第15話 本編 6 - 2
口元はヘの字に曲がっているし、眉で皺を寄せている。十年来の仇敵を前にしたオコジョみたいだ。まぁ、それでも美形として認識できるあたり、瀬川さんの容姿は整っている方だと断言して間違いないだろう。
と、それは置いといて。
不倫現場を押さえようとしたら当事者同士での問題が起こってしまった。事の顛末における責任は怪しい男こと織田先輩にあるのだろうし、同僚とはいえ仕事を一緒にやっていたわけではない瀬川さんは、どうにも彼を手伝いたくないようだ。先輩として慕ってはいるが、人間性を好んでいるわけではないみたいだし。
……自分がどう思われているかは分からないのに、他人がどう考えているかを推測したがるのは悪い癖だよな。
「瀬川さん」
「なに? 悠一君」
「あれだけ騒がしいと猫も来ませんよ。他の場所へ行きませんか」
「そうしようか。じゃ、堤防の方へゴー!」
「ちょ、その前に行きたいところがあるんですけど」
瀬川さんに事情を説明して、神社へ行くことにした。
当初の予定にはなかった場所だ。
堤防傍の河川敷へ向かう途中に、ガソリンスタンドがある。そのガソリンスタンドと細い道路を挟んだ位置に寿司屋があって、その裏手にこぢんまりとした神社があるのだ。
織田先輩と会ったアパートの駐車場から歩くこと十五分弱、目的地に着いた。残念ながら野良猫や犬の姿はなく、代わりに近所のおばさんとその飼い犬が境内横のベンチに座っていた。神や仏に縋ることもないし、無信心の人間に参拝されたところで神様も困ってしまうだろう。何事もなかったかのように踵を返すと、瀬川さんがぽつりとつぶやいた。
「神社に来ると、昔のことを思い出すなあ」
何かあったのか。
敢えて尋ねることはしない。彼女が誰かに話したいことなら、相談したいことならば、いつか言葉にしてくれるだろう。僕だってまだ、彼女に事件の秘密を明かすほど打ち解けてはいないのだから。
神社から五分も歩けば、目的の堤防と河川敷が見えてくる。
川沿いの堤防を歩いていくと、堤外地にあたる弓道練習場の付近で高校生たちが騒いでいた。ちょとした人だかりができていて、女生徒の高い声がこちらにも響いてくる。
冬休みの練習中に誰かが怪我をしたのだろうか。
高校生の集団に近づいていくほどに、そんな楽観的な悲劇を予想していた僕は裏切られていく。数人の生徒がしゃがみこんでいるし、女生徒の中には涙を流しているものもいるようだ。笑っている生徒はごく一部で、大抵の生徒は暗い顔をしている。なるほど、そこにあるのは陰惨たる結末か目を覆いたくなるような惨劇なのだろう。
だけど、僕は逃げないよ。小動物を手に掛けた人間が、自分と同程度の生き物に躊躇なく手を挙げられるようになることを知っているから。
誰も想像していないような結末や惨劇に恋焦がれるように、暗い妄想を抱きながら歩を進める。瀬川さんの指示に従って、集団から少し離れた場所で待機することになった。
堤防の上から彼らの動向を眺める。
泣いている子、動揺する生徒を知り合いの子らが抱きかかえるようにしてその場を離れていく。不幸を物笑いの種にしている一部の生徒を頭の禿げた教員が一喝して、現場の解散を指示していた。生徒達を現場から遠ざけて、その場に残ったのが教員だけになったところで僕達も行動を開始する。
まず、生徒たちが目撃したものを、僕もしっかり目に焼き付ける。
予想通り、と有能な探偵なら言うんだろうなぁ。
茶色い犬が死んでいた。四肢は関節と逆方向に折れ、腰とを丹念に捻じ切られている。全身の至るところに擦過傷と切り傷が刻まれていた。現場にいた数人の生徒が泣いていたのも無理はない、まともな人間なら目を背けてしかるべきだ。
これを笑えた高校生がいるのは、時代の変遷のせいかな。それとも、僕らの世代の心が壊れているのかな。他人の不幸を笑顔で飲み込めるのが人間の正しい姿であることを想像して、不意に吐き気を催した。
