第3話 本編 2 - 1
「ぐえ。最悪だ」
久しぶりに夢を見てしまった、しかも悪夢だ。詳しい内容は覚えていないのに、倦怠感に身体を包み込まれている。唸り声をあげて邪念と悪意を振り払った。そのまま、隣で横になっている少女に抱き付いてみる。温かくて柔らかかった。安直な感想だが、それ以上に僕を安心させるものはない。
青と白のボーダー柄パジャマを身にまとった彼女は、触れると吸いつくように柔らかな肌をしていた。とてもじゃないけれど、僕なんかとは比較にならない。やや童顔で未だに中学生に間違われることもあるらしいけれど、ずっと一緒に住んでいるはずの僕だって同じようなことを考えるのだから仕方ない。体の線は細いが適正体重をわずかに下回っている程度で、腰回りもほっそりしている。胸がないのは仕方がないとして、短めに切り揃えた髪だけが僕の好みから外れているけれど、それ以外は割と理想の背格好だった。
これが僕の幼馴染、入野有希だ。ゆーちゃんと呼んでいる。
心の赴くまま彼女に頬ずりをしていたら、無言で頬を抓られて心臓がヒヤっとした。不思議といい匂いもするよねと本人に伝えて殴られて以来、僕は彼女相手の言動に気を遣うようになった。今日は、少し調子に乗り過ぎたようだ。
「ゆーちゃん、おはよ」
「おはよう、ゆーくん」
「今日は早いね。珍しいこともあるもんだ」
「ひどいなー。わたし、苦しそうなゆーくんの声で起きたんだけど」
大丈夫? と囁きながら頭を撫でてくれた。背中をゾクゾクと走り抜ける感情があって僕は彼女から離れようとした。逃がさないとばかりに腕を広げて、ゆーちゃんは勢いよくとびかかって来る。寝起きだというのに、ふたりで部屋の中をじゃれながら駆け回った。十八歳を超えた幼馴染の男女が、普通、相手に対してこんなことをするのものなか? っていうか、捕らえた異性の幼馴染の頬っぺたに容赦なくチューしてくるものなのか?
深く考えると負けだな。これ以上は他の誰かに任せた。
さんざん弄られてぐったりした僕が布団の上でうずくまっていると、彼女はお腹を突いてきた。振り払うと拗ねたようにそっぽを向いてしまう。……ぐぬぬ、そういうところが心の琴線を揺らしてくる。
ちょっとした悪女みたいなものだな。
「ところでゆーちゃん、学校は?」
「今日、土曜日だよ。お泊りしてるんだから、ちょっとは考えなさい」
「あー、なるほど」
「ホントに分かってる?」
「当然だとも!」
胸を張って嘘だと言える。ダメな奴でごめん。
ゆーちゃんが腰に抱き付いているけれど、気に留めることなく移動する。机の上に置いてあったカレンダーを確認しても実感が湧かない。諦めてテレビの電源を入れると、今日は確かに土曜日だった。年度末にもう一日だけ土曜日が残されているけれど大晦日だから有難味がないな、街に繰り出せば槍が降ってきそうだ。
少し考えたあと、ゆーちゃんに提案してみることにした。
「今日、遊びに行かない?」
「どこに」
「ゆーちゃんの行きたいところ」
「特にありません」
「えぇ……」
一番困る答えが返って来た。僕は外へ遊びに行きたいんだけどなぁ。
ふたりで和やかな雰囲気のなか溶けあっていてもいいけれど、定期的に襲ってくる恐怖と不安に打ち勝つためには他人が幸せそうに笑っている姿を見る必要がある。少し考えて、家の近くにあるショッピングモールへ向かうことにした。歩いて行ける距離だし、何より休日は人が多い。それは、僕にとって嬉しいことなのだから。
でもその前に。
「風呂入りたいから、離れてくれると助かるな」
「ふふ、私はゆーくんの腰巾着ですから」
「うまいこと言ってないで離れてくれ。というか、ゆーちゃんも風呂入らないと」
「一緒に入ろうか」
にこやかな顔でとんでもないことを言い出すな、僕の幼馴染は。
だけど、返答は決まっている。ゆーちゃんと一緒にお風呂に入りたいかという問いかけに対する僕の答えは、ノーだ。
いそいそと着替えの準備を始めた彼女を眺めながら、どうしてここまで仲良しなったのかを考える。僕等の両親の顔を浮かべようとして、身体が冷えていることに気付いた。……やっぱり冬は嫌いだなぁ。
就寝に使っている二階の部屋には服が見当たらず、一人で探し回る破目になった。ここ数日、洗濯をサボっていたせいだ。どうにか見繕って風呂場へ向かうと、既に半裸となったゆーちゃんが待機していた。大事なところは隠しているみたいだけど、すらりと伸びた脚が僕の視線を惹き付ける。
ひょっとすると、先に入りたいのかもしれない。
「どうぞ」
手で示すと、彼女は首を横に振った。どうやら先鋒を譲られたようだ。
