第14話 本編 6 - 1
颯爽と出発した瀬川さんを追いかけて、見慣れた街を歩む。
歩くペースは勝手に想像していたよりも緩やかだ。社会人は常に時間に縛られて急いでいるというイメージが先行していたからだろうか。身長差もあるし、脚の長さが違うのかも。
あんまりいうと怒られそうなことばかりが理由として脳裏に浮かんだために、僕は素直に口を
彼女の後ろを余裕たっぷりに歩きながら、普段何気なく眺めている景色に猫や犬の姿を探す。目に入るのは飼い主の手から伸びたリードに繋がれた犬や、高そうな首輪をつけてご近所さんにも可愛がられていそうな猫ばかりで、どこかから逃げ出してきた生き物はいないようだ。
家を出発して五分もしないうちに、目的の集合住宅が見えてきた。
ここでは猫を見かけることが多い。駐車場の片隅でまどろむ猫や人の姿を黙視するや否や走り去ってしまう猫など、様々な猫がいるのだけれど、僕らが捜している猫はどんなタイプなのだろう。
この時間帯だから、餌やりをしている人との邂逅もあり得る。地域住民との交流が少ない僕にはハードルが高いなぁ。昔遭遇した事件のせいで、ご近所づきあいも悪くなってしまったし。町内会の掃除でポイントを稼ぐのは、本当に、滅茶苦茶大切なことなのだろう。
期待と緊張、それに不安が混ざった気持ちを抱えながら、そっと駐車場を覗き込む。アパートの一階と二階を繋ぐ階段に妙な男が座っていた。ふむ、先行きが一気に不透明になった。
帰りたいぜ。
灰色のコート、よれたジーンズ、擦り切れた靴は土で汚れている。腰元に見える銀色の箱は恐らく携帯灰皿だろう。そう決定付ける証拠に、すぐ傍には煙草の白い箱が置いてある。数年後の自分を幻視したようで不安だが、彼は更に奇怪なアイテムを手にしていた。
なぜか、双眼鏡を持っているのだ。
通報した方がいいのかな。
「あの人、どうしましょう」
「うーん、どうしようかな」
「瀬川さん?」
僕の背中に覆いかぶさるようにして駐車場を覗き込んでいた彼女は、なんとも苦々しい表情をしていた。壊れたラジカセと動かない扇風機、どちらがプレゼントに相応しいですかと尋ねられたら人はこんな顔になるだろう。
やや曇り始めてきた空模様と、彼女の表情を比べる。
状況は芳しくないようだ。
「あの人のこと、知ってるんですか」
「うん。結構詳しいよ」
「悪い人ですか」
「私の知る限りでは善良な方だけど。……正義の味方には違いないし」
その割に、あの人とは関わりたくないと顔に書いてある。正義の味方と言ったし、仕事仲間だろうか。しかし、平日の昼間にアパートの階段に陣取っている時点で相応な不審者だ。双眼鏡を持ち出したあたりで人目につかないよう行動すべきだろうに、あそこまで堂々と何かを観察する探偵なんか存在していいのか。
自身の感性を疑うために、周囲を見渡すことにした。
田畑とアパートが混在した、田舎町特有の居住区画だ。冬になり泥土が剥き出しになった畑と、年中ベージュ色の建物が空間を支配している。どこまでも地味な場所だった。ここは灰色のコートを着た双眼鏡持ちの男が似合うような景色じゃない。
というか、あんな人はどこに居ても異色だろう。
うん。
「やっぱり怪しい人だ」
「ぷふっ」
呟くと、瀬川さんが噴き出した。振り向くと、彼女はとても楽しそうな顔をしていた。ふむ、僕の評価はあながち間違いではないらしいな。
彼女は僕の肩に手を置いて、今も双眼鏡を覗き込んでいる男を指差した。
「あれでも一応、凄腕探偵なんですよ」
「マジですか」
「本当です。四六時中、仕事のことばかり考えている人ですし」
「あぁ、今も猫探しをしている最中だとか?」
「うーん。居眠りしているんじゃないかなぁ。私には分かるもの」
双眼鏡男が居眠りをしている?