捻じ切られた首に、かろうじて首輪が引っ掛かっているところを見るに飼い犬だったものだろう。ネームペンで書かれたらしい名前がどうにか読み取れる。瀬川さんに同じ名前の犬を探しているかを尋ねたかったが、つい数分前に見た女子生徒と同じようにうずくまっていた。青い顔をして口元を押さえている。肩も小刻みに震えていて息も荒いようだ。
質問は彼女が回復してからにしよう。
禿頭の、恐らくは教員か部活の指導員と思しきおじさんへ声を掛けることにした。
「すいません、ちょっといいですか」
「ん、なんだね」
「尋ねたいことがあるんですけど」
「うちの生徒の仕業じゃないぞ」
「えぇ、分かっています。ただ、発見した時間とかを教えていただけると」
「なんだあんた、警察でもないのに」
禿頭のおじさんは眉をひそめると、近くにいた瀬川さんと僕を交互に見やった。確かに、スーツの上にコートを羽織った真面目そうな女性と、直前までパーカーのフードを被っていた怪しげな少年の組み合わせは異質かもしれないが。
警察なら良くて、一般人相手に説明するのは嫌なのだろうか。それでも相手は教職に就いているだけあって、両手を合わせて頭を下げると教えてくれた。
「いつもは十三時に練習を開始するんだが、倉庫当番だった先生が急な風邪で寝込んでしまってな」
「倉庫当番?」
「ほら、あそこに弓道部の倉庫があるだろ。アレの鍵だよ」
おじさんが指差した先に目を向けると、確かに白い塗装の倉庫があった。まだ開錠されていないのか、シャッターは降りたままだけれど。
「休んだ先生の代わりに俺が学校まで鍵を取りに行って、十四時ちょっと前に帰って来てみればご覧の有様だった」
「ということは、先生は何もご存じではない?」
「そうだな。まだ、誰にも事情を聞いていないから分からんが」
「生徒なら何か知ってますかね」
「どうだろう。殺す現場を見たら、あんな騒ぎじゃすまないだろうし」
俺だってこれを直視できないんだぜ、とおじさんは苦々しく呟いた。
このくらいなら大丈夫だ、と細部まで観察していた自分が恥ずかしくなる。
生き恥をかく前に、質問を重ねて話題を誤魔化すことにした。
「最近、こういう事件が多いみたいですね」
「そうだな。……ところで君はどこの生徒だ? ウチの生徒じゃないよな」
「あー、僕は」
相手がゆーちゃんとは違う高校の先生だと見透かした上で、彼女が通っている学校の名前を出した。彼が素直に頷いたのを確認して、ほっと溜息を吐く。
「そうか。あの学校の近くでも、猫だったか烏だったかの死体が転がっていたんだろう? それで学校全体に注意喚起のプリントが配られたらしいが」
「そうですね。他の学校でも似たようなことがあったんですか」
「んー、まぁそういう話も聞いたことがあるが。ただ、うちの生徒が現場に居合わせたのはこれが初めてじゃないか? だって、お前のとこの校区が一番被害件数多いらしいし」
へー、じゃあ犯人は意外と近くにいるのかもしれないネ。
ふふふと面白くもないのに笑ってみた。なんだか心が冷めていく。犯人を捕まえるか、二度と犯行に及ぶことのないよう教唆しなくてはならないだろう。もしも僕が犯人を捕まえることが出来たらの話だけど。
おじさんに礼を言って、瀬川さんがうずくまっていた場所へ戻る。彼女も、少しは回復したようだ。青ざめた顔で立ち上がった彼女を連れて、怪しまれる前にその場を離れる。瀬川さんに携帯を借りて、織田先輩に連絡を取ることにした。ただ、操作方法が分からないので瀬川さんに電話をかけて貰って、通話口には僕が出る、というスタイルをとった。
彼女はまだ、犬の死骸の詳細を説明できる体調じゃなかったし。
電話で僕の説明を受けた織田先輩は、深々と溜息を吐いた。名前を調べたところ、死んだのは探していた犬の一匹でほぼ間違いないようだ。飼い主が阿鼻叫喚する様が容易に想像できると先輩は電話の向こうで嘆いていた。
女性の叫び声と陶器の割れる音が聞こえて思わず電話を切ってしまったが、あの人も案外大変なんだな。修羅場ばかりを経験したなら、性格がひねくれても仕方ないだろう。
