第6話 本編 3 - 1
今日は月曜日だ。冬休み前に行われる最後の授業日だからという理由にもなっていない言い訳を聞かされて、ゆーちゃんには危うく教室まで連れていかれるところだった。
これだからなぁ。夜中に家を抜け出したと思っても、朝になると僕の家まで遊びにやって来るのだから。彼女のご両親からすれば仕事もしていない男の家に泊まりこまれるよりは、例え夜明けになってでも自宅まで帰ってきてくれた方が嬉しいのかもしれないけれど。
ゆーちゃんは破天荒というか、荒唐無稽な事柄でも平気な顔でやろうとするところがある。今回の学校へ行こう! という提案にしてもそうだし、たまに新幹線へ乗って聞いたこともないような観光地に連れて行かれそうになることもある。クジとしては、今回はよほどまともな部類に入るだろう。
幼馴染だからと部外者を入れてくれるほど高等学校のセキュリティも甘くないだろうし、万が一入校できたとしても困るのは僕だ。同年代の生徒がたくさんいるんだぜ。眩しくて眼球が焼け爛れてしまう。
「僕は帰るからな」
「えー。ゆーくんと一緒に授業受けるー!」
「あのねぇ」
溜め息を吐きつつ、いやいやと後退する。
虫眼鏡を使って、太陽の光を集めるところを想像してもらえばいい。僕は油を塗った黒い紙切れだ。最初は煙をあげるだけだから笑って済ませられるのに、突然発火して一大事になってしまう。触れぬ神に祟りなし、転ばぬ先の杖、これはそういう話なんだ。
結局、校門前まで彼女を見送ってから逃げ出した。
同級生たちの前では、彼女は僕に無関心になる。その習性を悪用させてもらうおkとにした。
煉瓦で模様作られた街路を歩きながら、現役の高校生たちと反対の方向へ向かって歩く。駅から吐き出される高校生と、駅に飲み込まれていく社会人を眺めるのが僕の日課だと言うのは流石に嘘である。毎朝七時には起きるけれど、活動を始める時間とは別だからね。
身体に染みついた規則正しい生活習慣を、荒んだ心と弱った肉体が台無しにする日々を送っていた。未だ、僕は前を向けていないのだ。
ゆーちゃんの通う高校は、土曜日に遊んだ場所のすぐ近くに建っている。市内を流れる細い川の側だ。四年くらい前に施設の多くを改装して、市内でも比較的見目麗しい校舎として評判が高い。そこから北へ十分ほど進むと市内有数の進学校もあるけれど、そこは歴史と伝統を守り過ぎて校舎が埃っぽくなっているのが惜しいのだった。
青春を過ごすのに、黴臭い場所は似合わないよ。
閑話休題。
ゆーちゃんが学校に行ってから、二時間ほど街を散策した。駅の南は相変わらずシャッター街だし、北へ進んで家に近づくほどにドのつく田舎になっていく。繁華街と呼べるのは駅を中心とした半径二、三キロの辺りだろう。枯草広がる平野を眺めたり、流れる川の底で揺れる水草を眺めたりしながら一日を過ごせる強靭な忍耐力の持ち主でなければ、この地域は散歩にも適さない。
それこそ、親しい友人を家に招いて暇潰しに興じること以外の享楽を探す方が難しいのだ。煙草と酒と噂話。この地域の大人達が興じる遊びを、僕等も受け継いでいくことになるだろう。ああ、青春の輝きは何処へ行った?
