」

 そうであって欲しいなあと、先輩は深く溜息を吐いた。彼の調査相手は今年で四十を超えた女性だったが、その不倫現場を抑えるというのが今日の主旨だった。彼女が自宅に若い男を連れ込んでいるというのが旦那の言い分で、万が一にも行為中の彼らと遭遇したなら即時の離婚調停にまで発展しかねない勢いだったそうだ。というか、普通はそうなんだおるな。

 旦那の仕事中に不貞などしていないと言えれば万々歳だし、出てしまったときに備えて先輩は望遠レンズ付きのカメラを携えている。今朝方も相手が年増だから乗り気はしない、とやつれた顔で笑っていた。多分、既に一度は疑わしい現場を目撃していたのだろう。その時は運悪くカメラが故障していたか、準備不足だったのか分からないけれど。どちらにせよ、若ければ若いほど好みだという彼にはご愁傷様というほかない。

 逢魔が時を過ぎて太陽も山の遠く向こうに沈んだ頃、先輩が深く息を吐いた。

「ちょっと早いが、この辺りで退勤しよう。そろそろ旦那様が帰ってくる時間だ。この時間にヒモ男が現れるなんてまず有り得ないし、万が一のときは当事者が何とかしてくれるだろう」

「適当ですね。……少年君の方は、冬休み最終日ですけど」

「大丈夫じゃない? 悠一君も心配性だなぁ」

「僕が犯人なら、明日から始まる憂鬱な毎日に耐えかねて犯行に走りますけどね」

「安直な考えだな、仇間。瀬川でも思いつかんぞ、そんなこと」

「それはどういう意味ですか先輩」

「いや、言葉通りの意味だけど」

 恒例の口論を始めた彼らを眺めながら、ぼんやりと考え事を続ける。世間で他者と最も折り合いを付けられる人間は、相手の考えに安直な賛同と共感と憧憬を抱くことの出来るバカだと思うんだけどなぁ。いや、冗談だよ、半分くらいは。

 とりあえず、僕一人で行動を起こすことにしよう。

 織田先輩は今日も僕の家でご飯を食べていくつもりらしく、つまりは僕に料理をしてくれと言っているようだ。弁当を買うのと同じ感覚で他人に料理をせがまないでほしいのだが、好きで求められている分には一向に構わない。案外、頼られるのは好きなのだ。

 でも今日は、もう少しだけここに残っていたい。乗用車を降りようとしたら、先輩がセンターロック機能を利用して妨害してきた。僕の行動パターンを深く理解しているらしい。不躾な目で凝視されたが、まぁ、ここは散歩と言い張ることで彼を説き伏せよう。

「あの、軽く運動するだけですから」

「本当かよ」

「だって、長いこと自動車の中にいたじゃないですか。身体が痛くて」

「……分かったよ。ただ、携帯を貸してくれ」

「? どうしてですか」

 理由を尋ねても言葉は返ってこなかったけれど、特に警戒しなければならない悪事も思い浮かばなかったので彼にスマホを手渡すことにした。

「それで、何をするつもりなんですか」

「ちょっとな」

「携帯番号の交換ならもう済みましたよね。あとは……うーん……」

「……よし、終わった。あぁ、あとこれも持っていけ」

 携帯を返してもらうときに僕の家の鍵を渡すと、先輩からは懐中電灯を手渡された。彼の私物なのか、可愛い女の子のストラップが付いている。先輩の顔とキャラクターの顔を見比べて、似合わないなぁと思った。

「もし散歩中に迷ったら、遠慮なく電話をかけろ。瀬川に掛けてもいいし、なんだったら自宅に掛ければいい。それまでには、俺達も晩御飯担当のお前を待ち構えているだろうからな」

「先輩は自宅に帰って食べればいいのでは?」

「俺の彼女、恐ろしく料理下手だからな……」

「という設定らしいから、悠一君も早く帰って来てね」

「設定ってどういうことだ」

「先輩、本当に彼女いるんですか? 見たことないですけど」

「うっせ。お前には会わせたくないんだよ」

 ふたりとも、互いに指を立てて威嚇している。ふむ、僕やゆーちゃんとは違うようだな! 最近、ゆっくりと遊ぶ時間が減ったから怒っているかもしれないけれど、普段の僕等はもっと良好な関係性を築いているのだ。喧嘩をしていても、気付いたら笑いながら相手の頬をつまんでいたりするし。うん、友情の形は人それぞれなんだろう。

 集合するおおよその時間だけを決めてから、僕は車を降りた。一時間後までには帰ってくるようにと念を押した先輩と、僕について来ようとしたけれど乗用車に乗せられたまま連れていかれた瀬川さんとを見送る。

 さて。

 これから一時間で、少年君は犯行を起こすのだろうか?

