第2話 幕間 A
真っ暗闇だ。一寸先も光が照らすことのない闇に、僕と姉さんが沈んでいる。
全身を恐怖に鷲掴みされ、息も出来なくなった僕は泡を吹きそうになった。
全身を痙攣させて呼吸しようともがく僕の肩に、誰かの手が乗せられた。
温かく、慈しみに溢れた女性の手だった。
「ゆーくん、大丈夫?」
ようやく呼吸ができるようになって、姉の胸へと飛び込んだ。
震える僕を、姉は静かに撫でてくれる。そうだ、これが僕の姉さんだ。
か弱く、怯える僕を助けてくれる女性は、彼女しかこの世にいないのだ。
震えがようやく収まってくると、何かを握りしめていることに気付いた。ぬるぬるとした奇妙な感覚と、子供の僕には相応しくない重い感触。姉の肩越しに覗くと、それは血液滴るナイフだった。慌てて離そうとしたけれど、硬直した筋肉がナイフに食い込んでいるのか、ナイフに筋肉が食い込んでるのか、まるで分かったものじゃない。
そして何より。このナイフから滴り落ちる血液には、覚えがある。僕が殺した犬や猫の血だ。その証拠に、よく目を凝らせばナイフには白い毛がついている。今日の獲物は……たぶん、犬の方だな。
握っていたナイフから滴り落ちる血が、姉さんの服を汚した。
「姉さんは……なんとも思わないの?」
「ん? なんのことかな」
「だって……ほら」
「ゆーくん、急に震えだすんだもの。わたしビックリしちゃった」
えへへと笑う姉さんは、まるであどけない童女のようだった。
彼女は知らないふりをしているのか。
それとも、僕を気遣った結果がこの無視なのか。
恐怖に包まれていたはずの僕の心に、ぷっくりと血玉のように膨らみ上がってくるものがあった。姉さんが他の誰かと楽しそうにしているのを見て、いたたまれなくなった僕が取った迂闊な行動。それが姉さんを吃驚させているのは分かった。だけど、姉さんは悲しんでくれない。僕がこんなに愛していて、大好きだと想いを寄せているのに気付いてくれない。
「バカ」
「あ、ひどいぞ。ゆーくんには言われたくないのに」
「バカ。バカ。バカ」
漏れる嗚咽と暴言を意に介してなどいないかのように、僕の目尻から流れる涙をそっと拭った姉さんは、誰よりも優しい顔をしていた。この聖女を深い絶望に突き落とすものは、僕の後悔と不幸以外にあってはいけないと思った。確かな決意と揺れる思惑、その両方が間違っていることを知りながらも他の道を選ぶことは考えられなかった。
深い井戸の底へ落ちていくように、絶望が口を開けて待っている。
奴は、僕しか見ていなかった。
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