第10話 本編 4 - 2
さて。
酔っ払った女性を前に、僕が取るべき行動は何だろう。その答えは明白で、彼女をどこか、身体の休まる場所へ連れて行ってあげればいいのだ。勿論、社会通念上問題のないところへ連れて行かなければならないし、酔った相手だからと何をしてもいいわけじゃない。
何はともあれ、まずは移動手段だ。
「ゆーちゃん、携帯持ってる?」
「えへん。私、優良児童ですから」
「意味わかんないよ」
「持ってないってこと。買ってもらってないし」
だよなぁ、知ってた。高校を卒業するまでは携帯電話も不要だろうと、彼女の両親が持たせなかったのだ。持っていても使わないだろうし賢明な判断だけど、緊急時に連絡できるアイテムがない。僕だって連絡する相手がいないし使わないから持っていないんだ、彼女を責めるわけにもいかない。
駅舎の方まで行けば公衆電話があるだろうから、彼女に頼むしかないな。
「お願いしてもいいかな。駅まで行って、タクシーを呼んでくれないか」
「救急車じゃなくていいの?」
「そこまで大事にしなくていいよ。電車で二時間だろう、タクシーに頼むと存外に高い料金だったはずだ。かといってホテルに放り込むわけにも行かないし、ゆーちゃんの家には連れていけないだろ」
「うん。それで」
「一飯の恩義も兼ねて、僕の家に連れて行こうかと。和室なら空いてるし」
「……んむー、了解。この場所は呼ぶにも説明がしにくいから、駅前ロータリーのところでいい?」
「うん、そうして。介抱は僕がするから。一応、面識はあるし」
「分かった。変なことしないように」
酔っ払い相手に何をしろというのか。頼まれてもやりたくないね。
既にシャッターの閉じた店の軒下に女性を座らせる。酔った彼女はニコニコと陽気に笑っていた。暢気にも見えるけれど、この前の、見ず知らずの少年相手に飯を奢ってくれた変人という雰囲気が拭いきれない。
厄介ごとを隠して平然と笑っていそうなイメージがあるのだ。
心なしか、軒先に飾られた観葉植物たちも彼女の笑みを受けて元気になっているような気がしたけれど、それは別。美しい花には棘があり、
直線道路の向こうにゆーちゃんがいたはずなのに、ちょっと脇に逸れたら見えなくなってしまった。彼女に秘密で悪いことをするつもりもないけれど、なんかホラ、僕だって男の子なわけですし。
ゆーちゃんが駅舎の方へかけていくのを見送って、隣にいる女性に声を掛ける。
「体調がよくなったら、僕が背中に乗せて駅に運びます。そこから家に帰す、というのも酷な気がしたので僕の家に泊まってもらいますけど、大丈夫ですか」
「いいですよ。うへへ、ナンパどころかお持ち帰りですね」
「人聞きの悪いことを言わないでください。幼馴染に訊かれたらどうするんですか」
「あれれ、彼女さんじゃないんですか」
「違いますよ。さっきも訂正しましたよね」
「えー、本当かなぁ?」
楽しそうな笑い方をしていたのに、ちょっと悪い顔になった。
これだから年上の女性は苦手なんだ。同い年のゆーちゃんは僕よりパワフルだし、実質年上のように振る舞ってくるんだよな。まったく、どうして年上の女性とばかり交流が増えるのだろう。溜め息が出そうだ。
駅のロータリーまでの距離を測る。百メートルあるかないか、この程度の距離なら女性を担いでいくことも不可能じゃない。まずはバス停付近のベンチまで歩いていくことにした。そこまで行けば、後は大した距離じゃないからね。
女性を促して背中に負う。そこまでは普通だった。ゆーちゃんと触れ合う時間も多いから妙なところで女性馴れしているのだろう。だったらいいな。だが、彼女は幼馴染であって異性としての認識は薄い。何より、女性としての色香はどこか物足りないくらいだ。
だから。
一歩踏み出す度に、背負った女性の身体を意識してしまう。彼女の髪が揺れ、微かな汗が香る。彼女が苦し気に呻くたび、吐息に怪しげな熱が籠る。耳をくすぐる聞き取れないほど微かな言葉が、僕の胸を撫でるようだ。
妙なことばかり考える自分を、深く恥じた。
無意識に振りまかれる誘惑に引っ張られないようこらえながら、数分かけてタクシー乗り場に近いバス停まで歩く。女性をベンチに座らせると、移動しないように説明してからその場を離れた。もう連絡も済んだだろうとゆーちゃんの姿を探す。
鹿や熊などの動物を模した飾りに施されたイルミネーションが、足元を断片的に照らしている。土日に中高生がダンスの練習場として利用している小規模な空き地にも人影はなく、途方に暮れる他なかった。彼女がここにいないのは、南口にあったはずの公衆電話が姿を消していたからだろう。知らない間に撤去されたのかな。僕自身、公衆電話を使う機会に巡り合わなかったし。
北口にも二箇所ほど設置されていたから、過剰な設備だと市が回収してしまった可能性もある。困ったなぁ、ゆーちゃんが彷徨ってなければいいけど。
「幼馴染はいませんでした。でも、待ってれば来ますよ」
座って待っていてくれた彼女に声を掛けたが反応がない。
不安になって口元に耳を寄せると、唐突に抱き締められた。
驚いて声も出せないでいると、彼女は心底楽しそうに笑った。しかも、幼馴染しか使わなかった愛称まで使ってからかってくる。
「隙だらけですね。ゆーくん」
「えっと、この行為の意味はなんでしょうか」
「ふふ、見知らぬ女性に抱き締められても困りますよね。仇間悠一君」
「そりゃ当然――」
言いかけて、大切なことに気付いた。僕等は自己紹介をしていない。目の前にいる女性と喋ったのは前回一度きり、そしてその時も名前を知らないまま別れた。ゆーちゃんが何度も口にした渾名を知っているのはいいとしても。
なぜ、僕の名前を知っているんだ。
恐怖はなく、驚きが僕の身体を動かした。突き放そうとした身体は強く抱き締められ、体勢を崩してベンチに肘をついた。女性に抱き付かれているのか、僕が女性を抱きしめているのか。傍から見たらわからないだろうな。
耳元に熱い息が吹きかけられた。
「怖がらなくてもいいのに。危害を加えるなら、とうに路地裏で済ませてますよ」
「別に怖くないけど、でも、どうして」
「質問は一回でひとつ! ……仕事であなたのことを調べましたけど、君のこと嫌いじゃないですよ。むしろ君の人生には同情します」
調べた? 何を? 仕事で?