おっかないなぁ。
うちの風呂、温度調節の出来ないことがあるから勇気がいるんだよね。
「ゆーちゃん、覗かないでくれよ」
「目を閉じて入浴すればいいのね」
「ダメだよ。男女が一緒に風呂へ入るもんじゃない」
彼女は、小さく肩を揺すって笑った。
「そっか。ゆーくんも、そういうの意識するんだ」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、彼女は脱衣所を出ていった。溜息が出る。幸せも逃げていくし、時間ばかりが無為に過ぎていく。諦めて風呂へ向かい、脱衣所から外の様子を窺った後浴室に入った。
入念な確認をしたせいか、本当に闖入者は現れない。
ゆーちゃん、僕をからかって遊ぶのが好きだからなー。たまに泣きたくなるよ。
浴室を出ると、風呂上りの火照った身体を冷ましながら至るところについた細かな傷を指で撫でた。この前、山まで散歩に行ったときに斜面を転がり落ちて出来た傷もある。爪を切り忘れて、掻いた拍子に傷つけてしまったところもある。でも、全体を眺めたときの均整は失われていない。
この細く白い身体は、僕の両親から受け継いだものだ。意外にも、両親は美男美女で有名だったんだよ。その二人から生まれた僕は一度も容姿を褒められたことはないけれど。……ひょっとすると、色が白過ぎるせいで病弱に見られているのかもしれない。もう少し筋肉がつけば、格好良く見えるだろうか? 散歩を趣味にしているのは体形維持のための運動と、部屋で精根やら魂やらを腐らせないための気分転換を兼ねているんだけど。ホント、アレが何かに活かせればねぇ。
大きく伸びをして、もう一度鏡に目をやった。頭から膝の少し上までが映る、結構大きな鏡だ。服を着ているときは男か女か分からないと言われそうな僕だけど、流石に脱げば性別もはっきりする。この姿を見せれば、ゆーちゃんも二度とあんなことを言うまい。だけど、と前置きをしてみた。もう少し可愛い顔立ちをしていたら、どんな人生を送っていただろう。小学生の頃を思い出して、顔を顰める。
あぁ、人生ってのはクソゲーだ。
何も、面白いことなんてないじゃないか。
鏡に自分の裸体を映して、それを凝視するなんて久しぶりのことだった。調子に乗ってポーズを決めていると、脱衣所の引き戸が少し空いていた。疑問と困惑のサンドイッチを抱いて振り返ると、隙間からゆーちゃんが覗き込んでいる。
慌ててタオルを身体に巻いた。
「なんで覗いてるんだよ」
「ゆーくんが遅いから、のぼせたのかと思って。でも、ゆーくんは自分の姿にのぼせてた」
「う、や、この前怪我したところを確認してたんだ」
「えっ、どこどこ。見せて」
制止する暇もなくゆーちゃんが脱衣所に入って来た。そのまま、僕の腰巻を剥ぎ取ろうとしてくる。寝起きに抱き付いたから、ひょっとすると彼女の甘えたがりが本領を発揮しているのかもしれない。
「バカ、やめてよ」
「いいじゃん、幼馴染なんだし」
「それは万能の呪文じゃないぞ……ちょっと、本当にやめてってば」
ぐいぐいとタオルを引っ張る力は、一体どこから湧いてくるんだ。彼女の腕は、あんなに細いのに。
引っ張り合っている間にタオルを剥がされ、どこか満足げな瞳が僕の裸を凝視してくる。幼馴染とはいえ、年頃の男の子なんだぞ僕は。羞恥心に胸が張り裂けそうになった。
「ふーむ、これは後でおくすりを塗る必要がありますねぇ」
満足したのか、彼女はニヤニヤと笑いながら距離を取った。そして、手をわきわきと動かして楽しそうにしている。反対に僕は、目尻に涙をためていた。
酷いや、いつもの悪戯とは一線を画している。顔に悪戯っぽい笑みを浮かべながら突撃してくるのをやめてくれ、叫びまわって逃げ出したくなるじゃないか。いやまぁ、睡眠中の幼馴染に抱き付いて癒しを求めようとした僕も大概な奴だけど、それを悪戯する程度で許してくれるのだと考えれば懐が深い方なのだろうけど。
こんなの、心臓がもたないんだよな。
例え血を分けたような幼馴染が相手でも、裸を見られて恥ずかしくないわけがない。それを頑張って耐えたとしても、変なポーズを目撃されたのは筆舌に尽くしがたいほどの苦痛だった。べそをかきながら彼女を脱衣所から追い出し、今度はしっかりと鍵をかけた。扉の向こうから文句が聞こえてくるけれど、ここは絶対譲らないぞ。
立ち上がって、いそいそと服を着る。
頬が熱くて仕方がない。
鏡の中の僕も、蝋人形みたいな白い肌に朱が差していた。
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