第27話 本編 9 - 2
探偵事務所というと、どういう場所を想像するだろう。
赤レンガが目立つ高級住宅街かな、三姉妹が隣に住む洋館だったり、煙草屋の二階に質素な居を構えていると考える人もいるだろうか。小学生の頃に読んだ有名小説を思い返すと大体その辺りが浮かんでくるけれど、実際には、どこにでもあるような普通のビルの一室が瀬川さんたちの事務所として機能していた。
都会に見られるような、陽の光を反射して銀色に輝く近代的なビルではない。茶色い漆喰が塗り込められた古いビルだった。ところどころが塗装が剥げて色落ちしているようだし、よく見ればコケがビルの足元にあたる部分を覆っている。建築基準法とか諸々は大丈夫なんだろうか、と少しばかり心配になったりもした。
駅からも遠くはないし交通の便も悪くない。僕の家からも、あまり離れていないみたいだ。
事務所の玄関に張られたポスターは赤と黄色で目立つものだが、あまり目に優しいデザインではなかった。無限だと思っていた世界が実は有限だと知った子供時代みたいに、曖昧な知識が補完されたことによる落胆は僕らを現実に強く縛り付けるようだ。
ノックをすることもなく突撃していった織田先輩の後についていくと、ふわりと甘い匂いがした。みると、小太りな中年男性がシフォンケーキの生地を持って忙しそうにしている。織田先輩はエプロン姿の彼の元へと走り寄って行った。
「まだ準備終わってないんですか」
「だって織田くん、手伝ってくれるって言ってたのに」
「はー、言い訳っすか」
「いいから手伝ってよ。あとはケーキだけなんですから」
わたわたと狭い事務所を駆け回る男達を眺めながら、はて僕はどうしたものかと隣に立った瀬川さんに目を向けてみる。彼女は既に出来上がっている料理の盛り付けや取り皿の準備をするようで、退屈に押し潰されてしまう前に彼女の手伝いをすることにした。
皿やコップを瀬川さんの指示通りに運びながら、それとなく事務所内を見学する。
事務用の机と来客用のソファが並び、居住区として使えるスペースは少ない様だ。一応は仮眠が取れるようなスペースもあったけれど、ここに泊まり込むよりは僕の家の空き部屋を使ってもらった方がいいだろう。そう思うには充分な、人が住む場所には不向きな空間だった。
しばらく経って、実は所長なのだというエプロンおじさんが丁寧に飾られたケーキを運んでくると、これですべての準備が終わっていたらしい。それぞれが思い思いの位置に腰を下ろした。
瀬川さんは僕の左隣、織田先輩は僕の右側、所長は僕の真正面だ。食事をする前にエプロンを脱ぎ捨て、地味で落ち着いた私服へと着替えた所長は胸ポッケから一枚の紙切れを取り出した。名刺のようだ。
「どうも、この探偵事務所の所長をしております、
「お願いします。あぁ、僕は仇間悠一といいます」
「うん。噂は聞いてるよ。猫とかも、もう何匹か見つけてくれたみたいだし」
その謝礼も用意するべきなんだけど、まだ飼い主の人からの入金がなくてね、と彼は丸く膨らんだ頬を赤く染めた。それを横に眺めながら、織田先輩が何やら顔を寄せてきた。
耳打ちっぽかったので僕も顔を寄せると、悪い顔をした彼は妙なことを言った。
「仇間。間違えても所長のことをデブって呼ぶなよ」
「言いませんよ」
「そうか? いや、まさか体型のことを言っているわけじゃないぞ」
「はぁ」
「でいぐりぶんた、これを縮めるとどうなると思う?」
先輩がやけに強調した文字列を脳内で組み合わせる。
なるほど、これは権利団体からクレームが来ること間違いなしって感じの渾名になるようだ。織田先輩と僕の会話が聞こえたのか、それともいつも似たようなことをしているのか、所長は苦い顔をしている。
「織田くん、あんまりなこと言うと減給するからね……」
どうやら苦労人のようだ。改めて手を伸ばしてきた彼と握手をすると、手のひらは太陽に包まれる様に温かかった。しかも、手のひらについたお肉がふわふわしていてやけに柔らかい。
なんとも人柄の良さそうなオジサンだった。
「よろしくね」
「はい、お願いします。ところであの、歓迎会ってことですけど……」
どうやって言葉を繋げようか。
言い淀んでいると彼の方が僕の心中を察してくれたのか、話しかけてくれた。
「まぁ、本契約は結んでいないけれど、しばらく一緒に働いてくれるみたいだから」
「…………」
「え、何かマズいことやったかな」
「…………ぅ」
「年末年始くらいは、嫌なことを忘れてパーっとはしゃぐのもいいもんだぜ」
「…………ぁ」
「もー、みんなが急に歓迎会開くからだよ」
「そもそも伝えてなかったお前の、あれ、誰の責任だっけ」
「私達全員ですよ、まったく。……大丈夫だよ。変なことはしない、させないって、私が約束してあげるから」
みかねた瀬川さんにも声をかけて貰ったけれど、やっぱり言葉を発せられない。
これ以上不安にさせるのも、不快な思いをさせるのもよくないと思った僕は慌てて首を横に振るけれど、言葉は喉に詰まって出てこなかった。
理由はいくつか思いつくけれど、主な原因は僕の人生に起因するものだろう。
これまでにも、アルバイトをしたことがあった。
でも、どこも根暗な少年には厳しいんだ。世間は真っ当なレールから外れた人間に厳しいんだ。仕事仲間として歓迎されたことも、片手で数えるほどしかない。こうして歓待を受けたことなど、一度もなかったのだ。それが当たり前のことで、社会的に認められている自衛策だとしても、僕はとても悲しかった。
事件に巻き込まれただけの怪獣は、寂しくて悲しくて、心が壊れそうになっていたんだ。
「大丈夫です……あんまり、嬉しかったものだから」
この人達の為なら、多少の危険は許容しよう。
僕が生まれてきた意味が、事件を起こす災厄としての存在だけじゃないのだとしたら、それほど嬉しいことはない。銀色の光を乱反射するナイフを握りしめて善良な市民と相対しなくても済むことを、これほど喜んだことがあるだろうか。
そんなことを、考えているうちに、歓迎会は始まった。
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