第21話 本編 7 - 3

 ゆーちゃんの寝起きが悪い時に実行するアレを、瀬川さん相手にもやってみることにした。あとでセクハラと訴えられないように、細心の注意が必要だけど。

「文句は、言わないように」

 瀬川さんに勘付かれないように、布団の上で馬乗りの姿勢をつくる。これまでは頭の方から剥がすことばかりに奮闘し、躍起になっていたが今回は違うぞ。

 彼女の脇腹辺りへ、掛け布団と敷布団の隙間から思い切りよく手を入れた。彼女が悲鳴を上げると同時に布団を抱えて、そのまま一気にめくり上げる。布団を剥がされた瀬川さんは、胸の前で両腕を交差させていた。バツ印に結ばれた腕に抑えつけられた、形の良い胸部に目を奪われてしまう。

 そういえば、今の彼女は下着をつけていないのだった。

 ――はっ。何を妄想しているんだ。

 僕は、瀬川さんの脇をくすぐっただけだぞ。

 思い切り自分の頬を叩き、頭を振って邪な考えを振り払う。

「とにかく、帰る準備をしましょう」

「い、嫌よ。今日はここに泊まっていくから」

「どうしてですか。もう起き上がれるほど回復したんだし、帰らないと」

「だって、体調が悪いし」

「――瀬川さん?」

 普段ハキハキと喋る彼女が珍しくどもっている。不思議に思って顔を近づけると、瀬川さんは完全に動転し始めた。やっぱり、嘘を吐いているんじゃないだろうか? 体調が悪いのは本当かもしれないが、何か重要なことを隠しているに違いない。それが明るみに出ることを恐れて、彼女は必死の抵抗をしているのだ。

「まず、親御さんに連絡しましょう」

「私は社会人だし、大人なんだから大丈夫」

「でも、まだ二十歳かそこらなんでしょ? だったら子供ですよ」

「私より年下の悠一君には言われたくないな! ……もう一泊くらい、ね?」

「着替えもないじゃないですか」

「悠一君が貸してくれた、この服があるじゃない」

 にっこりと笑って、僕に跨られたまま服の肩の部分をつまんで見せた。

 無理矢理脱がしてやろうかな、と一瞬だけ考えて、公序良俗違反です! とゆーちゃんに殴られるところまで想像して手を止めた。んー、どうすればいいのだろう。帰りたくないからと暴れる彼女の両腕をがっちり掴んだのはいいけれど、これから先のことを考えていない。お願いして動かないと言うことは、彼女が自主的にこの家を出たくなる手段を模索するしかないわけだ。

 ここはひとつ、ゆーちゃんを怒らせて即日家に帰したこともあるアレをやってみるか。明日以降の関係性に響くかもしれないが、寄り切られて負けるよりはマシだろう。

 彼女の両腕は暴れられないように拘束したまま、瀬川さんの額に、僕自身の頬を寄せた。この時点でセクハラ確定、場合に依っては「法廷で会おう!」と宣言された上に殴り倒されているところだが、まだ終わらないぞ。そのまま顔を寄せて、身体をぴったりと密着させる。瀬川さんも僕みたいな少年に擦り寄られるとは思っていなかったのか、動揺が全身に現れている。悲鳴を上げない辺り男性馴れしているのかとも思ったが、顔は真っ赤だし目元には真珠のような涙が浮かび、呼吸も整備不良のエンジンみたいに荒れている。

 身体の柔らかさは直に伝わって来るし、ずっと布団に入っていた為に暖かい。彼女が羞恥心に耐えかねて逃げ出すより先に僕の理性が弾け飛びそうだが、幼馴染がナタを振りかざしているところを想像して耐えた。嘘だ、髪を解いた瀬川さんは僕好みのお姉さんで正直これ以上は絶対に無理だ。

 あらんかぎりの理性を振り絞って、彼女の耳元で囁いた。

「瀬川さん」

 名前を口にして彼女を強く抱き締める。ゆーちゃん相手ならここで確定グーパンチが飛んできて、ローキック及び内臓粉砕拳によるダメージが加算される。追加攻撃もあるぞ。以前一度だけ、寝惚けていたときに冗談で迫ったことがあるが、結果は酷いものだった。一瞬にして目が覚めたし、そのまま世界の果てにあるどこか遠い場所に行ってしまうところだった。具体的には死後の世界だな。

 まぁ、ゆーちゃんでなくとも大抵の女性は気持ち悪くなって僕を突き飛ばすだろうけど。酩酊時の浮遊感と泥酔時の万能感みたいなものが、一緒になってやってくる。そこに高揚感まで加わって心が折れてしまいそうだ。

