第25話 本編 8 - 2
強く抱き締められて息が詰まる。
白い花に覆われた花畑はその香りを強め、不慣れな若者を惑わせていた。
瀬川さんは今、どんな顔をしているだろう。見透かされているに違いない狸寝入りを決め込んで、動かなくなった僕にどんな視線を向けているだろう。顔に押し付けられるようにした胸から、彼女の鼓動が直に伝わってくる。これは、僕の心臓の音かもしれない。滔々と流れる血液が生命を感じさせて、本当に苦しんだ頃の悩みでさえちっぽけなことだったかもしれないと思わせてくれる。
瀬川さんの吐息が耳に掛かった。
「悠一君は、私のことを――」
震えながら声を絞り出した瀬川さんに、僕はどう応えるべきだろうか。イメージの中で天使の羽が舞っている。抜け落ちて地に着く前に拾い上げることが、今の僕にできる最良の行動だった。
ゆっくりと体を起こすと、彼女は腕の力を弱めた。縋るように僕を見上げた彼女は、まるで昔の僕みたいに見えた。寝間着を貸しているから、余計にそう思うのかもしれない。
「随分と昔のことまで話すんですね」
「だって、全部話しておかないと。一緒に住む相手なんですから」
「僕は瀬川さんに、この家で暮らすことを許可した覚えは――というか、一泊するとかしないって話が妙に肥大化していませんか」
「あれ、そんな話でしたっけ?」
よいしょ。
掛け声とともに彼女は体を起こした。既に酔いは醒めているだろうに、そのまま雪崩れるように僕を押し倒して来るあたり、ゆーちゃんと完全に一緒の性格をしているようだ。彼女の場合は昔なじみということもあって気恥ずかしさもないが、瀬川さんの場合は理性がはじけ飛んで死にそうになる。ゆーちゃんに抱き付いている時は安らいでばかりだから、こうして緊張するのも新鮮と言えばその通りだけど。
身体が持たない。心臓が爆発しそうだ。
見ると彼女も頬を染めている。昨日、酒が入っている時と同じノリでやってみたら予想以上だったということだろう。ふふっ、そのまま羞恥心で悶え苦しむがいいや。僕だってそうなんだからな!
それにしても、瀬川さんにはしてやられた。最初は彼女が家に帰るか帰らないか、そういう話だったような気がする。だけど、酒を飲み過ぎて思い出せないんだから。
「すごく、嵌められた気分だ」
「中学中退の私に、難しい話は分からないなー」
「経歴だけで言えば、僕も似たようなものですよ」
家族が死んで、第三者に救われて、二十歳になって探偵の真似事を始める。ゆーちゃんと僕は顔の輪郭が酷似しているそうだけど、瀬川さんと僕は人生の骨格が似ているようだ。あと、どーでもいいけど、胸を優しく撫でないでほしい。心臓がくすぐられているような気がして、無暗に鼓動が早くなるじゃないか。
「それで、悠一君。私もこの家で暮らしたいんだけど」
「……事務所で暮らし続ければいいじゃないですか」
「言ったでしょ。あそこ、住むには適してないの。実家には帰り辛いし」
「ふぅ。本当に住む場所がなくて困っているなら手助けしますけどね、家族で揉めているだけなら――」
「ここじゃないと、仕事にも差し支えがあるんだけどなー。片道二時間の通勤なんて無理だしなー」
「……それでも、家族は大切ですよ。えぇ、瀬川さんが家族に連絡だけ済ませてくれれば、ここに住んでもらってもいいですとも」
ふと、僕を撫でていた彼女の手が止まった。
見知らぬ他人の家に泊まりこまなくてはいけないほど、彼女は家族に嫌われてはいないだろう。働く内に部下が出来た、仕事もそつなくこなせるようになったと説明すればさしもの両親も許してくれるんじゃないだろうか。そうすれば家には帰れるはずだし、ここに泊まり込む必要はないはずだ。
そんなことを口にして、説得を試みた。最初の内は嫌がっていた彼女も、話しているうちに気分が変わったのか、両親に一度は相談することを約束してくれた。指切りまでした。彼女の手は思っていたより小さくて、ずっと触れていたくなったほどで。
過去を清算していない人間が、似た境遇の相手へ滔々と語る。しかも相手の人生や今後を左右するかもしれないことへ堂々たる意見を述べる。それが欺瞞でなく何だというのか。天性の詐欺師だよ、僕は。
騙す気がないのに、他人を陥れてしまう人間だった。
ようやく離れた瀬川さんと一緒に、ふたりで連れ立って台所へ向かう。
暖簾をくぐったとき炊飯ジャーのアラーム音が鳴り、そういえば酒を飲みながらでもご飯の支度だけはしたんだったな……と昨日のことを思い出した。
マグカップにコーヒーを淹れていると、瀬川さんが再び抱き付いてきた。寝起きよりも弱めの、親しい姉弟がよくやりそうなハグだった。
「そういえば、忘れていたことがあって」