さて、この後はどうするか。
まだ十分に活動できそうにない瀬川さんを放置したまま、現場から少し離れた場所に留まり、まだ弓道場へと戻っていない生徒の一人を捕まえた。しゃがみこんだ女の子を、その友人達が囲んでいる。僕よりも年下の子しかいないはずだけど、少なくとも小中学校時代の同級生がいないことを確認してから話を進める。
「ちょっと、いいかな」
「なんですか……_.?」
「あの犬を探してたんだ。友達があの犬の飼い主だったもんで」
「そう、なんですか」
「あぁ、そんな悲しそうな顔はしないでくれ。僕はね、君達に教えてほしいことがあるんだ。犬を最初に見つけたのは誰なのか――勿論、その人が犯人だと疑っているわけじゃない。ただ情報が欲しいだけなんだ」
なるべく優しく、丁寧に。ゆーちゃん曰く、落ち着いて喋れば僕の声は人を惹き付けるものがあるらしい。見た目の割に低い声が面白いからだとも言っていた。詐欺師やジゴロの才があるとも言われたけれど、正直あまり嬉しくないな。
頼むよ、お願いだ、君達くらいしか頼る相手がいなくて……と何度もお願いをしていたら、女生徒たちのひとりが口を開いた。
「たしか、最初はタシマが出て行ったんだよね」
「そうそう。外で騒いでいる奴がいるからって」
「で、コバナオとかレイくんがついて行って」
「うんうん。そこから大変だーって話になったよね」
少し唸った後に、ショートカットの女の子が答えてくれた。それに同調するように、次々情報が流れて来る。部外者たる僕を蚊帳の外にして話がどんどん進んでいくものだから、慌てて彼女達の話を遮らなくてはいけなかった。
「ちょっといいかい。つまり、他の人がいたってことかな」
「他の……?」
「君達の学校の人じゃない、見知らぬ誰かってことだけど」
少女たちが顔を見合わせる。誰もが何処かの噂話を聞きかじっていただけなのか。だとしたら期待外れだが。ショートカットの子が隣の少女をつついて、何やら耳打ちした。情報の照合が終わったのか、彼女たちはこちらへ向き直る。
「なんか、私達と同じくらいの年齢の人がいて、その人が騒いでいたから見に行って」
「あ、男の人でした。私も見たから分かりますけど、丁度あなたと同じくらいの背で」
メガネをかけたツインテールの子が、幾つかの情報を補足してくれた。
瞳の色合いが心配から困惑へと変わり始めていた。詳しいことを知ろうとする他人を目の前にして、警戒心が再び高まってきた頃合いか。これ以上の情報は望めそうもなかったから彼女達に礼を言って背を向けようとすると、ショートカットの子が恐る恐ると言った感じで手を挙げた。
「あの、必要なら連れてきますけど」
「連れて来るって、誰を」
「タシマなら、あー、最初に外へ出て行った奴です。そいつなら何か知っているかも」
「……ありがとう。お願いしていいかな」
軽く頭を下げて頼み込む。女生徒たちの厚意に甘えることにした。
ショートカットの少女は小さくはにかみ、なるほど、これが人脈という奴かなと瀬川さんに視線を送ってみたけれど彼女は相変わらず下を向いていた。犬の死骸を見ただけであそこまで凹むとは思わなかったな。案外、打たれ弱い人なのかもしれない。それとも、飼い主の悲しむ顔を想像して悲嘆に暮れているのか。
ツインテールの子がタシマという男子生徒を連れて来るまでの間、特に喋ることもなかったのでぼんやりと瀬川さんを眺めていた。彼女が暗く沈んだ姿は、見ていられないほど痛々しい。
もしも。
これがゆーちゃんだったら、どれほど美しく見えるだろう。彼女の悲しむ姿は異様な美を携えていて、過去に一度だけ、葬式のときに見た彼女が恐ろしいほど綺麗だった。喪服を着た彼女は、それまで僕が見たどの女性よりも可憐で、触れれば壊れてしまいそうなほどに繊細で、遠巻きに眺めるだけでも彼女が穢れてしまうんじゃないかと不安になるほどに清楚だった。
それを今、思い出した。
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