第7話 本編 3 - 2


 刺繍入りスーツを着た妙な女性と別れてから、夕日が地平線の上に横たわるまで外を散歩していた。昼食を食べ終わって彼女との雑談を終えて……と時間を計算してみたけれど、三時間近く、街を歩き回っていたことになる。身体中の筋肉が悲鳴を上げて逆に不健康を訴えてきているが、目的もなく歩き回ったせいか精神面での疲労の方が大きい。焦げた卵焼きみたいな色合いになった田圃を眺めながら、家路を辿ることにした。

 自宅付近だけ街灯が少なくて、妙に暗くなっていた。

 ……いや、そんな村八分みたいなことがあっていいはずもなく。

 街頭が壊れたのかもしれない。不思議に思って見渡すと、家の周りの街灯だけが沈黙しているようだ。停電の類かとも思ったが、僕の部屋には灯りが点いていた。家を出るときに消し忘れていたようだ。

 まぁ、停電じゃないだけで良しとしよう。

 儚い夢の島のように、僕の部屋だけがぼんやりと浮かび上がっているのは、なんだか恥ずかしいような気がするけれど。

 玄関の三和土で靴を脱ぐ頃には、外は完全な暗闇に包まれていた。

 式台に僕のものではない靴が脱ぎ捨てられている。見慣れたそれを下駄箱に仕舞いこんで台所へと向かった。残念ながら台所には誰もいなかったけれど、ここまでは想像の範疇だ。馴れた足取りで階段を上がり自室へと向かうと、ベッドの上に闖入者の姿があった。制服姿のままアザラシみたいに寝そべっている。

 彼女の全身から脱力感が漂ってきて、それを両手で振り払った。

 やっぱり、合鍵を渡すものじゃないなぁ。昔から、割とよく見る光景だけど。

「ゆーちゃん、おかえり」

「遅いー。おなかすいたー」

「自分で作ればいいじゃないか。ほら、そこどいて」

「やだ。私も勉強で疲れたのです」

 駄々っ子みたいだな、まったく。

 そこは僕のベッドなのだからと彼女の腰に手を回して、何とか起き上がらせようと力を込める。だけど必死の抵抗にあって持ち上げることすら出来なかった。重いと口走りそうになって、鉄をも貫きそうな後ろ蹴りが飛んできたことは僕らふたりの内緒話にしておこう。

 晩御飯は適当にお茶漬けだけで済ませるつもりだったけど、ゆーちゃんが居るなら話は別だ。あんまり簡単なものを作ると怒られるし。

 ……考えてみると奇妙な話だよな。両親も姉もいなくなったのに、経済的に裕福な祖父母に無理難題を押し付けて独り暮らしを続けた。すると幼馴染が昔以上に家に入り浸るようになった。ゆーちゃんが財産や何やらを狙っているならともかく、そんなことの出来る娘じゃないし。彼女は、何のために僕の家に通うのだろうか。

 閑話休題それはさておき

「勉強って言うけどさ。ゆーちゃん、大学受かったんじゃないん?」

「推薦合格者専用の宿題が、大学から送られてきたの。もー、めんどくさー」

「それは災難だね。……見た感じ簡単そうだけど」

 勉強机に広げられた教材に目を通す。高校一年生からの総復習って感じだ。実のところ、中学校も途中から行かなくなってしまった僕だけど、ゆーちゃんの勉強に付き合っていたおかげで最低限の学力は確保できた。ゆ0

 間違っていたところを見つけて、適当に修正する。その間もゆーちゃんは「お腹が空いた」と愚図っていた。子供だなぁ、まったくーちゃんが推薦で進む学校も、それほど偏差値の高い学校ではないし。これなら、三割くらいは僕でも分かるんじゃないかな。

 ちょっと笑った。

 それにしても、だ。ここは僕、仇間悠一の部屋だったはずだ。

 勉強机もベッドも本棚も、ぜんぶが僕の所有物だったはずなのに、気付いたら彼女に占拠されている。どこかで指摘しないと、未来永劫彼女の尻に敷かれてしまう可能性だってある。それは避けないと。