 彼女の耳元で、もう一度囁いた。

「僕だって男なんですよ。幼馴染もいないし、あなたが今日泊って行けば僕は何をするか分からない。それでもいいっていうんですか?」

 波打つ心臓の音は、誰のものだろう。

 明らかに動揺しているのは、彼女だけではないはずだ。

 静かで、バクバクと跳ねる心臓だけが煩い時間が過ぎて行く。

 彼女は、小さく呟いた。

「いいよ」

 聞き間違いだろうか。

 彼女の言葉を脳内で反芻して、意味を確かめる。

 意味を、もう一度確かめる。

 ふむ。

 そっと抱き返されて、背中を優しく撫でられた。

「悠一君」

「うおわぁぁあぁぁあぁぁああ!」

 甘く蕩けるように囁き返されて、僕の方が死にそうになった。

 叫んで喚いて飛び上がって、彼女の手を振りほどいて部屋の隅に逃げる。

「やめろ! 急に攻勢に転じるんじゃない!」

「攻勢って何よ。悠一君が先に手を出したのに」

「あれは、なんというか、あの」

「……冗談だって言いたいの?」

 ようやく布団から起き上がった瀬川さんは、擦り寄って来て僕の額に手を触れた。ここで飛び上がって僕を威嚇するのがゆーちゃんで、これが瀬川さんの反応か。大人の女性だと思っていた彼女の顔も、今は年相応の若い女の子にしか見えなかった。

 やっぱり、罰せられるべきは僕だろうな。

「私を、からかったの?」

 彼女の真摯な瞳が、興奮し滾る僕の血を抑えてくれる。

 正直に答えたとき、彼女はどんな気持ちになるだろう。それを想像するのは難しいことじゃないが、僕はあえて分からない振りをした。そして、素直に土下座をする。

「ふざけたわけじゃない、けど。瀬川さんが帰ろうとしないから、自発的に逃げ出したくなる方法をとろうとしました」

 ただ、人生経験がゴミみたいに少ない上に相手が幼馴染で気心の知れた少女しかいなかったものですから、こうした一般的に考えておかしいだろテメェみたいな方法しか思いつかなかったんです。

「ゆ、許してください」

 土下座も諦めて、畳の上で五体投地した。今なら足で踏みつけられても、絶対に文句は言わないぞ。

 ……うぐぐ、生き恥をかいてしまった。幼馴染のゆーちゃんしかサンプルケースがないのに、どうして僕は瀬川さんに抱き付いたりしてしまったのだろう。しかも適当に提案した要求が受諾されそうになっていた。死にたい。中学生以来、久しぶりに死にたくなったぞ。取り敢えずの弁明を、釈明をしないことには死んでも成仏できない。

 そっと顔をあげると、彼女はなんとも言えない顔をしていた。八十五点を目標にしていた息子が、八十三点の答案用紙を差し出してきたときの母親みたいな顔だ。もう一度頭を下げれば許してくれるかもしれない、そう思って畳に額を擦り付けた。

「ごめんなさい」

「……他の方法が思いつかなかったの?」

「包丁で脅すとコミカルになるし、家族がいないことは既に知られているし、ゆーちゃんも親戚の家に行っているから頼れないし。高校中退で中卒という華々しい学歴しか持ってないので、これ以上のことは思いつきませんでした!」

「素直に説明して、帰ってもらおうとは思わなかったのね」

「言ったところで、瀬川さんは帰らなかったんじゃないですか?」

 返事がこない。そっと顔を上げると、頬を膨らませていた。

 どうやら図星だったみたいだ。やった、僕の努力が無駄じゃなかったことが証明されたぞ! 最初から話し合っていれば何一つ問題なく行動出来たとか、そういう後だしのを振りかざすのは止めような!

 呆れた、と瀬川さんは呟いた。顔をあげて様子を窺うと、体操座りをした彼女が枕を抱きかかえていた。その頬は、まだ薄っすら紅色に染まっている。

「……あの。帰らない理由とか、あったりするんですか」

 質問をしたけど彼女は答えてくれず、瀬川さんは亀みたいにうずくまって、もう一度布団の中に潜って行ってしまった。菖蒲柄のかけ布団の上にもう一度跨るべきか否か、答えは明白である。二度同じことをしようものなら精神が崩壊するに違いないのだ。

 主に、僕の。

「取り敢えず飲み物とお茶請け持ってくるので。……布団から出てくださいよ」

 それだけ告げると、僕は部屋を逃げ出した。十二月の冷たい空気が充満した廊下を突っ切って、台所まで一直線に向かう。冷蔵庫に美味しいお菓子の類があるわけでもないし、ジュースもほとんど入っていない。祖父母が世界で唯一認めた娯楽である「アルコール飲料」の類なら沢山あるんだけどな。流石に、持っていくのは自重しておこう。

 お茶のボトルとチョコやドラ焼きなどの菓子類を大量に携えて、瀬川さんの待つ和室へと向かう。扉を開けようとして、ふと、彼女も「ゆーちゃん」に成り得ることに気が付いた。確か下の名前が優愛、だったもんな。他に「ゆ」から始まる知り合いと言えばゆーちゃんの双子の弟くらいだが、彼とは長らく会っていない。というか「ゆ」で始まることしか覚えていない。彼の名前は、なんだっけ。

 それはさておき。

 そっと中を覗くと、瀬川さんと目が合った。準備はバッチリと済ませたみたいだ。

 言い訳をしないと正面に座ることも出来ない僕は、こんなに心が弱いのに。

「正当な理由もなしに、僕はあなたのことを――」

 何かを言いたくて、でも言葉には出来ずに彼女の前に座った。視線を伏せがちの彼女をみて、動悸が激しくなる。触れ合った身体の温かさを思い出して、僕は思わず目を逸らした。

 グラスに琥珀色の液体を注ぎいれながら、瀬川さんが語り始める。

「そう、あれは――」

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