退屈で死にそうになったから、幼馴染が高校に行っている間、モールへ遊びに行くことにした。家で何もせず眠っているよりはいいだろう。趣味は読書と散歩です、と笑っても許されるには労働という対価が必要なのだ。
しばらく館内を歩き回って、向かった先は二階にあるフードコートだ。たこ焼き、ラーメンにオムライス。牛丼や、うどんの専門店も出店している。様々な料理を提供する店舗が軒先を連ねる中で、階下にある食料品店で購入した菓子パンを食べる僕はどんな評価を受けるのだろうか。
それも、財布に二百円しか入ってなかったのが悪い。
もくもくと口を動かしながら周囲を見渡す。懇切丁寧な掃除が行き届いたこの空間には、自然と人が集まって来る。昨年末だったか、地元を舞台としたアニメ映画に登場したこともあるらしく、その影響も否めないだろう。平日の昼間は流石に空いているだろうか、というとそうでもない。就学前の児童を連れた母親や、近所の主婦層がこぞって集まる場所なのだ。午後四時を過ぎると近隣高校の生徒達が訪れるため、いつだって賑わっている。観葉植物や窓の外の景色を眺めるより、彼らを眺めている方が手慰みにもなるし、お気に入りの場所だ。
退屈だけど平和で、穏やかだけど刺激的。これぞ、理想の桃源郷だった。
駅の東にはより多くの娯楽施設が誘致された建物があるけれど、こっちの方が駅に近い分だけ市民に愛されているのかもしれない。退屈な時間を押しつぶしてくれるならどこも大差ない気がするけど黙っておこう。沈黙は金だ。
食べ終えたパンの袋をゴミ箱に押し込んで、再び席に着いた。
暇潰しに考えることは、今晩は何を食べるかだ。ゆーちゃんが遊びに来るか、それも重要な判断基準のひとつになる。
もやし炒め、素うどん、お茶漬け。思い浮かんだ次の瞬間には調理を開始できるような単純かつ簡単な料理が好みなんだけど、ゆーちゃんは手間暇かけた料理を好む。あと、栄養素がふんだんに含まれているようなものは金銭の多寡に関わらず重用する傾向にある。彼女に言わせると、食事は人生を構成する重要な要素の一つらしい。その意見には僕も賛成なんだけど、だったら手伝ってほしいなぁと思ったりして。
彼女に包丁を持たせるなんて、吐き気がするけど。
あぁ、考えるだけで恐ろしいぜ。
「あの、隣、空いていますか? ……あの、相席しても?」
「えっ? あ、はい」
自分の世界に没入していたのか、すぐ隣に若い女性が立っていることに気が付かなかった。綺麗に整った顔立ちをした女性だ。黒く長い髪を後ろで束ねている。細い体躯をしているのに、大盛ラーメンと炒飯、それに麻婆豆腐を乗せたおぼんを持っている。男性でも完食できるか怪しい量だ。彼女が食べきれるか、少しばかりの好奇心が疼いた。
他にも空席があるだろうと周囲を見渡したが、既に席が埋まり始めている。四人掛けの席を一人で占有していたのだ、そろそろ離れた方がいいだろう。女性が座るタイミングに合わせて立ち上がると、彼女は片手を挙げて制した。いつの間にか、箸とレンゲが装備されている。
「いいじゃないですか、一緒に食べましょう?」
僕は何も食べるものがないんですけど。
「座ってただけなんで」
「じゃ、話し相手になってください。高校生っぽいのに学校へ行かない君に、事情を尋ねるのも面白そうだけど――それは、嫌でしょ?」
初対面の人間にここまで言われたのは久しぶりだ。
それも、一対一の場面で。
机に手を置いて熟考する。誘いを断ったときの不快感と困難に直面したときの苦労を天秤にかけて、後者を選択することに迷いはない。苦痛を噛み分けてこそ幸福の甘味を知ることができるのだ。
だが、それは困難が一過性のものだと明確に理解される場合に限る。この場合はどっちだろう。この人は天使か悪魔か、化け物か?
