第24話 女探偵 1 - 2
多少歪んでいたとはいえ、何かを傷つけようとした彼女の心は疲弊したはずだ。人間は誰かを傷つける度に魂が摩耗して、やがて何も考えずに誰かを傷つける悪魔になる。それとも、復讐者たる彼女の身体には、溢れんばかりの狂気と愉悦が迸っていたのかな。だから痛みも苦しみも感じることなく、他人の愛を踏みにじることが出来たのかな。
直接聞いたことがないから、分からないけどね。
それはさておき、愛犬の死を目撃した私がどうなったか。
庭の惨状を目の当たりにした直後、もどしました。
昨日の私は、昔と比べれば大分頑張った方なんだよ? 血だらけで横たわっている犬をみたら、昔のことを思い出して……大丈夫、今度は吐いたりしないから。悠一君をこうして抱きしめている間は、うん、案外落ち着いていられる。ちょっとドキドキしているけど、それくらいだから。
へへへ。
警察の話を聞いて家に戻ってきた後、私は胃がひっくり返ったんじゃないかって思うほどに吐いた。吐瀉物で息が詰まって、挙句に病院へ運ばれた。現場にはまだ証拠が残されていたし、件の少女と親しかった同級生の証言もあって、犯人が彼女だという証拠は十分に集まった。ホームセンターで飼ってもいない犬の餌を頻繁に購入していて、犯行に使っていたカッターナイフは彼女の部屋に隠されていて、私の家の近くのコンビニでは防犯カメラに血だらけの服を着た彼女が映っていて。
そうして、彼女の罪は定まった。
彼女には自宅で一週間の謹慎という――こら、たかだか十四歳の少女にそれ以上の処罰を望むのは難しいぞ。出来ても、これは器物破損という罪なんですよと教え諭すくらいじゃないかな――ある程度の罰が与えられて、彼女は社会に復帰することが出来た。
でもね、私はダメだった。
犬が私の心を支えてくれていたの。支えを失った私は、一本足の案山子ほどうまく立っていられなかった。達磨のように、何度も起き上がれるほど強くなかった。その場にへたり込んで、動けなくなってしまったの。
恥ずかしい話、実は他人への恐怖は取り除けなくて。
こうして悠一君に話が出来るのは、君を「不幸によって大切な家族を奪われた仲間」だと思う気持ちがあるからかもしれない。私と同じ人間だと、そうやって評価を下げているところがあるからかもしれない。
嫌だったらゴメンね。
本当にごめんなさい。
私の犬が死んだのは私にも原因がある。それを取り除くために、誰かがこれ以上不快な思いをしないために、私にはできることは何かなーと考えて。
結局、何もできないと思って、学校まで辞めちゃった。義務教育だから退学にはならなかったけれど、自宅から一歩も出ない日々が続いたわ。あのころが一番、魂の根っこまで腐っていた時期だと思う。
何も出来ないし、何もしない。
何も生まず、時間だけを消費する。
呼吸をするだけの人形になると、ヒトは終わりだね。だから、悠一君が有希ちゃんと楽しそうに笑っているのを見て、「この子は過去から立ち直っているんだな」って吃驚させられたけれど。
うん、あの事件のことは知っているよ。
結構、ニュースになったもんね。
当時のテレビには君の名前がよく載っていたし、君の両親が結構な富豪だったこともあって、一年近くは妙な憶測が流れていたから。君のお父さんはプレイボーイという噂も随分と広まっていたし、不義の子がいて、その子を巡ってトラブルになったとか。あと、共有財産を奥さんが何処かに隠して、それに激昂した旦那さんが手を出したとか。
迷信よりも信じがたい噂話を真に受ける人は少なかっただろうけれど、織田先輩みたいに、間違った情報を鵜吞みにしている人は多いんじゃないかな。かくいう私も、その一人だろうけど。
さーて、卒業式をサボった中学校時代の話はここで終わりにして。
それから三年間、探偵事務所の存在を知るまでの話をしましょう。
実はね、悠一君と同じ。私も、社会不適合者だったのだ! ……ごめん、ちょっと言い過ぎたかな? でも、やっていることは似通っていたと思うの。
太陽が出ている時間は曲がりくねった山道と田圃のあぜ道を歩いてまわり、夜が来れば自室にこもって本を読み耽る。ご飯時以外は顔を見せることもない娘を心配する両親と会話することもなく、ずっと自分の世界に閉じこもっていた。君にはゆーちゃんという幼馴染がいたけれど、私には慕った相手も、親しくしてくれた子もいなかったの。簡単に言えば、人生の絶不調期だった。厄年には早いぞーって、内心で何度叫んだか覚えてないわ。多分、一度も叫んでないでしょうけど。