 僕だって、ちゃんと幸せを掴みたいし。

「ね、ゆーくん」

「なんだね」

「おなかすいた。材料はバッチリ買い込んでおいたから、晩御飯作って」

「今日はゆーちゃんが作ればいいのに」

「えー」

 非難しているのか甘えているのか、彼女の視線は曖昧だ。それでも文句を言われたくはないので、彼女にせっつかれるまま階段を降りて台所へと向かった。

 冷蔵庫を開いてみると、確かに彼女が買ってきたらしい野菜や鶏肉がぎっしりと詰め込まれていた。あとで領収書見せて貰って、せめて料金の半分は渡しておかないとな。

 彼女の両親に、僕がヒモ扱いされてしまう。

 疲れた体に鞭打って二人分の晩御飯を作る。出来あがった料理を放置してそのまま眠ってしまいたかったけれど、再び部屋へ戻ってきた。ゆーちゃんは相変わらずベッドの上にいて、枕元に積み上げた漫画を読みふけっている。未読作品を先に読まれるのは癪だから取り上げて、彼女の重い腰をあげようと努力した。

 腰の下に手を入れて、持ち上げようと踏ん張った。彼女は最新のアトラクションを体験した幼稚園児のようにはしゃいでいる。

「ほら、はやく腰を上げて。ご飯だよ」

「このまま運んでくれてもいいんだけどなぁ」

「僕の体力を過大評価しないでくれ」

 散歩しているだけで、筋肉があるわけじゃないし。

 あと、ゆーちゃんは若干おも……肉感的な身体付きをしているからサ。

 彼女は少し鼻を動かすと、唇を尖らせた。

「今日もオムライス? 週に一回は作ってるよね」

「だって簡単だし」

「いいけどー。ゆーくんのオムライスは最高だから許すけどー」

 黄色いクマの描かれたクッションを片手に、ぽこぽこ殴りかかってくる。なんだか知らないけれど、今日はやけに突っかかって来るような気がした。まあ、お腹いっぱいになれば機嫌も良くなるだろう。

 僕等の感性は、子供の頃から変化していないのだ。

 電灯を点けたり消したり、小忙しく動きながら階下へ移動する。暗い密室や廊下が小学生の頃嫌いになった。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、閉鎖空間に押し込められることを想像するだけで身体と心がすくんでしまう。夜の街路は好きなのに、灯りのない室内が怖いなんてなぁ。

「あ、食べる前に制服から着替えること。汚れても責任とれないよ」

 空腹を盾にごねる彼女を箪笥のある部屋に押し込んで、扉の前で待機する。彼女の親御さんに迷惑を掛けたくないし、何かあったときに負い目を感じたくないのだ。

 文句ばかり言っていた彼女も三分で支度を済ませ、二人一緒に台所まで行進する。

 冷めていたコーンスープにもう一度火を入れて、ようやく食事の準備が整った。

「毎回思うんだけど、大変だよね」

「なんのこと?」

「ゆーちゃんの世話だよ。いや冗談だから。スプーン振り上げて威嚇しないでくれ」

 手を合わせて懇願すると、ゆーちゃんは満足そうな顔になって矛を収めた。具体的にはオムライスにスプーンを突っ込んで、晴れやかな顔で食べ始めた。うん、口を動かしている時のゆーちゃんが一番幸せそうだ。

 テレビのリモコンを探して、適当な番組を流す。録画したアニメを見ることもあるけれど、ほとんど見終わったものばかりだしなー。生憎と今は日曜日の朝じゃないので、リアルタイムで見るに値するものも少ない。アナウンサーが喋る今日のニュースを右から左へ聞き流していると、オムライスを半分ほど食べ終わったゆーちゃんが顔をあげた。

「ところでゆーくん。これを見てほしいんだけど」

「ん? ……なに、これ」

 どこから取り出したのか、ゆーちゃんの持ってきた紙を手に取った。

 丁寧に畳みこまれた紙を開くと、学校からの広報紙だった。年度末にあたって生活リズムを崩さないように、親御さんに心配を掛けないような態度を心掛けて――などと他愛ない話が続く。右下の隅には赤枠で囲まれた記事があった。