 じっと、アパートの様子を窺う。

 冬休みだから犯行時間が特定しにくいけれど、深夜には行動を起こさないだろう。その理由は至極簡単で、彼は夜更かしをしないのだ。直接訪ねるわけにもいかないので理由は妄想する他ないが、思うに遅刻や欠席をすることで誰かに怒られることを警戒しているのだろう。

 信念始めての部活動に向かうときも、人より三十分は早く練習場に着いて黙々と準備をしていた。不遇にもコーチに叱られている時は羞恥と憤怒で今にも死にそうな顔をしていた。練習態度こそ不真面目だが、ある意味で生真面目な性格をしているのかもしれない。

 うーん、生きるのが難しくなる性格だ。だからと言って、猫や犬を殺していいわけじゃないけど。彼が凶行に及ぶとして、それが今日だと言う確信はないしなぁ。

 アパートの壁に掛けられた時計と、淡い光に浮かぶ階段入口とを交互に眺める。

 駐車場の目立たないところでスマートフォンを弄りつつ、いかにも僕は誰かを待っているのです、という顔をしていた。調査をしているのは僕の方なのに、アパートの住民から怪しまれるのは嫌だからね。

 先輩たちと別れてから一時間も経つと、車内では感じなかった寒さに体が震え始めてきて、流石にこれ以上は無理だと悟った。努力してもいいけれど、それで風邪をひいたりして明日以降に響くのはダメだよな。

 そろそろ帰ろうと腰を上げると、三日ほど前にも外食に出ていたあの家族連れが帰ってくるところだった。正月の間は洗い物をしない主義なのか、それとも普段から外食をしているのか。

 いいなぁ。お金持ちって感じだ。

 何を食べてきたのだろう、国道沿いにある飲食店と言えばラーメン屋に回転寿司、焼き肉屋やハンバーグ店を含めて十数店舗だ。微かに香辛料が匂えばカレー屋という線もあるが、果たして。……うーん、何だろう。

「こんばんはー」

 女性の声に顔をあげる。部屋に帰ろうとしていた奥さんが、階段を降りてきた誰かに挨拶をしたようだ。誰だろうと目を凝らしてみると、僕らが調べていた少年君だった。挨拶を返したようだが、その顔はやや不機嫌に歪んでいる。部活に持っていく一式……だったとしても、この時間から活動を行うような部活には入っていないのを知っている。

 妙だな。

 彼は周囲の視線を警戒しているのか、首を左右に振りながらマンションの敷地内から出て行こうとする。しかも歩みはいつもより速い。早く行かなくては、見失ってしまうことになるだろう。

 先輩に連絡を取ろうか迷った。追いかけている最中に電話を掛けると彼に気付かれてしまいそうだし、急がなければ彼を見失ってしまう。悩んだ末、そのまま彼を追いかけることにした。

 僕が手にしたスマホは、ただの飾りになってしまったようだ。

 合掌。

 少年は街道を離れ、田圃と畑に囲まれた田舎道を歩く。

 彼の後を歩きながら観察を続けた。随分と前、堤防で犬が死んでいた時に高校生たちから聞いた情報と照らし合わせてみよう。

 これは少年君を調べ始めた当初から分かっていたことだけど、彼は中学生にしては高身長だった。あれだけ背が高いと、運動部ではエース級の活躍を図らずも期待されてしまうものだ。本当はあまり運動が得意ではなく、その為に周囲の失望を買って気分がもやもやすることだってあるだろう。それで殺されるなんて、動物からすればたまったものじゃないけれど。

 背負っている鞄は部活にも持っていくもので工具袋とは言い難いが、あれは言葉の綾だったのかもしれない。例えば工具袋そのものが、あの高校生にとっては部活用の道具を入れておく道具袋だった、とか。んー、もっと単純に、僕が聞き間違えただけって話かもなぁ。

 閑話休題。

 心底から悪意に染まり切っていない人間が罪を自覚したとき、行いには自責の念が生じる。彼が時折振り返るのも、それを端的に示すサインだ。冬の夜は闇が深くて、二十メートルも離れれば視界から対象が消失してしまう。尾行がばれないよう電柱の陰に隠れるのもいいが、田舎町だからと柴の脇に隠れて進んだ。電柱の影よりは隠れやすいし、追いかけるのも楽なのだ。

 幸いにして季節は冬だし、自分の存在が曖昧になるほど田舎道は暗い。田畑に作物は少なく、田圃にも水は張っていない。足元だけ気を付けていればさほどの不都合は感じない。

 僕は影のように、息を潜めて歩いて行った。

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