煙草も、酒も、悪いことは一つもしなかった。教えてくれる人は当然いないし、自分からやってみよう! と乗り気になったこともない。これ、本当の話だからね? 昨日、悠一君と一緒に飲んだお酒が初めてのアルコールだったもの。……うーん、あんまり美味しいとは思わなかったなぁ。悠一君も飲まない方がいいかもよ。
酔っ払った君、すごく可愛いけどエッチだから。頬をすり寄せて、耳元で殺し文句を囁いたりして……こら、耳を塞ぐのは禁止だぞ。君が酔っていたからって、あの言葉の数々を私が忘れたりするわけじゃないからな。
おほん。
深夜徘徊を嗜んだことはあるけれど、私に夜型の生活は合わなかったから、ほどなくしてやめることになった。昼間の散歩がナンバーワンってことだね。それからは定職にも就かず日々を過ごしていました。何度かバイトに精を出してみたこともあるけれど、一ヵ月も持たずに辞めちゃったし。学校生活にも適合できなかった私が、バイト内の人間関係を読み取れるはずもなくて。
三回目の正直って格言。あれは嘘だよね。
努力しても届かないものって、頑張っても適応できないものってあるはずだから。
十八歳になったある日のことだった。
薄曇りの空にはアキアカネが飛んでいて、散歩の途中に鼻歌を歌いたくなるような日だった。今より髪は短くて、たまに童顔な男の子と間違われる以外は特に変わりもない。近所の人は私に優しくしてくれたけど、この人達もある日突然暴れるんじゃないかって、怯えながら過ごしていたあの頃。
散歩をしている最中に、家の近所を歩き回る不審者を発見したんです。これが織田先輩の上司で、現在の所長にあたる人だったの。悠一君は会ったことがないだろうけど、見た感じ人の良さそうな中年男性よ。そんな人が平日の昼間、アパートの駐車場で乗用車の下をゴソゴソとやっていたら誰だって怪しむでしょう?
丁度その頃、スパイが出てくる小説を読んでいたから、乗用車の下に爆弾を仕掛けているのかなーって思った。それで、指一本で警察に電話を掛けられる状態で彼に話しかけてみると、捜索依頼の出ている猫が乗用車の下にいるという話だったのね。
暇だったし、他にすることもなかったから彼を手伝ってあげたんだ。それが私の、探偵としての初仕事。
すごい感謝されたし、後日依頼した女性からの感謝の手紙というものも読ませてもらった。一週間くらい後に、同じ場所を散歩していたら所長が待ち構えて手紙を渡してきたからね。その時に「もしも暇なら猫を探すのを手伝ってくれないか」と言われて、探している猫の写真と、彼が所属していた事務所の名刺を貰った。
それから私は、親に隠れて探偵を始めたってわけ。娘が日に日に笑顔を取り戻すことを嬉しがった反面、散歩でもないのに出掛けていくことを不審に思った両親に事情を知られてピンチに追い込まれたけど、所長が事務所を新設するというタイミングでの出来事だったから、こっちに逃げてきたの。
それが、十八歳の時の私の話。
あー、うん。せっかくだし、事務所での生活についても少しは説明しておこうかな。
探偵事務所は生活を想定したつくりではないけれど、寝袋があれば夜を過ごすことだってできた。近くで弁当も買えたし、銭湯もあった。洗濯だって、コインランドリーで済ませられる。所長と織田先輩――実は、私以外にはそのふたりしか所属していないんだけど――彼らも、私に最大限気を遣ってくれた。家庭環境を知っていたし、地元で私のことを調べれば過去の事件も簡単に分かるはずだから。
それから半年、一人にも慣れた。そう思い込むのは簡単だった。だけど悠一君に関連する依頼が事務所に来て、私がその担当になったとき、すっごい寂しくなったの。家には戻りたくないけど、人の温もりは欲しい。先輩のことは上司として尊敬しているし、所長には父親に向ける親愛を持っている。だけど悠一君に向けるこの想いは、それとはまったく別のものなんだ。
ねぇ、私の言葉を思い出せるかな。
話したこともない相手を好きになるはずがない。
昔の私は本気でそう考えていた。
好きじゃない人と一緒にいることほどの苦痛は、今の私にとっても存在しない。
つまり、こうして抱きしめられる相手に抱く感情は決まっている。
ねぇ。
君の隣は、空いているかな。
それとも、有希ちゃんの為に空けてあるの?
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