 ここだけ、毛色が違う。

「犬とか猫の惨死体が増えてるんだって。危ないから、外出時は気を付けるように」

「物騒な話だな」

「ゆーくん、他人事じゃないよ。事件は、この地域で起きているのだ!」

「勘弁してくれよ。血を見るのは嫌いだし、死体を見るのも嫌なんだ」

「そんなこと、私に言われても困っちゃうよ」

「それもそうだけど」

 もう一度、赤枠で囲われた記事に目を通す。

 半年ほど前から、犬や猫が殺される事件が増えているようだ。被害範囲も野良だけだったのが飼い犬や飼い猫へとシフトしているようで、警察も出動する騒ぎになっている。

 野良の生物に関しては、交通事故で死んだり、害獣として駆除されることがあるだろう。そうして死ぬのは仕方がない。だけど、遊びで殺している奴がいるのだ。そうじゃなきゃ警察が動いたりもしないし、殺し方も陰湿なものに違いない。ただ殺すだけなら、学校広報で惨殺なんて単語が使われることもないだろう。

 どうしてそんなことをするのか、犯人と対峙して話し合ってみないと分からないことも多いけどな。犯人逮捕の手がかりを見つけるのが誰にでもやれる社会的な最適解なんだろうけど、僕が出来るはずもなく。

 唸っていると、額を突かれた。ゆーちゃんが頬を膨らませている。

「ゆーくん、聞いてる?」

「え? あ、ごめん」

「もー、白昼夢は病気の一種だぞ。で、話を戻すけど。遊びに行かないかい」

「いつ?」

「明日!」

「宿題も終わらないのに? まー、明後日ならいいけど。どこ行きたいの」

「む。それを決めるのは男の子の役割でしょ」

「えぇ……」

 引き籠り予備軍を相手取って言うことじゃないぞ。

 でも、主導権を与えられるのは嬉しくもある。自由を得たのはここ数年のことだし、人間的な喜びを教えてくれたのは姉さんとゆーちゃんだし。昔から、女の子には逆らえないんだよ。

 晩御飯を食べ終わった後、ゆーちゃんは素早く二階へと逃げていった。勉強を終わらせて心置きなく遊ぶのが目的だと言っていたけれど、本心は見え透いている。彼女が唯一手伝ってくれても支障のない作業、後片付けや皿洗いの類が苦手なのだ。幼い頃、祖母が気に入っていた皿を割って以来トラウマになっているらしい。今は孫の顔も分からなくなっているらしいけれど、普段が優しいお婆さんだっただけに怒られたときの衝撃は激しかったようだ。

 あと、洗い残しをすると僕も怒るからね。

 幼馴染が意地の悪いお姑さんに見えるのは、僕だって流石にご遠慮したい。

 実際のところ、去年の頭くらいから、彼女が忌避しているような事態は発生しなくなっているんだけどな。簡単に濯いだ後、食洗器に突っ込めば自動で洗ってくれるのだから。鍋とかフライパンは手洗いしなくちゃいけないけど、落として壊れるなんて考えなくていいし。

 鼻歌混じりに皿を濯いで、食洗器では落とせない汚れをこすっていると、先に二階へ向かったゆーちゃんが戻ってきた。なんだろう、食後のデザートを要求しに来たのかな。

「どうしたの? プリンなら冷蔵庫に入ってるけど」

「もー、人をなんだと思ってるのかな」

「食いしん坊」

「ひどいなー」

 ぱしぱしと背中を叩かれる。音が大きいだけで痛くない、じゃれあいの平手打ちだ。マッサージみたいだと思っていたら後ろから抱き付かれた。「ゆーくん」と甘く囁かれて耳がくすぐられる。

 今朝から拗ねていたのに今度は甘えてきた。飼い猫が顎の下をくすぐられるように、心がこそばゆくなった。これは、彼女が何かを隠しているときの行動だ。都合が悪い時ほど僕に優しくて、大事なことを隠そうとするんだから。

「で、何の用なの」

「ゆーくんにお願いしようと思って」

「明日のメニューくらいなら聞くよ」

「だから違うのにー。……もう誰も殺さないでね」

 持っていた皿を取り落とした。動揺を悟られるまいと呼吸を止める。でも、彼女にはお見通しの様だ。強く、ぎゅっと抱き締められた。僕の首筋に息を吹きかけると、何事もなかったかのように二階へと駆け上がっていった。その足音も、流れる水の音も聞こえなくなっていく。

 ――ゆーちゃんも無理しないで。僕等はもう、社会的責任から逃げられる子供じゃないのだから。

 手から滑り落ちた皿が割れていないことを確かめて、息を吐く。

 またひとつ幸せが逃げていったと、僕は小さく笑った。

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