僕の人生、過去を彩るものが脳裏に浮かぶ。廊下、多量出血、悲鳴と怒号。暗い地下室。断片的に蘇る記憶が意識を蹂躙する。よろめいた身体を酔っていたはずの女性に支えられ、初めて気づいたことがあった。
彼女の吐息からは、酒の匂いがしない。……これまで気付かなかったのは、酒の匂いなんてものを気にしたことがないからか。
「悠一君、君は正直な人です。だけど、時にはそれが仇になる」
到底、泥酔した人とは思えない真っ直ぐな瞳が僕を貫く。
「なんで、こんな」
回りくどい方法で僕に近づいたんだ。犯罪を種に揺さぶりを掛けたいだけなら、自宅に封筒を届けるなり他の方法があったはずだ。手間もかからず、確実性も高い。彼女は一体、何者なのか。
そして僕は、スーツの刺繍を思い出した。
「その様子だと、私の職業に見当が付きました? やっぱり頭の回転が速いですね」
笑った彼女のスーツには、ハンチング帽にパイプ煙草の刺繍があった。
数多くの謎を解いた、世界でもっとも有名な人間のトレードマークだ。実際には存在しなかったとか、原作に存在しない特徴は映画監督が作ったものだとか。様々な憶測や逸話が入り乱れ、彼自身の存在がひとつの謎になっている存在。
彼女の職業は――。
「あー! 何してるの!!」
「っ、やば」
「お、彼女さんだ」
ゆーちゃんが帰ってきて、正体こそ分かったけれど名前を知らない彼女にからかわれた。過去を覗かれた羞恥心は一瞬にして幼馴染に蔑まれる恐怖へと様変わりする。が、僕を抱きしめていた彼女は唐突に僕を突き放した。もんどりうって地面に転がる僕には見向きもせず、彼女はゆーちゃんへと駆け寄っていく。そして、思い切り抱き付いた。
「うわー! なんだこの人―!」
「うへへへ。彼女ちゃんも抱き心地いいですなぁ」
「彼女じゃないですー、離れてくださいー」
……あの女性、酔っ払ったお姉さんという役柄を変更するつもりはないようだ。ゆーちゃんも笑っているし、彼女のことを「酔うと手当たり次第に抱き付くお姉さん」とでも勘違いしてくれたのかもしれない。
どうやら、この場は切り抜けることには成功したようだ。これでいいのか? 深く考える必要があるとでも? そっとしておこう、もう頭を使いたくないんだ。問題は、あの女性を家に泊めるなどと言う約束をしてしまったところだった。僕の素性を知っている人間に、あの家の敷居を跨がせていいのだろうか。
迷ったが、結局諦めた。
激流に歯向かうのは難しいのだ。何より、真実から目を背けて未知の恐怖に怯え続ける人生など歩みたくない。
ただでさえ、過去に心を蹂躙されているのだから。
「しかし心の準備が――ん?」
遠い記憶を呼び覚ます匂いを嗅いだ。じゃれあう二人を
これを無視するのは難しい。
深淵を覗けば怪物に覗き返されるが、覗かなければ怪物の姿を知ることも出来ない。知らないことは、知られるよりも恐ろしいことなのだ。
駅の中心部へ上がる階段付近に向かうと、その匂いは濃くなった。左手にエスカレーター、右手にエレベーター、中央部は階段。三種三様の方法で駅の二階へ向かうことが出来る。見たところ階段には酔っ払いの吐瀉物も見当たらず、怪しいところはない。エスカレーターの方へ歩いていくと匂いが薄れたから、エレベーターの方か、そのすぐ隣、階段下のスペースに作られたトイレに匂いの発生源があるのかもしれない。
ふとエレベーターを覆う透明なガラスに目をやると、そこには口角を吊り上げた僕が映っていた。こうして探し物をしている間は心が躍る。散歩をするようになったのも、住み慣れた街の見知らぬ場所に対する好奇心があったからだ。暇を持て余していたのもあるけれど、それならゲームで事足りる。
案外、あの女性と同じ職業に適性があったりして。
懐かしい匂いに釣られるまま、階段下のトイレまで足を運ぶ。床の汚れを避け、ある個室の前に立った。ノック音に反応はなく、そっと扉を開けた。予想通りとはいえ凄惨な光景を前に戦慄し、身体が自然と後退した。
真っ赤な壁。血で彩色された悪趣味な個室。
そこには、猫の死骸が横たわっていた。
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