女性に視点を合わせる。容姿端麗であることに間違いはない。ゆーちゃんも可愛い女の子だけど、この女性もそれなりの美人だ。パンツスーツを着用しているし、就活中の学生か社会人のどちらかだろう。正確な年齢は分からないけれど、二十歳前後だろうか。そのくらい若々しい人だった。
ただ、スーツの左腕部分に妙な刺繍が施されている。彼女が鞄からハンカチを取り出すわずかな時間に観察してみると、赤い糸で、ハンチング帽とパイプが描かれていた。
見た感じ喫煙習慣があるようには思えない。
しかし、スーツに刺繍とは。
年中パーカー装備の僕が言えた義理じゃないが、服装に妙な拘りを持っている人間ほど扱いにくいものはない。この人が妙な思想や宗教に凝り固まっていたらどうしようかと不安になって、でも熟慮するほどではないかと考えを改めた。
この人は怪しいだけの変な人だ。
悪意の類は感じない。
そっと腰を下ろすと、女性は楽しそうに笑った。そして、なぜか麻婆豆腐とレンゲを差し出してくる。理由は分からないが、食べろと言われているらしい。相手は普通のスーツに普通じゃない刺繍を施している女性なのだ。真っ当な感性やら常識やら、そういった類のものを期待する方が間違っているかもしれない。僕だって似たようなものなんだから、ここは覚悟を決めようじゃないか。
苦労は噛み分けてこそ、だ。
彼女の勧めに従って麻婆豆腐とレンゲを受け取って、本日二回目となる昼ご飯を食べることにした。菓子パンは昼ごはんじゃないだって? ハハ、そんな冗談を。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」
僕が手を合わせると、彼女は楽しそうに笑った。
「ふふ、嬉しいですね。誰かと食べるのは久しぶりなので」
湯気の向こうに見える彼女の顔は、最初に話しかけてきたときよりも輝いてみえる。どうやら本当に天真爛漫で能天気な性格をしたお姉さんらしい。裏表なく明るい人は好印象だ、気を張りつめなくていい。
無駄に料理を多く注文したのも、こうして話相手を探すためだったり……するのだろうか? なんか、妙に回りくどいけど。
香ばしい炒飯の香りと温かなラーメンの湯気を胸いっぱいに吸い込みながら、彼女は楽しそうに箸を進める。彼女に釣られるように、僕も麻婆豆腐にレンゲを突き立てた。……中にご飯が入っているようだ。麻婆飯じゃないか。
なるほど、食べきれないはずだ。
時折話しかけてくれる女性のおかげで、和気藹々とした雰囲気の中食事が進む。胸に抱く不安を払拭してくれる相手には礼節と親切を返したくなるものだ。強張っていた表情筋もほどけて、最後にはフランクに話せるようになった。
なんだろうな、楽しい高校生活の一場面に投げ込まれたような、この感覚は。
背筋にピリリと痛みが走り、頬をなぞる悪魔の指を幻に見た。
結局、彼女は炒飯を半分ほど残して音を上げた。仕方ないなぁ。
名前も知らず接点もない女性と同じ食卓を囲む。これまでの人生でない経験だった。後でゆーちゃんに喋ったら、どんな顔をするだろう。きっと顰め面になるんだろうな、彼女は見知らぬ他人を怖がるから。
食べ終えて手を合わせる。向かい合わせに座っていた彼女も、合掌して軽く頭を下げた。食事に対する感謝を示せる人は善人だ、と両親から教わったのを思い出す。あれも嘘になったけど、今回ばかりは信じておこう。
「ご馳走様でした、お姉さん」
「おねーさんですか。いい響きですね」
「そうですかね? ……ところで、この街にはどんな御用で」
「仕事ですよ。先輩の事務所に、社員二号として登用されて」
「すごいですね。お姉さん、まだ若いのに」
「まー、常に人手不足の職場ですから。しかも、仕事の依頼も少ないし。お給料も雀の涙だから、たまに暴飲暴食するくらいしかストレスの発散法もなくて」
愚痴を言っているようにしか聞こえないのだが、頻繁に、心底楽しそうな笑みを浮かべる彼女を見ていると微笑ましくなる。ショーケース越しの宝物に目を奪われるような、胸が痺れるような快感があった。
また会う日があったなら、と手を振って別れる。知り合ってから一朝一夕の間に、ここまで会話をすることの出来る相手は貴重だった。再会することもないだろうに、その時を願うかのような言葉を口にする僕は悪人だろうか。
怖がりの卑怯者だよな、と一人で笑った。
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