「なんですか。生活費は自分で出してくださいよ」
「もー、そういう話じゃないですよ」
彼女が照れたように「おはようごさいます」と言った。それに「おはよう」と返すだけで、なぜか胸が温かくなった。
軽い朝ご飯を食べた後、彼女は家へと荷物を取りに行くことになった。ついでに家族と面談して、今後の指針を示すそうだ。そっちを本命にしてくれ、と思わなくもない。自宅に彼女の両親が押しかけてくるところとか、想像したくないからな。
明後日の午後七時を過ぎても帰ってこなかった場合には電話をして説得に協力してほしいと、彼女の自宅の番号まで渡された。これこそ上司たる織田先輩の役割だと思うのだが、こういう時に大切なのは、ノリと自信と勇気と運だ。最後のひとつは天命に任せるとしても、それ以外の者は自前で調達するしかない。不足分は周囲の、信頼のおける人間で必要がある。
閑話休題。
今日は素人探偵もお休み。というか、瀬川さんと会ってから何日が経った? 全然月日は経過していないはずなのに、こんなに親しくなると思わなかった。そう告げると、彼女も不思議そうに笑った。
「でも、私の方は悠一君を一か月も前から見ていたわけですし」
「会話をしたのは、えっと、モールでご飯を食べたときが最初ですよね」
「そうだね。いやー、中学校にも途中で行かなくなっちゃったから、お姉さんには普通の交流の仕方が分からなくて」
「妙に親しげだった理由が、ようやく分かった気がしますよ」
真っ当な青春を送ってこなかった人間は、他人との距離感を掴めないのだ。本人が言うのだから、これほど説得力のある言葉も存在しないだろう。馬の合う人間とは一時間もすれば親友になり、性格の不一致を理由に誰かを生涯嫌うことも出来る。これだから最近の若者は、と人徳の在りそうなオジサマが説教する場面まで想像できた。
出掛ける準備を手伝っていると、ふと思い出したような質問が飛んできた。
「悠一君は、私のことを好き?」
「急にどうしたんですか。え、何かの謎かけですか」
「違うよ。昨日はあんなに好き! 愛してる! って言ってくれたのになー」
「言った記憶はないですね。たとえ言ったとしても、それは姉として」
「酷いわ。私はこんなに悠一君のことが好きなのにー」
よよよ、と泣き崩れた。玄関にうずくまっている姿は胡散臭いが、なぜか真実味がある。何も言えないでいると、彼女はぽつりと呟いた。その顔には、意地悪な笑みが浮かんでいる。
「悠一君、顔真っ赤だよ」
「誰のせいだと思っているのか」
「誰のせいなの? うわー、悠一君も男の子なんだなー」
心底楽しそうに、満面の笑みを浮かべている。
いっそ狼になって瀬川さんを襲ってやろうかとも考えたが、青春を曲がりなりにも愛している僕がそんな凶悪な手段をとるわけにもいかない。休日に高校生が駄弁っているのを眺めるだけで英気を養う人間だぞ、そんな僕が不埒な好意に手を染めるわけには行かないじゃないか。
大体だな、出会って日の浅い人とそういう関係になることを想像してみよう。底の分からない沼に足を突っ込むほど恐ろしいじゃないか。
「悠一君。私が君を選んだ理由、聞きたい?」
「……通勤に楽そうだから。家族もいないし、家が広そうとか。幼馴染がいるから、手を出してくることもないだろう、とか」
「全部違うよ。ハズレだぞ、この――」
両腕を振り上げた彼女を見て反射的に目を閉じる。背中をがっしりと掴まれて、そして。
頬に、キスが飛んできた。
呆気にとられて固まっていると、彼女は僕を優しく抱き締めた。今日一日だけで、一生分のハグをされているような気がする。動けずにいると、彼女の手が僕の背中に触れた。指が、そっと表面をなぞる。
「本当に、分からないの?」
密着しようとはしない。朝と比べれば控えめな、羞恥心が垣間見える動きだった。
「それは、私が君を好きになったから。でも君の傍には有希ちゃんという可愛い女の子がいて、こうでもしないと近くにいることすら難しいと思ったから。だから私は、探偵失格の汚名をも辞さないつもりよ」
言葉を紡げない。彼女の瞳は真剣そのもので、唇は微かに震えていて。美しく緊迫した表情に息も継げないでいると、彼女はふっと笑った。
「冗談だよ、悠一君」
茶目っ気たっぷりに言われて、頬が燃えるように熱くなった。
……一日で、二回も死にたくなるなんて。
この後、猫みたいな喧嘩が始まったのは語るべくもない。玄関先に現れたゆーちゃんがことの次第を収拾してくれるまで、僕等は笑いながら相手を叩きあっていた。
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