一見しただけでは眠っているように見えないのだが、瀬川さんが言うならそうなのだろう。それまで先行するだけだった瀬川さんに手を握られて、怪しい男の元まで引っ張られていく。
いやだなぁ、怪しい人とは関わりたくないよ。
双眼鏡を持った男の眼前に、瀬川さんが仁王立ちした。しかし彼は動かず、瀬川さんは双眼鏡の前で手まで降って見せた。それでも反応がないのだから、確かに双眼鏡男は眠っているのだろう。
こんな寒い場所で、よくもまぁ。
瀬川さんが双眼鏡男の肩を揺すって起こすところを、黙って見ていた。年末仕事納めの時期まで大変だ、これが同僚なら瀬川さんも大変だろうなぁ、と呑気なことばかり考えて。
目覚めた双眼鏡男は、立ち上がると大きく伸びをした。僕も比較的上背のある方だが、僕よりも頭半分ほど背が高い。顔色は悪く、とても眠そうだ。痩せた狼みたいな顔をしている。
「何の用だ、瀬川」
「変なとこで眠らないでください。不審者にしか見えませんよ」
「ふっ、その割に通報されないが」
「ヤのつく自営業と誤認されてるんじゃないですか?」
「ひでぇ言い草だなあ、オイ」
ふてぶてしい言い訳を重ねた彼は、どうやら本当に瀬川さんの知り合いらしい。良くも悪くも、評価を付けるのが難しい人だ。
精気の欠けた瞳からは一切の興味を感じないし、横柄な態度は他人を寄せ付けないために一役買うことだろう。コートがくたびれているのは長く使っている証拠だが、糸のほつれが見当たらない辺り丁寧に扱っているのか。その割に靴は汚れている。ちぐはぐで、つかみどころのない人だ。
だから、どんな人なのかが分からない。身体の各箇所がバラバラの次元から覗いているような違和感が、彼を見たときから僕を苛んでいる。
「で、何をしていたんですか」
「仕事だよ、仕事」
「居眠りをすることが仕事ですか」
「幼気な少年を連れまわす二十歳過ぎの女に睨まれるとは」
「恋愛対象が中学生の先輩にだけは言われたくない台詞ですね。犯罪予備軍の匂いがします」
「そりゃ結構。類は友を呼ぶんだ、猫を殺す阿呆も寄って来るだろ」
笑った双眼鏡男は、エロ本片手に道徳を説く坊主よりも胡散臭い。瀬川さんの場合は違和感を補って余りある清潔感と凛々しさがあったが、彼からにじみ出ているのは全身くまなく
「ところで君は誰だ。瀬川に兄弟はいないし、だとすると彼氏か?」
唐突に話しかけてきた彼は、髪を弄りながら容赦のない視線を向けてくる。いつの間に取り出したのか、眼鏡まで掛けたその瞳には見覚えがあった。現実を長々と直視した結果、様々なものを捨てた人間の目だ。ここにゆーちゃんが光を差し込むと現在の僕になる。
ふむ、彼に不信感を覚えるのは数年前の僕に似ているからか。
ともかく自己紹介をしておこう。
「仇間悠一です、瀬川さんを手伝うことになりまして」
「おっ、そうか。これからよろしくな」
「……よろしくお願いします」
「ほら、握手しようぜ。握手」
「私の助手なんですけど。シッシッ」
「いいじゃないか、俺の助手である瀬川の助手は……ん、仇間? 何年か前に、一家心中した仇間か?」
無味乾燥を絵にしたような男の顔に、僅かばかりの興味が覗いた。
「凄惨な過去を経験した割に、意外と落ち着いた奴なんだな。うん、瀬川の情報通りだ。散歩しかしない変人だと聞いてそもそも調査しなかったが、割とまともな奴じゃないか」
野良犬を追い払うような仕草をしていた瀬川さんの手が急に止まった。
なるほど僕の身辺調査を担当していたのは瀬川さんだったというし、良心の呵責に苛まれたのかもしれない。過去の事件を掘り返されたところで、別に、ねぇ。それでお就職を断られたり、不利益を被ることがあれば怒りもするけれど。
「ところで、貴方は?」
「織田哲二だ。瀬川の上司……というか先輩だな。先輩と呼んでくれればいい」
「織田さんは物知りなんですね」
「あ? ……仇間家の話か。あれもな、瀬川が過去の新聞を漁って情報を集めたんだ、俺はそれを聞きかじっただけだよ」
階段のステップに置いたままだった煙草を手に取ると、僕に差し出してきた。首を横に振ると、彼は箱を振って出てきた一本を口にくわえ、火をつけた。ひとつ大きく息を吐いて、皮肉っぽい笑みを浮かべる。
「あと、瀬川から話を聞いているかもしれないが、俺が君の身辺調査を諦めたのはだね、君が目的地もなく深夜徘徊をするからだ。生憎、夜は弱いもんで」
眼鏡の奥、くすんだ灰色の瞳は何を考えているか分からない。少なくとも一家心中という誤情報が出回っているのは、瀬川さんではなく過去の新聞社にあることが分かった。インターネット上の掲示板にも似たような煽りを書かれたことがある。彼らを責めるつもりはないし、正確な情報を掴めないのは警察も同じだった。
そうか。
罪を隠すのって、想像より簡単なのかもしれないな。
僕が内心妙なところで喜んでいるとも知らずに、織田先輩は話をサクサク進めてしまう。
「じゃ、この件に関しては君らに任せていいな。俺は不倫現場を押さえるという仕事が――」
織田先輩が煙草の火を揉み消そうと屈んだ瞬間、アパートの一室から悲鳴が上がった。先輩は思い出したように駐車場の一角に止めてあった車に近づき、中に誰もいないことを知ると悪態をついた。
「あぁ、これだから素人は」
それから先輩は後ろを振り返ることもなく、道路を差し挟んだ向かい側のアパートへ駆けていった。生け垣を飛び越えるショートカットを敢行した彼を目で追いながら、素直な疑問を呈する。
「どういうことですか」
「多分、浮気調査を依頼した人と一緒に現場で張り込んでたんじゃないかな。さっき先輩が覗き込んだの、うちの乗用車だし」
「依頼人と一緒に張り込んでいたら居眠りしてしまい、挙句当人同士で修羅場が始まった、と」
「そういうこと。先輩、頭はいいんだけど詰めが甘いから」
すべての調査が終わる前、一定量の証拠が集まったところで情報共有を求める人が多いらしい。そこから往々にして当事者同士での諍いに発展するケース珍しくないようで、道路の向かい側、平凡なアパートの一室で繰り広げられているらしい修羅場もそのひとつに過ぎないみたいだ。
手伝った方がいいのか、瀬川さんの様子を窺ってみる。
彼女はお預けをくらった犬のような、妙な顔をしていた。
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