第5話 幕間 B

 目覚めたとき、隣に彼女はいなかった。

「ゆーちゃん?」

 念のために声を掛けてみたけれど、返事がない。焦って立ち上がろうとして、布団から足を滑らせた。鈍い音を立てて打ち付けた腰を擦りながら、涙が滲んだ目尻を拭う。

 布団を跳ねのけると、そうしたことを後悔するほど部屋が寒かった。慌てて暖房をつけようとしたけれど、電源をつけてもセーフティが起動するせいで火が点かない。あぁ、灯油も残ってないのか。こりゃダメだ。

 諦めて、枕元に丸めてあった丹前を羽織った。ふう、これで一安心。嘘だよ、この程度で冬の寒気を中和できるものか。人類が暖房を開発したのは衣類を発明したよりずっと後だって、僕は信じているからな。

 身震いしながら身体を擦る。昼夜逆転した生活は、原因不明の病みたいに僕の心と身体の双方を虐め抜いているようだ。

 しかし、ゆーちゃんはどこへ行ったのだろう。弟の元へ向かったのかもしれない。同じ屋根の下に幼馴染がいても、それを無視して弟の元へ向かえるほど彼女の家族愛は深いものなのである。

「ちくしょー。僕が弟だったらなー」

 嘯いてみたら、余計に心が冷たくなった。

 考えてみれば当たり前のことだ。

 僕には彼女を引き止めるだけの力がない。例えば、深夜に徘徊する彼女の弟を例に挙げれば分かりやすいだろう。昔から知っているだけ、という間柄の僕と血を分けた兄弟とを比較検討してみれば、どちらを選ぶべきなのかは一目瞭然じゃないか。

 ゆーちゃんが、最後に僕を選ぶとは思えない。

 彼女は、僕の姉さんではないのだから。

「ふぅ」

 誰の声だろうと部屋を見回してみたけれど、僕以外には誰もいない。

 知らないうちに、ため息が漏れていたようだ。

 暖房の切れた部屋に白い息が煙のように流れる。一日中稼働している暖房で澱んでしまった空気のために窓を開けていたのだけど、これじゃ風邪をひいてしまう。起き上がって窓辺へ向かうと、夜空は綺麗に晴れ渡っていた。風も強くないみたいだし、放射冷却の影響が強く出ているのだろう。

 へへ。

 高校は中退したけれど、最低限の知識だけは身に着けたつもりなんだよね。

 窓を閉めて鍵を掛けた後、袖をまくる。空腹感を訴えてくる胃袋に給仕をするため、部屋を出て階下の台所へと向かった。一歩踏み出す度、床板が立てる微かな音が耳に届く。誰もいなくなった家など静かなものだ。集合住宅なら夜中も酒を飲んで騒いでいる人がいて賑わしいのかもしれないが、残念ながらここは一軒家だ。

 僕が何をしても、誰も、止めてはくれないのだ。

 台所の隅に転がした段ボール箱からカップ麺を取り出して、鼻歌を歌いながらお湯を入れる。冷蔵庫からはチーズやサラミの他、夜食や肴として歓迎されているものばかりを取り出してテーブルの上に並べた。

 タイマーを設定して椅子に座る。

 ラーメンを待つ間に、考えるのはゆーちゃんのことだ。

 同じ家で寝泊まりをしているからと言って、ゆーちゃんがいつもそばに居るとは限らない。というか、一緒にいる時間の方が少ないだろう。僕から彼女を誘うことはあまりないし、そうだな、一緒に寝ようなんて発言をしたらセクハラになる。顔面に真っ直ぐパンチが飛んでくるだろう。

 ふと思い出して、部屋のベッド下に隠してあったものを取りに向かった。拭いきれなかった血が凝り固まって汚れてしまったが、まだ切れ味は落ちていないだろう。

 一本のナイフだ。定期的に掃除もしているし砥石を使って切れ味を取り戻す工夫もしているのだが、如何せん使い方が悪いせいで長持ちした例がない。これで三本目なのに、なに偉そうなことを言っているんだ、と先人たちから怒られそうだけど。

 へへへ。

 死骸と罪を無尽蔵に積み上げて、僕が望む未来には笑うゆーちゃんが立っている。

「今日は、犯人もお休み」

 ナイフの柄をしっかり握りしめると、僕は大きく伸びをした。水の中に沈めた梵鐘のように鈍い音で鳴るタイマーを指先でもてあそびながら、血だらけのナイフを流しへ転がす。重い音がして、それでも刃先は欠けることがない。

 今日はいいことが起こりそうだ。そんな予感がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る